宗  教  以  前   P9

 

    惟神会委員長            均

 

 本日は、本会創立満三十三周年を記念する(まこと)におめでたい日であります。

 昭和三年二月四日、平田篤胤大人命の並々ならぬ御努力によりまして、故岸会長先生は畏くも八意思兼大神さまを、この本部にお迎え申し上げたのであります。

 そしてその年の三月一日、はじめて氏神奉斎の儀が行われたのであります。

 かくして氏神奉斎が一〇〇柱に達しましたので大神さまのお許しを頂いて、その年の五月十九日に本会の発会式が行われたのであります。爾来幾星霜、ここに本日、満三十三周年の創立記念祭を御奉仕申し上げる次第であります。

 昭和三年以来今日に至るまでに、その間世相のあわただしい変遷に伴いまして、本会もまたその影響の(そと)にあることを許されませんでしたが、幾多の艱難辛苦を乗り越えて来たわけであります。それもこれもひとえに大神さまの大みいつの賜であります。

でありますから、本日の記念祭は単なる記念祭ではなく、大神さまの大みいつを感謝し、称えまつると同時に、われら会員たちは一致団結して教勢の発展のために勇往(ゆうおう)(まっしぐら)邁進すべきことを、心も新らたに大神さまにお誓い申さなければならないのであります

 申し上げるまでもなく、本会は宗教法人法に準拠した宗教団体であります。宗教行為をなすためには、好むと好まざるとを問わず、宗教法人法の埒外(らちがい)にあることは許されないのでありますしたがいまして、このかぎりにおいては、他の一般宗教団体と同一視されるのでありますが、問題はここにあるのであります。

 さりとてわれわれは、決してひとり孤高を持して他を蔑視するものではありません。   

 ただありのままに、本会の説く敬神崇祖の信仰こそ、わが大和民族固有の信仰であることを、このめでたい機会にもう一度、更めて認識して確信を深めて頂きたいのであります。

 いうならば本会の信仰は、宗教以前の信仰 であることに御注目願いたいのであります

 換言すれば本会の信仰は、遠い昔において先住民族が天孫直系の神々によって同化されて、一つの新しい民族すなわち大和氏族 ― 日本民族ができたと時を同じくして発生した民族信仰であります。

 わが国において、或る信仰が根幹となり土台となって、宗派や団体をつくって宗教行為を行うようになったのは、ズット後世のことであります、

 由来わが大和民族は、定住農耕民族であります。天照大御神は、天孫ニニギノ命をこの国に天降らしめられたとき、米をもって「民族の常食にせよ」という、かの有名な稲穂の神勅を賜ったのであります。

 でありますから、われわれの遠い遠い先祖は、風雪にもめげず農耕を(なりわい)として一定の土地に住みついてきたのであります。わが国は、山紫水明・風光明媚の国ではありますが、その反面、寒暑の差や季節的の台風などによって、古代人の農耕生活は決して安易なものではなかったのでありますが、かれらは勇気と忍耐をもってそれらの困難を乗り越えて、先祖からの土地を固く守って定住し、農耕生活にいそしんできたのであります。

 したがいまして先祖の恩を感謝し、先祖を崇ぶ気風は、主要な民族性としてつちかわれてきたのであります。

 しかも先住民族を大和民族にまで同化された神々すなわちニニギノ命の第一世の御子神たちは、各地方、地方に定められた領域を持たれて、民族同化の御神業を進められているのであります。

 でありますから先祖からの土地に定着して農耕生活を営んでいるからには、先祖の恩を感謝し先祖を崇ぶのは当然でありまして、その崇祖の念は、また必然的に先祖をして先祖としてあらしめた氏族同化の神にまします氏神に対して敬神のまことを捧げて信仰せざるを得なくなってくるのであります。

 しかもこの氏神は、それぞれ領域を持たれ、その領域内の民草に高いみいつを垂れ給うて、ともすれば、はげしい寒暑の差や季節的な台風によっておびやかされ勝ちな農耕生活を守護して下さるのでありますから、崇祖が敬神にまで達するのは、正に理の当然のことであります。

 そればかりでなく、天孫降臨の御神勅によって、敬神は崇祖にありということがハッキリと示されておるのでありますから、敬神崇祖の氏神信仰は、すでにはやく、大和民族発生の当初から民族固有の信仰になってしまったのであります。

