惟 神 会 の 使 命   【41年9月号】  P27

昭和四十一年八月二十一日 八意思兼大神月次祭における講演要旨

付 昭和四十一年度夏季研修会における講話要旨

 

惟神会委員長 川    俣       

 

   

 惟神会の使命については、昨昭和四十年八月の研修会において申し述べましたが、今回もひとしく同じ命題のもとに卑見を申し上げたい。

 本会の使命は創立以来いささかも変わらず、終始一貫しているが、ただ時勢とともにその表現形式に多少の変化があるのは避けられないと思う。

 申すまでもなく使命とは自分に課せられた任務ということである。したがって本会の使命はまた本会を構成している会員各自が八意思兼大神から課せられた任務を果すということである。

 本会の使命は自覚的というよりむしろ大神によって他覚的に命ぜられた重大なものであるに拘わらず、とかく人間は時という大きな流れに抗し得ず、惰性的となり初心忘れずの気概を失い勝ちなので、本研修会を好機として再び惟神会の使命について愚見を申し陳べるとともに、本研修会参加諸氏はもちろん一般会員の御神業恢弘(かいこう)(広める)に対する利心を大いに喚起したいと思う。

八 意 思 兼 大 神

 本会の使命を語るに際し当然われわれは本会の主神と仰ぎ奉る八意思兼大神の御性格・御功績について申し上げなければならない。

 大神は『古事記』に誌るされたいわゆる造化三神の一柱である 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)(またの(みな)高木神)

御子神であって、天照大御神が高天原を知ろしめされる以前に高天原に成りまされた大神である。

 大神は、思慮分別の神、智恵の神、政治の神として、天の石屋戸開き、大国主命の国土奉還など特筆大書さるべき御功績は数々あり、わけてもわれわれが大いに関心を持ち、且つ学ばなければならない一事は、大神の数々の御功績を挙げる場合に、大神は決して独断専行ということなく、すべて八百万の群神と議して事を決めて行なうという、いわば現代の政治思想の根幹ともいうべき民主々義の在り方をつらぬかれたということである。わが国の民主々義は、すでに早く神代の昔において大神が範を垂れ給うたのである。

 本会が創立以来委員制度を堅持していること、また神界では氏神たちで委員会が構成されて委員長神、副委員長神がそれぞれ選任されていることは、すべて大神が民主主義を堅持される御神慮に準拠しているものというべきであろう。

 次に大神の御功績の偉大なことは大和民族同化に関することである。

 天照大御神は天孫ニニギノ命の御降臨に際し、ニニギノ命と御同列にて高天原からこの国に天降れた大神に対し

『思兼神は(みまえ)の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ』と仰せられて四魂具足の政治の全権を大神にゆだねられたのである。

当時の葦原(あしはらな)中国(かつくに)(現代の日本国)には大和民族以前の先住民族が生息していたので、大神は四魂の政治を行なうためには、まず先住民族を四魂民族にまで民族魂の同化をはかるべきであると思慮されたのですが、天孫ニニギノ命と先住民族との間にはあまりにも大きなへだたりがあったので、まずニニギノ命の御子神たちを四魂具足の真神霊にまで同化し、この同化された真神霊たちが実際に手を下されて四魂民族同化の偉業をはじめられたのである。

この御子神たちがすなわち今日われわれが魂の授け祖として奉斎している氏之祖ノ神である。

こうして日本民族が四魂民族としての同化成生がはじまったのである。

われら日本民族は神のみすえであるといわれる所以は実にここのところにあるのである。

 四魂民族同化という大偉業は、実に大神が思慮分別・智恵の神であられる御性格・御性能のあらわれと拝されるのである。

 

大神御出顕の経緯とその大目的

 故岸会長は、八意思兼大神は政治・学芸・思慮・分別の神としてこの日本の国に必らず出でまさねばならぬ神としてお探し申し上げたところ、ついに平田先生のお骨折りによって大神は京都藤之尾の地におられることが判明したのである。まさに昭和三年一月五日のことである。そこで岸会長は大神の神社を設けて日本人全体に信仰させたいと考えて平田先生にお願いしたが、最初は巨額の費用を要することとて思うにまかせず苦慮していたところ、平田先生から「岸の住宅の玄関の隣りの室は清浄な室であるから、かの室に神殿を設けなば思兼大神は出廬(しゅつろ)(再び世に出て活動)まします」とのまことに思いもよらぬありがたいお話しがあったので、急遽(きゅうきょ)その準備を整えて大神をお迎え申し上げたのが昭和三年二月四日のことである。昭和三年といえば、思想・政治・経済各界の混乱・萎靡(いび)(衰え弱る)沈滞は甚だしいものがあり、まさに国難的症状を呈していたので、岸会長は大神の大御神威によってこの国難を乗り切ろうという救国済民の一大矩火(くひ)(決まり)を掲げて大神を御奉斎申し上げたのである。

 ところが大神は『大神ひとりでは何も出来ない。手足が必要である』と仰せられて、その手足として氏神をお知らせになり、ここに氏神奉斎の神事が昭和三年三月一日にはじめて執り行なわれるに至ったのである。すなわち敬神崇祖・四魂具足という真の惟神の信仰によって、日本民族魂を奮い立たせ思想的にも政治的にもまた経済的にも、もちろん信仰的にも世の立て替えをなさろうとなされたのが、大神御出顕の大目的であり大御経綸であったのである。

