不  測  の  理           【30年5月号】 P16

あてにしないであてにする

 

惟神会委員長 川    俣       

 

      は   し   が   き

さきごろニューギニヤから、生き残りの元日本兵四名が帰ってきて、東京見物がてら、浅草観音までやってきたところ、横を向いて「神仏は信じられません」といったそうです。

遠い南方のジャングルのなかで、十三年もの間トカゲや火食鳥などを食べて飢をしのぎながら、ようやく生きのび、なつかしい故国へ帰ってきた人間の言葉として聞けば、この一言には、いろいろ考えさせられるものがあります。

かのロビンソン・クルウソウの漂流記は、無人島での原始的生活ではありましたが、そこにはユウモアもあり、また生活の建設への楽しみもあったのです。ところがこの四人の生活は、終始敵襲に脅かされながら、戦々恐々として不安にとりかこまれた原始的生活でしたので、つねに生死の淵に立ち、その苦難のさまは同日の談では計り知れないほど大変であったことでしょう。

従って、十数年にわたる苦難のジャングル生活の間には、いくたびか神仏に助けをお願いしたであらうと十分想像されるのです。

そして無事に生きて帰った現在、「神仏は信じられません」というからには、ジヤングル生活で絶望のどん底に落ちて、身も心もヌケガラのようになったため、こうした言葉が口から出たのではないかと思います。あるいはまた、どんなに苦しくとも、一切神仏には頼まず、自力だけで生き抜いてきたので、故国に帰ったということは、単なる偶然のことに過ぎないと割り切った考えからでありましょうか。

宗教というものは『信ずる』という個人的な固い信念から成り立ってますから、これを他人がとやかくいうのはどうかと思います。しかし、信仰を現世的な御利益のためとばかり思いこんで、その願いが叶えられないからとて、神さまの存在を否定するものであれば、それは本当の信仰ではないといえるのです。

戦争中無理な神頼みをして、聞き容れられなかったからといって、神さまを否定するいわれはないのです。信仰する以上は、神に願うことと、人間がやり得ることとを区別する必要があるのです。

世の中には、人間の思案や分別ではどうにもならないものがある反面、人間の力でやり得ることで、

どうしても人間がやらなければならないこともあります。

この区別をよく(わきま)えておりませんと、信仰というものが御利益一点張りになったり、あるいはまた、信仰を否定しないまでも、極めて観念的な信仰に陥るようになってしまうのです。

いつ死ぬか分からないという生死の瀬戸ぎわに立ちながら、十三年もの間苦難のジャングル生活を生き抜いてくれば「神や仏は信じられない」という気持ちになるのは、無理からぬことでして、その心状はよく分るのです。

それというのも、いままでの信仰というものが、ただ現世的な御利益の追求だけに終っているからです。うわべはもっともらしい教義で飾ってますが、その実は、御利益さえあれば、それこそ「信心も鰯の頭から」程度の信仰に陥っているのが今日の実状です。しかもこうした我慾一点張りの御利益信仰は、遠く中古以来、真の惟神の信仰が途絶えた頃からきざしていたのです。

さりとてわれわれは、決して筋の通った御利益を否定するものではありません。宗教に救いが伴うことは、その本質上、当然のことです。

問題はこの救いを、いかにして頂き、いかにしてこなすかという点にあるのです。

なにもかも神まかせという信仰の境地は、よそ目にはうるわしいものですが、この神まかせの在り方は、ともすると、神さまにおすがりすることと、人間の力でやり得るものはやらなければならないということとを混同して、いっさいがっさい、神さまに御負担やら御迷惑をかけるという仕儀に陥るようになり勝ちなのです。

これでは、神さまに対し不敬であるばかりでなく、信仰の堕落です。

もともと人間というものは、依頼心の極めて強い生物でして、この依頼心のために、自分自身を損うのはもちろん、他人にさえ迷惑をかけるようになるのです。

西洋では古くから、イギリスのスマイルズ(Samuel Smiles)という人が、自助論(Self-Help)という有名な本を著し「天は自から助くるものを助く」と唱えて、人間の依頼心を戒めているのです。

また東洋では「人事をつくして天命をまつ」という格言があって、人間として最善の努力をつくすべきことを教え、いたずらなる依頼心をもつことを排しているのです。西洋と東洋との違いはあっても、人間の依頼心に対する警告は、同一の意義をもっているのです。

