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              惟神会委員長 川    俣       均

 

は  し  が  き

 すでに四回にわたって奇魂、荒魂、和魂、幸魂の各魂について申し上げましたので、今回はこの四魂をとりまとめて「四魂具足について」申し上げたいと存じます。

 申すまでもなく氏神信仰は、崇祖に基づく敬神でありましてその根本的内容をなすものは四魂具足ということであります。

 換言すれば四魂具足なくして氏神信仰は成り立たないということであります。さらに申せば四魂具足だけが氏神に通じるただ一つの道であるということであります。

昭和五年二月三日の御啓示に、

「四魂具足の道に入ろうとする心を以って信仰すべきではなく、四魂具足することによって神は信仰をお認めになる」と見えておりますように、四魂具足を離れて神人感合はあり得ないのでありますが、一旦、四魂具足すれば氏神のみいつは絶大なものがあるのであります。世の中にいわゆる道徳律というものはたくさんありますが、そのほとんどが相対的であって一方で善であれば他方では悪となるというたぐいであります。ところが四魂具足は比較するもののない絶対善の教えであります。絶対の善とは四魂円満具足の真神霊たる絶対の氏神に通じる誠、すなわち「まごころ」ということであります。

 フランスの哲学者のベルグソンは『道徳には憧憬(しょうけい)(あこがれる)威圧(いあつ)(おさえつける)の二面があるが、それは結局同じものだ』といっておりますが、この見方はいちおう四魂具足についてもいえるのであります。

すなわち四魂具足といえば一面において重苦しい威圧感を受けるかも知れませんが、他の面では四魂具足することによって偉大なみいつが頂けるために四魂具足したいという憧憬の念をもって四魂具足を見るのであって、結局は四魂具足のもっている威圧も憧憬も同じ一つのものであるのであります。

しかしながらわれわれ氏神信仰にあるものは四魂具足に対してかぎりないあこがれを抱きこそすれ、いささかも威圧感を持つ理由はないのでありまして、かりそめにも威圧を感じるならばそれは自身の四魂不具足を自分自身で表明しているようなものであります。

真の神は人間に不可能なことを強いられるわけはなく、不可能にしてしまう原因は人間の側にあるのであります。大いに反省する要があるのであります。

 

四 魂 具 足 と は

四魂具足とは奇荒和幸の四魂が過不足なく円満に具え足らわされた状態でありまして、真神霊たることの条件は四魂円満具足であるということであります。

氏神はもちろん四魂具足の真神霊であります。(氏神は四魂具足に加うるに領域をもっている)

 大祖神天照大御神はそのみこころなる四魂具足をもってこの国を治めるために

御孫ニニギノ命をおつかわしになり、また命は大御神の目的に副うためにその御子神たちをして、当時の先住民族を四魂民族すなわち四魂具足の素質を有する民族―大和民族にまで同化なされたのであります。

しかもこの同化作用はいまでもなお引続いて行なわれているのであります。この御子神たちがすなわち氏神でありまして、氏之(みおや)ノ神と称えあげる所以であります。

この民族同化という大偉業の大構想を(はじ)めさせられたのは、天照大御神の御信任の篤い、知恵の神、思慮の神、政治の神にまします八意思兼大神さまであります。

大神さまが氏神の総代表であられる理由はここのところに拝されるのであります。

 そこで 奇 荒 和 幸の各魂が渾然一体であるべきことを数学的に表現すれば

(昭和九年四月十九日の御啓示にもとづく)

  奇魂+荒魂+和魂+幸魂 という形でなく、

  奇魂×荒魂×和魂×幸魂 という形になるのであります。

いま表現の便宜上各魂を「2」という数値で表わせば、

  2+2+2+2=8  の形ではなく、

  2×2×2×2=16 の形が四魂が渾然一体となった状態であります。すなわち奇荒和幸の各魂を加算したものでなく、各魂が掛け合わされた状態が四魂具足であります。

 この四魂具足は『古事記』には「清明心」とあり、また『日本書紀』には第四十二代

文武天皇のおことばとして「明き浄き直き誠の心」(あかききよきなおきまことのこころ)とあり、また古い時代  天皇が「かむながらおもほしめす」としばしば仰せられておりますのは、