 崇祖は日本民族本来固有の民族性である。仏教が渡来して一応その流布の実を挙げ得たのはこの日本民族の崇祖観念を上手に利用したからである。崇祖とは祖先の霊を崇め尊ぶことであるが、祖先の霊魂はひとしく祖神氏神によって与えられたものであるから、崇祖をさかのぼれば当然魂の授け祖たる氏神にまで到達せざるを得ないのである。したがって祖先祭祀の道を全うするためには、なんとしても氏神を奉斎して、氏神の神力を蒙らなければならないのである。何を好んで祖霊を氏神にあらざる他のもの殊に仏教の如き外来宗教にゆだねなければならないのか。否な委せられたところで氏神以外の他のいかなるものも祖霊の浄化をはかることはできないのである。実に顕幽一貫して人間の魂を支配するものは、ひとり氏神だけである。ここに敬神は崇祖にありという日本民族固有の氏神信仰の厳存すべき理由がある。

 かの天孫降臨の御神助に

()の鏡は(もっぱ)ら我が御魂(みたま)として、吾が(みまえ)(いつ)くが如、伊都岐奉れ』とあるが、この一文において敬神崇祖の真義を教えられているのである。すなわちまず天孫に向って吾が前を拝く如くと仰せられたのは、天照大御神以前の神々を拝むべしとの詔で(みことのり)ないことを考えねばならない。天孫(すめみま)(のみこと)たちは、専ら我が魂をば斎き奉れとの御神意は、我(天照大御神)を祖神として斎き奉れと詔り給うたのであって、ここに敬神は崇祖にあることを教えられたのである。

 天照大御神は、天孫命(すめみまのみこと)たちにとっては、祖神であると同時に御祖先であるから、天孫命たちが天照大御神の御魂を斎き奉ることはすなわち敬神であると同時にまた崇祖であるから、敬神と崇祖とは決して可分のものではなく不可分である。

 敬神は崇祖にありという氏神信仰の大鉄則は実にここのところに厳として輝いているのである。したがって祖神にあらざる神仏の如きは、決して崇敬せらるべきものでないのは当然のことである。

 邪教の徒は或いは神勅を取り代え、或いは敬神と崇祖とを分離して説くことによって、大和民族の根本精神を惑わすに至ったのである。

昭和初頭の我国が思想・政治・経済の三大国難に直面したのも、決して故なしとはしないのである。

 さればこそ大神は当時の国難を突破するためには、真の氏神信仰によってこの日本の国を儒仏渡来以前のわが国本来の姿に戻し、四魂具足という惟神の大道の宣布実践によるほかはないと仰せられて、ここに大神の手足として氏神をお知らせになり、大神の大みいつのもとに氏神奉斎の神事がはじめられたのである。

 かくて大神の御神慮のまにまに、日本全国各地にそれぞれ領域を持たれる一六八柱の氏神が、神はかりに御神定になったのである。ですから本会は人間の会でなく、八意思兼大神の依さし給える会であることを心に銘記しなければならないのである。八意思兼大神は氏神の総代表として本会にお鎮まりになられたのであって、大神を本会の主神と仰ぎまつる所以がここにある。

 

惟 神 会 の 使 命

 以上のように八意思兼大神の御出顕によって、千三百年来閉ざされていた神霊界の扉が開かれ、大神の大みいつのまにまに氏神奉斎の神事が執り行なわれるに至ったのである。ここに敬神は崇祖にありという真の氏神信仰が確立されると同時に、四魂具足の真の惟神の大道の巨歩の第一歩が印せられるにいたったのである。

御神徳が単なる御神徳のための御神徳でなく御神業のための御神徳であるように、氏神信仰もひとり氏神信仰することだけの氏神信仰でなく、あくまでも救国済民という大神の大御神業のための氏神信仰でなければならないのである。

 氏神は氏神単独で働かれるのでなく、どこまでも大神の大みいつを蒙ることによって、御神威を発輝されることは神界の厳たる掟であるから、氏子が氏神の御神威を蒙らんとするからにはまず氏神信仰を国内に あまなからしめる(隅々までお治めになる)という大御神業の達成に忠実に努力しなければならないのである。

 惟神会の使命は、一言にしていえば、八意思兼大神の大御神業を達成するということである。

 すなわち本会の目的は日本国民全部に氏神および祖霊を祀らせて敬神崇祖・四魂具足の真の惟神の大道を実践させることであって、この大目的を達成実現させるのが本会の使命である。以下本会の使命に関連性のある諸項目について略述したいと思う。

@ 神 祇 の 立 替

 儒仏渡来後わが国の神祇は乱れに乱れて、神に正、不正、真偽の区別が失われ、換言すれば三魂の神も二魂の神もすべて霊能あるものは一様に神と称されて、四魂具足の真神霊との識別など全く顧みられなくなったのみならず、わけても仏化された邪神たちは神霊界の閉鎖をよいことに暴威(荒々しい勢い)を振い、人間にご利益という好餌(えじき)(えさ)を与え、その代償としてそれに倍するお釣りを取って人間に恐るべき災害を与えていたのである。

 ところが天運循環して八意思兼大神の御出顕となり、ここに神霊界の扉が開かれて、神祇(じんぎ)(天津神と国津神)の立て替がはじまったのである。すなわち故岸会長は本会霊界の会長であられる平田先生の仲執り持ちによって、神界の消息をつぶさに知ることができたのである。

 すなわち岸会長は神祇の立て替に当り「大日本史」(徳川光圀の撰)の神祇史を唯一の史料として、神界に伺ったのである。それによれば全国の真神霊の鎮まる神社総数は一五八三社であるがそのうち神社のないものが五六社であるから差引一五二七社の真神霊が現在鎮まられる神社数である。

この内氏神と(とな)え奉るべき神は

    五三九柱 であって、

さらに大和民族の祖神と称え奉るべき神は

    一、〇四四柱

 合計 一、五八三柱である。

この五三九柱の氏神中、一六八柱の氏神がニニギノ命第一世の御子神としてそれぞれ日本国土を領域として分割してうしはぎます(領有する)ところの真の氏神であることが神定(神会の委員会で)されたのである。

