祖  霊  の  座   【35年1月号】 P14 

 

惟神会委員長 川    俣       

 

は  し  が  き 

 祖先を崇めるということは、日本人の本能ともいうべきものです。キリスト教が毎年莫大の宣教費を使っても、布教が容易でないばかりでなく、信者が漸減の傾向にあるということですが、その原因は、恐らくキリスト教では崇祖ということを認めないからだと思います。また仏教がわが国に渡来して、今日のように広く布教されたのは、日本人の祖先崇拝の本能的在り方と結び付いたからではないでしょうか。この点について、京都大学教養学部柴田教授は、「日本宗教史講座」の「祖先崇拝の源流」の項において次のように述べています。

 『仏教も、それがわが国に受容れられるに当っては、その社会の基礎をなしている氏族組織をその地盤とし、氏族の信仰の核心をなす祖先崇拝の習俗に結びつくことによって、はじめてその根を民衆の心の中に張ることが出来、それは固有の神祇崇拝とは一見別の信仰の如く見えても、決して全く異質のものではなかった。』

 また新宗連の大石秀典氏は、 

 『明治以後、新らしく興ったいわゆる新らしい宗教というものは、仏教を名乗っていようが、神道を名乗っていようが、全く新しいものであろうが、全体に共通する特色は、仏教渡来以前に日本人の持っていた民族性(もし、これを古い日本の神道といえば)そういうものの復活が、全部その根幹にある』といっています。仏教渡来以前に日本人の持っていた民族性―日本の古神道といえば、敬神は崇祖にありという真の氏神信仰に帰着せざるを得ません。

このことは決してひとりよがりの牽強付会(けんきょうふかい)(こじつけ)の言ではなく、天孫降臨の御神勅をよく味読して日本民族生成の由来に想到(色々考えた結果、その点に考えが及ぶこと)すれば、当然うなづかれるところです。

天照大御神は、御孫ニニギノ命に対して、

此の鏡は専ら我が御魂として、吾が(みまえ)(いつ)くが(ごと)伊都岐(いつき)奉れ」とみことのりされたのです。

 敬神崇祖という語は、わが国では広く用いられておりますが、多くは敬神と崇祖とは全く別個のもののように考えられているのであり、敬神と崇祖とは決して可分のものでなく、不可分です。

天孫命(すめみまのみこと)が 天照大御神を斎き祀ることはすなわち敬神であり同時にまた崇祖でありまして、ここに敬神は崇祖にありという日本民族固有の民族信仰の厳然たる姿があり、皇室におかせられましては、皇霊殿に代々の天皇の御魂を斎き祀ると同時に、賢所には天照大御神の御魂を斎き祀って、天皇御自ら、敬神は崇祖にありという真の日本古神道をおごそかに実践せられているのです。

本会における氏神信仰は、肉体の親として先祖の霊を祀ると同時に、その先祖の魂の授け祖(おや)として氏神を斎き奉って、敬神は崇祖にありという真の氏神信仰であり僭越ながら、民間におけるただ一つの日本古神道です。

 ここに祖とは、ただ祖先を崇敬し、祖先を追慕することではなく、必ず祖先をまつり、祖先を礼拝する儀礼を伴わなければならないのであり、換言すれば、個人がただ観念的に心理的に祖先を崇敬するのではなくて、現実的に形の上において祖先を祀って、これを崇敬することでなければなりません。

                               

祖 霊 奉 斎 の 意 義

 われわれがなぜ祖先の霊を祀らなければならないかという主なる理由におよそ次の三つがあります。

 第一に、われわれが今日あるのは全く祖先のおかげですから、報恩感謝の意味から祖先の霊を祀って、霊界において浄化され、安楽な霊界生活を送って頂きたいからです。

 第二に、自分の家が、いつまでも続いてもらいたいという切なる願望からです。

 家の永続性はすなわち人間生命の永続性であり、人間が存在するということは、「死ぬ」ということにほかならないのです。

 長生の希望と必死の現実との矛盾衝突は、人生における不安と苦悩の永遠の命題であり、この命題の解決を、祖霊祭祀に求めようとするのです。

 つまり現世の子孫が霊界の祖先の霊との交流を断たないところに、生命の永続性を見出すと同時に、家の永続性が存在するのです。子孫をもたない死者の霊が、しばしば たたり わざわいをするというようなことも、永続性が断たれたことに対する人びとの不安な心の現われではないでしょうか。