 また奇・荒・和・幸の四魂が、過不足なく円満具足して発動するのが四魂具足の教えでありまして、この教えは、敬神崇祖の氏神信仰とは切っても切れない関係にあるのであります。

 ということは、氏神は四魂具足の真神霊であられると同時に、いつでも四魂具足し得る素質を有する魂をわれわれ日本人に賦与されているからであります。

 四魂具足とは一言にして申せばまごころであります。このまごころが、日本民族の満ち充たすべき道であり、絶対の道徳であります。有名な作家の佐藤春夫氏はその著「日本文芸の道」の中で、次のように述べております。

『我々の芸術の古い精神というのは(ほか)ならぬ「まごころ」なのだから、古今に通じ、新旧の境を超越している「まごころ」を取扱うのに方法の新旧などは末梢の問題の筈である。言い換えると、わが国の芸術精神の根元を「まごころ」に置いたという事が、わが国の芸術の無限の発展を意味していることにもなろう』

 佐藤氏は芸術の世界におけるまごころを指摘していますが、まごころはひとり芸術のみならず、日本人のあらゆる生活を通して支配しているのでありまして、このこころは、同時に祖神の心であるのであります。

 でありますから氏神信仰と四魂具足というまごころは、日本氏族に固有のものでありまして、また宗教以前のものであります。われわれは、われわれの信仰を惟神の道とか古神道と呼びますが、これは他の信仰や宗教と区別するための便宜上の呼祢でありまして、真実は、日本民族古有の信仰であり固有の教であります。

 逆説的に申せば、敬神崇祖、四魂具足という日本民族固有の信仰や教をば神道などと特別の名称で呼ばなくてもよいのでありますが、いわゆるさまざまの宗派神道や無数の他宗教と区別するために止むを得ず、このように呼称せざるを得ないのであります。このことは、わが国における信仰の混乱を如実に示しているのであります。再言するように、本会は、畏くも八意思兼大神さまの大みいつのもとに、平田篤胤大人命の仲執り持ちによって、故岸会長先生が組織されたのであります。

 でありますから、平田先生は、いまもなお霊界における本会会長として、御指導御監督をなされているのであります。本会は、宗教以前のものであるところの、日本民族固有の信仰の道を、系統的にまた組織的にとりまとめ、これを現代に生かして、日本人の全部をして、再び魂のふるさとへ還元させることを目的としているのであります。

 本会の信仰は、敬神崇祖・四魂具足という二大根元から成り立っているのでありますが、敢えて真の惟神の道と呼んで、これを他の宗派神道や諸宗教と区別せざるを得ないのは、日本氏族固有にあらざる信仰が如何に多数入り乱れて存在しているかという悲しむべき現実を直視せざるを得ないからであります。

 われわれは、これをもって他を蔑視してひとり高しとするものではなく、日本氏族として当然信仰し、当然充ち満たすべき道を強調して、日本人の全部がその信仰において、またその道徳において、宗教以前の状態に還元せられんことを希求して止まないからであります。

 再言しますが本会の使命は、宗教以前の信仰、宗教以前の道に、日本人の全部を立ち返えらせることを唯一の目的としているのです。

 或る中学校の校長が、生徒に『なぜ日本の国を愛するか』と問うたところ、かれは答えて『じぶんが生れた国だから』といったそうであります。

 いまさら言うまでもなく、日本人は日本人であります。どんなにもがいたり、あせってみたところで、われわれは日本人以外にありようはないのであります。

 マルクスは、一切の精神的なものはすべて物質的なものに随伴して変化するといっておりますが、これは盾の反面だけをいっているに過ぎないのであります、人間の精神というものは、民族固有のものでありまして、単なる物質的なものによってその精神の根元を変えることはできないのであります。

 国学院大学の安津教授が言っているように『日本人であるということは、政治的に国籍を日本に持つという意味ではなく、日本人らしく生きており、かつ、日本人らしく生きることを要求されている人種ということであります。つまり、日本の文化の中に生れ、育ち、息づいて行く人間、これが日本人であります』

日本人らしく生きるということは、宗教以前の日本の信仰を持ち、宗教以前の日本の道徳に従って生きることであります。換言すれば、日本民族固有の信仰に生き、日本民族固有の道徳のもとに生きることであります。