神界が整頓されて神祇の立て替が完了したのはまさに昭和五年四月三十日のことである。ことここにいたるまでの平田先生や岸会長の御苦労は、それこそ言語に絶するものがあり、いまはただた

だ感謝感激あるのみである。

 この一六八柱の氏神が大和民族の真の氏之祖ノ神として各氏子の家に鎮まっておられるのです。    

(一、〇四四柱の神たちは五三九柱の氏神たちによって代表せられ、五三九柱の氏神たちは、さらに一六八柱の氏神たち =ニニギノ命第一世の御子神= によって各領地を以って代表せられ、うしはぎますことに神定されたのです。

このように神祇の在所が完了して、惟神会はその基礎に磐石の重みを加えたのである。

A 氏神は実在する

 氏神はニニギノ命第一世の御子神であって四魂具足の真神霊であることは前項に述べたとおりである。

氏神は血統の神でなくどこまでも霊統の神であることは、氏神の本質を知るうえの大前提である。氏神は民族の大祖神天照大御神の傍系の神であるから、氏神信仰の中心たる氏神は天照大御神の

直系であられる、天皇すなわち国家の象徴として国家の中心的御存在である天皇と同じ軸のうえに立つものである。すなわち信仰の中心と国家の中心とは相一致するものであるから、この意味において氏神信仰はまさに間然(かんぜん)(欠点)するところのない民族信仰の極致を表徴するものである。

 世俗には神はあらしむる(公になるさま)が故にあるなどと観念論的に神を論じているが、まぎれもなく氏神は実在の真神霊である。目に見えないからとて神の実在を疑ったり或いは観念的に扱うのは、真のすぐれた科学者とは申されまい。

 今から百余年前量子論によって、現代の原子物理学の基礎を築いてノーベル賞をもらったドイツの科学者のマックス・プランクは『宗教と自然科学』のなかで、ドイツの詩人ゲーテの『思索する人間の無上の幸福は、究め得べきものはこれを究めつくし、究め得べからざるものはこれを心しづかに畏敬するにある』ということばそのまま、科学の行きつく先きは畏敬という神の世界であることを述べている。また中間子理論でノーベル賞を受けた湯川秀樹博士も、同じくこのような意味のことをその随筆で述べている。

 目に見えないものをとらえるためには、それに相応した装置を必要とする。ラジオやテレビの電波は目には見えないがラジオセットやテレビセットという精緻(せいち)な装置によってのみこれをとらえることができる。同時に神霊という目に見えない霊体は信仰という装置によらなければその実在を確認できないことは、前掲ゲーテのことばどうりである。真神霊は、他の邪神邪霊のように、人間に絶対に神がかりしないのであるから、真神霊の実在を確認するには、信仰によるほかはないのである。ここに氏神という絶対の神に絶対の信仰を捧げるところの信仰という一つの装置によって、われらは神霊の実在を、心において、またからだにおいて知ることができるのである。

B      祖先祭祀を完成せよ

 霊魂の不滅は現界霊界をつらぬく鉄則である。先祖の墓の石碑にしたところで現在判明しているのはいちばん古いものでもせいぜい慶長・元和(約三〇〇余年前)くらいのもので、あとは判らないが霊魂は不滅で現存しているから、日本人は昔から先祖の魂を信仰をしていたとは或る著名な民俗学者の言である。

 ただ祖霊を氏神信仰によらず、仏教その他の邪道によってまつっているから、祖霊の実在を確認できないばかりでなく祖先祭祀の道を全うし得ないのである。

 本会において敬神は崇祖にありという氏神信仰によって祖先祭祀の道が完成されたので、われわれは祖先祭祀を

 イ 報恩感謝

ロ 家の永続性

ハ 祖霊の活動力の増強

の三大理由のもとに行なっているがそのイロハいずれの目的もすべて氏神のみいつ、さらには八意思兼大神の大みいつによって完全に実現することができるのである。

 本会使命の一つとして氏神信仰によって祖先祭祀の道を完成させることが挙げられることを忘れてはならない。

C 『古事記を神典とする

『古事記』は神典である。『古事記のほかに『日本書紀』『古語(こご)拾遺(しゅうい)』『風士記(ふどき)』など古記録を誌るしたものはあるが、「古事記」こそ日本の神代から人代に至る古記録の真髄を収めたものである。

八意思兼大神の御事蹟も、また天孫降臨における天照大御神の神勅にあらわされた、敬神は崇祖にありという真の惟神の大道に基づく氏神信仰の大原則を確認することができたこともひとしく『古事記』を神典としたればこそである。

 およそ記録というものは、これを読むものの心構えいかんによっていかようにも取れるものである。神典「古事記」に関するかぎりは、これを惟神の信仰観を基盤として読まなければ「古事記」の真髄に触れることはできない。氏神信仰の真義もわきまえず、あまつさえ信仰の中心と国家の中心とが相一致するという氏神信仰からもたらされる、民族信仰の核心に到達し得ない世俗の古典学者や歴史学者が、ただ、文献的にまた文学的にいくら「古事記」を読んだところで、その読後の結論たるや推して知るべきであろう。聞くならく(人のいうには)、明治維新は(から)(ごころ)(儒者の言挙げし心)紛紛(ふんぷん)(入り混じって乱れる)たる「日本書紀」を基調としていたために折角の神仏分離も成功しなかったといわれている。

D 四魂具足の研究とその実践

 四魂具足は氏神信仰の絶対的内容を示すものである。惟神の道とは四魂具足の道である。

 天照大御神も八意思兼大神もまた氏神たちもすべて四魂円満具足であられる。(平田先生は、人霊として神とはその素質を異にするゆえ神そのものにはなれないが、霊界においては四魂を具足されて立派に神格を得られている)各氏子の家の祖霊たちも、四魂具足の道ひとすじに浄化にいそしんでいるのである。

