原 因 と 結 果
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惟神会委員長 川 俣 均
物を燃やせば、炭酸ガスが発生するということは、物質科学における原因結果の法則であります。
ところが原因結果の法則は、ひとり物質科学の上ばかりでなく、精神の面すなわち霊的関係においても、明らかに作用しているのであります。次の一文は某新進作家が或る週間誌に寄せたものであります。
「……これは実話ですが一人の男がある日急に足が動かなくなった。便所にしゃがんでいる時、痛みを感じ下半身が麻痺(しびれる)したのであります。内科、外科すべての医者が調べても、その原因がわからない。結局、神経科にまわされました。
神経科ではこうした患者に昔の思い出を次から次にしゃべらす療法をとります。つまり何か心を抑圧している苦痛が、肉体の障碍(さわり、さまたげ)をもたらしていると考えるからです。この場合色々な絵をかいたカードをみせて連想反応を調べたり、絵を書かせたりしながら少しずつ患者の心を解放させていくわけですが、この男もこの治療をうけました。
そして医者たちは彼が戦争中兵隊の時中国で一人の老婆を殺し、その罪障感に悩みつづけていたことがわかりました。彼はその老婆がしゃがんでいる時に殺害したのです。この罪障感がそのまま彼の下半身の障碍となって出たわけです。
もちろん彼の揚合、この抑圧がとり除かれると同時に、足の麻痺も治癒しました。……」
右の一文は、霊的原因結果の関係を示している一例であります。結果のあるところ、かならず原因があるのであります。換言すれば、原因なくして結果はあり得ないのであります。
そこで善因善果、悪因悪果といわれておりますが、事実はかならずしも、このとおりではない場合もあるようであります。善人が窮乏し、悪人が繁栄するという例もしばしば見られるのであります。
しかしながら、世の中というものは、原因と結果との関係で運行して行くものでありますから、そこに時間的のズレはありましても、いつの時代にか、かならず善因善果、悪因悪果の法則が作用するのであります。
「親の因果が子に報い」「因果応報」などということばは、この間の事情をよくもの語っているのであります。
この原因と結果との関係について、昭和九年八月二目の神人交通は次のように述べているのであります。
問 原因結果の定律は、精神科学に於ても、物質科学に於けるが如く数学的にありますか。
数学的ではないのですか。
答 数学的であります。
問 信仰に於ても原因結果は、規則正しく数学的に現わるるものでありますか。
答 数学的です。
問 今日まで信仰しても其の原因結果が不確実であったという事は、信仰する神と信仰の
方法とが不完全であった為でありますか。
答 不完全のためです。
問 敬神崇祖の真の信仰を実行するならば、信仰による原因結果は、判然数学的になりますか。
答 判然となります。
問 本会は今日まで、之を判然と認め得る事の試験をさして頂いて居ったものと考えてよ
ろしくありますか。
答 よろしくあります。
このように原因と結果との関係は、霊的関係においても極めてハッキリしているのでありますが、この関係が明らかに現われないということは前掲交通にあるように、信仰を誤っているからであります。
すなわち敬神は崇祖に在りという真の氏神信仰にいそしんで、しかもこの氏神信仰の内容を成すところの四魂具足の教に忠実であるならば、原因と結果との関係は、それこそハッキリと数学的にさえ出てくるのであります。
われわれは、敬神崇祖・四魂具足の氏神信仰にいそしんでいるのでありますから、この原因と結果との関係をいちばん明瞭に認識し、且つ体得できる立場にあるだけに、現実に現われた結果については、つねに素直な心をもって反省しなければならないのであります。
悪い結果についての反省はもちろん、善い結果についての反省をもゆるがせにしてはならないのであります。
悪い結果に対しては悪い原因がある、四魂不具足の原因があるのでありますから、この場合には、心からなる反省懺悔と同時にその罪けがれを祓い清めるための祓行事を必要とするのであります。清祓、懺悔の祓が必要とされる所以であります。
