神さまは何事もお見通し @  【49年2月号】 P5

 

惟神会委員長 川   村   二   郎  

 

 

本日は、種類のことなる二つの事例によって『神さまは何事もお見通し』であるとのお話をします。(この事例は二つとも明道会時代のものです)

 その一つは戦前私の関係した実例です。立派な会員で、支部では押しも押されもしない第一人者と自他ともに許している位の方です。会社の重役で仕事もどんどん発展する。家庭も極めて仲良く、信仰も一致し、感謝の報賽もどんどんされる。冠婚葬祭はいうにおよばず、どんな祭事でも心よく奉仕され、支部の遥拝祭や座談会にも喜んで家を提供される。本当に申し分のない方でした。

 ところが突然思いがけない災難が起ったのです。長男が急病で帰幽されたのです。さあ大変です、自他共に第一人者であるはずの方が、こんな不幸な目に会うとは、我慢しきれず氏神さまにその理由をお尋ねになりました。神さまのお答えは驚きそのものです。

 「氏神は氏子の奉仕はうけていない

 何ということでしょう。これほど立派に信仰しておられ、自他ともに許した第一人者に対して、氏神さまは「氏神は氏子の奉仕はうけていない」とのご返事です。

その方は承知しかねて、重ねて「氏子はこれほど熱心に毎朝、毎晩ご奉仕し、月次祭も欠かしたことはありません。それにどうして氏子の奉仕を受けていないと仰せられるのですか」とお尋ねになりました。ところがまたまた意外なご返答です。

 「返答するに及ばず」

 何という峻烈(しゅんれつ)(厳しい)なご返事でありましょう。

 その方から私に「大問題が起きた。今晩すぐきてくれ」との電話です。何事であろうと急いで訪問いたしますと、以上のようなことです。ご本人と家族の方としてはどうにも我慢ができないのです。事実そのときわたくしとしても合点がまいりませんでした。

 わたくしどもとちがい、お金も時間もゆとりのある方で、至れり尽せりのご奉仕ができているはずです。にもかかわらず、神さまからは「氏子の奉仕はうけていない」重ねてのお尋ねに対しても「返答するにおよばず」とのご返事なのです。私は驚きいりましたが、とにかく氏神さま、祖霊さまにご挨拶をと、二階のご神前へでまして二度ビックリです。

 何と神床の氏神さまと、祖霊さまのお?の間に長さ二〇センチ、幅五センチほどのご神符が奉安してあるではありませんか。早速このご神符のいわれを尋ねますと、過日氏神さまのご本社へお参りして、そのご本社のご神符を受け、このように奉安しているのだとのことです。

 わたくしは、とたんにハッとしました。氏神さまが「神は氏子の奉仕はうけていない」また再度のお尋ねに対して「返答するに及ばず」と仰せられた意味がはっきり理解できたのです。

われわれ会員は神さまから正式に許しがあるまで、本社参拝はかたく禁止されているのです。

本社に参拝すれば○○神社の大神と称する邪霊が感合して、不幸が起こるから絶対に本社に参拝してはならないのです。それにこの方は神の(いましめ)を侵して本社参拝され、ご神符までうけて帰られたのです。

 「なぜ本社に参拝することが悪いのか」とのお考えは、神の教えに素直であるとはいえません。そのときから真の氏之祖ノ神とは縁が切れ、○○神社大神と称する似て非なる邪霊と縁を結んだことになるのです。

 テレビに(たと)えますならば、真の氏之祖ノ神とのチャンネルを切って、○○神社大神と称する神にチャンネルをあわせたことになり、真の氏之祖ノ神とは関係が切れたのです。