 道義の低下にともなう世相の腐敗堕落混乱は、実に四魂具足の道がすたれたからである。四魂具足は絶対の善である。儒仏その他の唱える善はすべて相対の善である。われわれ四魂民族が相対の善に走って得々としているのは、氏神信仰をしていないからである。相対の善とは一方で善あっても他方では悪であることである。

 平田先生もその御訓示のなかで

 「四魂具足の惟神の道を研究して、万民に教を宣べ伝える心になって貰ひたい」と仰せられている。

 四魂具足の教えは神代の昔から今にいたるまで、否なこの日本の国のあるかぎり一霊四魂という民族魂組成の基盤をなすものであるから、時勢がどんなに変わっても四魂にねざした民族の根本理念は(かわ)らない(変化しない)のである。ただその表現方法や型式において時の流れを汲み取るだけのことである。

 さればこそ平田先生は前掲の御訓示において、四魂具足の道を研究せよと仰せられたのである。本会の重要な使命として四魂具足の研究とその宣伝弘布が挙げられる所以である。

E 惟神科学の研究

 惟神科学とは生命に関する研究である。生命は精神と肉体から成っていることは自明の理であるが、最も肝要なことは人間の意識の問題である。さらにいえば意識の構成と神との関係である。換言すれば人間の意識は神によって構成されているということである。人間の意識はその意識の本霊或いは第二霊(出生と同時に祖神氏神から授かる)と種々な第三霊、第四霊と称する経験霊との感合によって成り立っている。本会で奉斎する真の氏神は人間の意識霊または第二霊もしくは本霊と感合される神であって、決して第三霊、第四霊とは感合されない。ところが邪神邪霊と称するものは、人間の邪悪な第三霊、第四霊とのみ感合するから、ご利益の後にはさまざまな災害がもたらされるのである。(お釣りを取られる)

 したがって真の神を認識するためには、人は完全な意識を具えなければならない。完全な意識を持つということは、邪悪な第三霊や第四霊にわずらわされることなく、確固たる信念を持つということである。本会において奉斎する神は全く人間の信仰する神である。すなわち真の神霊であるから、木や草や勣物の神であるわけはないのである。

 人間の体そのものは無数の細胞から成っているが、その細胞の働きを司るものが体霊あるいは第一霊と称するもので、両親から授かっている。人間は受胎してから肉体という細胞とその細胞を司る体霊を授かり、出生の瞬間に魂すなわち第二霊―本霊―意識霊を氏神から授かり、ここに人間という一つの有機的生命体ができあがるのである。そして第二霊が第三霊や第四霊のもたらすさまざまの事象を限定することによってそこに概念が生じるのである。(体霊は両親からまた本霊は氏神から授かるのである)

 したがって生後の第二霊を氏神信仰によってつねに正常に保てば、第二霊の第三霊、第四霊に対する限定力は増強されて、邪悪な第三霊や第四霊のもたらすものはこれを峻拒(しゅんきょ)(厳しく拒む)して受け付けないから、その人の意識はつねに正常であって四魂にはずれるようなことはなくなるのである。第二霊が第三霊を限定する揚合、その限定力のエネルギーをなすものは第一霊という体霊である。「その罪を憎んでその人を憎まず」の罪とは邪悪な第三霊、第四霊であり、その人とはその人の第二霊のことである。

 最近大脳生理学と称して新しい大脳皮質と古い大脳皮質における第二霊、第三霊、第四霊の相関関係を病理学的に解明しているが、この新しい皮質とは第三霊、第四霊のことであり、また古い皮質とは第二霊のことである。このように人間の意識の構成を研究する惟神科学は、すでにはやく三十有八年の前に神界から教えられたものを科学者岸博士によって解明され、さらに前古川委員長によって「生命に関する研究」として祖述(そじゅつ)(師の説を述べる)されて、今日に至っているものである。

時勢は大脳生理学なる名称のもとに本会研究の分野に近づこうとしているのであるから、われわれ惟神会員たるものはこの惟神科学を信仰的に解析究明して、氏神信仰の科学性を堂々と説示する必要があることを痛感するものである。

F 祓の完成とその効果

 日本の神道は、イザナギノ命の立花小戸阿波岐原における禊祓にその渕源を求めることができる。

換言すれば、祓を措いて日本神道は成り立たないということである。観念論的哲学論的に日本神道を論じるかぎり祓の行事を語ることはできない。極言すれば日本の神道は祓に始まって祓に終るとさえいえるであろう。

 ところが儒仏が現世主義、刹那主義をひっさげてご利益信仰を説きまわってから、神聖なる禊祓が罪穢れを祓い清めるという祓本来の在り方から逸脱して、ご利益追求一点張りの邪神祓に堕落してしまったのである。

 禊祓という神事を祓の本質において、また心構えにおいて、日本古来の神代の姿にまで復元したのはひとり惟神会のみである。世俗の祓は、一方で邪神邪霊と苟合(こうごう)(みだりに迎合する)妥協しその霊力によって他の邪神邪霊を祓い除かんとするものであって、邪をもって邪を祓わんとするものである。故に、その祓に絶対性もなければまた効果のないのは当然のことである。

 しかるに本会の祓は、真神霊神授の祓であるだけに、すなわち懺悔の祓には八意思兼大神の大みいつ、清祓には氏神のみいつがそれぞれ伊照り輝くものであるから、いかなる罪穢れも祓い清められ、従って邪神邪霊も退散せざるを得なくなるのである。

 このように本会の祓は、絶対の善そのものにまします絶対の神のみいつによる絶対の祓であるから、本会の使命の一部門として、氏神信仰のもとに行なわれる祓行事を普及させて、清らかな身心をもって御神業達成をめざして勇往邁進の努力を促すべきことが挙げられる。