 限りある生命が祖霊として霊界生活に入り、その祖霊は、幾段階かの霊魂浄化の過程を経て、ついに個性から脱した清浄無垢の魂となり、人間の本霊(意識霊―第二霊)となって再び生れかわることによって、ここに生命の永続性が見出されると同時に、家の永続性が実現されるのです。

 第三には、祖先の霊が浄化する   過程の中でその家の守りの祖(みおや)として、その家を夜となく昼となく守護して頂きたいからです。

 故岸会長先生も、この第三の問題について、次のように述べてます。

 『私共は最初祖霊を奉斎する時には考へ違いをして居た吾々に祖霊を奉斎せよと云はれる理由は吾々の最近の祖先を奉斎して先祖の霊を浄化せしめ神界に於て安楽の霊生活を得せしめて崇祖報恩の行をせんが為めであるとのみ考へ、祖霊達が浄化することによって神と人との間に立って氏神の御神威を現はし下さるものとは思わなかったのである(「国教」第59号―昭和8年7月号―氏神と祖霊の項9頁)

 以上申し述べましたように、祖霊奉斎の意義は、およそ三個条に集約されますが、この三つのうち、いちばん大切なことは、第三の項であり、第三の項目が解決されるならば、第一、第二の項目は自然に達成できるのです。

 この祖霊祭祀の三大項目を解決するためには、なんとしても敬神は崇祖にありという真の氏神信仰が絶対的条件となってくるのです。

 申すまでもなく、われわれ日本人の魂は、氏神から授かったものです。従って、祖先の霊もまた氏神から授かったのでありますから、祖霊祭祀の三大項目を解決するためには、換言すれば祖霊の浄化をはかるためには、祖先の霊魂(本霊又は第二霊)の授け祖である氏神のみいつにすがるほかはないのです。

 何を好んで大切な祖霊の浄化を、真の氏神以外のものに任かせる必要がありましょうか。

否、氏神以外には、われわれ日本民族の魂を浄化することはできないので、氏神は、人間の魂をつかさどるはたらきをなされるただ一つの神霊です。人間が死ねば、魂は氏神に引取られて浄化され、また人間が生まれる瞬間に魂を入れて下さるのも氏神です。

 真の敬神崇祖の信仰が、顕幽一貫の信仰であるというのも、実にここのところにあるのです。

再言しますが真の氏神以外に、人間の魂を司って、これが浄化をはかることは絶対にできないのであります。

 昭和八年十月二十日の神人交通に

問  天孫降臨に賜った天照大御神の御神勅の以前には崇祖の観念はなかったとし宜しくありますか

答  ないとして宜しくあります

とありますように、ニニギノ命が高天原からこの国に天降りましたときにはじめて、敬神は崇祖にありということが教えられたのです。そしてニニギノ命の第一世の御子神たちが、当時の先住民族を天孫系の民族にまで同化(どうか)(異なるものが同じになる)されるという大神業が開始されて、ここにはじめて大和民族が出現したのですからニニギノ命の第一世の御子神たちは、われわれにとっては 氏之祖ノ神でありまして、今日氏神と申し上げているのです。したがって、われわれの先祖を先きへ先きへとさかのぼっていけば、当然この氏神にまで到達せざるを得ません。

 しかもこの民族同化という大みはかりをはじめられたのがニニギノ命と共に高天原から天降られました八意思兼大神さまであられることを忘れてはならないのです。

 大神さまは、「思兼神は前(みまえ)の事を取持ちて政(まつりごと)を為せ」との天照大御神の御神勅に応えまつらんがため、智恵の神、政治の神としての御機能をはたらかせられて、先住民族を天孫系の民族にまで同化するために、ニニギノ命の第一世の御子神たちをしてこの民族同化の大神業に当たらせられたことと拝察申し上げます。

 ですから祖霊奉斎の意義は、民族同化という八意思兼大神さまの大神業のなかに見出されるのです。

 

祖  霊  の  座

 

祖霊の座ということは、氏神に対して祖霊のおられる立場、或いは場所という意味であり、この祖霊の座を中心として、祖霊のはたらきに関するさまざまのことが出てくるのです。

 祖霊は氏神に対しては、相殿の座におられるのです。相殿ということは、主神に対していう言葉です。伊勢皇大神宮におきましては、天照大御神が主神であられ、八意思兼大神と手力男命がその相殿の神であられました。本会では、主神にまします 八意思兼大神に対して、氏神委員長神、副委員長神、並びに平田篤胤大人命が相殿に鎮まられております。