天皇は天津日嗣皇孫 (あまつひつぎのみこ) として天照大御神の四魂具足のみこころを体して、みこころのまにまにすべてをお考えになって、ということであります。

 惟神の道とは四魂具足の道であって、天照大御神の依さし給う道であります。この道は表面だけ践み行う道でなく心に『満ち充たすべき道』であります。前述の数学的表現の

  奇魂+荒魂+和魂+幸魂 の形は表面だけ践み行うことを意味し

  奇魂×荒魂×和魂×幸魂 の形が心に満ち充たすことを意味しているのであります。

惟神』という文字を古い註釈には「惟神者謂隨神道亦謂自有神道也」(かむながらは神の道にしたがうをいい、また自ら神の道あるをいうなり)とありますが、この神の道とは、本居宣長先生や平田篤胤先生のいわれるように、漢(から)の道でなく古の昔から事実の上にそなわっている道でありまして大祖神天照大御神の依さし給える道すなわち四魂具足という心に満ち充たすべき道であります。

 四魂が一体となって偉力を発揮した最初の事例は、しばしば申し上げたように、神代において 大国主命が自己の和魂、荒魂の二魂だけでは国土経営がうまくいかないので、

少彦名命の奇魂、幸魂の二魂を得て併わせて四魂となし、国づくりに成功したことにあるのであります。

 前述のように四魂具足は神の道であり神の心であって、これは「清明心」「明き浄き直き誠の心」でありますが、これをさらに『古事記』や『日本書紀』などの古記録によってうかがえば「清らかさ」であり「明るさ」であって「穢れ」や「暗黒」や「私心」のない「いつわりのない誠の心」すなわち『まごころ』そのものにほかならないのであります。

 このまごころこそ真神霊に通じる唯一絶対の価値そのものであります。(まごころについては次の項にて述べます)巷間、真善美とか利善美とかいって、三魂的相対的道徳価値論が横行していますが、奇荒和幸の四魂具足の教えこそ神代から承け継がれ承け伝えられてきた比べものなき絶対の善であります。

 まことに人として心に満ち充たすべき教えは道徳以前の日本民族固有のものでありますが、これを強いて世間並みの道徳価値というような価値論の枠に入れれば絶対的道徳価値論の本体をなすものであります。

ちなみに道徳ということばは日本古来のものでなく、大陸から儒教がもたらしたものであって、現在では多分に儒教的仏教的或いはキリスト教的三魂的ニュアンス (色彩・調子・

意味・感情)を帯びているのであります。

四魂具足とまごころ

 前段申し述べたように四魂具足は 奇 荒 和 幸の各魂が渾然一体となって働くことでありますが、例えば幸魂が働く場合に他の奇荒和の三魂をそれぞれ意識して同時にそして同じ程度に働かせることは余程の修練が積まないかぎり困難とも思われますので、「まごころ」をもって事を処せばおのずから四魂具足が心に満ち充たされる状態になるのであります。

 そこでただ漫然と「まごころ」といっても、それは神仙的まごころもありましょうし、また仏教的まごころ、キリスト教的まごころもあるでありましょう。しかしながらここにいう「まごころ」は四魂具足の真神霊氏神に通じる「まごころ」でなければならないのであります。これが四魂具足の「まごころ」であります。

 でありますからつねにこの「まごころ」をもって事に当るからには、平生から四魂の信条に定められた各魂の在り方をよく理解してわがものとして、しっかりと頭の中へ入れておいて、いつのとき、いかなるところにおいても自由自在に引き出せるようにして置く必要があるのであります。

一言にして申せば四魂の信条の完全意識化であります。

完全意識ということは、心理学上の用語でありますが、端的に申せば信念の一語につきるのであります。すなわち四魂具足の絶対善なることを意識しながらこれを忘れ、また意識しては忘れ、或いは また四魂不具足の行いをしては反省し、重ねて不具足をやっては

また反省し、かくて知識と経験と反省を重ねて行くうちにこの四魂具足ということが常住的な意識すなわち信念となるに及んで、ここに四魂具足の完全意識化が成り立つのであります。この完全意識化によって真神霊氏神に通じる「まごころ」が生じるのであります。

 本居宣長先生は「まごころ」とは人の生れ付きたるままの心といわれ、また平田先生は『古道大意』の中で、人の性質の「性」という字はうまれつき(漢字にあてた日本語)()