G 知 識 と 智 恵

 知識とは或る事物に関する明瞭な意識であって、多くの場合経験を重ねることによって知識は積み重ねられていく。

 「神は経験によって知識を得る」との御神示は、ひとしく人間界にも相通じてあまりあるものがある。また智恵というものは、物事の理をさとり、その是非善悪を弁別する心の作用であって、思慮し計画し処理する力が智恵のはたらきである。俗語に「才覚」といって知力のはたらきを示すことばがあるが、これも智恵のはたらきのあらわれの一種であろう。

 科学は物が如何に動くかを考えるが、宗教は物がいかなる目的をもって動くかを考える。換言すれば知識によって進歩発達した科学は宗教による智恵のはたらきによってどのようにまたどのような目的をもって動かされるかということである。

 これを現下の最も切実な問題にあてはめていえば、理論物理学の最尖端を行く原子核の問題こそは人間の知識の結晶であるが、これを戦争に悪用して人類の殺戮(さつりく)をはかるか、または原子力による動力として人類の平和のために利用するか否やは、すべて智恵のはたらきに俟つものである。

 本会の主神にまします八意思兼大神は、智恵・思慮・分別の神としてその御事蹟は神典「古事記」にあまねく(全てに亘って)誌るされているとおりである。われわれは氏神を信仰することによって、大神の智恵・思慮・分別の御性能を自家氏神をとおして蒙ることができるから、どんなに知識を高めてもその知識を悪用することはあり得ないのである。

 まことに知識の進歩向上発達はきわまりないものであるが、この知識の善用すなわち知識の四魂の信条的活用こそは一に智恵のはたらきに俟つべきものである。惟神会の使命は、国民全体に氏神を奉斎させ、智恵の大神八意思兼大神の大みいつを各自の氏神をとおして蒙むらしめ、もって日常の家庭生活はもちろん社会生活においても、知識を四魂の信条的に過ちなく人類の福祉と平和共存のために隈なく発輝さすべきである。

?????

 惟神の道は、四魂民族本来固有の道であるから、戦前戦中戦後を問わず一貫して変わらないものであるが、戦後における社会通念、政治思想、法律観念、経済思想等の変化ので、わけても外国思想の受入れとその影響のため、家庭生活、社会生活ひいては国家観念まで変貌を来たしてしまった。

その結果祖国愛、民族愛の凋落(ちょうらく)(衰える)するところ天皇尊崇の気持ちすら失われている現状に鑑み、本会の使命のいよいよ重大なことを痛感する次第である。いまは戦後ではないといわれているが、戦後の弊風は改まるどころかますます助長される傾向すら見られる。そのため本篇では敢えて戦後という表現をとった次第である。

 講和後わが国の復興振りはまさに刮目(かつもく)(注意して見る)すべきものがあった。工業の種類によっては世界の一二を争うものもあるようになった。西ドイツの経済復興はアデナウワーの奇蹟といわれて財界の注目を浴びたが、わが国の経済復興も決してそれに劣るものでない、かの昭和二十年の壊滅的状態からは到底想像だにできぬほどの発展である。かく国力の恢復に伴って、わが国際的地位もまた向上した。

 このように国家の経済面における再建は素晴らしいテンポで進んでいったが、精神面における再興は不幸にも非常な立ちおくれを見せている。

 このことに関し或る外人記者はおよそ次のようにいっている。『日本はわずか戦後十数年にして高度の技術を持つ工業国となった。現在精密機械、造船、高級商品の製造等において世界のどの工業国にもひけをとらない。だが今日の日本人は心理的に哲学的に、根なし草のようにさえ見える。あまり過去と結びついていないし、未来に対しても無関心で、まるで現代に酔っぱらっているみたいだ』とまで極言して、魂をなくした日本の繁栄の痛いところを衝いている。もちろん魂をなくした日本人たらしめた(駄らしない)ものは、占領軍の占領政策の一環として国民精神を培養すべきあらゆる部門の破壊―たとえば教育勅語の廃止、新憲法の押しつけ、日教組の組織、神道指令による伊勢皇大神宮や靖国神社・明治神宮の国家管理の特例の剥奪、皇室軽視の風評助長等々―は敗戦による国民の虚脱  感と相挨って日本人の心に大きなうつろをもたらした。また強制された民主々義による親族法の改悪は家督相続を廃し遺産相続の物質主義に堕して家庭を破壊し、親孝行の美風を一擲(いってき)(一度に投げ打つ)させ、自国蔑視と国民意識の喪失を招き、民族愛、祖国愛など求むるすべもなくなったのである。神典たる「古事記」を否定し、日本の歴史を歪曲して、過去と未来にまたがる現在でなければならないという「中今(なかいま)(中道)の精神などはかけらほども見られず、儒仏思想に胚胎(はいたい)する(始まる)現世主義、刹那主義のご利益追求の一点張りに堕してしまっているのが現状のおおかたの在りようである。したがって魂を入れて民族的精気を呼び戻すことが緊急の最重要事である。

 申すまでもなく日本人は四魂民族である。四魂民族ということは、一霊四魂の民族としていつのとき、いかなる場所においても、つねに四魂具足し得る素質を持っている民族ということである。日本人は四魂民族として奇荒和幸の各魂は持っているのであるが、現状は、その各魂が不揃いにあるいは各魂連繋を欠き、てんでんばらばらに、しかも各魂の本質的はたらきをあらわすこともなく、約言すれば四魂がきわめて不具足な状態において働いているのである。

 魂を失うということは、四魂不具足のために邪悪な霊魂によって生得(せいとく)(生まれつき)の善なる魂が邪霊的に支配されてしまう状態である。換言すれば第二霊が邪悪な第三霊、第四霊によって逆限定されるのである。