まことに世の中というものは、時々刻々進歩発展するに従って、世相もさまざまに変化します。でありますから神代ながらの素朴な明き清き直きまごころをもって.生きることは、困難でもありまた一見無用のように見えるのであります。世の中が、神々の世界から人間の世界へと変わってしまったのであります。

うわべだけを飾って、お互いに都合のいい便利な自己中心主義を生活の信条として生きている現代の人間の世界において、神代のままの純真な心、まごころを守り続けることは決して容易なわざではないのであります。それは単なる困難というよりも、むしろ至難なことであります。大多数の人々は、そんな困難を冒しながら時勢に合わない古の心を持つ事の意義すら認めないばかりか、却ってその馬鹿らしいことを嘲笑しているのであります。

 神代のままの純真な心、それは四魂具足というまごころであります。しかもこの四魂具足というまごころは、敬神崇祖という氏族固有の氏神信仰とは不可分、表裏一体となっているのでありますが、複雑に複雑を加えて行く現代では、そんな堅苦しく、御利益もあるのやらないのやらハッキリしない氏神信仰(真実は決して固苦るしくもなければ、また信仰相応のスッキリした偉大な御神徳も十分に頂ける)や、金しばりにあって身動きもできない窮窟な四魂具足(実際は四魂具足くらい融通無碍「ゆうずうむげ―拘束されない行動な生き方はない)の生活信条よりも、御利益本位の邪神信仰に走って、万事自分本位の御都合主義の生き方をする方が、より現実的であり、より効果的でありとして、世を挙げて滔々(とうとう)(乱れるさま)として古の精神をふみにじって顧みないのであります。

 一言にして申せば、宗教以前のものに生きる道を求めないで、宗教以後に生活の方便を求めているのであります。

 本会は団体としてはもちろん宗教以後の団体ではありますが、本会の奉ずる敬神崇祖・四魂具足の信仰は、正に宗教以前のものであります。

 人智の進歩と共に、末梢的な技術はますます発達しましたが、宗教以前の信仰、宗教以前の心の在り方に対しては、人智が進めば進むほど素直ではあり得なくなったのであります。それはちょうど、大人の心の方が、子供の心よりも賢くはあるが素直でないということと同じ道理であります。

 われわれは、どんなに世の中が進歩発展を遂げましても、日本人であるかぎりはどこまでも日本人以外にはなり得ないのでありますから、童心のような素直さをもって、もういちど、宗教以前の信仰と道徳とに立ち返って、日本民族として、本っ国の本っ心をしっかりとつかまなければならないのであります。

 東西文明の交流の激しい現代では、政治も経済も教育も文学も芸術も思想もすべて人間生活のあらゆる部門において欧米の影響から免がれないのでありますが、本っ国の本っ心の上に立っての東西文明の交流でなければならないのであります。

 まことに宗教以前のものが失われようとしているところに、現代の悲劇の根元が潜んでいるのであります。宗教以前に発生した日本民族ではありますが、日本民族固有の道徳は、日本民族固有の信仰につながって離れないという民族性を忘れて、すべての生き方を便利主義御都合主義の宗教以後のものに求めようとするところに、現代の混乱が絶えないのであります。

 再言しますが、本会の目的は、日本人のすべてを、その信仰において、またその道徳において、宗教以前の状態に復元させることにあるのであります。

 本会の霊界における会長であられる平田先生は、あらゆる困難に打ち克って、宗教以前の日本氏族固有の信仰である氏神信仰と日本民族固有の道徳である四魂具足の教えをば、畏くも八意思兼大神さまの大みいつのまにまに、広くわれわれにお示し下された唯御一方の御存在であります。

 われわれは、平田先生の御心を心として、日本人のすべてが、その信仰において、またその道徳において、宗教以前の状態に立ち返えるように努力しなければならないのであります。

 本会創立記念祭に御奉仕するにあたりまして、ますますこの感懐、この覚悟を新らたにせざるを得ないのであります。

 どうかみなさん、童心のように素直になって、この運動に邁進し、大神さまや平田先生の()(こう)(おん)(大恩)に報いまつろうではありませんか。

(昭和三十六年五月十九日 惟神会創立記念祭における委員長の講演要旨)

                                   以 上

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