今まで通りいかに熱心にご奉仕しても、この方は本社参拝を境にして、○○神社大神と称する神に奉仕しているので、本当の氏神さまには全然通じません。

氏神さまが「神は氏子の奉仕はうけていない」と仰せられたのはそのことなのです。再度のお尋ねに対して「返答するに及ばず」と仰せられるのは当然でありましょう。

 もう一つの事例は、国教四十八年九月号をお読みになった方はすでにご承知のことと存じます。 国教確立論(まだお読みになっていない方は是非その全文をお読みください)を再録してますが、その二十八頁に次の記事がのっています。そのまま再々録します。

 『せんだってもある有力な実業家が、突然たずねて来ていわれるには、私は氏神を奉斎してからは毎日敬けんな思いで信仰しております。で仕事のことについてお願いしたことがあります。

 今日はそのご返事を承りたいということでしたから、その人の氏神に聞いて見ると、氏子は何もしていない、少しも働いておらぬから返事をする必要がないという返事であった。ところがその人は、朝早くから夜おそくまで一生懸命働いている。一刻の時間も惜しんで活動している人なのである。それなのに少しも働いておらぬとは何事であるか、この点を神さまに尋ねてみますと、

 氏子は神の前に、心から相談のできる仕事をしたことのない人間である。家庭を整えることもせず、事業といえばただ利権をあさって儲かるとか、何とか、そんなことばかり考えている人である。

ゆえに氏神が氏子はさらに働かないといわれたのである。

 四魂のものさしにはずれた心では、どんなにせわしく働いても、それは何もしないと同じです。社会に害毒を流すような事は、いかにはなばなしくやっても神は認めたまわないのです。

これに反して、四魂のものさしにかなったことであるならば、どんな小さいことでもご神慮にかなうのです。

 世人を見ると、二魂のそろった行ないをする人がいます。また三魂一致した行ないをする者もいます。しかし四魂の一致した人は容易にいないのです。

 社会奉仕に全力を傾け尽している人はある。人と折り合いのよい円満な人もいます。学問のできる人います。立派な実業に従事している人もいます。これらの人たちは、立派な人たちです。

これを今日の社会の評点数で表わせば、百点の人たちですが、これを明道会の信条、いわゆる四魂のものさしで量ってみれば、百点は与えられない、信条に間違った人で不完全な人間なのです。

ゆえにこれらの人も考えをあらためねば神人感合はできないのです。

 真の氏神を確認し、そうして四魂具足の行ないをして神に相談するなら、神は直ちにご返事もくださるし、またご守護もくださるのです。このような氏子のためには氏神さまは一生懸命に働いて下さるのです。

 この道理がわからないで、おれがする、おれがすると、何事も自分の知能の働きのみでできると思って神を認めず、神に頼ることをしないような人は、決して神と感合する事はできないのです』。

 この二つの事例に見ますように、周囲の人々からいかに立派に見えていても、自分ではいかにもわかったつもりでも、いかに熱心であり、真剣であっても、それが自己満足であったり、道にはずれたこと、四魂の信条に叶わないこと、神の御心に叶わないことをやっていたのでは真の神さまには通じません。このように神さまはいつでも、どこでも万事お見通し、ご承知なのです。ごまかしは一切通りません。神の御心に叶わないでは神人感合のありようはずはありません。       

 ◎神の方では、人間の行動を毎日チェック(○や×)しておられる。その努力に応じその成績に応じて必ず守護される。

 ◎ご神業は絶対服従にて神の御心と合致した時ご守護下さるものと決めてよろしい。

今更ながら神さまのお姿は人間の眼には見えませんが、このように『神さまは何事もお見通し』であること。

恐懼(きょうく)(恐れ畏まる)のほかありません。謹んで反省いたしましょう。そうして目に見えない神の御心に叶うよう、努力の上に更に一段と励みをかけて、惟神会員としての本当の底力をだしましょう。

                   (昭和四十八年十一月十八日 八意思兼大神秋季大祭における講演要旨)

 

