神霊界の発現と人間生活 P13
惟神会委員長 川 俣 均
畏くも八意思兼大神さまは平田篤胤大人命と故岸会長先生の並々ならぬお骨折りにて、昭和三年二月四日、京都藤之尾の地をお出ましになり
氏神の総代表・本会の主神として
本部の磐境にお鎮まりになられたのであります。次いで
同年三月一日大神さまの大みいつのもとに氏神奉斎の神事が初めて執り行なわれ、さらに同年五月十九日氏神奉斎百柱を記念して大神さまの御神許を得て本会が創立され、今日に至っているのであります。(当時は明道会と称していた)
爾来三十有八年の星霜を経た今月今日の五月十九日は、本会創立の日として洵に記念すべき大切な日であります。
三十八年の永い年月の間には、さまざまな出来事に見舞われ、起伏消長つねならざるものがありましたが、神に二言なし「神が経営する」という御神示ただ一すじに、敬神崇祖・四魂具足の大旆(大きい旗印)をかかげて、盤根錯節(解決の難しい事柄)幾多の困難を乗り越えてきたのであります。もちろん 大神さまの大みいつと霊界の会長であられる 平田先生の
御指導御守護の賜ではありますが、故岸会長はじめ先輩諸氏の筆舌につくせぬ御苦労に対しては、ただただ感謝あるのみであります。
本会は邪神邪霊を排して真神霊信仰一本に徹するものだけに、創立以来既往における風当りは相当強いものがありましたので、先輩諸氏のご苦労は並大抵ではなかったのであります。
しかもかれら邪神邪霊はいまもなお手を変え品を代えてわれらの行く手を阻もうとしているのでありますから、われら会員たるものはつねに確固不抜の信念をもって、この信仰を護り抜いて拡大強化に努力すべきであります。
申すまでもなく大神さまが、われわれ人間に真の氏神を祀らせて下さったのは、敬神崇祖・四魂具足という神代からなる真の惟神の信仰によって、わが国の立て替えをなさろうとの大みこころにあったのであります。
しばしば申し上げているように、氏子としては四魂具足にいそしみ、惟神会員としては教勢の拡大強化という御神業に努力しなければならない所以であります。
申すまでもなく惟神会は氏子を会員として構成されておりますが、氏子意識だけにとらわれて会員としての在り方を忘れておりますと、知らず識らず自分中心の抱え込み信仰に陥って御神助を頂くすべもなくなってしまうのでありますから、氏子たると同時に会員たるの義務と責任を果すことが御冥助を蒙る所以であることを常に心にきざんで実行して頂きたいのであります。
かって岸先生もいわれたように、本会員として奉斎している各自の氏神たちを信仰することによって偉大な御神徳のあることは、氏神たちが八意思兼大神さまの大神威を体してお働き下さるからであります。氏子たちと氏神たちとの関係は大神さまの大御神威によって結び合わされているのであります。
さらに岸先生は語をついで、大神さまの大御神威を蒙らない単独の氏神たちの御神威というものは実に微々たるもののようであって、このためにわが国に妖魅も横行し仏霊もはびこったのであると訓えられております。
八意思兼大神さまは、かの天孫降臨の際の
天照大御神の「思兼神は御前の事を取持ちて政を為せ」との御神勅のまにまにニニギノ命がこの豊葦原中国に天降りまして天照大御神のみこころを体して四魂具足の政治をなさるためにはまず先住民族を四魂民族にまで同化する必要がありますので、智恵の神、思慮分別の神としての大みはかりのもとに民族同化という大御神業をはじめ給うたのであります。
そしてこの民族の同化作業に直接たずさわれたのがニニギノ命第一世の御子神、すなわち一六八柱の四魂具足の真神霊にまします氏之祖ノ神…氏神たちであります。すなわちニニギノ命が天降りました当時は、ニニギノ命と先住民族とは余りにも差が大きかったために、まず順序として命の御子神たちを四魂具足の真神霊にまで同化し、次にこの同化された御子神たちが先住民族の同化に当られたのでありますが、このことは智恵の神、思慮分別の神にまします八意思兼大神さまの大みはかりであったのであります。
かくて氏神は人間が死ねばその魂(第二霊)を.霊界に引取って浄化再生の労をとられ、また人間が生れればその瞬間に魂(第二霊)を授けて下さるのであります。
いわば死生一貫して人間の魂を支配されるのが氏神であります。