 伊勢皇大神宮や本会の場合におきましても、主神と相殿神とはその上下に相当の隔たりがあり、われわれの家庭におきましても、主神の氏神と相殿の祖霊との間には相当の隔たりがあります。

人霊はどんなに浄化しても、霊の本質を異にするために、たとえ神格は得られても、絶対に神さまにはなれません。

 ですから祖霊の座は氏神の相殿としてはじめてその機能を発揮できるのです。氏神は、人間の魂を支配される神です。人間が死ねばその魂を引取られてその浄化を指導され、人間が生れる瞬間には魂を入れて下さるのです。また人間が生きている間も、その魂の浄化を導いて下さるのです。いうならば民族同化のはたらきをなされるただ一つの御存在の神さまです。従ってきびしい四魂具足そのものの神さまでありますから、四魂具足することだけが、神人感合を許される条件なのです。

 ですから、大神さまの御神示にも、「非義の願は神の一顧をも得べからず」とあるのです。ここにいう神とは、もちろん氏神さまです。非義の願いとは、四魂不具足の願いです。

 平田先生の御訓示にも「四魂に叶ふた願ひは、全体の万分の一にも足りないのである」 とありますが、万

に一つということは、殆んど零に近いということです。

 氏子自身では四魂に叶った願いと思っても、氏神さまから御覧になれば多くの場合四魂不具足の願いとなってしまうのです。氏神さまの四魂のワクはわれわれ人間の考えるよりも相当きびしいようです。

 氏神さまに四魂不具足の願いをすることは、結局神を使うことになり、非礼これより甚しきはないのであり、神は絶対に人間には使われないのです。

 そこで 四魂具足 の氏神さまと人間との間に立って、仲取り持ちの役をせられているのが人霊である祖霊です。

 昭和八年二月二十一日の神人交通に

 問、 氏神様と人間との間には、大いなる処世上の差異がありますが、その間に立って慟かるるのは祖霊様でありますか

 答、 祖霊である

とありますように、家庭上の個人的なことなどすべて処世上のことは祖霊のはたらきによって処理されるのです。八意思兼大神さまの手足となって民族同化という最高のはたらきをなされる氏神さまは、人間の処世上のことなどには決して 直接 お手を下されず、すべて祖霊をしてはたらかせるのです。

 かつて神人交通のあった時代には、人霊であられる平田先生が大神さまと岸会長先生との間の取次ぎ役であられたのです。こうした行き方は、神人交通のない現存においても、おそらくそのとおりではないかと拝察されるのです。

 氏神の方が祖霊よりも数等威力あることは当然です。だから同じお願いするならば、威力ある氏神の方が効き目があるかのように考え、さらにまたどんなことでも氏神にお願いすれば、若し氏神が四魂不具足の願いと判定された場合は、その不具足の願いは適当に祖霊の方へ回付して、氏神は氏子の願いの中で四魂具足に叶った願いだけをきいて下さるから、なんでもかでも、威力のある氏神にお願い申し上げておけば間違いないなどと考えることは、結局神を使うことになるのです。

 神は絶対に人間に使われないのです。また神に二言はないのです。

 神は人間を信用しないとさえいわれるのです。氏神は、魂の祖神(おやがみ)ですが、それだからとて、この四魂円満具足の真神霊を、かるがるしくまた 狎れ(なれ)狎れ(馴れてあなどる)しくお扱いするようなことがあってはなりません。

 そこで祖霊に祈願する場合は、一々事柄を挙げ声を出して申し上げるべきです。

 但し氏神さまに祈願する場合は、神は万事見通しであるから心に念じるだけでよろしいのです。氏神さまに声を出して祈願することは、神を使うことになると、神界からきびしく戒められております。

 ここで御注意申し上げたいことは、このように日常身辺のことを祖霊に祈願するとなると、いかにも

氏神さまを敬して遠ざけるようにも見えますが、万が一にもこのような非礼千万な心になってはならないのです。ということは、前述のように、氏神あっての祖霊であり、しかも氏神さまと祖霊とのはたらきの分野はそれぞれ異なっているのですから、かりそめにも祖霊にだけ頼って氏神さまを敬遠するようになると祖霊は、はたらきたくともはたらくに由ない次第となってしまうからです。私は決して氏神さまに祈願しては、いけないとは申しません。ただこの場合四魂に叶った願いをしなければならないのです。              

