生 活 の 信 仰 【36年11月号】 P08
惟神会委員長 川 俣 均
生活には、公の生活もあればまた私の生活もあり、さらにまた万人に共通した家の生活、町の生活、村の生活というものもあります。
商人であるとか、農民であるとか、官吏公務員であるとか、会社の勤め人であるとか、それぞれ違った職業上の生活もあります。
そうかと思うと、右のような生活そのものを営む生活がある反面、生活の精神や生活の組織に働きかけることに専念する生活もあります。宗教家、思想家。教育家、政治家などのたぐいです。
このようなさまざまの形の生活が、つねに、
美しく
正しく
明るく
そして幸福でありたいことは、万人のひとしく希求するところです。
みにくい生活、不正におおわれた生活、暗い生活などに、幸福は見出されないのです。
ですから、どうしたら生活を
美しく
正しく
明るく
そして幸福にすることができるかについては、それぞれ工夫や努力や修養などが必要とされるのです。
しかしながら、修養や努力や工夫といっても、帰するところは結局心の問題です。しかも心の問題は、魂の問題を離れては解決されないのです ところがわれわれの魂は、氏神から授かったものですから、心の問題は、結局、魂を通して氏神にまでその解決の方法を求めざるを得ないのです。
してみれば、つねに、美しく、正しく、明るく、そして幸福であるためには、心の問題の解決に不可欠な魂の問題を、氏神信仰によって解決するより外には方法がないのです。
そこでわれわれは、この氏神信仰を、われわれの『暮らしのなかの信仰』として進めて行きたいのです。
これが『生活の信仰』です。信仰とは、神のみいつを信じ切って、その神格を仰ぎまつり、一切を神に帰一(全てを一つに)して他を顧みないことです。
ですから信仰は、つねに身近かにあるべきであって、決して手の届かぬ高嶺の花であってはならないのです。
信仰を身近かに持つということは、むずかしい理論などをこねまわさなくとも、誰れでも進んで自分の魂を神に捧げて、神のふところに飛びこむことでなければならないのです。われわれの遠い古代の先祖は、信仰と生活とが一体となって、暮らしのなかの信仰にいそしんでいたのです。
すなわちわれわれの遠い先祖は、古代において、敬神は崇祖にありという真の氏神信仰を生活の信仰としていたのです。
この氏神信仰に対しては、むずかしい理論や観念論を必要としなかったのです。ただ厳然として犯かすことのできない神掟だけが生活の信仰を支えていたのです。
われわれ日本人は、昔から言挙げしない民族といわれているのです。
言挙げしないということは、『かれこれ論議して、言葉に出して言ひ立てないこと』であります。
ですから、わが民族固有の信仰である氏神信仰は、一言にしていえば、四魂具足という『まごころ』につらぬかれている、きわめて素朴(かざりなくありのまま)な信仰です。
われわれは、この素朴な信仰を代表している造型美として、伊勢皇太神宮の建築を挙げることができます。また下っては、氏神や祖霊を奉鎮する本会所定のお?の型式においても、わが民族信仰の素朴な精神美が打ち出されているのです、
もともと日本民族は、どちらかと申せば、実証的民族です。実証的ということは、単に思考によって論証するのでなく、経験的事実の観察や実験によって、積極的に証明されることをいうのです。それは、『論より証拠』という古い諺で言い表わせれているとおりであり、認識論の上に立つドイツのカント哲学が、日本で育たないのは、実証的な日本民族性と相容れないからだと思われます。強いて申せば、日本民族性は、英国流の実証主義的立場をとるものです。
再言しますが本会の氏神信仰は、言挙げしない素朴な実証的信仰です。したがって、まず理論より実践であり実証でなければならないのです。もちろんどんなに言挙げしない素朴な実証的信仰と申しましても、そこには、脈絡としてつらぬかれている一連の信仰理念を無視するわけにはまいりません。
この信仰理念を要約すれば
@祖先崇拝を通して祖神である氏神を信仰する。
A祖神の神格である四魂具足を目ざして四魂具足に努力することが氏神信仰の根幹をなしている。
Bこの氏神信仰は、八意思兼大神を中心として展開されなければならない。