 いつの時代でも精神面の向上が物質面の進歩発展に追いつけないためにさまざまの弊害が起るのである。現下日本においても精神と物質との乖離(かいり)(隔たり)があまりにも甚だしいものがあるため、その悪症状がいたるところに出ているのである。失われた魂を取り戻すには、人間の魂はもともと祖神氏神によって与えられたものであるから、まず何を措いても魂の授け祖であり支配者である氏神の神力を蒙り、邪神邪霊のためにそこなわれた魂を四魂具足的に磨くことによって、生得の本来の姿に取り戻すよりほかに方途とては望むべくもないのである。ここに氏神信仰の絶対性が厳存するのである。

 邪教氾濫し世相混濁をきわきめている戦後において、本会の使命の重要さは、いまさら贅言(ぜいげん)(余計な言葉)の要はないのである。いみじくもドイツの鉄血宰相ビスマルクは「国家は敗戦では滅びない。ただ国民が魂を打ち砕かれた時は滅びる」と喝破したが、また他山の石とすべきであろう。

 

月次祭祝詞に拝する本会の使命

 八意思兼大神の月次祭は、毎月欠かさず仕え奉っているが、われわれはその祝詞に惟神会の使命の重大さをつぶさに拝することができる。

 祝詞というものは、もともと、美辞佳言をつらねたものであるが、大神月次祭の祝詞は、言々句々荘重雄渾にして心魂をゆさぶるものがある。この祝詞を拝誦すれば惟神会の使命のいかに重大であるかが歴然とするのである。

 いまこの祝詞のなかの一、二をとり挙げて、本会の使命の重大さに想いを馳せたいと思う。

 「畏くも大神の高き広き大神威(おおみいつ)を以ちて、大経論(おおしくみ)打ち()て給い大神業(おおみわざ)創始(はじめ)させ給いて、今の世の国民(くにたみ)をして真の敬神(かむ)(なが)()大道(おおみち)に目醒めしめ給い各も各も其れの氏之祖ノ神等を斎き奉らしめ給いしは、()(くみ)の為めは更なりまた世に生きとし生ける(ひと)(くさ)諸々(もろもろ)の為めにも(いと)(かた)けなき貴き御幸福(みさち)になもある」

注、国民各自に敬神崇祖の氏神信仰を実践させて、真の惟神の大道をあまなからしめる(隅々まで治める)のは、すべて

大神の大みいつと大御経綸によるものであり、国家はもちろん国民全体にとってこのうえもない幸福なことである。

 「吾等会員等(まめびとたち)は各も各も過ぎにし跡を顧みて過誤(あやまち)訂正(ただ)し罪穢れを祓い清めて大神の御神諭(みさとし)(まにま)に益々大和心の敏心(どごころ)を振り起し(いよ)よ力を合せ心を一にし邦国(みくに)守護(まも)四魂(よつのみたま)具足(そなえた)らわし世の鑑となり此れの正道(まさみち)四方(よも)の国々に()べ弘めんとするにより大神の大神威を天の(かき)き立つ限り伊照り輝かしめ拾い、皇孫命(すめみまのみこと)象徴(みしるし)と仰ぎ奉れる此れの大御代を(いかし)し御代の浦安の御代と堅磐(かきわ)に常磐に守り幸はえ給えと畏み畏みも祈躊(こいのみ)奉らくと(もう)す」

注、われら会員は自分の信仰上の過ちを正し罪穢れを祓い清めて、四魂具足にいそしみはげむと同時に自分の心魂をかきたてて、この真の惟神の大道を日本の国はもとより世界各国に宣布して、われらの象徴である天皇のしろしめし給うこの世をば万代不易(変わらない)、永世平和な世の中にして頂きたいとひたすらお願い申し上げる次第である。

 以上とり上げた二句は約言すれば、われらは「氏子たると同時に会員であれ」との同時原則に徹して行動せよということであって、本会の使令はまた本会を構成している会員各自の使命にほかならないことを明示切言(相手を思い、言葉を尽くして説得)しているのである。

 

平田霊示に拝する本会の使命

 昭和四年四月二十八日の本会春季大祭第一日目に、霊界の平田先生から下さった御訓示は、拳拳服庸(けんけんふよう)(胸中に銘記、忘れずに守る)、実践躬行(自分で実行する)をゆるがせにしてはならないものばかりであって、われわれはこれを平田霊示と尊称して信仰向上の座有の銘としているのである。

 霊示に仰せられている一言一句はすべてこれわれらの心魂をゆさぶるものばかりであるが、ここでは特に本会の使命に関する先生の御訓示を拝誦して、大御神業の重大さに思いを新たにしたいと思う。すなわち先生は訓示し給う。

 「本会員たるものは、自己の私利私慾、即ち自分の慾を先に解決仕様と思う心では、会員たるの価値はないのである。ここに於て会員たる者は、モットモット心を広くもって、自己一個の考を棄てて日本のため、国家のため、この日本人を導くといふ強い心を常に有って居って頂きたいのである」(原文のまま)

 また先生は仰られる。

  「わが日本国家同胞中の先覚者として集った会員が(こぞ)って、毎日々々四魂に叶ふやうに努力して行けば近き将来、日本人全部の心が一致して、真の惟神の大道が確立することと平田は信じて疑はぬのである。今集っている氏子達は、先覚者であると共に、此の日本国家を救済するところの犠牲者であると認めるから自己のことばかり考へずに、本会に於て四魂具足の惟神の道を研究して、万民に教を宣べ伝へる心になって貰いたい。日に一分間でもよいから此の心になるやう希望するのである」(原文のまま)

 平田先生は本会の使命として、特に以上挙げた二つの文言において強調しておられるが、この文言は読んで字のとおりであって、いまさら一々解説の要もなく、ただ望まれることはこの霊示をよく心に銘記して実践躬行することだけである。

