神 域 を 護 れ  【47年5月号】  P9

 

惟神会委員長 川    俣       

 

 

 かえりみますれば、私は去る昭和二十九年十一月偉大なる前古川委員長先生の後を承けて、浅学非才不徳不敏にもかかわらず、委員長の重職を仰せつけられました。

 まことに光栄の至りであるとともに、いかにしてこの重責を果たし得て、八意思兼大神の大みこころや平田先生のみこころに叶うことができるかと、真に危惧(きぐ)(心配しおそれる)の念で一杯でありました。またそれだけに、私は私なりに馬車馬(ばしゃうま)のように、御神業第一とまっしぐらに進んでまいりました。

 その間、御神示はもとより、岸先生や古川先生の教えさとされたことをよくかみしめてわがものとなし、少しでも御神業のお役に立つようにと、駑馬(どば)(むち)打って、努力に努力を重ねてまいったつもりです。

 そうこうするうちに、年月の経つのは早いもので、まさに光陰矢の如く、就任以来、満十七年五ケ月を()みする(振り返ってみる)にいたりました。

 かくて私を襲ってきたものは、心身の疲労(ひろう)困憊(こんぱい)(疲れ果てる)と能力の限界を悟る事でした。

 第二霊(本霊)がいかに気張りましても、第一霊(体霊)の衰えはいかんともしがたく、そのことが自分自身にもよく感得されて、それはまさに惟神科学の教えるとおりです。

 「倒れて後止む]ということは、よくわかっているのですが、現状のように身心共に疲労困憊のままにて、御神業にご奉仕することは、大神さまや平田先生に対し奉り恐れ多いのみならず、人心を一新する意味においても、この際退任するのが自他ともに適当と考えた次第です。

 在任中、大神さまの大みいつ、平田先生のご指導ご監督、また会員のみなさま方のまごころこめたご協力によって、多年念願していた本部建設が滞りなく無事完成されましたことは、まことに望外のいたりで、自他ともに祝福すべき次第と存じます。

 加えて懸案の借地買収も、これまた会員のみなさまの心からなるご協力により、滞りなく完了して本会の所有地となりました。

 さらにまた武蔵野霊園において、本会専用の奥津城(おくつき)(納骨施設)が完成したことも併わせて特記させて頂きます。

 委員長として信仰指導の面においても、私は私なりに、御神示や岸先生、古川先生のご意志を体して、みなさまのお役に立つようにとつとめてきたつもりです。

 例えば就任以来『国教』誌をとおして、不十分且つ拙いながらも三百二十篇余の所説をものしました。なかでも大神さまに対するご神恩感謝の強調大神さまおわしての氏神、祖霊であること、四魂具足の(かみ)(おきて)たること、四魂具足という神のことばの奉唱まごころの真義言行心の一致平田先生ご訓示の解説とその実践の強調惟神科学の解説とその信仰面への応用祓の本質(特に遠祓について)捧げて恵まれること神与の魂を磨くこと神は近づかず近づくべし、など総じて大神さまご出顕の由来とその目的を御神示に(もと)(そむく)ことなく、おのもおのもが大神さまや氏神のみこともちとして国教確立という大神さまの大御神業達成を目ざして努力すべきことをお願い申し上げて、みなさまのご奮起をお願いしてました。

 特に氏神信仰は、単なるご利益信仰でなく、大神さまの大みこころにまします、日本の国家万民を四魂具足的に救済せんとする、日本民族本来固有の民族信仰たることを強調しました。

 したがいまして「ご神徳はご神徳のためのご神徳でなく、どこまでも御神業のためのご神徳である」ことを、特にみなさまにはたらきかけて、「会の経営は神がする」という本会創立当時の有名な御神示に叶うようにとみなさまにお願いしました。

 幸いみなさま方は、拙いながらも私のまごろこめた所説にご共感下さいましたことをまことに嬉しく存じます。

 また拙稿の『日本回帰』において、近代化された日本の国に、敬神崇祖、四魂具足という真の惟神の大道の実践躬行(じっせんきゅうこう)(自分で実際に行動する)がいかに緊急且つ重要であるかを申しあげて、広く世間に訴えました。