このように氏神信仰は、素朴な言挙げしない実証的信仰であるにも拘らず、ともすると強いて言挙げして批判的となり観念的となって、信仰と生活とが水と油の如く遊離するようでは、これは明らかに日本民族性に反した行き方でありまして、生活の信仰とは申されないのです。
御承知のように、われわれ日本人の魂は、すべて氏神から授かったのです。しかもこの魂は、四魂具足し得る素質を有する魂ですから、この魂の授け祖である氏神に対して、絶対の信仰を捧げるならば、われわれの魂は、漸次、四魂具足というまごころによみがえってくるのです。
この氏神信仰による四魂具足へのよみがえりが、すなわち生活の信仰であり暮らしのなかの信仰です。そこには、いささかの理屈も批判も必要としないばかりか、それらはむしろ大いなる妨げでさえあり得るのです。
ただ要求されるのは、素直さと反省だけであり、素朴な民族的情操だけです。
およそ信仰とは、これを熱心に続けるならば人としてあるべき道を踏みはずさず、しかも生活が美しく、正しく、明るく、そして幸福になるものでなければならないのです。人とあるべき道ということは、説く人によってさまざまでありましょうが、それらはすべて相対的の美です。人としてあるべき道とは、四魂具足という絶対の善でなければならないのです。
このように人とあるべき道は、充ち満たすべき道であるところの四魂具足です。四魂具足の存在である氏神を信仰し、しかもこの氏神信仰を、生活の信仰としていそしむならば、道は漸次充ち満たされるのです。
美しいということは、まず心の美しさが、外部に表現されることです。心が美しくなれば、顔かたちも自然と美しくなるのです。また身辺のたたずまいも、それにつれて美しくなるのです。服装にしたところで、いたずらに高価だけの華美な美しさでなく、質実であってキチンと整った清楚な清々しい美しさが望ましいのです。狭い家、小さな古い家屋であっても、住む人の心が美しくあれば、つねに掃除も行き届き、家具調度の類もそれぞれ所を得て乱雑にならず、家の内外は整然とした美しさになるのです。
正しいということは、不正の反対です。他人に対して不正であることは、自分自身に対してもひとしく不正であり、もちろん四具具足の正反対です。
まごころのあるところには、いささかの不正も存在しないのです。いまの世の中には、正しからざることが、如何に多く、且つ如何に後を絶たないか、まことになげかわしいかぎりです。
次に、明るくあるためには、まず手近かの日常生活に対する心構えを必要とするのです。心構えとは『心に待受けて、つねに用意を怠らないことです』一口に心といっても、それは氏神から授かった魂の問題ですから、心を明るくするためにはまず第一に、氏神信仰によって自分の魂の清浄化をはからなければなりません。そしてそれと併行して、まず自分の家を住みよい所にするために、お互いに協力して気持よく日常を送るように努めなければなりません。氏神信仰によって、自分の心を明るくし、また家そのものを明るく気持ちよく整えるならば、自然と家の中の人たちの心も明るくなるのです。
この明るいということは、聖人君主や難行苦業する人のような、自分ひとりよがりの超然的明るさでなく、いわば、ものにこだわらない心、むやみに押しつけられない心、自由(秩序ある自由)にのびのびと育った心で、日常生活を送ることです。
明るさというものは、何かむずかしいことをしなければ、もたらされないものであってはならないのです。結局、平凡の人が、平凡にもたらすことのできる明るさでなくてはならないのです。
ここに生活の信仰、暮らしのなかの氏神信仰の在り方があるのです。
このようにして、暮らしのなかの氏神信仰を、倦まず(怠けず)、たゆまず、言挙げせず、素直にそして素朴に、しかも反省を忘れないで続けて行くならば、そこには、美しさ、正しさ、明るさに包まれた「幸福」というものがもたらされるのです。
そこでこの「幸福」ということですが、これを一個の主観に求めて、頭脳の働き一つで、幸福になったり不幸になったりするのでは、それは幸福感の後退と申すべきです。はたから見て、どんなに満足そうな生活であっても、その人にとっては必らずしも幸福ではないかもしれません。またどんなに貧しい生活に見えても、その本人にとっては、幸福そのものであるかもしれません。
ですから、真の幸福というものは、現実の生活と感情との必然的な結びつきを度外視しては成り立たないのです。