ここでは、人間の依頼心と氏神信仰における神まかせについて申し上げてみたいと思います。

 

八意思兼大神と氏神との関係 

 

八意思兼大神は、思慮の神、智慧の神、政治の神であらせられますが、本会へは、氏神の総代表としてお鎮まりになられてます。

大神さまが本会へお出ましになられたのは、真の惟神の大道を広く世に知らしめて、この道によって日本の国を建て直そうとなされる大御心からです。

しかも大神さまは、この大神業を成し遂げられるためには、手足が必要であると仰せになり、その手足となるものは、真の氏神であることを平田篤胤先生の仲執りもちによって、われわれにお示しになったのです。

われわれが家庭に氏神を奉齋することができるようになったのは、氏神の総代表として本会に鎮まられる八意思兼大神の大みはかり、大みいつによるものです。

従って氏神は、つねに大神さまの御統率のもとにありまして、一歩たりとも四魂具足の神律から外れることはできないのです。もちろん氏神は、四魂円満具足の真神霊ですから、これに(もと)(そむく)ようなことは絶対にありません。そして大神さまと氏神とのつながりは、完全な四魂具足の神掟によって固く保たれているのです。

こういう次第ですから、氏神は氏子の祈願に対しては、それが四魂の信条にかなわないと判断される以上は、氏神御自身の御神格の上からいっても、また大神さまとの関係からいっても、一顧だになされないのです。また、氏神たちは、つねに大神さまの大前に神集いに集われて、いわゆる神庭会議を開かれて、よろずもろもろのことを御相談なされるのです。

大神は、本会へは氏神の総代表として鎮まられていますが、その御性格は、政治の神であらせられますので、氏神たちとの会議には、氏神の総代表であられるほかに、政治の神としてのおはたらきもなされるのです。

ということは、大神さまは、天照大御神の御神勅により天孫ニニギノ命とともに、豊葦原中国に天降りましてからは、すべてのことをもろもろの神たちと御相談の上決められるという、今日のいわゆる民主主義政治の形をとられていますので 本会へは氏神の総代表としてお出ましになってはおりますが、いろいろのことは氏神会議にかけられてお決めになられるのです。

今日のいわゆるワンマン政治ではないのです。

本会は委員制度の組織であります。重要な責任はすべて、委員会の承認を得ることに規定されておりますのは、(おそ)れ多くも神界における氏神会議の在り方にならっているからです。

このように大神さまは、氏神の総代表であられるお立場にありますので、御神業達成のためには、つねに氏神たちと御相談なされ、ことを運ばれておられるのです。

神庭会議の模様については、われわれのうかがい知るすべもありませんが、かつての本会初期における神人交通から拝察いたしますと、氏神たちは四魂具足のきびしい掟に基いて、氏子たちの願いの筋の是非を御判別なさっておられるのです。

氏神たちが氏子に対して四魂具足以外の願いには一顧もなさらぬのは、氏神御自身の御性格からばかりでなく、総代表であられる大神さまに対する約束から見ても、このようにきびしいのです。

しかしながら、 ものごとというものは、ただきびしいだけでは息もつけないのでして、その間にユトリというものがほしいものです。と申しても、われわれは、氏神に対して人間的なユトリを要求するわけにはゆかないのです。

ところがありがたいことには、われわれ氏子が、四魂具足という(ぎょう)(ふるまい)にいそしむならば、氏神は、御神徳という大きなユトリを下さるのです。

単なる人間的ユトリは、ともすると心のゆるみを招き、折角の信仰心もあと戻りしないとも限りません。さりとて四魂具足の緊張づくめでは、チョットやり切れないというのが、実際情けないことでもあり、また申しわけないことです。俗世間に住む人間の心でありましょう。

それを大神さまは、氏神を通して、御神徳という本当のユトリを下さるのです。

四魂具足にいそしんだからこそ、御神徳が頂けたんだというユトリは、さらに信仰を次の段階にもつてゆく励みともなり力ともなるのです。生理学的に申しても、人間の緊張には限度があり、かならず緊張を解くための弛緩作用が伴うのです。

