随 想 二 つ  一、病(やまい) は 上 手(じょうず) に       P17

               二、人(ひと)の一寸(いっすん)わが一尺(いっしゃく) 

              惟神会委員長 川    俣       均

      一、 病 は 上 手 に

 病気とは、惟神科学的に申せば、第一霊(体霊―両親から授かり、肉体の細胞のはたらきを(つかさど)る)と第二霊(出生と同時に氏神から授かり、人間の意識や概念構成の主体となる)とが調和を欠いた状態といわれております。(両者が極端に調和を欠けば、死がおとずれる)

 そしてこの両者の不調和をもたらすものは、邪悪な第三霊のしわざであると、これも惟神科学の教えるところであります。

人間は 生きている以上は、正邪いずれにせよ、第三霊をもたざるを得ず、換言すれば

生きているということは、第三霊をもっているということにほかならないのであります。死ねば、第三霊は人間から離れ、因縁を求めて去っていくのであります。

 でありますから、つねに信仰を高めて、反省を怠らずに自己修養につとめて、善良な第三霊をもつようにしたいものであります。

第三霊の交代は、神に祈願してはならず、どこまでも反省による自己修養によってその交代を促すべしとは、岸先生の切言されるところであります。

 早い話しが、暴飲暴食すれば、病気になるのは当然でありますが、暴飲暴食させるのは、邪悪な第三霊のしわざであります。こうした例は、枚挙にいとまないほどあります。

病気と信仰に関係があるということは、おおむねこの第三霊の問題からいえると思うのであります。

 しかしながら誰でも好んで病気になる人はおりません。すなわち、いろいろな薬やさまざまな健康法などが、(ちまた)氾濫(はんらん)している所以であります。

また多くの邪宗教で、その信者の()きもしない無病(むびょう)息災(そくさい)祈祷(きとう)などを行なって、それなりに栄えている所以でもあります。

 生涯無病であれば、幸福これに越すものはないのでありますが、人間は(やまい)(うつわ)とか病気の問屋(とんや)とかいわれているくらいでありますから、全く病気から逃れられないようであります。ただしかし、氏之(みおや)の神を(まつ)り、そのみいつのもとに代々の祖霊を正式におまつりし、しかも氏の祖の神(氏神)や祖霊のはたらきの大源泉であられる八意思兼大神さまに御神恩感謝のまことを捧げ、氏子としては四魂具足にいそしみはげみ、惟神会員としては大神さまの国教確立という大御神業達成のためにつとめるならば、天線に囲まれたなかでの生活となり、病気などしなくなるのであります。

 現代は、医薬にも非常にすぐれたものがあり、また手術なども画期的に進歩しておるのでありますから、病など恐れるに足らぬとの感なきにしもあらずでありますが、一歩病院に足をふみ入れると、世の中にはこんなにも病人が多いものかと驚くばかりであります。

 そして自分の健康のありがたさをしみじみと氏神さまや祖霊さまに感謝する気持ちで一杯になるのであります。

 病気は、両親の遺伝による先天的なものもありますが、多くは自分の不摂生・不注意などによるものとされております。

 何事をするにも、からだが元手(もとで)でありますから、一にも健康、二にも健康でなければなりません。

ところが世の中というものは、医薬や手術などが進歩すればするほど、それらへの対抗手段として複雑難治の病気やすぐれた医薬をしのぐような強い病原菌が、あたかもシーソーゲームのようにあとを絶たないででてくるのであります。

 そうかといって、無条件に病気に負けてはなりません。病気に負けるということは、つまり第一霊と第二霊とを不調和ならしめる邪悪な第三霊に負けることでありますから、或る意味では人間生活の敗北でもありましょう。それは生成発展、弥栄(いやさか)の苦難を乗り越えていく真の惟神の道の()(よう)ではないのでありまして、むしろ仏教のいう諦観(ていかん)(あきらめ)に類するものであります。

 しかしながら完全な無病息災などは容易に望むべくもないのであります。逆説的ないい方ですが、病気があり(わざわ)いがあればこそ人生ともいえるでありましょう。

 病気のない世界、禍事(まがごと)のない世界、これこそ人生の理想(ユート)(ピア)であり、またわれわれはこの理想郷をめざして、氏神信仰にいそしみながら、他面健康に注意しているわけであります。そして健康のもとに長寿を保ちながら、大神さまの大御神業に努力しなければならないのであります。

