編集後記(Nさんを語る)

平成20年1月10日
川村 喜紀
 このたびNさんが自分史を作成されるにあたり、多少お手伝いをさせていただいた関係で、その感想を少し述べさせていただく。 

Nさんと同年の私は、Nさんの生まれ育った時代背景や日本の当時の状況について多くの共通認識を持っている。以下共通のことを述べるときは「我々」という言葉を使うことにする。
 我々の生まれた昭和15年は、太平洋戦争勃発が昭和16年だから、日本国中戦争一色に染まっていた。若い男子がいる家庭には召集令状(いわゆる赤紙)が来て、大切な息子を有無を言わせず戦場へ駆り出した。

 宝石や金属など金目の物は強制的に供出させられた。すべてがお国のためで、批判的な言葉など一切口にできない言論統制の徹底した暗い時代であった。
 世界の主要国が、帝国主義時代の最中にあって領土拡大に血眼になっている中、日本は、満州や朝鮮あるいは台湾など周辺地域を占領し統治下に置き、これらを日本の新天地にすべく日本人の大量移動を計画し、実際660万人ほどの日本人を移動させた。

 今の時代では考えられないことだが当時は、日本国民の多くは、政府の甘い言葉もあり大地でのスケールの大きな農業を夢見、日本の新しい新天地で働く、あるいは生活することに大きな夢と希望を持っていた。
 昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の無条件降伏という形で終わった。日本国内での惨状もさることながら、満州や朝鮮などへ移住していた人は大変だった。
自分たちの居所が急になくなっただけではなく、現地の人や軍人らの略奪、暴行などの仕返しを逃れて日本へ早く帰ることが急務となった。
 日本人のほとんどは日本が負けるとは思っていなかった。政府の情報コントロールが徹底していた。良い情報しか流さなかったからだ。
だから敗戦の報は日本人の心を動揺させた。特に移住していた人たちは、これまで現地人を支配してきた主従関係が突然壊れ、追われる身になったのだ。
 Nさん一家もその大地へ渡った一家であった。そして敗戦、しかしいろいろ考えている間もなく、ソ連軍が急遽押し寄せてきて、日本人を捕え、捕虜として強制収用し、過酷な労働に従事させることになる。

 こうしてお父上がソ連の捕虜になり帰国が遅れている間、Nさんは叔父叔母の家にお世話になり、いわゆる他人の飯を食う時期を過ごす経験をする。
 人生はドラマだ、とよく言われるが、Nさんの人生の立ち上がりも、こうした自分たちの意志や考えではどうにもならない運命のまにまに動かされる、まさしくドラマであった。
 日本の敗戦は、日本を貧乏のどん底へ押しやった。Nさんのような田舎で農業を営んでいる人たちは食うには困らなかったから随分恵まれていた。しかし配給制度の下にある都会ではとにかく食う物が無かった。腹一杯食べられる人を非常にうらやましく思ったものだ。
 昭和30年前半、Nさんの中学から高校にかけての感受性の強い時期、日本全体は貧乏から脱出するべく、皆猛烈に働いていた。Nさんはそんな世の大きな流れを感じ取り、同時に田舎における家業・農業の後継の限界を感じ取り、都会へ出て行く決断をする。
当時としては相当思い切った決断であったと思うが、今からみると素晴らしい決断というか先見性があったといえよう。
 Nさんには、生来の能力というか根性・実力があったのであろう、大阪に出てからの地道な活躍が認められ、26歳で早くも店長の座を獲得しておられる。
高度成長の波と小売業界の薄利多売の波に乗るI商社で、実力と信用と信頼をベースにNさんはバリバリ仕事をする。
 Nさんが25歳時もらっていた給料5万円ほどというのは、当時としてはかなりの高給であったが、それだけにNさんは良く働いた。それを支えた妻T様の内助の功の賜物でもあった。
 こうしたNさんの活躍は、当時としてはすばらしい一つの成功物語である。
 当時は今ほど学歴を口にしなかった。都会でもよくできた連中が大学へ行かず高卒で社会に巣立つことが結構多かった。
だから会社でも高卒で仕事がよくできる人がかなりいた。親が戦死した家、戦争で全財産が焼け出された家、田舎のように近くに大学がない家など大学へ行きたくとも経済的に無理であるという子が多かった。
 逆の見方をすると、当時の日本は真に実力主義の時代であったともいえる。だから、Nさんのように思う存分仕事ができる場があり、その活力が日本を奇跡的経済成長に結びつけたのであろう。
しかし運命のいたずらか、Nさんは41歳にして病気と闘うことになる。それまでいろいろの経験を積み、ノウハウを貯め、自信を持つに至り、更なる発展を夢見ていたNさんが、病気によって仕事の先を絶たれた事の悔しさは、我々の想像をはるかに超えるものであろう。
 しかし人の運命とはこのようなものであるのかもしれない。Nさんは、××の田舎から出てきて人生を燃焼し会社に貢献した。
その功績や実績を喜び合い、志半ばではあるがこうした成功を「よくやった」と賞賛して、Nさんの人生前半の一幕を下ろすべきものである。そして奥様ともども大きな誇りと自信を持ってもらうべきものである。

 Nさん曰く、「新N家をスタートさせた。私がその初代である」。
 これについてもう少し考えてみたい。Nさんが田舎から都会へ出てきたことは、マクロな見方をすれば、人口の都市集中化という社会現象の一環であった。
 我々の親あるいは祖父母の時代の日本は、まだ農業が中心で、生まれた村で一生過ごし村から外へ出て行くことはあまりなかった。
ところが経済成長によって労働力不足をきたした都会への人口集中が起こり、農村の過疎化、そして核家族化が急速に進行した。
 だからNさんのような、新××家をスタートさせた家庭は今の日本では非常に多い。
 歴史的にみたとき、3000年とか4000年の間続いてきた数世代同居の家制度は、昭和の中頃から急速に崩れ初め、核家族という新しい家族形態に変わったともいえよう。
 家族形態だけではない、家庭の電化や車の普及などによって生活様式が、それまでとは天と地ほどの差で変わった。
 例えば、テレビや洗濯機・掃除機などが一般の家庭に入りだしたのは我々の中学や高校時代からである。
それまでは、今から思うと極めて不便な生活ではあるが自然とともに遊んだ。

川や山池で日が暮れるまで遊び、今から思うと夕食にしても、決してご馳走ではないが家族皆で楽しくいただき、冷暖房はないから炭火を囲んで、暑いときはうちわで扇ぎながら、あるいはラジオを聴きながら一家団欒の時を過ごした。
今から思うと非常にゆったりしたスローな毎日であった。
このように見てみると、Nさんは、まさに新しい時代のN家初代ということになろう。だから、2代目S君や3代目J君は、Nさんの初代の意気込みを十分汲み取って、N家発展のために頑張っていただきたい。
 Nさんの人生を見たとき、現役バリバリのサラリーマン時代を第一の人生とすれば、病気に倒れ、病気と闘う生活は第二の人生であるといえよう。
この病気との闘いは、奥様Tさまの戦いでもあろう。奥様のご苦労も察するに余りある。
難病を抱えられた人生は、経験してみないとわからないものとは思うが、誰でも現実を避けて生きることはできない。その闘病の中においても心豊かな人生になるようご努力いただきたい。
 最後に私の現在の心がけをご紹介してこの拙文を終わらせていただく。
 1.足るを知る
 2.あるがままに生きる
 3.思いやりと感謝
以上