四魂具足は固苦しいと申したところで、この信条は大神さま―氏神さま―祖霊―氏子を一貫してつないでいるただ一つのみいつの綱です。われわれにいちばん身近かの祖霊たちも、霊界では、つねに四魂具足にいそしんでいるのです。また、それなればこそ祖霊たちは夜の守り、日の守りに家族たちを守護することができるのです。

かつて平田先生の御霊示に、

「人間は生きているうちが花である。死んで霊界に入るとなかなか思うようにはゆかない…。」というような意味のお言葉がありましたが、拝察するに、霊界に入れば、ひたすら四魂の(ぎょう)にいそしまなければならないことを仰せられたことと思います。

大神さまは、氏神の総代表として本会にお出ましになられましたが、その御性格は思慮の神であられますので、人間に四魂具足というきびしい掟のもとに、信仰的緊張を御要求なされますが、その反面、氏神を通じて神徳という緊張を解くところの大きなユトリを下さるのです。ここに大神さまの、大みはかり、大みいつが輝いているのです。

ですから、われわれは、この御神徳という大きなユトリを、さらに次の信仰上向へのふみ台としなければなりません。

ユトリとユルミは根本的に相違いたします。御神徳というユトリがユルミになってしまっては、信仰は逆転してしまうのです。これでは、大神さまや氏神さまに対しまして、なんとも申しわけないのです。

そこで四魂具足にいそしんだ結果授かった御神徳というユトリを、ユルミにまで転落させないためには、御神恩感謝のまことを実行することが大切です。

 

 氏 神 の 本 質

氏神は、われわれの魂の授けオヤであられることは、みなさま御承知の通りです。また死ねば、その魂を引取って、祖霊としての浄化作用にお力を下さることも、みなさまの御家庭において御体験済みのことです。このように氏神は、人間が生れてから死後にいたるまで、われわれの面倒をみて下さるのです。つまり顕幽を一貫して、われわれを導きかつ守護して下さるのです。

氏之祖ノ神を奉齋して、これに絶対の信仰を捧げるならば氏神と人間との間には、このように切っても切れない親と子の関係が生じるのです。それは何故かと申しますと、氏神は、われわれが信仰を捧げなければならない因縁のある神霊であるからです。

生れ落ちると同時に魂を入れて下さる。また死ねばその霊を引取って淨化した祖霊にまで導いて下さる。およそなにがいちばん因縁が深いと申しましても、生れてから死んだ後までも面倒をみて下さることくらい深い因縁はないのです。

ほかの言葉で申すならば、氏神は、氏子の信仰に対して、氏子を指導しかつ守護すべき因縁と理由をもつておられます。真の神霊は、その信仰を()けるべき因縁や理由がなければ、感合なさらぬのです。

氏神という名称は、崇神天皇の御代に、天社国社を立てわけられ、天津神のうち氏族の祖神たるべき神霊を、神社として奉祀されたときから氏神と申し上げたのでして、それ以前の大祖先は、おのおのの家に、氏之祖ノ神をお祀りして奉仕しておったのです。そしてとりたてて氏神という名称はなくても、 氏之祖ノ神として、あたかも親と子の関係にあったのです。

従って神は人間に対して要求することはなくても、人間は四魂具足のまにまに神に奉仕し、また人間は神に祈願などしなくても、神は親が子を慈しむように人間を守護しておられたのです。つまり真の神人一体の状態であったのです。いわゆる同床共殿の信仰であったのです。

神と人間とのつながりは、このように古いものでして、われわれはこのことを大神さまから教えて頂きましたので、氏神と人間との固い因縁の上に立って信仰を進めようとするのです。

今日世界一般の見方では、神というものは、全智全能でなければならないと考えてます。

ところが人間と直接関係があって、しかも現実に認識することができる――いい換えれば容易に人と感合できる神は、決して全智全能ではないのです。

われわれのオヤ神である氏神は、四魂具足の絶対信仰を捧げることによってわれわれ人間と感合し、またわれわれはその神霊の実在を認識することができますが、それだからとて、氏神は決して、全智全能の神ではないのです。

もちろんわが国においても、全智全能の神はあるのです。たとえば天地創造の神といわれる天御中主神などは、天地創造という意味においては全く全智全能の神でして、われわれ人間と間接の関係はあるかもしれませんが、直接の交渉は全くないのです。と申しますことは、宇宙創造の神は、人間・動物と植物というこの世の生きとし生けるものに、最低の線でみいつを下さったのです。