字で、この結構な心は「天津神の御霊(みたま)によって生れ得ているに依って、それなりに偽らずまがらず行くを人のまことの道という」といっておられます。

 このようにわれわれは生れおちると同時に氏神からまごころそのものの魂(第二霊 または

意識霊)を入れて頂くのでありますが、嬰児は成長するにしたがい第三霊、第四霊の感合を受けざるを得ないため生得の純真無垢の魂はその感合霊の正邪善悪の如何によってどのようにも変化するのであります。

だから長じてつねに、「まごころ」であるためには、氏神信仰という真の信仰によって魂を磨くと同時に第三霊という感合霊をばつねに正しく善なるものに保つことが肝要であります。

魂はその授け祖(おや)たる氏神以外の他のいかなるものもこれを磨くことはできないのであります。換言すれば氏神信仰だけが生得の魂を磨いて「まごころ」にまで仕上げてくれるのであります。

 天皇は御即位と同時に天照大御神のみたまが成りまされるのでこの意味において「」であられるのであります。皇孫命(すめみまのみこと)の「すめ」は神聖を意味し、「みま」は玉体でありますから、天皇とは、天照大御神のみたまが成ります「神聖なるおからだ」ということでありまして、天皇は御日常そのことが「まごころ」の御存在であります。

この「まごころ」について戦前戦後の顕著な実例を申し上げたいと存じます。

 天皇は昭和六年の秋、熊本地方の大演習からのおかえりを海路、軍艦「榛名」にて鹿児島湾を南下されたのでありますが、天皇はおひとりで暗やみの甲板に立たれ、はるかかなた対岸の陸地の奉送迎の燈火の光りに対して黙々と挙手の礼をつづけておられたのであります。

供奉や乗組の人たちは天皇が御座所の司令長官室におられないのであわてて大騒ぎしておさがしすると、暗やみの甲板上における天皇の神の如き崇高なお姿を発見しました。

そこで大いそぎでイルミネーションを点じて対岸の奉送迎の燈火にこたえたということであります。

まっくらやみの海上をあかりもつけないで走る軍艦の甲板上に立たれた天皇の挙手の礼のお姿は、対岸の人たちの目に見えるわけはないのでありますが、天皇は、奉送迎の人たちに対して、「まごころ」をもっておこたえしたのであります。

 また、天皇は終戦後まもなく御自身から進んでマッカーサー元帥を御訪問になられて、

マッカーサーに対し我が身はいかになろうとも国民だけは飢えさせないでもらいたい というような意味のことをお話しになられたので、マッカーサーは、天皇は当時大元帥陛下としておそらく武張ったお方であろうと想像し、また、なにか御一身上のことで懇願にこられたのではないかと思ったところ、思いもかけぬお言葉だったので深く感動し、それから天皇に対する態度が全く一変して …何かご不自由はございませんか、どうぞなんなりとおっしゃってください… などと申し上げたそうであります。

ここにも天皇があの終戦混乱のさなかにわが身をかえりみずひたすら国民を思う「まごころ」が拝されるのであります。(甘露寺受長著「背広の天皇』より)

 われわれがつねに「まごころ」であるためには、前述のように四魂具足を完全意識という信念にまで高めることでありますが、これを平俗的に申せば、心をまじりけないようにすることであります。(わたくし)

 換言すれば心を清めることであります。心を清めるためには、懺悔の祓ももちろん必要でありますが、それ以前に …(わたくし)の心、利己心、損せず得しようとの心、他人から悪く思われたくない、よく思われたい心… というような心であってはならないのであります。すなわち平田先生のいわれる我(が)という禍津神を去ることであります。

 よく、正直者が馬鹿を見るといわれていますが、これはもちろんいいことではありません。しかしながらいまのようになにもかも狂った時代には、正直者が馬鹿を見ることによってこの乱れた世の中はいくぶんでも支えられているのではないでしょうか。        

 また他人にだまされても(決してほめたことではない)他人をだましてはならない ということも、「まごころ」の一面を語っているのではないでしょうか。

 

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 四魂具足は氏神信仰の絶対の条件でありますが、四魂具足するための特別の極め手(き て)とてはないのであります。

