真 神 霊 界 の 発 現  【33年3月号】 P08 

 

惟神会委員長 川    俣       

 

いまを去る三十年、昭和三年二月四日すなわち今月今日、畏くも八意思兼大神さまを本会におむかえ申し上げたのです。

 故 岸会長先生は、大神さまのましますことを固く信じ、霊界の平田先生にお願いして、大神さまの

まします場所をお探し申し上げた結果、遂に昭和三年一月五日、平田先生は京都藤の尾の霊地において

大神さまに御面会することができたのです。

 ここに始めて真神霊界の扉が開かれたのです。

 聖武天皇天平九年、勅命により大神さまが伊勢皇大神宮の相殿を去られて、京都藤の尾の地にお遷りなされてから正に千有余年にして、ここに再び真神霊界の門戸が開らかれたのです。

 そこで大神さまは、岸先生の切なる御懇請を容れられまして、その年の二月四日に本会にお鎮まりになられたのです。

 大神さまのお教えを受けるまでは、神仙界(主として三魂の神のいます霊界)が最上位の霊界と信じられていたのですが、四魂具足の真神霊のいます真神霊界こそ、霊界における最上位の世界であることが、つぶさに判明したのです。

 まことに驚くべき霊界諸相の顯現です。われわれが魂の祖(おや)として、真の氏神をおまつりして、信仰の対象はこの氏神さまでなければならないことが判ったのは、全く大神さまの大みいつによって霊界のさまざまの姿がハツキリしたからです。

法律によって、信仰の自由が保証されているからとて、わが国の信仰状態が種々雑多に乱れていることは、霊界の事情が全く判明しなかったからです。すなわち一般の人々は、神仙界以下の下級の霊界があるのを知って、真神霊界という最上級の霊界があることに気がつかないのです。

ですから、世間一般の信仰をつなぎとめるために、神仙界以下の下級の霊界の邪神邪霊たちが、真神霊を目の上のこぶとし、あらゆる手段をつくして、かくろいまつる仕儀に及んでいるということは 多くの歴史上の事実によっても十二分に推察できるのです。

想えば天平九年に、大神さまが伊勢の相殿を去られてから、真神霊界の扉が閉ざされるに至ったのです。天運循環と申しますか大神さまの御出現によって、再び真神霊界の扉が開らかれたのですから、他の邪神邪霊たちに一大恐慌を来たしたのは当然です。

したがってかれら邪神たちは、すきあらばと、われわれ氏神信仰者に対し立ち向ってくるのです。しかもその手段方法は千差万別ですから、いささかもそれらにまどわされることがあってはなりません。

ですから、われわれ氏子たちは、一致協力結束を固くして、強固な信仰心を貫いてかれらに対処しなければならないのです。                          註釈【万葉言葉】(言向け?和さ)    

それには、真神霊の威力をもってかれら(・・・)(侍「まつ」ろわぬ人=従わない者)ことむけ?やわさ説得して?服従させるねばなりません。そうかと申して、みずから求めて邪神邪霊たちに戦をいどんで、平地に波瀾を起すような四魂不具足な()り方はとらないのです。

要はつねに四魂具足に努力して、大神さまの大みいつ、氏神さまのみいつ、祖霊さまの御守護を頂くことにより、確固たる信仰心をいよいよますます高めて、かれら邪神たちをして真神霊に刃向うことの愚かさを悟らせるようにしなければならないのです。

 神が神力を示されるのは、人間が信仰するからです。

 どんなに立派な神さまでも、これに信仰を捧げるものがなければ、御神威は現われないのです。またどんなに下等な邪神でもこれを信仰するものが多いときは、それぞれ特有の神力を現わすものです。

 すなわち邪神邪霊は四魂不具足なるが故に、その神力は不正不義であり、または一時的か或いは詐偽的であるばかりでなく、必らずその報酬を要求し、もし得られないときは恐るべき禍をもって人間に仇をするのです。それにひきかえわれわれは、大神さまの大みいつにより、氏神と祖霊をおまつりして四魂具足に努力するならば、それこそいつでもあとくされのないスッキリした四魂具足の御神徳を頂くことができるのです。まことに幸せと申さねばなりません。

 それもこれも大神さまの大みいつによって、四魂具足の真神霊の扉が開らかれたからです。

 以上のように考えてまいりますと、大神さまは、ただ氏子一家の幸福のために氏神さまをまつらせて下さったようにとれますが、大神さまの大きな御目的は、御神業の発展隆昌にあるのです。