もともと人間の世界は現界でありますが、これに対応して霊界が実在しているのであります、人間の世界は物質の世界でありますが、霊界は非物質の世界であります。
この非物質は実在するにも拘わらず目に見えないからとて、これを信じないために科学は物質一方に偏して智恵を忘れ行き詰りをきたしているのであります。
この霊界は神霊界・神仙界・仏雲界・妖魅界の四つに分けられますが神霊界は四魂具足の真神霊のおられる最上位の世界であって、天孫降臨を契機として神代の昔から厳存しているのであります。
神仙・仏・妖魅の各界は四魂不具足の霊界であって、それぞれそれに相当する下級霊が棲息している霊界であります。
仏霊界は 約千三百年前に仏教が渡来してから生じたのでありますが、かれらは神仙霊
或いは妖魅霊と結託して、侮るべからざる勢力を扶植(植えつける)して暴威を振るっているさまは世相のいたるところにこれを指摘することができるのであります。
神霊界は儒教や仏教の渡来前までは厳然として霊界の最上位にあられ、人間はつねに神人感合のもとに神霊の加護を受けて生活していたのでありますが、八意思兼大神さまが、
第四十五代 聖武天皇の天平九年に勅命により伊勢皇大神宮の相殿の座を去られて、京都
藤之尾の地に遷りかくろいなされてから、ここに神霊界の扉が閉ざされるに至り、日本の悲劇はこのときからはじまったのであります。
当時、氏之祖ノ神は民族同化の神として厳然とそれぞれの磐境に鎮まり給うていたのでありますが、大神さまの京都藤の尾の地への御遷座によって神霊界が閉ざされましたので、氏神たちは大神さまの大御神威を蒙るに由なく、したがって前述岸先生のおことばのように、氏神単独の力は実に微々たるものであったようでありまして、仏霊や妖魅霊の横行を見るに至ったのであります。
すなわち仏霊たちが神仙や妖魅の各界の下級霊たちを籠絡(手中にまるめこむ)して政治に経済に軍事に思想に暴威をたくましうしたことは、日本歴史をひもとけば一目瞭然たるものがあるのであります。
ところが天運循環して大神さまが本会にお出ましになられるに及んで、ここに神霊界の扉が再び開かれて神霊界の発現となったのであります。かくて氏神奉斎、本会の創立というめでたいことが次ぎ次ぎと執り行なわれるに至ったことは前述のとおりであります。
神霊界が閉ざされてからというもの人間は、神仙・仏霊・妖魅の各界と交渉を持たざるを得なくなり、従って人間の生活は多分に神仙霊的であり仏霊的でありまた妖魅霊的であって、すべて四魂不員足の生活そのものと化し、四魂具足という絶対善の生活は営み得べくもなかったのであります。
四魂民族でありながら四魂の生活ができないくらい民族の大きな不幸はないのであります。
このように神霊界の閉鎖は民族最大の不幸をもたらしましたが、これに反して神霊界の発現は民族にとってかぎりなき幸福であり喜悦であります。
神霊界が閉ざされたことは、民族に陰うつな生活をもたらしましたが、神霊界の発現は、民族を明るい朗かな希望に満ちた生活に導いてくれるのであります。
ここに真神霊と邪神邪霊の行き方の顕著な相違を、人間の生活の上にまざまざと見ることができるのであります。換言すれば神霊界の発現によって、四魂的な人世観、世界観が邪神邪霊の四魂不具足的なそれにとって代ったのであります。
しかしながら大神さまの御出現によって神霊界の扉は聞かれましたが、この扉をさらに大きく全開的に開きに開いて永く護持するためには、なんとしても大神さまの手足であられる氏神を一柱でも多く、数多く世にお出し申し上げるよりほかはないのであります。
すなわち氏子であると同時に会員として大御神業に挺身努力すべき理由は実にここのところにあるのであります。
まことに大神さまの御出現によって神霊界の扉が開かれ、氏神奉斎の神事に次いで本会創立の偉業となり、ことに救国済民の大御神業の第一歩が印せられたのでありますから、神霊界の発現は末広がりに氏神奉斎による氏神信仰にまでつながらなければならないのであります。
しからば神霊界の発現と人間生活とはどのような関係にあるのでありましょうか。
一口に人間生活といっても、時勢の進運に伴い顕著な変化があるわけであります。端的に申せば明治維新前と維新後、大東亜戦争前と戦後とでは、人間生活に著明な変化が見られるのであります。