神さまは何事もお見通し  A  【49年2月号】 P5

惟神会委員長 川   村   二   郎  

 十一月の秋季大祭には『神さまは何事もお見通し』であることを二つの実例をもって、お話ししました。本日はもう一つの実例をもって、十一月の続きのお話しをします。この話しは教務必携の二三九頁に掲載されています。古川委員長の四魂具足についてのお話しの中から抜粋したものです。

 『惟神会の会員であり、保険の勧誘員であったI氏がある日、山ノ手線に乗ると、ちょうど向い側に母娘らしい二人が腰をかけた。ところが、どこか具合が悪いと見えて、娘らしい人が吐いたり戻したりして、二人が持っているハンカチーフやチリ紙を全部出して始末したけれども、うまく始末しきれなかった。

 これを見ていたI氏が、非常に気の毒に思い、自分の古いハンカチーフをポケットから出して、これをあげて漸く後始末ができた。その時、母親なる人から、どうもありがとうございました、お陰さまで助かりました。どうか貴方のご住所とお名前とを是非伺わせて頂きたいと懇望されたが、

I氏はハンカチーフ一枚位は何でもありません。むしろ失礼なくらいですよと、名前も住所も告げずに別れたのです。

 それから二、三日たってまたその母娘と電車の中で出会ったのです。そのときも住所と名前を聞かれたがいわなかった。

そしてある駅でI氏は下車し、知人の駅員と暫く立話をして帰宅した。ところがそれを電車の中で見ていた母親が用を済ました後で、同じ駅で降り、その駅員にI氏の名前と住所を聞き、翌日新しいハンカチーフ二打を買ってお礼に行った。それから二、三日たって娘の父親からI氏の会社へ電話がかかってきて、明日是非自分の会社まできてくれとのことであったので、いわれたとうりにその翌日訪問したところが、その父親から娘が世話になった礼をいわれ、おまけに一万円の生命保険に加入してくれた。そのときの言葉はこうである。自分は生命保険に二つ三つ入っている。しかしもう一万円位は入ってもいい、同じ入るならば娘が世話になった貴方にお願いして入るのが順当だとのことであった。

 惟神会でいう四魂具足とはこれだなと気がつき、それから電車に乗るごとに不幸な人を探して慈悲を施した。しかしそのたびごとに悪い結果がきたので、四魂具足でもあてにはならないと、当時委員長をしていたわたくしのところへ抗議にこられたという訳である。

 そこでわたくしは即座にこうお答えした。貴方が最初ハンカチーフを与えたときには、欲得も考えずに全く見るに見兼ねた自然の情から行なったのでしょう。真心には誰でも打たれるものですよ。この真心はみな先天的に持っておるはずです。ただ容易に現われ難いものです。それが氏神の感応によって発露したのです。神人感合というのはそれです。

ところが初め貴方は四魂具足とはこういうものだと考えたまではよいのですが、二度目からの心が悪い。それは心に期待するものがあったからです。言葉を換えていえばこういうことをすると、こういう結果が得られると、慈悲的に考え、その結果に主点をおいて考えたからです。これでは真心の現われとはいえない。絶対善の行為とはいえない。つまり欲得でやったことになるのです。

その区別を神さまが貴方にはっきり示されたのです。以後注意なされなくてはいけないと申し上げたところ、I氏も漸く納得されたようでした』

 以上二ケ月にわたり、三つの実例で『神さまは何事もお見通し』であるお話しをしました。

十一月の実例二つを思いだして下さい。また十一月にご参拝になられなかった方は国教にでますからぜひ読んでください。

その第一例は、人間としてはどこから見ても非の打ちどころがないほど立派に信仰をしている人で、自他ともに第一人者と許すほどの方でも、何事もお見通しの神さまからは「神は氏子の奉仕は受けていない。」とお叱りを受けねばならないことをやっていたのです。