現実の生活を不幸にさせておいて、頭の作用だけで「幸福と思え」といったところで多くの人は決して「なるほど幸福だ」とは思わないでしょう。
ですから、真に幸福であるためには、近代科学の発展を取り入れた現実生活の向上と、その向上して行く現実生活を支える、一大支柱として、心の美しさ、正しさ、明るさが不可欠の要件となってくるのです。
まことに、近代幸福観は、科学の発展を取り入れた現実生活の向上充足に集中されているのですが、若しもこの幸福観が単なる物的幸福観に終始して、心の美しさ、正しさ、明るさという心の支えがないならば、そうした現実生活だけを目印とする幸福観は、うたかたの水の泡のように消えさることは必然でありましよう。
さて、近代科学の発展を自己の現実生活の向上充足のために取り入れることは、即ち幸魂の働きに帰するのです。
しかしながら、奇魂、荒魂、和魂の三魂の働きと渾然一体化しない、幸魂だけの働きは、よそ目には
幸福そうに見えても、結局、不幸を招来することとなるのです。
このように現実の生活と心との必然的結び付きを度外視しては、幸不幸の感情を持つことはできないのです。既に幸福であるためには、奇魂荒魂和魂の三魂を裏付けとする幸魂の働きによって近代科学を取り入れて現実生活の向上充足をはかると同時に、四魂具足というまごころ一篇に、心を美しく、正しく、明るく豊かにして、現実生活と心との固い結び付きを忘れてはならないのです。
すなわち氏神信仰を、生活の信仰、暮らしのなかの信仰としなければならない所以です。
氏神信仰を、批判的観念的に考えたり、またよそ行きの信仰と考えたりして、生活の信仰暮らしのなかの信仰としないところに、生活の行きづまり、心の破綻があるのです。
氏神信仰は、日本民族固有の信仰ですから、日本民族性をよくわきまえて、言挙げせず、素直にそして素朴に、しかもつねに反省を怠らないで、生活の信仰、暮らしのなかの信仰として倦まず、たゆまずいそしむならば、必らず真の幸福が訪れるのです。
また氏神信仰は、生活の信仰、暮らしのなかの信仰ですから、かりそめにも四魂具足することを妨げる罪けがれに対しては、自分中心の立場から一歩踏み越え、氏神や祖霊の立場を拝察して祓い清めるべきです。
さらにまたこの氏神信仰は、生活の信仰ですから、国民全体の四魂具足的幸福を念願なされる八意思兼大神さまのお立場になって、御神業発展のために献身努力しなければならないのです。
社会といっても、それは個人個人の集まりに外ならないのであって、個人なしには社会という集団はあり得ないのですから、社会という集団を幸福にさせるためには、結局個人個人が幸福にならなければならないのです。個人個人が不幸であって、社会という集団が幸福である道理はないのです。四魂具足の信条の各条をとりあげてもその前段のくだりは、個人個人が幸せになる方法を教え、信条の後段のくだりには、個人の幸せを土台として社会国家のためにつくすべきことで結んでおります。真の幸福は、現実生活と心との必然的結び付きをもって自他一体が幸福とならなければならんことを教えているのです。
このように、生活の信仰、暮らしのなかの信仰は、現実生活と心との必然的結び付きによる自他一体の幸福を信条とする四魂具足を基調とし根幹としているのですから、かりそめにも自分中心の抱え込み信仰になってはならないのです。
民族信仰たる氏神信仰は、他人行儀の信仰ではなく、それこそ宗教以前の『生活の信仰』です。
「暮らしのなかの信仰」です。
氏神信仰は、決して、敬して遠ざける信仰でなく、祖神と氏子、先祖と子孫という一連の親子関係の上に立っている信仰ですから、そこには親しさ慈しみという切っても切れない強い絆によって結ばれているのです。
この意味においても、氏神信仰は、生活の信仰、暮らしのなかの信仰ですが、親しきなかにも礼儀ありのことばどおり、厳然たる神界の神掟によって、きびしい秩序は固くこれを守らなければならないのです。
稜威信じて疑わずということは、氏神信仰をば自他一体の幸福を念願としながら、生活の信仰として、神掟のまにまに、実践躬行(口でいう通り、自ら行う)するところに達成されるのです。
(昭和三十六年十月八日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)
以 上