 よく人間とは、神さまと動物との中間にある存在であるといわれておりますが、少しでも神さまの世界に近づけるように、自己修養、反省、心の鍛錬(たんれん)などを重ねて、すなわち四魂具足につとめて、真の氏神信仰にいそしみはげみ、さらに世のため人のためにつくすべく努力するところに、人間の存在価値があるのであります。すなわち人間は個にして全である所以であります。

また社会連帯の恩義のなかに生きているのが人間の真の在り方であります。

 惟神会員の守るべき信条である四魂の信条を見ましても、各条(かくくだり)は前段、後段の二段に

分かれ、前段の条は個人の完成をうたっており、後段の条は、前段の条において成就した個人の力をもって、社会、国家という世のため人のためにつくすべきことを(さと)しているのであります。

 

 でありますから四魂の信条こそ、個と全との対人間観、対社会国家観を明確に打ち出しているものといわなければならないのであります。

みにくい個人主義、利己主義が横溢(おうえつ)(あふれるほど盛んなこと)して社会国家を毒している現状でありますから、惟神会員たるものは、世の模範として、すべからく四魂の信条を実践躬行(じっせんきゅうこう)(自分で実際に行動する)して頂きたいのであります。

 この四魂の信条を実践躬行するにしましても、からだが弱く病気勝ちであっては、なかなか思うにまかせないものがあるのであります。よく持病ということがいわれております。つねに血圧が異常に高いとか低いとか胃腸が弱いとか、心臓が弱いとか頭痛持ちとか、人間は四百四病の持ち主などといわれているほど、病気は多いのであります。

 ところが人間のからだは、生れつきからだ自身で病気をなおすはたらきをもっているそうであります。

早い話しが唾液というものがこのはたらきをもっているということの一つの例だそうでありまして、これに関する研究は、すでに八十才以上の長寿を保たれている緒方医学博士がご自身で実験証明しているのであります。

 以上申し上げましたように、人間から全く病気を取り除くことはむずかしいのでありますから、もしゆくりなくも病気になったら或いは持病というものがあったならば、『上手に病気をしなさい』と申し上げたいのであります。このことは決して病気に負けること、すなわち邪悪な第三霊に負けることではいささかもないのでありまして、逆説的に申せば、「負けるが勝つ」ということにもなるのであります。

 上手に病気をするということは、一寸と見には病気に負けたかのようでありますが、真実は病気に打ち勝って長寿を保つこととなるのであります。

 (やまい)上手(じょうず)に」ということは、ちょいちょい病気はするが、(不注意や不摂生、或いは先天的遺伝など) しかし軽いうちに手当てをしたり静養したり或は罪けがれを祓い清めるなどしてじきになおって、命取りになるようなこともなく、長生きをするという意味であります。

もちろんなかには長い間、病気がちで、結局、亡くなってしまうような気の毒な方もないわけではありませんが、ここにいう「病は上手に」ということは、直ちに死をもたらすほどの病気でなく、ただ風を引きやすいとか、おなかをこわしやすいとかいうように、こじらさなければじきになおる程度の病気をちょいちょいやる人とか、さして重症ではないが血圧が高いとか頭痛とか心臓病、胃腸病などを持病としてもっている人のことをいうのであります。

 でありますから、こうした人は、やせがまんして無理をしないで、いわば病気にすなおに順応して、軽いうちに療養とか静養につとめるようにすれば、病気が重くならず、或いは全治して、結局、長生きをするのであります。つまりさきほど申し上げましたように「病気に順応することが結局病気に勝つこと」となるのであります。

この反対に、ふだん非常に頑健の人は、病気に対し鈍感であるのみならず、むしろ自身の頑健(がんけん)を過信するあまり病気を馬鹿にして、ろくな治療や医薬はもちろん、大切な祓をすら無視して、結局、ひょっこり急死してしまうような人もあるのであります。

こうしたたぐいの人は、病は上手に」の反対で(しに)下手(べた)といわれているのであります。でありますから、くれぐれも「死下手」になってはなりません。

 なんといっても、自分のからだをいちばんよく知っているのは、自分であります。もちろん名医の診断(みたて)は大切でありますが、自分のからだに対するいちばんの名医は自分自身であることを忘れてはなりません。

 さきの内閣総理大臣の故犬養さんのお孫さんの犬養道子さん(評論家)のお話しによると『道子さんが滞米中胸を(わずら)って或る療養所へ入ったところ、そこの主治医が道子さんにむしばまれた胸部のレントゲン写真を見せて、「半分死にかかっている。それが現状であり現実だ。よくなるか駄目になるか。駄目そうになったら教えるから準備しろ(死ぬ用意をしろ)と言って、さらに強く一割は薬が治す、一割は医者が治す、のこり八割は自分で治す」と病気に対しては自主独立の開拓精神が必要なことを力説して、むしろ道子さんを突き放すような扱い方をしたのでありましたが、そのおかげで道子さんは三年間の療養生活でスッカリ丈夫になった』と語っております。