しかしながら四魂具足することにより或いは四魂具足をめざして絶えざる努力を続けることによって、氏神の広大無辺のみいつが頂けるのでありますから、氏子として自分みずから工夫し研究し、さらに経験と反省を重ねて四魂不具足にならないようにいそしみはげむことは当然であります。それでこそお釣りを取られないスッキリした御神徳が頂けるのであります。

 でありますから四魂具足を心がけて人間的に努力するためには、忘れてならないことがあるのでありまして、以下これについて二、三申し上げたいと思います。

 まず第一に

 ?、大神さまの御神示を拝誦して肝に銘じて忘れないことであります。

すなわち大神さまは 非義の願は神の一顧をも得べからず と仰せられているのであります。

非義の願すなわち四魂不具足の願に対して神さまは少しもふりかえってみないのであります。まことにきびしいおことばでありますが、そこに民族同化の神にまします四魂円満具足の氏神の高貴な御存在が拝されるのであります。

 ?、四魂の信条をよく理解してわがものとすることすなわち完全意識にまで高めて、いつのときいかなるところにおいても、四魂具足が一つの信念として「まごころ」となって発動するように心がけることであります。

 ?、四魂の信条は各条とも、その終局の目的とするところは国家や社会のために役立つことであるから、私心を去って公共に奉仕せんとする利心(とごころ)(確りした心)を失ってはならないのです。

 ?、四魂具足ということを

? 物指しとして応用すること

  職業に貴賤貧富の差はないが、四魂具足に近い職業か否かを判断する事が大切である。

? 道として行うこと

  いかなる職業であっても四魂具足に外れないような心がけで営まなくてはならない。(「国教」昭和五年五月号岸会長の『信仰に就いて』より)

 ?、反省を忘れてはならない。

 そのときは()(よいこと)なりと信じ「まごころ」をもって最善をつくして行なうことは、そのときのその人にとってそれは最高の四魂具足の絶対の善であるが、後になって反省して不具足なりしことを発見したときは、ためらうことなくいさぎよく素直に改める。

こうしてその人の四魂具足は、だんだん煮つまっていくのである。

  経験に次ぐ反省を忘れてはならない。

 ?、穢れを清める。穢れの程度によっては祓の神事によって清めなければならない。

 ?、多くの場合邪悪な第三霊、第四霊が四魂具足することを妨げているから、この場合こそ自覚と反省という自力によって辛抱強く、しかもくじけないで邪悪な第三霊が交代するように信仰を続けなければならない。

  神さまは「人間はどうして辛抱ができないだろう」と仰せられていることを思い出してもらいたい。神界には時間というものがないのであって、真神霊は時間と空間を超越した存在である。

 ?、修練ということを忘れてはならない。どんなに優れた文明の利器でも練習を重ね、修練を積むことによって文明の利器たる真価を発輝できるものである。

同様に四魂具足も常に修練を積むことによってますます完全の域に進むことができる。

 四魂具足という神のことばを、常住(じょうじゅう)座臥(ざが)(普段の行動において)真剣な気持ちで唱えまつることも、大切な修練の一つである。平田先生の御訓示の中に、「たとえば仏教信者が、眼がさめれば直ちに南無阿弥陀仏々々々々々々というように、会員たる者は、朝眼がさめたら直ちに四魂具足という心が真っ先きにおこるように四魂具足々々々々と心がけてもらいたい」とあるのは、まさに四魂具足の修練ということを教えておられるのであります。

 

    む  す  び

 日本人は氏神からいつでも四魂具足し得る素質をもっている民族魂を授けられているのであります。この民族魂を磨くのに魂の授け祖(おや)たる氏神にたよらずして他の外来信仰にすがるところに民族の悲劇が生じるのであります。

 日本人は誰でも四魂民族として 奇 荒 和 幸の四魂をもっているのでありますが、ただその四魂がバラバラに働いて些かも具足していないのであります。

或いは折角授かっている四魂のうち一魂または二魂もしくは三魂だけが働いているに過ぎないのであります。

一魂や二魂だけではその働きも微々たるものであるばかりでなくその反動も恐ろしいものがあるのであります。

ということは一魂や二魂だけが働く場合は、ほとんど動物霊が働くからであります。

 申し上げるまでもなく四魂は各魂が過不足なく渾然一体となって円満に互いに作用し合って働くところにその偉大な真価を発輝するのでありまして、その顕著な例は大国主命の国づくりにこれを見ることができるのであります。