 大神さまが、氏神の総代表として本会にお出ましになられたのは、国教確立という大神さまの御経綸を行わせられんがためです。

 大神さまが、氏神や祖霊を通して、われわれ氏子を幸福にして下さるということは、われわれが心おきなく御神業にお仕えすることができるためです。

 ですから一家が幸福に暮らせるようになればなるほど、御神業につくすところがなければなりません。また御神業につくすようになれば、一家はだんだん幸福になってくるのです。

そうでなければ、千有余年間閉ざされていた「真神霊界の発現」ということは、意味をなさないのです。

 ただここに注意しなければならないことは、御神業につくせば幸せが頂けるものとして、幸福目当ての御神業奉仕では、結果はむしろ逆の場合すらあるのです。

 ということは氏神信仰はどこまでも、四魂具足というただ一筋のまごころに終始しているのですから、御神徳目当ての場合は大神さまの御嘉納を得られないばかりか、そうした不純の動機や目的の信仰態度は、邪神邪霊にとってはいちばんつけこみやすいのです。自分はこんなにつくしているのに、いっこう御神徳らしいものがないなどと、不遜な考えを起すときこそ信仰は氏神さまから離れて手取り早い御利益本位の便宜主義な邪神信仰におちいりやすいのです。

 平田先生の御霊示にも

今集っている氏子達は先覚者であると共に此の日本国家を救済するところの犠牲者であると認めるから自己のことばかり考へずに明道会(惟神会の前身)に於いて四魂具足の惟神の道を研究して万民に教を宣べ伝へる心になって貰いたい日に一分間でもよいから此の心になるように希望するのである

と仰せられているように、われわれ会員は、平田先生お墨付きの先覚者であり犠牲者であることに対して、もういちど深く反省する必要があるのです。

 犠牲ということを、ただ文字通り解釈すると、骨ばかり折ってさしたる御神徳もないまことにバカバカしいことのように考えられますが、真実はそうではないのです。

四魂不具足の邪神たちであるならば、おれのために犠牲になればそれだけの御利益(もちろん四魂不具足の御利益)を与えてやるから、一生懸命つくせというような取引や交換条件めいたものを持ち出しますが、四魂具足の真神霊にまします大神さまや氏神さまは、決してそのような取引や交換条件などは持ち出されないのです。

大神さまや氏神さまの御心は、心からなる犠牲者に対しては、決してそのままには見捨てない、必ずそれ以上のことをしてやるぞとの拝察する?だに(・・)(【副詞】「そう」されるが故に)かたじけなくも温い思いやりに満ちておられるのです。                  

ところが人間というものは、まことに浅ましくも勝手なもので、人のためにやったことに対しては、必ずその代償やら報酬を要求するという、いわば与えて取るというような取引的交換条件の生活慣習を当り前としております。そのためこうした生活慣習を四魂具足の信仰の世界にまで持ちこんで、

大神さまや氏神さまの温い御心がくみとれないのです。

大神さまの御出現によって、真神霊界が発現されたという霊界未曽有の一大転機に際会しながら、犠牲者ということばの真の意味が、信仰的に理解されないということは、とりもなおさずほんとうの信仰に徹していないからです。換言すれば、神のみいつを信じないからです。

神は信じることによってその力を現わすのです。信なくして信仰は成り立たないのです。

人間というものは、 まことに自分勝手なものでして、余裕ができたならばとか、閑があればとか、一時逃れの自己本位の口実でごまかし勝ちですが、そういう人にかぎって余裕もできなければ閑もないのです。余裕とか閑とかいうものは、自分みずからつくり出し見出すべきものです。

ですから、この閑や余裕をみずからつくり出して、御神業のために心からつくすことが、みずからを御神業のために犠牲にすることでして、大神さまは、こうした心からなるまごころこめた犠牲に対しては、決してそのままにはお見逃しにならないのです。必らず氏神さまや祖霊さまを通じて氏子の費した犠牲以上のものを下さるのです。