 この実話も自分のからだは自分がいちばんよく知っているのであって、人間のからだには神さまから病気を治すはたらきを、病理的にもまた精神的にも教えられているということを物語っているのであります。

岸先生も名著『宇宙と人と神』のなかで

 『吾々が医聖として、今尚尊敬して居る

ヒポクラテス(西暦紀元前四〇〇年頃の古代ギリシャの医者)の金言の如き 

「医ハ自然ノ僕ニシテ自然ノ主ニアラズ」と云ふが如き千古の金言である』といっておられますように、病気に対してはもちろん医薬も欠かせませんが、つまるところは、前述のように、自分自身が自分のいちばんの名医でありますから、自分で自分の病気を知って治すことに専念しなければならないのであります。科学(医薬ももちろん科学の力である)が自然を征服したようにいわれておりますが、どんなに科学が進歩発達しても、自然の完全征服などとうていありようはないと思われるのであります。

 惟神科学的に申せば、前述のように病気とは第一霊(体霊)と第二霊(意識霊または本霊)との不調和の状態であり、しかも両者を不調和ならしめるものは邪悪な第三霊であって、この邪悪な第三霊は原因結果の神則によってその人の罪けがれに感応して憑依するものでありますから、病気に気付いて治そうとするならば、まず第一に、自分の罪けがれ(四魂のどれかの魂の欠除或いはけがれ)を反省して、氏神さまにその罪けがれを懺悔お詑びのうえ、祓によってその罪けがれを祓除すべきことも大切な要件であります。

 御神示によれば、氏神のみいつが体霊(第一霊)に作用するのは、体霊に直接作用するのでなく、本霊(第二霊)をとおして作用するとあるのでありますから、祓によって罪けがれを祓い清めて本霊を清々しく清浄なものにすれば、氏神さまのみいつはその清まった本霊をとおして体霊に作用しますから、自然、病気も治る道理であります。

 またつね平生信仰にいそしみはげんでおれば、氏神のみいつ、祖霊の御守護御指導によって、よりよい医師、よりすぐれた薬、より効果的な治療方法が見付かるようにもなるものであります。

 従がいまして、病気は避けがたいのが人の世のつねでありますが、もしゆくりなくも病気になったならば、そのときは素直に病気を受け容れて、すなわち無理をせずいちおうは病気に負けて、医者なり或いは薬なり、しかるべく適当な方法をば、氏神さまのみいつや祖霊さまの御守護御指導のもとに行ない、しかも辛抱強く、治療静養に心をいたすべきであります。もちろんこの場合、清祓や懺悔の祓によって、罪けがれを祓い清めることを忘れてはなりません。

 これがすなわち「病気に負けて病気に勝つこと」でありまた「上手に病気をする…病は上手に」ということとなるのであります。「気にしないが、注意するということも、上手に病気をして結局長生きすることとなるのであります。

 それかといって、病気に恐れをなしたり或いは落胆(らくたん)(気おちしてがっかりする)して、仏教のいわゆる諦観(ていかん)(あきらめ)におちいってはなりません。仮りに難病、業病(ごうびょう)にとりつかれましても、「生は死であり死はまた生である」という顕幽一貫の真の惟神の大道を固い信念として持てば、そこにおのずから(みち)が開かれるというものであります。

 くれぐれも自分の頑健を過信して、「死下手」になってはならず、「病は上手」にして、長寿を全うして頂きたいのであります。いずれにしましても、病気と信仰と関係あることは惟神科学の教えるところでありますから、つねに四魂具足につとめて信仰の向上をはかるとともに、先祖のまつりが正しく行なわれているか否かをもかえりみる必要があるのであります。祖霊は人霊でありますので、そのまつりが正しくない場合には、病気などをもって氏子の反省を促す場合があるのであります。

 

二、 人???????