 われわれ人間は神とは根本的に素質を異にするのでありますから、いかに四魂具足しても神そのものにはなれませんが、神格は得られるのであります。

(平田先生は人霊であられますが、本会霊界の会長として立派に神格を得ておられます)

 ここに「神は近づかず近づくべし」との教訓が生きているのでありますから、四魂具足に努力して一歩でも神に近づくように心がけねばなりません。人間は神でもなければまた動物でもなく、いわば神と動物との中間の存在でありますから、少しでも神に近づくように努力しなければなりません。

神さまは人間に動物霊が憑いている場合は人間と見倣さないと仰せられるのでありますから、つねに自覚と反省という自力によって第三霊の交代をはかり、ますます四魂具足をめざして努力しなければならないのであります。

 麦の穂ではありませんがわれわれの 奇 荒 和 幸の各魂は多くの場合不揃いでありますから、この点をよく自覚して反省して、足らざるを補い過ぎたるを制し、控え目にして四魂の各魂が一列に出揃うように心がけて頂きたいのであります。

 もともと真の惟神の道は地味で着実ではありますが、いかなる邪神邪雲も侵すことのできない偉力を有するのであります。同様に四魂具足は決して派手(はで)でなく且ついささかもハッタリめいたところはなく、地味で着実ではありますが、四魂具足によって神人感合を得た場合の威力は絶大なものがあります。

動物霊に牛耳られている他のハッタリめいた派手な行き方に目がくれておのが魂を失ってはなりません。どこまでもしっかりと大地に足をふまえて、地味に着実に辛抱強く、一歩一歩、四魂具足の道を辿るべきであります。

 「人間は辛抱ができない」という神さまのおことばは、四魂具足を心がける場合にもきびしい教訓となって心を打つものがあるのであります。

思うに辛抱強く四魂具足に努力しないのは、心に迷いがあるからであります。迷いは、神さまのみいつを信じ切れないことから生じるのでありますが、ここにも迷いを起させる邪悪な第三霊がわざわいしていることを発見できるのであります。

 「徳教は耳より入らずして目より入る」ということがありますが、四魂具足は満ち充たすべき教えでありますから、空疎な形式的なものであってはならず、どこまでも実践躬行(じっせんきゅうこう)(自ら実際に行動)さるべきものでなくてはなりません。いわゆる耳学問もゆるがせにできませんが、大切なことはお互いが「あの人を見よ」というくらいになって耳でなく目でもって四魂具足の教えの偉大さを感じ取らさせるように心がけたいものであります。

「あの人を見よ」ということは必らずしも富貴栄達ばかりでなくその人なりに物心共に安定して人格的にもすぐれていることであります。

 口舌の徒は実に多いのでありますが、ただそれだけでは自分もよくならないし、もちろん他をも教化できないのであります。

口さきだけではどんなに巧言(こうげん)令色(れいしょく)(こびへつらうこと)であっても、人間を欺いても神さまを欺くことはできないのであります。神は万事見とおしであることを忘れてはなりません。巧言令色は面従腹背(めんじゅうふくはい)すなわち表面だけは服従するように見せかけて、内心では反対することに通じるのであって、人間としてはきわめて下等の部類であります。

 まことに神を動かし、人を動かすものは、ただ一つ、四魂具足という「まごころ」で

あることを忘れてはなりません。

 でありますからお互いが素直にして謙虚に、自分は人間という四魂不具足の存在であることを自覚反省して、辛抱強く、足らざるを補い過ぎたるを制し、工夫し研究し修練を重ね、しかも地味に着実にしっかりと大地に足をふまえて、稜威信じて疑わずという確固(かっこ)不抜(ふばつ)(強い意志で動揺しない)の信念のもとに一歩一歩、四魂具足という「まごころ」に徹するように努力して、降る星のように注がれる神のみいつに浴しようではありませんか。

 そして氏子であると共に会員であるという氏神信仰の同時原則を実行して大神さまの大御神業に献身奉仕しようではありませんか。            
  
 

          (昭和四十年三月十四日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

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