 第二の例は、立派な実業家で、仕事にはことのほか熱心で朝から晩まで休む暇もないほどの働きやであるが、神さまからは「少しも働いていない」といわれ、そのうえに「神の前に心から相談のできる仕事をしたことのない人間である」「家庭を整えることもせず」「事業は利権あさりばかりで、もうかるとか何とか、そんなことばかり考えていることのお叱りを受けたお話しでした、如何によく働いても、四魂の信条を大事な中心に考えないで、自己中心、欲得中心でやったのでは駄目で、神の御心には叶わない、とのお諭しを受けた実例です。神さまは何事も奥の奥までお見通しになっていることをよくよく理解すべきです。

 本日の第三の実例は、電車の中で最初に母娘に施した行ないは欲得を考えない、本当に心から気の毒に思ってやった行ないなので、四魂の信条に叶っていたのです。二度目からはハンカチーフを差し上げるという同じ行ないであっても、こういうことをすると、こういう結果が得られると結果に重点をおいた考えで行なったので、欲得でやったことになるのです。

 以上三つの実話に共通している点は、いずれもこういうことをすると、こういう結果が得られるとか、こういうことをすると自分に損か得かとか、何を考えるにも、何をするにも先ず自分の欲得が先になる行いです。つまり私利私欲をみたそうとする心が先になっていることです。

四魂の信条にそって言行心の一致を中心においた生活をしよう、素直に謙虚に神さまの御心に叶うように努力しようという心構えがないか、気づかないでいるのです。

 ここでわれわれ会員にとって大切なことは霊界の会長であられる平田篤胤先生のご訓示に

「会員たるものは自己の私利私欲、すなわち自分の欲を先に解決しようと思う心では、会員たるの価値はないのである。ここにおいて会員たるものは、モットモット心を広くもって、自己一個の考えを棄てて日本のため国家のため、この日本人を導くという強い心を常にもっておって頂きたいのである」

 「朝眼が醒めたら直ちに四魂具足という心が真先におこるように四魂具足、四魂具足と心懸けて貰いたいのである」

とありますように、常に自分の考えていること、やっていることが世のため、人のためにまた国のためになっているか、いないかの反省。四魂の信条を物指しとして、自分の言行心の反省をしながら励んでいるか、どうかということです。

 八意思兼大神が何の目的で惟神会の磐境にご鎮座遊ばすのか、真の氏神が何のために自分の家にご鎮座くださっているのかを承知し、実行に励むならば神は喜んで守護し、幸福を与えてくださるのです。

 何事もおれがする、おれがするで、まるで自分の知能の働きでやっていると思って、神を認めず、感謝の心も起らない。自分では如何にもわかったつもりで自己満足であったり、社会の人びとからは如何に立派な人であると認められるような行ないをしても、すべてを四魂の物指しで見ておられる神さまからは、四魂の信条に叶わない限り、ご守護は頂けない、幸福も与えて下さらないのです。

 神さまは何時でも、何処でも、万事お見通し、すべてご承知なので、ごまかし自己満足はいっさい通じません。「真神霊たる氏神に祈願する場合には声を出してはいけない」とのご神示があるのはこのことでありましょう。(昭和九年三月十三日ご神示

 先月の終りに述べましたことを、ここにもう一度繰り返します。神の御心に叶わないでは神人感合のあり得ようはずはありません。

ご神示

 「ご神業は絶対服従にて、神の御心に合致した時、ご守護下さるものと決めてよろしい」

 「神の方では人間の行動を毎回チェック(○や×)しておられる。その努力に応じ、

その成績に応じて必ず守護される。」

 神さまのお姿は人間の眼には見えませんが実話三例に見られるように、

神さまは何事もお見通し』です。今更ながら恐懼(きょうく)のほかありません。

 十二月は一年間のしめくくりの月です。謹しんで反省いたしましょう、自分の一か年の言行心を四魂の信条の物指しで。そうしてより良き年を勇ましく踏み出せる用意をいたしましょう。ではよいお年をお迎えください。

                    (昭和四十八年十二月十六日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

                                        以 上

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