四魂具足ということは、顕幽をつらぬく(かみ)(おきて)であります。霊界においては、完全に四魂を円満具足したみたまが、すなわち真神霊氏神であります。

 われわれ日本人は祖神の氏神から、いつのときいかなるところにおいても、四魂具足し得る素質を有する魂を授けられている民族であります。

すなわちわれわれは一霊四魂の民族であります。一霊四魂とは、われわれの民族魂という一つの霊魂は、奇 荒 和 幸の魂から成っているということであります。また四魂具足することだけが、ひとり氏神に通じて、そのみいつを頂けるただ一つの途であります。

 日本人は一霊四魂の四魂民族でありますから、奇荒和幸の四魂のうちのどれか一つなり二つなりの魂は、その人はその人なりに発揮されているのでありますが、四魂が揃って過不足なく、いわば一丸となって発露されないところに、人間生活のひずみがあり、人の世の乱れともなり、個人はもとより社会国家全体にとって不幸の因となるのであります。四魂が一丸となって発揮されるのをまごころというのであります。

 このように四魂というものは、個人はもとより社会全体にとっても、きわめて大切なものでありますが、折角氏神信仰に入りながら形だけの氏神信仰におわって、知ってか知らずか四魂不具足を敢えて行なうために、氏神のみいつを頂くに由ないようではまことに残念至極のことといわねばなりません。

 前述のように四魂は誰でももっているものでありますが、また四魂をもっておればこそ日本民族といえるのでありますが、つね平生のくらしのなかで、およそ和魂を欠いていることくらい著しい四魂不具足の例はないと思うのであります。古代神話における大国主命の国土経営において、大国主命は和魂と荒魂の二魂はもともともっていたのでありますが、たまたま少名毘子古那(すくなひこなのかみ)神の奇幸の二魂を得て、みずからの和荒の二魂と合わせて四魂となすことによって、国土経営に成功して、ついに国土奉還となったのでありますように、和魂というものは誰でももともと本質的にもっているのでありますが、およそまたこの和魂くらい発露されないのが和魂というものであります。

人間同志のみにくい争い、国家間の争いなど、さまざまの原因があげられましょうが、せんじつめれば、和魂を欠く場合が多いのであります。

われわれ惟神会員の守るべき四魂の信条における和魂に関しては「和合親愛の情を養ひ、家・国を治め斎へん事を期す」と結んでありますが、和合親愛の情がなければ、個人の集まりである家もまた家の集団である国家も、争いもなく円満に、家・国をおさめととのえるわけにはいかないのであります。でありますから、和魂の発露には、まず、和合親愛の情を養うということが先決問題であります。

 和合親愛ということは、ただ、心にもなく笑顔を見せることだけであってはなりません。笑顔にもよりけりでありまして、かりそめにも面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)うわべだけは服従するように見せかけて、内心では反対すること)をよそおうような笑顔であってはなりません。かって「心に()るる姿」ということを申し上げたことがありましたが、心にほんとうの和魂がそなわっておれば、その場合の笑顔は天真らんまん、邪気のない明るい笑顔であります。

 真の和合親愛ということは、相手の気持ちになって、ものを言い、相手の気持ちになって事を行なうこと、すなわち自分のいやなことは相手にとってもいやなことでありますから、つまり「己れの欲せざるところ人に施すことなかれ」というところにほんとうの和合親愛の情という和魂の在り様があると思うのであります。それにはつねに反省ということがきわめて肝要であります。人間生活をゆたかにするには、反省ということは欠くべからざる生活信条でありますが、ことに和魂においてはその重要さはまた格段のものがあるのであります。

 ここにとりあげました「人の一寸わが一尺」ということは、反省の大切なことをいいあらわしたことばであります。

「人の一寸は見えるが、わが一尺は見えぬ」ということを略していったのがこの「人の一寸わが一尺」ということであります。

人の欠点ならば、ちょっとしたものでもよく見えるが、自分の欠点は、大きな欠点でもいっこうに自分には見えないものであります。よく人の欠点ばかりを見付ることを「(あら)さがし」といいますが、「粗さがしする人にかぎって、自分の「粗」は見えないものであります。

 「人の針ほどわが棒ほど」ということも、「人の一寸わが一尺」と同じように、人の針ほど小さな欠点は見えても、自分の棒ほどの欠点は見えないことを、諷刺(あてこすっていう)しているのであります。

 甲なる人が乙なる人の欠点を非難したり、嘲笑(ちょうしょう)(あざけりわらう)しているのを、第三者の丙が見れば、乙を非難している甲にもまた乙と同じように欠点のあることがよくわかるのであります。

 「人の一寸わが一尺」ということは、昔からいいふるされたようでありまして、浄瑠璃(じょうるり)義太夫(ぎだゆう)の別名)の「神霊(しんれい)矢口(やのぐち)(のわたし)」のなかにも「人の七難より我が八難」という文句があるそうでありますが、これは、人の七つの難点よりも、自分の八つの難点のほうが、自分にはわからない、という意味だそうでありまして、「人の一寸わが一尺」と同義語でありましょう。これらのことばは、すべて他人の欠点や難点をかれこれ非難するよりも、まず、自分自らを反省せよ、ということであります。