先生はその霊示において「日に一分間でもよいから此の心になるやう希望する」と非常に御謙譲のお気持ちにて百歩千歩ゆずられて「日に一分間でも云々」と最低の御希望を陳べられているのである。まことに恐懼の至りである。

われら会員たるもの果してこの平田先生の御希望に副い得るものありやなしや。お互いに胸に手を当てて顧みるところがなければならない。                                   

 平田先生は本会の霊界の会長として、八意思兼大神と惟神会との仲執り持ちのお役をつとめられているのである。平田先生のおことばはすなわち大神の御意志と拝すべきである。

したがってわれわれは常住座臥つねに平田霊示を想起して、この霊示こそは大神の大御神業達成に対するきびしい愛の鞭であると感佩(かんぱい)(心に深く感じ、忘れないこと)しなければならない。

 またこの霊示は氏子にして会員たるべき同時原則に対するこよなき道しるべと感奮興起(かんぷんこうき)して大御神業につくさねばならないのである。

 

む  す  び

 西歴一七八九年から九九年に亘ったフランス大革命は、ルイ十六世のブルボン王朝から自由民権を獲得する大運動であった。

 終戦後、わが国民は占領軍から民主々義の名において大巾の自由を与えられた。

自由ということは、古くからあることばであって、『広辞苑』によれば「大宝令(たいほうりょう)」や「日本書紀」には任意、随意、自慾、自専、ほしいままの意に用いられたとあり、心のまま、思う通りということである。英語ではリバーテー(Liberty)といっている。

 しかしながら義務の伴わない自由は、気儘勝手、気儘放題という自由放埓(ほうらつ)(気ままに振舞う)になりかねないのである。戦後の民主々義は克ち取ったものでなく占領軍によって与えられたものであるだけに、自由には義務を伴うという本来の自由の意義からはるか逸脱して、むしろ放埓に近い面が多分に見られるのである。(ここに民族魂の失われたみにくい姿がある)

 また自由には、求める自由すなわち何かしたいという自由と、逃れる自由すなわちいやなことから逃れたいという自由とがある。

 逃れる自由のうちには、労働、奉仕、義務規制、伝統、過去、家族、他人から逃れようとする自由がある。

 したがって御神業に奉仕しようとするのも自由なら、御神業奉仕から逃れたいこともひとしく自由ではあるが、人間は逃れたいという自由だけでは決して幸福になれないことも真実である。

 御神業に努力するのもしないのも自由ではあるが、われわれが神のみいつのもとに真に自由であるためには、御神業に対して努力すべしという大神や平田先生の至上命令にも比すべき義務を果さねばならないと思う。

 信仰というものを、「間違った信仰によって人をあやまらせないように、正しい信仰態度というものを万人に教えて、一つの信仰の対象、信仰すべきものを考えて、これを信仰しておれば、人間の生活をあやまらないもの」と定義すれば、この範躊(はんちゅう)に入り得るものは日本人としては当然四魂具足という絶対の善を根幹とする氏神信仰以外にはあり得ないのである。

 かっての御啓示に「神界では、この信仰を世に宣布する心のあるものとないものとを区別して守護して来た」とあるのをみても、御神業に対して努力するという義務を果してこそ、信仰生活における自由があると同時に恩頼を蒙ることができるのである。

 また人間には欲望というものがある。

 欲望は人間の本能的のものですらあるから、いちがいに否定し去るべきではないが、欲には純然たる私欲或いは我欲と公欲とがある。したがって欲望はどこまでも公欲の混じった欲望でなければならない。換言すれば公欲に裏打ちされた私欲ということである。この点に関し或る社会学者はおよそ次のように述べている。

 『人間の欲望に三類型が考えられる。その一は、自分と家族の生活を維持するための最低の生理的欲望であり、その二は、そうした生理的欲望を超えての、人並みの、或いはそれ以上の生活を営みたいという欲望、その三は、創造的意欲であり、世のため人のために奉仕したい、役に立ちたいという欲望である。

 第一の生理的欲望は飽和度は低く、その欲望が充足されれば速やかに逓減を見るのであるが、第一から第二の欲望に進むときは、人並みでありたいというその欲望は、多くの場合、足るを知って分に安んじるというわけにはいかない。五万円の月収の人は八万円の人を羨み、十万円の人は二十万円の人と対比して、自らをこれでよしとしないのが習わしである。かくてそこにつねに附きまとう不足感は、やがて逞ましいまでの強欲と嫉妬に転化し、ついには対立抗争の修羅場を招来することともなるのは必至である。

ところが第三の欲望は趣味、創造、奉仕という最も望ましい人間らしい姿であるが、遺憾ながら第一と第二の欲望に比して質的にもまた量的にも弱く少いというのが事実である。

したがって第三の欲望は、自分の理想に対する自分の能力、あるいは努力の差の開きということが問題となってくる。そこで第三の欲望を充足させるために、一方では努力主義を促し、他方では自分なりに懸命の努力を果したという満足感から生じる心の落ち着きや、心のやすらぎを伴うことが多い。この意味において第三の欲望は、高き文化の母胎であるともいえよう』

 消費生活の高度成長によって拡大した余力は、第二の欲望に向うか、それとも第三の欲望に向うかということは、日本の将来に対して大きな曲り角をなしている。

 今日の社会状勢は、もっぱら第一の欲望から第二の欲望の充足へと、人を刺戟するのみであって、いちばん大切な第三の欲望の充足などは、とんと顧みられないのである。すなわち第二の私欲だけの充足に血道をあげて第三の欲望という公欲の面にまで達し得ないのが現状ではあるまいか。