すなわち植物には植物としてだけのはたらきを、動物には動物としてだけの機能を、また人間には人間として必要な活動ができるだけの構造と力を下さったのでして、一言にしていえば、植物も動物も人間もすべて、その生存と種族保存に必要な最低の力を下さったのです。

ですから宇宙創造の神というものは存在しなければならない筈ですが、そのみいつというものは、きわめて普遍的なものでして、特別にわれわれ人間との直接の関係や因縁はこれを見出すことはできないのです。動物には動物の祖神があり、人間には人間の祖神がありまして、この祖神は、宇宙創造の神の下さった普遍的なみいつを、動物は動物なりに、人間は人間なりに特色づけるはたらきをする神です。

人間は宇宙創造の神が造りましたが、この人間が文化や文明を高めるはたらきはすべて祖神のみいつに由来するのです。

世界各民族のうち、民族の祖神がハツキリしているのは、日本民族だけです。

この意味におきまして、氏神は決していわゆる全智全能の神ではないのでして、われわれとは親子の因縁によって直接結ばれる神さまです。

われわれと直接因縁のない神に信仰を捧げて、これを現実に認識しようとしても、直接感応がありませんから、これを認識しようがないのでして、結局、頭の中で観念的に神さまをデッチあげることとなるのです。

ラジオ電波の作用は、従来から存在していたのですが、受信機という装置によってこれをとらえることができるのです。同じように、氏神は、われわれの遠い大祖先の昔から厳存しておられたので、これを四魂具足の信仰によって、確実に認識することができるのです。

 

    あてにしないであてにする

前述のように、氏神は、宇宙創造の神のごとく全智全能の神ではなく、われわれと直接交渉をもつところの因縁のある神さまです。

しかも四魂具足の真神霊であらせられますので、四魂具足を本領として、みいつを発揮せられる神さまです。

ここに直接因縁があるということは、氏神は魂の授けオヤであり、また同時に魂の引き取りオヤであるということのほかに、四魂円満具足の真神霊でありますために、四魂具足の心をもって信仰の心としなければ、真の神人感合が得られないという意味です。

言葉を換えて申せば、氏神は全智全能の神ではないが、われわれがこれに絶対の信仰を捧げるならば、人智を超越したはたらきをなされるということです。

しかもこの人智を超越したはたらきをなされる場合には、つねに四魂具足という物差しに準じてなされるということが、真神霊であられる氏神の特異な点です。

このように氏神と氏子とは、親と子との固い因縁によって結ばれてますので、オヤ神である氏神のみいつを頂くには、子である氏子の方から、この因縁のきずなを辿ってゆかなければならないのです。

人間界であるならば、親は黙っていても、子を守る本能がありますが、真神霊界では、いかに親と子との因縁があっても、ただ無条件には氏神は氏子を守護しないのです。

このことは、氏神の総代表であられる大神さまとのきびしい約束ごとです。氏神が氏子を守護する条件とは、まず氏子は氏神に絶対の信仰を捧げる、家庭が信仰的に和合一致する、祖霊たちは氏神に服従する、氏子たちは四魂具足を生活の信条とするというようなことです。

一言にしていえば、氏子が人間的に努力するということです。家庭の和合についても、信仰向上に対しても、生業(なりわい)の面においても、また健康の上においても、さらに根本的には四魂具足しようとする点においても、すべて人間的に努力することです。

氏神は、この人間の努力に対して感合なさるのです。人類に努力ということがなければ、人類の進歩発達はないのです。まして氏神信仰におきましては、信仰の対象が四魂具足の真神霊でありますから、まず人間的に努力をすることが先決問題です。

ところが、氏神は全智全能の神ではなく、因縁の神であるということが分っていても、従来の神といえばすべて全智全能であると思いこんでいる癖が抜け切れていません。このために、氏神を全智全能の神と誤解し曲解したりする結果、こんな立派な氏神さまさえお祀りしておけば、なんでもよくしてくれるものと独り決めして、人間的努力をしないで万事神任せに任せ切りの人がないわけではないと思われるのです。これはとんだ心得違いでして、これでは氏神のみいつは頂けないばかりでなく、つい神さまを恨んだり不平不満をいうようになり、やがては全く神さまから見離されるのです。