 しかしながら、本部建設、借地買収、武蔵野霊園における奥津城(おくつき)など、いちおう形の面においてはととのったのですが、本会本来の大使命たる教勢拡張の部門においては、見るべきこともなく、事志(ことこころざし)違う(たがう)ところとなり、なんとも汗顔の至りです。

 まことに私の不徳不敏のいたすところであり、大神さまや平田先生に対しまつり、ひたすらお詫び申し上げるばかりでして、まことに恐懼(きょうく)(恐れ畏まる)至極の次第であります。

 われわれが、つつがなく、安んじて毎日を送ることができますのも、ひとえに八意思兼大神さまの大みいつのおかげです。したがいましてこの幸せをば、ひとりわたくしせず、これを広く氏神信仰をとおして、他にも及ぼさなければならないのは当然のことです。

 それにもかかわらず、教勢拡張の微微(びび)たる現状において、なんの かんばせ 面目あって、大神さまを拝することができましょうか。つねにしばしば申し上げていることですが、「自分がやらないでも、誰れかがやるだろう」などとの他人事(ひとごと)まかせの場合、いざ(ふた)を空けてみると、結局、誰もやっていなかったというような笑えぬ悲劇を繰り返しているのが現状ではないでしょうか。まことに憂うべきことと存じます。

 思いまするに、この惟神会本部は、畏くも氏神の総代表であられる八意思兼大神さまの御鎮座まします神聖な地域です。まさに『神域』(たた)えまつる所以です。

 大神さまは、昭和三年二月四日、本会に御出後以来、本会本部の神床を(いず)磐境(いわさか)としてお鎮まりになられて、国教確立の大号令を下し給わっておられるのです。

 さればこそ、本会員の使命は、岸先生の仰せられるように、自覚的よりはむしろ他覚的です。

 もちろん本会発足当時のあの素晴らしい感激と緊張を、四十数年経った今日、そっくりそのまま持続することは、心理学的にも或いは惟神科学的にも恐らく至難のわざでありましょう。

 しかしながら、それだからとてただ手を拱いて(こまねいて)いることは許されないのです。

 したがいまして、本会発足当時のあの感激と緊張は、未曾有(みぞう)の神人交通によってもたらされたものですから、四十数年経った今日においても、あの神人交通のありさまは彷彿(ほうふつ)(思い浮かぶ)として想起され得るのです。故にまず、初心にかえって、大神さまの大号令を畏み実行することを行為のうえにあらわすことによって、当時の感激と緊張が再び生き生きとよみがえってくるのです。

 前述のよう、この惟神会本部は、畏くも大神さまの御鎮座まします( )神聖なところ、すなわち神域であり( )

ますから、いかなる犠牲をはらっても、( )この神域を護りとおさ( )なければならないのです。( )

 しからばこの神域を護るにはどうすればよいか、ということです。

そこで想い出されるのは、クラウゼヴィッツKarl von Clauservitz 1780〜1831. ドイツのプロイセンの将軍である戦術家、死後刊行された『戦争論』は、戦争理論の古典的名著として、世界各国の戦争技術の基礎となった)が、その著『戦争論』のなかで「防禦は攻撃なり」といっていることです。

 かつて世界第二次大戦において、ドイツのナチスのヒットラーがみずから称するかれの第三帝国を守るために、恐らくクラウゼヴイッツの戦術である「防禦は攻撃なり」の理論にもとづいたのでありましょうか。まず周辺のフランス、ベルギー、ソ連、また海峡をへだててイギリスなどに攻撃の先手(せんて)を仕掛けて、ナチスドイツの防衛に当った(ふし)(ふし)が想像されるのです。

 すなわちかれヒットラーは、退いてラインの守り、自国の守りを固くするよりも.進んで近隣強国を攻撃することによって、自国の防衛をとげんとしたのでありましょうが、その攻撃の仕方があまりにも野心的であり手を(ひろ)げ過ぎて且つ非人道的であったために、ついに一敗地にまみれるに至ったのです。