 このように祖霊の座は、氏神さまの相殿としてはじめてその地位が確固たるものがあるのです。   氏子たるものは、祖霊が氏神さまの相殿の座としてますますその地位が向上するように、換言すれば、ますます浄化するように心がけなければなりません。

 祖霊が浄化するためには、氏子の氏神さまに対する信仰が向上して、神の御心に叶うようにならなければならないのです。

 それには四魂具足に努力することが先決問題であり、さらにまた四魂具足することを妨げている自分の罪けがれを心から反省懺悔した上で、祓を行わねばなりません。

 祖霊の浄化不浄化は、すべて氏子自身に責任があることを反省すべきです。

この点に関し昭和七年五月二十七日の神人交通の一節を掲げて御参考に供したいと思います。

 問、  ○○さんの祖父○○の霊は、氏神に服従致しましたか

 答、  服従しません

 問、  氏子の信仰が悪いためでありますか、仏教のためでありますか

 答、  本人のためである

 祖霊が氏神さまに服従しないのは、本人の信仰が悪いためであるということから類推しまして、祖霊が浄化しないのは、本人の信仰が悪いからであるということは、この神人交通によって、きわめて明らかです。

     

昭和七年四月三十日の神人交通

 昭和七年四月二十日に次のような神人交通が行われたのです。

祖霊が氏神と交通するには、今日は八意思兼大神の稜威が働かなくては、

交通が出来ないものであ?りますか

そうである

 人間心では、祖霊のお?は氏神さまのお?のそばにあるから、祖霊は氏神さまといつでも自由勝手に交通できるように思われますが、真神霊の氏神さまと人霊の祖霊とでは、その世界が違うために祖霊は自由勝手に氏神と交通するわけにはいかないのです。交通するためには、この御神示のようにどうしても八意思兼大神さまの大みいつが働らかなくては不可能です。

 交通するということは、文字通りいったりきたりすることですが、これを信仰的に解釈すると、祖霊が氏神さまの恩頼(みたまのふゆ)を蒙って段々浄化することにより、祖霊としてのはたらきがますます顕著になることです。

換言すれば祖霊がその家の守りの祖 (みおや) として家族たちを夜の守り日の守りに守護するためには、

氏神のみいつを蒙らなくては不可能であり、しかも祖霊が氏神さまのみいつを蒙るためにはなんとしても

大神さまの大みいつが働らかなくては不可能だということであります。

 ですから、氏子たるものは、つねに八意思兼大神さまの御神恩を感謝申し上げると共に、それに応えまつるところがなければなりません。

 信仰のまことを捧げる それは魂を捧げることにほかならないのです。

魂を捧げるためには、四魂具足のまごころをもって、他を顧みることなく、全身全霊を捧げることでなくてはなりません。

 大神さまのおかげで、氏神さまや祖霊を祀ることができて、さらに四魂具足という絶対の善の道を教えられたのです。

 そして大神さまは、いまもなお、氏神さまたちの総代表として本会にお鎮まりになられ、氏神さまたちを御指導御監督なさっておられるのです。

 みいつの線である天線 は、大神さま―氏神さま―祖霊という一つの大きなしっかりした線につながっているのです。

 冒頭に申し述べたように、敬神は崇祖にありという真の敬神崇祖の道理は、天照大御神が天孫御隆臨の際に賜った御神勅によって、ハッキリと教えられたのです。

 そしてこの敬神崇祖の道理を、天照大御神の御心を体し、氏神祖霊奉斎という現実の形においてわれわれに直接お教え下さいましたのが、八意思兼大神さまです。

ですからわれわれは、日常処世上の事柄を祖霊に祈願する場合には、前掲の昭和七年四月三十日の神人交通をつねに念頭から離してはならないのです。

 さらにまた大神さまの御鴻恩(こうおん)(大恩)に感謝のまことを捧げると同時に、大神さま御出現のいわれを、よく再思三省(さいしさんせい)何回も考える)して、御神業のために、できるだけ努力するところがなければなりません。

 祖霊に祈願して御守護を頂くということは、ひとり自分自身のためだけでなく、大神さまの御神業に対し努力できるようになるための御守護であることを忘れてはならないのです。

昭和七年四月三十日の神人交通は、祖霊のはたらきのもとに八意思兼大神さまの御神業におつくししなければならないということを言外にお示しになっているのです。

 