氏神信仰ということは、神さまのみいつをどこまでも信じ切ると同時に、四魂円満具足の御神格を仰ぎ奉り、これをもって自分の道しるべとすることです。

ですから、氏神のみいつを信じ切ることはもちろん大切ですが、それには、どこまでも人間的に努力した上で、 あとは神任せにするという、その信じ切る心でなければならないのです。

あてにしないであてにする』ということは、この境地をいうのです。ところが、氏神を全智全能の神と思いこむと、最初から神さまを『あてにして、あてにする』のでして、そこには人間的努力が見られないのです。『あてにしないで』ということは、なにも氏神のみいつをあてにしないなどという、だいそれた不遜な考えではないので、それはどこまでも自主独立の精神で、いたずらなる依頼心を起さずに、氏子としてまた人間として努力すべき点は十分努力すべきことをいうのです。

そして最後は、すべて神任せの境地に達することです。これならば、ことの成否如何にかかわらず、つねに安心立命の境地におられるのです。

冒頭に申し上げましたように、西洋の「天は自から助くるものを助く」にある『』の代りに「氏神は自から助くるものを助く」と申したいのです。また東洋の格言の「人事を尽して天命を待つ」の代りに、「人事を尽して、神命を待つ」としたいのです。

氏神としましても、氏子が最初から「あてにして、あてにされた」のでは、まことにお困りのことと拝察されるのです。

氏神信仰が、『自力であって他力』『他力であって自力』といわれるのも、この『あてにしないであてにする』ことにほかならないのです。

同じ人間的に努力する場合にも、無信仰とかあるいは信仰の対象とならないところの因縁のないものを信仰しての努力と、人間と直接因縁や交渉のあるオヤ神である氏神を信仰した上での努力とでは、その成果において格段の相違があるのです。

私は先月、群馬県の宇芸神社の磐境正式参拝をかねて磐境調査のため現地へ参りましたが、宇芸神社の大神の鎮まります磐境が、かつての神人交通によって示された箇所と全く符合しているのに驚いた一人です。

ところでこの神人交通による磐境調査というものは、門外不出を誓われて、故岸会長が、できる限りの文献を蒐集調査研究の上、神さまにお尋ねした結果、お示しを受けられたのでして、その努力というものは、実に並大抵のものではなかったのです。

決して始めから神さまが、磐境の所在箇所をお知らせになったのではなくて、すべて岸先生のなみなみならぬ苦心と努力に対して、神さまが感合されたのです。

神人交通による大事な記録を拝見しても、大神さまは決して、最初からいろいろなことをお知らせになったのではなく、すべて岸先生の畢生(ひっせい)(一生)の努力と苦心に感応なされてお教えになったのです。

神人交通によって、はじめて惟神の信仰の真髄が分ったのですが、 それは始めからそういうことを「あてにして、あてにした」のではたく、「あてにしないで、あてにした」からであります。

アメリカで非常な売れ行きを示し、日本でも翻訳されております本に「信念の魔術」という著書があります。

これは、あるひとつの仕事をしようとする場合には、その仕事をつねに心の中に刻みこんでこれを全く自分の信念とした上で、その仕事に全力を打ちこむならば、かならず成功するということを各種の体験によって説明した本でして、アメリカではこの行き方で、相当の成功者が現われたということです。

信じ切るということは、自分自身の信念とすることです。氏神のみいつを信じるということは、氏神さえ離さなければ、最後はかならず救われるということを自分自身の信念とすることです。

しかしながら、最後はかならず救われるという固い信念を抱くと同時に、あらゆる面において人間的努力をするということが必要です。

「あてにして、あてにする」のではなく、「あてにしないであてにする]ことでなければならないのでして、そこに『不測の理』すなわち人間では測り得ないあるいはまた、人間では予測し得ない信仰の道理というものがあるのです。

氏神は全智全能の神ではありませんが、人間の智識を超越した素晴らしいはたらきをなされる真神霊ですから、「あてにしないで、あてにする」という信仰の根本義を忘れないならば、そこには人間では測り得ない予測し得ないみいつが輝くことになるのです。これが氏神信仰における『不測の理』すなわち「あてにしないであてにする」ということです。

 

   す    び

 