申すまでもなく、防禦は消極的( )であるのに反し攻撃は積極的( )であります。

ですから、畏くも八意思兼大神さまのおわしますこの神域たる惟神会本部、()いては大神さまの大みいつのもとに存在している全惟神会を護るためには、ただ退(しりぞ)いて()を固くして守るばかりが(のう)でないのみならず、それでは後退の一歩をたどるばかりですから、国教確立の大号令を下し給われた大神さまの大みこころにこたえまつる所以ではないと思うのです。

 そこでこの神域を護るために、クラウゼヴイッツの「防禦は攻撃なり」の理論を、ここに敢えて引用しましたのは、その日暮らしの消極性から脱し、この惟神会本部という神域を火種(ひだね)として積極的に新会員の獲得に乗り出して、その成果をあげて頂きたいからです。

 したがいまして、この神域を護るためには、「防禦」を「護る」に、また「攻撃」を「新会員獲得」ということばに置き換えて、クラウゼヴイッツの理論ではありませんが、「防禦は攻撃なり」という精神すなわち積極的な心がまえを確立して、惟神会員のすべてが、新会員獲得の実をあげて頂きたいのです。

 それでこそ、この惟神会本部という神域は確実に且つ強固に護られて、八意思兼大神さまの大号令のもとに国教確立の大行進が、盤根錯節(ばんこんさくせつ)(入り組んで解決困難な事情)を切り開きながら、堂々と先きへ先きへと積極的に絶え間なく続けられていくのです。

 新会員獲得ということは、ただ単にいたずらに大声疾呼(たいせいしっこ)(おおごえで叫び呼ぶ)することでなく、着実に足許(あしもと)を見つめ且つ固めて、しかも不退転(ふたいてん)(一歩もさがらず屈しない)の決意をもって、氏神信仰という日本民族本来固有の真の惟神の信仰を、相手の人々に諄々(じゅんじゅん)(丁寧に教え戒める)と理解できるようによく説き聞かせねばならないのです。ですから、少なくとも次のことくらいはよく理解し、わがものとしてしっかりと内部を固めて頂きたいのです。

@ 日本民族生成の由来と八意思兼大神さま御出現の目的。

A 天照大御神は日本民族の大祖神におわしますこと。

B いまは氏神の総代表として本会本部にお鎮まりになっておられる八意思兼大神さまは、思慮分別、智恵、政治の神さまとして、かつては天照大御神の相殿にましまして、偉大なおはたらきをなされたこと、また氏神奉斎の神事は、大神さまの大みいつのもとに執り行なわれること。   

C 四魂具足の意義とその実践及び平田霊示を実行すること。

D 真の氏神とは、天照大御神の御孫ニニギノ命第一世の御子神にましまし、その数は一六八柱にご神定なされ、それぞれ全国各地に領域をうしはぎなされる四魂具足の真神霊にましますこと。

E 氏神は人間界においてもまた霊界においても、人間の魂を支配される唯一絶対の神であられること。

F 氏神の魂による同化によって、先住民族が現在の日本民族に化成され、しかも氏神の魂による民族同化のおはたらきは、いまもなお続けられて、日本の国家の存するかぎり未来永劫かわらない。

G 氏神は魂の(みおや)の神であるから、そこに魂におけるオヤとコの関係が成り立ち、氏子が四魂具足という真のまごころでお仕えすれば、そのご守護は鴻大無辺(こうだいむへん)のものである。

H 自分の両親からその両親へと、先きへ先きへとさかのぼっていけば、最後は先祖としてあらしめた氏神にまで到達せざるを得ないから、日本人の本能でさえある崇祖の観念は当然氏神を信仰せざるを得なくなって、敬神は崇祖にありという、真の敬神崇祖の日本民族本来固有の民族信仰をしなければならなくなる。

I 祖霊は氏子が氏神を信仰することによって、氏神のみいつのもとに浄化を進めながら、家族たちを守護する。

J 氏神信仰することによって、日本民族たる自覚が具体的にハッキリする。

K 国家の中心は、天照大御神の直系にまします天皇であられ、信仰の中心は天照大御神の傍系の神であられる氏神を信仰することである。ここに国家の中心と信仰の中心とは完全に一致する。