大袈娑な表現をすれば、滄桑の変(桑田変じて滄海となるような大変化)ともいえるのが戦後の生活の変わりようでありましょう。
しかしながらどんなに科学文明が発達しても、これを究極において操縦するものは人間であります。人間の知識によって獲得された原子力でも、その善用悪用は人間の知恵にまたざるを得ないのであります。
また著名な数学者が一年以上かかって計算できたものを現在の電子計算機は、わずか四秒で果すといわれておりますが、この機械を動かすものはやはり人間であります。いかに優秀な機械でも人間によってはじめてその価値が発揮されるのであります。
機械は非情でありますが、人間には「情」があり「魂」があるのであります。
「人間と機械の対決ということがいわれておりますが、人間が対決する真の相手はやはり機械の背後にある人間であります。近頃人間工学といって人間を一つの精巧な自動装置として考えておりますが、最後は人間性の探究にまで絞られてくるのであります。
さらにまた機械文化を離れて人間そのものの在り方についても、人間の幸不幸を左右するものは、人間の本霊(第二霊または意識霊・祖神氏神から授けられる)と生きているかぎりこれに感合せざるを得ない第三霊、またこの第三霊に感合する第四霊・第五霊という経験霊との相関関係にあるのであります。
人間が悪いことをするのはその人の本霊がさせるのでなく、本霊と相関関係にある経験霊のしわざであります。さらに申せば経験霊を取捨選択する本霊のはたらきいかんにあるのであります。
人間が生きているということは、第三霊をもっているということであります。その罪を憎んで人を憎まずという諺はこの間の消息を端的に表明しているのであります。
さればこそギリシャのアリストテレスは、人間は「社会的動物」といい、ソクラテスは「理性をもった動物」といい、フランスのパスカルは「考える葦」といい、またドイツの哲学者カッシラーは「言葉をあやつる動物」などといっておりますが、人間を人間たらしめるか或いは人間たらしめないのは、すべて本霊と経験霊との相関関係にあるのでありまして、このことは惟神科学として神界から教えられているところであります。
大神さまの御出現によって神霊界が発現され、かくて氏神奉斎による氏神信仰が確立されることに至りました。
人間生活は氏神のみいつにおおわれて神霊界につながることができるようになったのであります。
人間の本霊は神から授けられたものでありますが、正しい信仰によって磨かれることなく素のままで幾星霜を経るうちには、或いは邪神邪霊のため、或いは自分の不心得のためにゆがめられさいなまれて、経験霊の善悪を限定するどころか逆に邪悪な経験霊の限定を受けるような異常な状態にすらなりおわるのでありますが、氏神信仰によって神霊界とつながりを持つようになると、ゆがめられ、さいなまれた本霊は漸次氏神のみいつによって研き磨かれ清められる結果、正常な限定力を回復して天与の本来の姿になるのであります。
前述のように神霊界が発現される前の人間生活は、なんとしても神仙・妖魅の各霊界とつながりをもたざるを得なかったために四魂不具足なものでありましたが、神霊界の扉が聞かれて氏神信仰が確立されましたので人間は氏神信仰一筋に四魂具足の生活が送れるようになったのであります。
御神示によりますれば神霊界と人間界をつなぐものは『天線』というものであります。昭和五年八月十日の御神示によれば「天線は神霊界と人間界との連絡であって、この天線は人間の信仰によって出来るものである」と見えております。
この天線について故岸会長先生はおよそ次のようにご説明になっておられます。
(「国教」昭和五年十月号)
『天線とは人が真神霊である天津祖の神を信仰するとき、その家に対して神界から
神霊の交感感合があるため、特種の光りが黄金色或いは紫色の霊線となって現われるものである。この線は一家の信仰の程度に従って、その太さも濃さも異なるものである。
家族一同が一致して信仰するときは、この天線は太く濃くなって、一家のものは邪神邪霊などからは襲撃迫害などを被ることは全く無くなり、病人の如きものは決して出来なくなる、のみならず一家の職業は繁昌して物質にも恵まれ子孫に至るまで安泰である。