昭和八年十一月十六日の神人交通に

御神業は絶対服従にて神の御心と合致したる時御守護下さるものと決めてよろしい

また昭和九年七月十三日の神人交通に

氏神等の方でも今日までこの信仰の宣伝の心があるものと無いものと区別して守護した

とあるのです。

この二つの御神示に対して、この際この時、深く深く反省しなければなりません。

本会の氏神信仰は、肉体の親である祖先の霊を通して、魂の祖(おや)である氏神に絶対の信仰を捧げ、つねに四魂具足(四魂の中に幸魂をとりあげている点において、生成発展弥栄の原理を有する真のかむながらの日本神道の姿が厳存する)という絶対善を実践する点において、日本民族としてはいちばん合理的な信仰です。(日本民族の信仰はこの氏神信仰でなければならない)

ところがこのきわめて合理的な氏神信仰において「理外の理」ということがつねに体験されるということは、一見不合理のようですが、これは神と人との相違に基づくからです。

人間はどんなに修業しても、死んでから絶対に神霊になることはできないのです。人霊はどこまでも

人霊でありまして、神霊と人霊とは、その根本において素質を異にするのです。

ですから人間の世界では、理外の理のように見えても、神の世界ではチャンと理に合っているのです。

われわれにとって偶然なことでも、神さまにとっては必然であるのです。神さまと人間とは根本的に素質を異にしますが故に、ただ神さまの世界が見えないだけのことです。

それを浅はかな人間心で、大神さまの広大無辺な大みこころが拝察できず、犠牲になることなどマッピラ御免だなどと、自分勝手な大それた考えを起こして、折角頂ける御神徳を、みすみす取落しているのは、まことに残念であるばかりでなく、大神さまに対して申しわけないかぎりです。

われわれは、大神さまの御出現によって、真神霊界の扉が再び開らかれたという神界の一大転機に対して、もういちど深く深く反省するところがなければなりません。

昭和五年六月二十八日の神人交通に、次のような一節があります。

(岸 会長)日本の国は八意思兼大神の下に真の神様がお集まりになったわけですが将来は必ず日本人の全部が真の神を信ずる時代が来ると信じますが明道会(惟神会の前身)は其の時期を早める為の運動をするものと考へてよろしう御座いますか

(大神さま)よろしい

われわれ惟神会員の使命がどこにあるかということは、この神人交通によっても、極めて明らかです。

ですから、大神さまの御出現によって開らかれた真神霊界の門戸が、かりそめにもすぼまるようなことがあってはならないのです。

一六八柱の氏神さまは、真神霊界にましますのですから、この氏神さまを、いよいよますます沢山世にお出し申し上げることが、開らかれた真神霊界の扉を、それこそ開らきに開らくこととなるのです。

この運動のために、各自が立ち場 立ち場、持ち場 持ち場において努力することが、すなわち御神業につくすことなのです。

真の御神徳というものは、意識的に御神徳を目当てとせず、ただひたすらにこの御神業にまごころこめてつくすことによって、はじめてもたらされるものです。

真神霊界では、千有余年もの長い間閉ざされていた門戸を開らいて、氏子たちが、押すな おすなと

まいきつどう(参拝に集まる)ことを、お待ちになっておられるのです。

まことに恐れ多い表現ですが、いかに四魂具足の真神霊にまします氏神さまと申しましても、氏神さまを信仰する人間がなければ、その御神力を御発揮なさるに由なしとするのです。

われわれは、霊界において最上級にくらいする真神霊界に近づくことのできるまたとない絶好の機会に恵まれているという幸福を忘れてはなりません。

畏くも八意思兼大神さまの御出現によって、真神霊界が発現されてすでに三十年になっているのです。

われわれはこの貴重な三十年間を、どのように過してきたか、しずかにわれとわが胸に手を当てて考えてみようではありませんか。

恐らく自分中心の私利私慾の三十年間ではなかったでしょうか。

平田先生の御霊示に

会員たるものは自己の私利私欲即ち自分の慾を先に解決仕様と思ふ心では会員たるの価値はないのである

とあります。

(はなは)だきびしい御訓示ですが、このきびしさがあればこそ、真の氏神信仰が、まことのかむながらの道といえるのです。

われわれは、無為にしてその日暮らしであった既往三十年をかえりみて、まことにざんきに堪えないのです。

いまからでも遅くない、否いまこそ大和心のとごころを振り起して、大神さまの御神業のために立ち上るべきです。そして真神霊界の発現という八意思兼大神さまの広大無辺な御神恩に対し、心からお報い申し上げるところがなければなりません。

(昭和三十三年二月四日 八意思兼大神奉斎記念祭における委員長の講演要旨)

 

                                         以 上

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