 第三の欲望こそ、四魂具足を絶対の善とする敬神崇祖の氏神信仰を日本国内にあまなからしめんとすること、すなわち八意思兼大神の依さし給える大御神業に対する努力そのものである。

惟神会の使命は、この第三の欲望という公欲のもとに惟神の大道を宣布して、民族的自覚を喚起し、日本人を民族愛、祖国愛をとおして天皇崇敬にまで推し進めることである。四魂の信条の各項はすべて奉仕という第三の欲望をいいあらわして、その実行を促しているのである。

 世界はいま核時代に突入している。人類は果してこの核時代を生き抜くことができるであろうか、もし第三次大戦が起れば、それは従来の形式による単なる戦争でなくて、人類の滅亡をもたらす核戦争であろう。

 日本の国防は、安保条約によって他国に依存しているかぎり、日本といえども第三次大戦の危険の蓋然性(がいぜんせい)(起こるか否確率)から免がれ得まいと思う。(わが図は国防の主力を安保条約のもとに他国にゆだねることによって得られる巨大な国防費の削減は日本の産業経済の高度成長に大いに貢献した)

 しかしながら、日本民族は一触即発の危機にある核戦争を阻止する推進力となるべきである。世界における核爆発の最初の被害者は日本である。この役割りは日本民族に負荷された民族的使命と思う。

 われわれが核時代を生き抜くためには、四魂民族としての確固たる自信と自覚を待たなければならない。民族的自信なくして世界平和を唱えたところで、それは絵にかいた餅のようなものであろう。

 しからばいかにせば民族的自信と自覚が得られるかということである。

 ここに惟神会の重大な使命が厳として登場してくる。すなわち氏神信仰によって日本民族生成の由来を究め、四魂民族としての一霊四魂という民族魂の四魂具足的はたらきを促して、信仰の中心と国家の中心とが一致することにより、真の民族愛、祖国愛をとおして天皇崇敬の心が、醸成凝結(じょうせいぎょうけつ)

(醸し出して固める)して、そこにはじめて日本民族としての自覚と自信がよみがえってくるのである。原水協などが世界平和を唱えたところで、それは全く民族的自覚と自信を欠いているので絵にかいた餅のようなものである。

 まことに大東亜戦争に対する遠因近因の解明は区々(まちまち)さまざまであるが、おそらく百年の後において史家は史家らしく結論を下すであろう。

 しかしながら日本が伸びるためには、大東亜戦争はやむを得ざる悲劇的、宿命的な(いばら)(人生の苦難)の道であったとする論も行なわれているのである。思うに明治維新以来日本の百年間の歴史というものは、日本の近代化を推し進めて日本が世界史のなかの日本として登場するためには、極東の一民族として当然負荷せざるを得なかったものであったであろう。

 いみじくも故和辻哲郎博士は昭和十二年の夏、日支間の不幸な衝突事件の直後、「日本は近代の世界文明の中にあって、極めて特殊な地位に立つ国であり、二十世紀の進行中には、おそかれ早かれ、この特殊な地位に基づいた日本の悲壮な運命は展開せざるを得ない。或いは既にその展開は始まったのかもしれず、日本人は自ら発展を断念しないかぎり、この悲壮な運命を覚悟しなくてはならず、軍事的な運動を起すと否とにかかわらず、この運命は逃れうるところではない」と論じたのである。もともと日本民族は、天孫民族、四魂民族として神代の昔、民族生成の当初からすべて平和を基調として生成発展弥栄かの末広がりの歴史を歩み続けてきた民族である。

 しかしながら明治維新以来百年間というもの、極東の一民族たる日本民族は、世界の一民族として世界史に登場せざるを得なくなったのである。日本民族本来固有の平和的生成発展弥栄かを期するという民族思想は、儒仏の影響を受けて、四魂具足の真の惟神の大道が影をひそめて地におちているために、四魂不具足的な手段方法によらざるを得なかったので、日本のこの百年間の歴史は、不幸にも悲劇的なものに満たされざるを得なかったのである。

 換言すれば明治維新以来、百年の歴史は、真の惟神の大道が儒仏にとってかわられたために儒仏的なあるいは神仙的な三魂的悲劇の歴史であったのである。

 いまやわれら日本民族は、極東の一民族でなく、世界史を構成する有力な分子としての日本民族である。

 かくあるためには、前述のように、何を措いても四魂民族的自覚と自信を堅持することが先決問題である。しかもこの自覚と自信は単なる附焼刃であってはならない。心魂をゆさぶっての自覚であり自信でなければならない。この自覚、この自信を心魂に徹してもたらすものは、四魂具足の惟神の大道に基づく敬神崇祖の氏神信仰だけである。今後の日本の発展は、四魂具足の真の惟神の大道に基づくところの平和を基調とした生成発展弥栄かでなければならない。

 惟神会の使命の最重要な点は実にここのところにあるのであって、かく使命達成をめざし忠実に努力するところに偉大な御神威を着実に蒙ることができるのである。氏神という世界一高貴な神を奉斎するからには、おのれ自身に対しては、非常にきびしいものがあって然るべきである。ご利益本位の氏神信仰であってはならない。おのれを責めることきびしいものがなければならない。

 大御神業に忠実に正しく努力するところに御神助があり、また御神助のあるところさらに御神業に献身奉仕せざるを得なくなり、かくて御神業への献身と御神助とは、果となり因となって、いよいよますます氏子たると同時に会員であるという同時原則の貫徹を期することができて、身心共に、みいつのまにまに、ゆたかになり得るのである。

 「神に二言なし」、「稜威信じて疑わず」諸氏は惟神会の使命の重大さに思いを新たにして、大神の大御神業のために勇躍奮励努力しなければならない。

 かく努力することが、惟神会も栄え、日本の国家社会も栄え、結局、氏子自身の繁栄をもたらすことになるのである。

                                        以 上

戻る