L 八意思兼大神さまは、氏神の総代表としてこの日本の国を惟神の道をもってお救いなさるため、その偉大なご計画遂行の手足として氏神をまつらせて下さった。

 以上きわめて概略(がいりゃく)ですが、願わくば本会発行の『教務必携』だけは、是非座右(ざゆう)にそなえてご精読のうえ、氏神信仰の本質・目的などをしっかりと身につけて頂き、新会員獲得のために役立たせてもらいたいのです。

 本会は、人間界においてはまことに小体と見えるでありましょう。しかしながら霊界(神霊界、神仙霊界、仏霊界、妖魅界)における本会の占める地位は、他のあらゆる霊界に隔絶(かくぜつ)(他とかけ離れて)して、神霊界という最上位にあるのです。

 ということは、本会本部には、かつては大真神霊天照大御神の相殿の神さまにましました八意思兼大神さまと申し上げる大真神霊がご鎮座になられ、また会員の各家庭には真神霊にまします四魂具足の氏神さまをおまつりしておられるからです。

この意味において、惟神会本部は、まさに『神域です

 同時にまた氏神さまをまつっておられる会員のみなさまのご家庭も、大神さまの大みいつにおおわれているのですから、いわば神域の一郭(いっかく)(一つの囲いの中の部分)を構成しているわけです。ですから、われわれ惟神会員はなんとしましても、この神域を護りとおさなければならないのです。

 まことに本会は、国教確立達成の火種であります。しかもみなさまのご家庭におまつりしてある氏神さまは、毎日、この神域にご鎮座まします大神さまの大前に(つど)われて、本会の霊界の会長にまします平田先生の仲執り持ちにより、氏神の総代表にまします大神さまのご訓示ご指導ご監督を受けておるのです。

わけても本会における大神さまの祭典には、各委員の氏神さま(委員の神は、一定期間毎にご交代なされるやに拝承している。現界の人間界においても、委員は二年毎にあらためて選ばれる)は、大神さまのお?(おみや)に集まられると拝承しております。

委員でない氏神さまは、祭典の日、大神さまの神床の左右にしつらえた神籬(ひもろぎ)にお集まりになられると拝承しております。したがいまして、神界の事象は人間界に反映するものですから、人間界の委員の方々は、委員として、その重要な職責を果たさなければ、大神さまに対しまつり申しわけないと思われるのです。

 こうした事情からも、大神さまのおわします惟神会本部はまさに神聖な地域すなわち神域です。本部を新たに建設したり、借地を買収したのも、この神域を護るため一つの手だてであったのです。

 ですからこの神域を、われわれ全惟神会(特に委員)は、なんとしましてもお護りしなければならないことは前述のとおりです。それには本文前段において申し上げたように、クラウゼヴイッツの「防禦は攻撃なり」ではありませんが、積極的に新会員をたくさん獲得するよりほかはないのです。

 それでこそ大神さまの大みこころにこたえまつることができるのでして、こうした考え方で神域を護る会員の方々は、神界からいちだんとたくさんのみたまのふゆを頂いて、幸せになれるのです。

 想えば過去十七年余にわたって、委員長の重責をけがしてきた不徳不敏のふつつかな私ではありますが、その(かん)会員のみなさま方から身にあまるご支援ご協力、おはげましを頂きまして、まことに感謝感激に堪えないとともに、あらためて厚くお礼申し上げる次第です。

 しかしながら、老躯(ろうく)に加えて心力の疲労困憊のほか、みずから能力の限界を悟りましたので、この際引退させて頂くにあたり、(はなむけ)の言葉として『神域を護れ』ということを申し上げて、みなさま方のいっそうのご奮起をお願い申し上げる次第です。

 幸い私の後任に、有能達識の川村二郎先生を新委員長としてお迎え申し上げました。

どうかみなさん、この川村先生を私に倍して盛り立てて、この惟神会という神域を護って頂きますよう特にお願い申し上げます。

                     (昭和四十七年三月十二日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

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