それは一家が完全に天線の中に包含されておれば妖魅悪魔の如きは絶対に侵入することはできぬものであるから全く安全である。
ここにおいて本会員たるものは、沈思黙考せねばならぬ。
すなわち
「わが家における天線の状態はいかに」と』
このように絶対の氏神に絶対の信仰を捧げながら、氏子としては四魂具足にいそしみ、会員としては御神業に挺身奉仕すれば、神霊界から人間界に伊照り輝く天線の光りはますます太く且つ濃くなって邪神邪霊などはいささかも侵入することはできなくなるのであります。
幸福とは病気災難などのない世界でありますから、天線に囲まれた生活こそ幸福な生活であります。
儒仏渡来後天線が断絶されたために人間生活は不幸に見舞われるに至ったのであります。
氏子一家の信仰が一致して向上するにしたがい、祖霊たちもこの天線のなかで邪神邪霊におびやかされることなく安居楽住、いよいよますます浄化を進めて、家族たちを守護するはたらきは増大の一途を辿るようになるのであります。
しかしながら神霊界が発現されて、このように天線の伊照り輝く契機はかもし出され、
つくられたのでありますが、真神霊である氏神に対して絶対の信仰を捧げなければ天線の威力を蒙ることのできないのは、前述のとおりであります。
「神霊界の発現と人間生活」ということは、氏神信仰をすることによって人間の生活は、天線の中で邪神邪霊などに侵されることなく安んじて神まかせの生活が送れるということであります。
このように大神さまの御出現によって神霊界の発現となり氏神信仰の道が開かれて、いままで永い間跡絶えていた天線が伊照り輝き、人間はその天線に囲まれたなかで生活を営むことができるのでありますから、われわれは大神さまの御鴻恩(大恩)に報いまつるところがなければならないのであります。
本会が創立されてすでに三十有八年、これを人間にたとえれば
三十八才という年令は
四十にして惑わずという不惑の年に近いのでありますが、いまさら惑うところがあってはなりません。
稜威信じて疑わずという絶対信仰ひとすじに、大神さまによって開かれたこの神霊界の扉をば全開の態勢に堅持し、かりそめにも扉がせばめられるようなことがあってはなりません。
それには本会の教勢をますます拡大強化して、すなわち新しい氏子を日本国中にあまなからしめるために新会員の「増成」を目ざして渾身の力をふるって努力しなければならないのであります。
およそ何がいちばん幸福かといえば、邪神邪霊の充満しているこの現世で、天線に囲まれながらかれらにいささかも侵されることなく、祖霊も人間も安居楽住の生活を送れること以上のものはないと信じます。
八意思兼大神さまの御出現によって神霊界の扉が聞かれてここに三十有八年、われわれは両三年後にせまる創立四十周年記念祝典を前にして、もういちど大神さまの大御神業の重大さに思いをいたし、本会創立当初の感激と興奮に満ちたあの当時を回想してみたいのであります。まさに「初心忘るべからず」であります。
神は経験によって智識を得ると仰せられました。いわんや俗物の人間たるわれわれに
智識をもたらすものは経験以外にはないのであります。本会創立以来三十八年という会の歴史の積み重ねはまた貴重な経験の積み重ねであります。われわれはこの三十八年の積み重ねを反省の資料として信仰上の智識を啓発し、かくて得られた智識をば智恵の神にまします大神さまの大みいつを、各自の氏神をとおして頂くことによって得られる智恵のはたらきを基として四魂の信条に則って活用すべきであります。
神霊界の発現は、邪神邪霊たちにとっては晴天の霹靂のごとく大いなる脅威であります。でありますからこの真の氏神信仰をますます押し弘めて、神霊界からの天線の光りが濃
く太く、燦々と降り注いで人間生活を一層豊かに四魂具足的に安居楽住の域にまで進めていきたいのであります。
神霊界の発現による人間生活は天線に囲まれたなかで必要なときに必要なものを、必要な時間をさらにまた必要な人間をすら下さるという神まかせの生活でなければならないのであります。
約言すれば天線に囲まれた取り越し苦労のない人間生活ということであります。
以 上
(昭和四十一年五月十九日