以上申し述べましたように、氏神は宇宙創造の神のように全智全能ではなく、氏子にとっては親と子の因縁の上に立つ神さまです。

従って氏神のみいつを頂くためには、この因縁のきずなを辿ってゆかなければならないのです。

すなわち、氏神に絶対の信仰を捧げてそのみいつを信じ切ると同時にあらゆる面において四魂具足を信条として人間的努力をすることです。

大神さまと氏神も、また氏神と祖霊も、すべて四魂具足の神掟によって固く結ばれているのです。大神さまの大みいつは、四魂具足という大きな天線を伝って氏神祖霊氏子と流れているのです。

電気の流れは目に見えませんが、その力は絶大なものです。ひとたびモーターという装置に流れこむと電気の流れは大きな力となるのです。

同じように氏神さまから流れているみいつの流れは、目には見えませんが、ひとたび敬神崇祖の信仰に目覚めて氏神を祀るならば、そのみいつの流れはここに力となって氏子を助けるのです。

そしてこのみいつの流れを強い力とするのも、あるいは微弱な力とするのも、一にかかって氏子の心得にあるのです。すなわち最初から「あてにして、あてにする」か、もしくは「あてにしないで、あてにする」かのいずれかにあるのです。

「あてにしないで、あてにする」ためには、いつのとき、いかなる場所においても、四魂具足を根幹とする人間的努力を忘れてはならないのです。

四魂具足ということは、甚だ固苦しく聞えますが、人間は死んで祖霊となってもこの四魂具足にいそしんで淨化しなければ、家族たちを救うことはできません。その意味においても、われわれは生きているうちにできるだけ四魂の行にいそしんで、この世においては氏神のみいつを蒙り、また死んでは現界での四魂の行を役立たせて、一日も早く浄化した祖霊となって氏神さまの手足となると同時に、家族たちを夜の守り日の守りに守るべきです。

従って四魂具足は氏神信仰にはつきものですから、これにかなうようにするには、自分自身で、どうしたら四魂具足できるかを工夫し研究した上で 氏神のお導きを頂くべきです。

これがいかにして四魂を具足できるかということに対する「あてにしないで、あてにする」ということであります。

四魂具足ということは、四魂の各条に掲げられている通りでして、一口にいえば、まごころです。

さらにこれを分析するならば、富屋顧問のいわれる良心、すなわち魂は神さまから頂いたものであるから、良心に恥じない行いをすることです。

良心を偽ることは神さまを偽ることです。また四魂の信条のどれ一つをとっても、すべて世のため人のためということを目的としていますから、良心に恥じない行いをすると同時に、これを積極的に世のため人のためというころまでもっていかねばならないのです。

つまり良心に恥じない行いをすることによって蒙るところの氏神の直接のみいつを、間接にこれを他人にまで及ぼすのが世のため人のためです。

つぎに申し上げたいことは、祈願ということです。

氏神は四魂不具足の願いに対しては一顧もせず、という御神示は、すでにみなさま御承知の通りです。

従って祈願する以上は、もちろん四魂にかなった事柄であるべきですが、祈願した以上は、祈願に対して氏子として責任をとらねばなりません。このことは笹井編集部長もよくいわれるところでして、全くその通りです。祈願に対して責任をとるということは、するということです。つまり祈願に対しても「あてにしないで、あてにする」ことでなければならないのです。

また祈願に対して責任をとるということの他の意味は、祈願がかなえて頂けたならば、それに対してかならず御神恩感謝のまことを捧げるということです。

人間はとかく健忘症でして、祈願したことを忘れたりします。これは論外としますが、祈願に対してはかならず人間的努力と御神恩感謝という二つの責任を果さなければなりません。

例えば人によりかかって歩くと、人も歩きにくいし自分も歩きにくいものです。

ところがお互いに手をつなぎ合って歩くと道もはかどるものです。

氏神さまも、氏子が最初から「あてにして、あてにする」気持ちで寄りかかってこられると、氏神さまもはたらきにくいのでして、折角の氏神信仰に対して、十分にみいつを発揮なさるすべもなくお困りになるのです。

また氏子においても、このような信仰の在り方では、いっこうに信仰は進まないのです。

ですから、氏神信仰という永い道を歩むには、「あてにしないで、あてにする」という気持ちで、祖霊を仲執りもちとして、氏神―祖霊―氏子という固い因縁の絆をしっかりとつかんで歩むべきであります。

(昭和三十年四月十七日八意思兼大神春季大祭における委員長の講演要旨)

                                         以 上

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