む   す   び

 日本の古代文化は、縄文式文化から弥生式文化へと移行して行ったものといわれてます。繩文式文化とは、当時使用された土器に縄目の模様があるので斯く名付けられたのでして、狩猟時代とも呼ばれ、当時の民族は(大和民族ではなく先住民族)狩りの獲物を求めて転々と移動し、一個所に定住しなかったのです。従って闘争的であったのです。

ところがこの闘争的な狩猟時代の次に、弥生式文化すなわち農耕時代がはじまったのです。弥生式土器には、穀物のあとが残っていたり、穀物の粒の入っているのもあって農業の時代に入ったことを示しているのです。農耕生活は狩猟と違って平和な生活です。

 この時代は、民族は一定の土地に定住して耕作に従事していたので、こうして人情のしからしめるところ自然と祖霊を崇敬する風習が起ったのです。

 農耕と申しても、稲の耕作であり、しかもこの稲は、天孫降臨に当り、この(とよ)葦原(あしはら)中国(なかつくに)青人(あおひと)(ぐさ)の食物とするようにと、天照大御神から賜ったものです。

 按ずるに、天孫降臨と時を同じくして稲作を目的とする平和な農耕時代に入って、そこに天孫系の民族同化が始まり、平和な定住農耕の生活のなかに崇祖の観念が起るに従い、それに基づいて先祖をしてあらしめた祖神(みおやのかみ)を敬うという真の敬神崇祖の信仰が成り立つに至ったと思われるのです。

 ですから、われわれ日本氏族はその成り立ちからして、立派に平和を愛好する民族です。

 敬神は崇祖にありという人倫の大本を教えられたのは、天照大御神でありますが、これはどこまでも道理として教えられたのでして、氏神を祀り祖霊を祀つることにより、この道理を現実の形の上に実践すべきことを教えられたのは、八意思兼大神さまです。

 大神さまは、天照大御神の御神勅の「思兼神は前の事を取持ちて政を為せ」という御付託に応えまつるためには、まず先住民族を天孫系の民族にまで同化することが先決問題とせられて、ここに

ニニギノ命の第一世の御子神たちをして民族同化に当たらせると同時に、次ぎ次ぎと同化された氏族、

すなわち大和民族は、平和な定住農耕生活のなかにその祖先を崇敬すると共に、その祖先崇敬の念は、

当然民族同化の祖神(おやがみ)である氏神さまにまで及んで、ここに真の敬神崇祖が成り立つに至ったのです。ですから、崇祖ということになれば、当然氏神を敬い信仰せざるを得ないのですが、さらにまた   八意思兼大神さまの大みいつにまで想到(そうとう)(考えが及ぶこと)しなければ、真の崇祖の意味はないのです。

 換言すれば、真の崇祖ということは、氏神さまを通して、大神さまに直結しているのです。

 大神さまは、御神業のために手足として氏神さまを求められた、また氏神さまはその手足として祖霊の活動を求められているのです。この意味におきまして、祖霊の活動は、ただ単に氏子だけを守護するばかりでなく、大神さまの御神業につながっていることを、深く心に刻んで頂きたいのであります。

 祖霊の座とは、氏神さまの相殿であると同時に氏神さまの手足であるということです。

 祖霊のはたらきは、氏神さまのみいつを蒙ることによって 可能ですが、さらに その上に、

八意思兼大神の大みいつを蒙ることが絶対的条件となっておりますことは、前掲の昭和七年四月三十日の神人交通によって極めて明らかなところですから、祖霊のはたらきは大神さまの御神業達成のために直結していることを忘れてはならないのです。

 換言すれば、祖霊の座は、氏神のみいつ、八意思兼大神の大みいつを蒙ることによって、はじめて安泰であり活動的であり、また機動的であることを、深く心に銘じて頂きたいのです。

 まことに敬神崇祖、四魂具足のまことのかむながらの信仰をば、国の教えとして示し諭されたのは、天照大御神です。

 そしてこの信仰、この国の教えをば、氏神祖霊を祀ることによって、形の上においてもまた心の在り方においても、実践躬行(じっせんきゅうこう)(自分で実際に行動する)すべきことを教えられたのは、八意思兼大神さまです。極言すれば、大神さまを離れて崇祖は成り立たないのです。

  どうかみなさん、祖霊にお願いする時は、必らず次の神人交通を忘れないで頂きたいのです

  昭和七年四月三十日の神人交通

『祖霊が氏神と交通するには、八意思兼大神の稜威が働かなくば、交通が出来ない』

(昭和三十四年十一月十五日 八意思兼大神秋季大祭における委員長の講演要旨)

以 上

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