 こうした点に気がつけば人の欠点や難点はなるべくあれこれ言わないで、そんなことよりもまず、自分を省みて、自分の欠点を直すように心がくべきであります。

すなわち人事(ひとごと)言うより我が癖直せ」ということになるのであります。

 「自分の事は棚に上げて、人の事を言う」とか「灯台下暗し」などとの諺も「人の一寸わが一尺」に通じるものがあるのでありまして、結局、「人のふり見て我がふり直せ」という教えが出てくるのであります。

 以上こまごま申し上げましたが、それは「人の一寸わが一尺」ということが、和魂を欠くことの大きな原因となると思うからであります。

 なんとなれば人間は、ただひとり、孤独でまた単独で生きることはかなわず、必らず人と人との交りがあって、はじめて正常な人間生活が営まれるのであります。

そして人と人との正常な交りのもとに、仕合せな生活を送るためには、相手の欠点や難点を責めるよりも、人間は多かれ少なかれ誰でも欠点があるのでありますから、まず自分自身をよく反省して、欠点を直すことに心がけなければならないのであります。

 そのように心がければ自分自身の人格も追々向上するとともに、相手の人柄もだんだんよくなって、そこに自然と和魂の発露を促し、交りはスムーズ(なめらか)になっていくのであります。

でありますから「人の一寸わが一尺」ということは「他人を責めるよりも自分を責めよ」ということにほかならないのであります。人から欠点を指摘され非難され嘲笑され、ときにはあくどくいやらしいえげつないことばすらつかっていわれた場合、それを聞く方の身にもなってもらいたいのであります。

(じょ)』という語があります。それは思いやりとも解されるのでありますが、その真意は本文前段で申し上げましたように「己れの欲せざるところ人に施すことなかれ」ということであります。自分にいやなことは人もいやなのでありますから、そうした場合には「人の一寸わが一尺」ということを生かして、そうした場合にはまず反省、まず和魂ということを忘れてはならないのであります。

 人間の肉体は、幼少年時代から青年時代を通じて、ずんずん成長していきますが、老年ともなれば体霊は生理の自然現象によっていわゆる老衰せざるを得ないのであります。

ところが人間は死ぬまで自己修養につとめることによって、すなわち四魂具足にいそしみはげむことによって心はいよいよますます育っていくのであります。

 物質にめぐまれるということは、人間生活を営む以上ゆるがせにはできないでありましょう。しかしながらフランスの実存主義哲学者のサルトルの「命あっての物種」という実存主義ではありませんが、本篇一の「病は上手に」をモットウ(座右の銘)として長生きを心がけるとともに、その長寿に連れて、「心を育てていくこと」こそ人生最大のつとめでありまた幸せと思うのであります。

 そして「心を育てる」ことの一環として、「人の一寸わが一尺」ということについて申し上げた次第であります。

 いま、本会では、氏神の総代表にまします八意思兼大神さまの国教確立という大御神業の達成をめざして、「教勢拡張推進委員会」が組織され、それぞれ有為(ゆうい)堪能(たんのう)な人たちが、その(しょう)に当って、この教拡運動の大いなる展開をはかっているのでありますから、一般会員の方々も、よくこの運動の趣旨をご理解下さって、教勢拡張運動に大々的にご参加頂き、大神さまの(こう)(だい)な御神恩に報いまつるよう献身努力されますよう特にお願い申し上げる次第であります。

 それには、この運動は相当長期にわたるものと考えられる故、まず、一にも健康、二にも健康でありますから、「上手に病気をして」長寿を保つとともに、「人の一寸わが一尺」という自己反省に心がけて、「心を育てる」ことが肝要であります。

 本題の一も二も、きわめて当りまえのはなしでありますが、この当りまえのことができないのが人間の通弊(つうへい)(一般に共通した弊害)でありますから、このことをよく心にとめて、御神業にいそしみはげんで頂きたいのであります。

 そしてつねに、「救いは救いのための救いにあらず、御神業のための救い」であることを肝に銘じて、氏子であると同時に惟神会員であるという本会の目的原則に徹して頂きたいのであります。

 結論的に申し上げれば、「上手に病気をして」長寿を保ちながら、「人の一寸わが一尺」を心としてますます自分の心を育てて、大神さまの大御神業に挺身努力して頂きたいのであります。そしてそう努力することが、世のため人のためであり、結局は自分のためとなるのであります。                            以 上

                     (昭和四十四年三月九日 八意思兼大神月次祭における購演要旨) 

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