このように祓行事を必要とするにも拘らず、なんとしても祓行事を行う心が起らない場合は、これは祓行事を妨げるところの邪神邪霊のしわざであると深く思いをいたして、勇敢に祓行事にまで踏み切らなければならないのであります。
また原因結果の法則によって、先祖の因縁による結果が後代に及んで現われる場合もあるのであります。この場合、先祖さまは、すでにその家の守りの祖霊(みおや)として祖霊舎に鎮まって、氏神さまの御指導のもとに四魂具足にいそしみながら浄化の一途を辿っているのでありますから、家長たるものは、かりそめにも先祖さまを恨んだり非難したりすることなく、甘んじてすべてをわが一身にかぶって祓行事によってその因縁を祓い清めるならば、悪因は解消されて善い結果がもたらされるのであります。
善い結果に対してはもちろん善い原因があるのでありますが、善い原因すなわち四魂具足に叶った原因が善い結果となって現われるからには、氏神さまの総代表であられる
八意思兼大神さまの大みいつ、氏神さまの御みいつ、祖霊さまの御守護なくしては不可能でありますから、この点をよく理解して、御神恩感謝のまことをいたすと同時に、ますます御神業のために献身すべきであります。
幸福でありたいことは、人間の誰でも望むところでありますが、なかなか思うに任かせぬのが人生であります。
でありますから、幸福という善い結果を得ようとするならば、まず四魂具足という善い原因を積み重ねることが先決問題であります。
と同時に、消極的ではありますが、不幸をもたらしている原因を、一つ一つ、克明に丹念に辛抱強く取除いて行く努力をしなければならないのであります。
何が自分を不幸にしているかということを心から反省して、その不幸の原因を取除いて行くならば、あとに残るのは、いやがおうでも、幸福だけということになってくるのであります。不幸の原因を除くためには、人間的努力はもちろんでありますが、大神さまの大みいつ、氏神さまのみいつ、祖霊さまの御守護を蒙ることができるように、信仰向上に努めると同特に信仰向上を妨げるあらゆる障碍を除去しなければならないのであります。
そのためには、祓行事の必要はもちろんでありますが、さらにまたことここに至った原因に対する反省を怠ってはなりません。昨日の自分と今日の自分とを比較反省して、そこにいくぶんでも信仰上の進歩が認められるか或いはまた逆に退歩のきざしはないか ということをつねに顧みる必要があるのであります。
金を儲けるという結果に対しては、ただやみくもに儲けようとすることよりも無駄費いしないという原因に忠実であるならば、お金はひとりでに残って行くのであります。
健康でありたいという結果に対しては、積極的にさまざまな健康法を実行することも大切ではありますが、消極的に見えても、からだを不健康に導くような原因を除くことを怠らないならば、自然と健康となってくるのであります。御啓示によれば、病気の原因は体霊と意識霊の不調和であって、その不調和の極端な場合が死であります。そしてこの二者の不調和をもたらすものは、邪悪な第三霊、第四霊の作用であります。
でありますから、健康であるためには、体霊と意識霊との不調和をもたらすところの邪悪な第三霊、第四霊の更代(改め代える)をはかるべきであります。
文豪トルストイは、小説「アンナ・カレニナ」の冒頭で次のようにいっております。
「幸福な家庭というものは、どれもこれも互いに似た様なものだが、不幸な家庭は、それぞれ趣を異にしている」
幸福な家庭と申しましても、これは主観的で解釈の仕方もあると思いますが、まずおしなべて一家が健康で円満、そしてその日の暮しも他人さまに迷惑をかけずにやっていけるとしたならば、まず幸福な家庭と申さなければならないと思います。
でありますから、幸福な家庭には、似たりよったりな共通性が見られるのであります。
ところが不幸な家庭の不幸となると、それこそ干差万別さまざまであります。
またそれだけに、人間に不幸をもたらす邪神邪霊の種類も千差万別であると同時に、かれら邪霊たちが人間に不幸をもたらす手段方法もまた干差万別であります。換言すれば不幸の原因となっているところのいかに多くの邪神邪霊が、いかにきびしく、そしていかに惨酷に人間を迫害しているかということであります。
さらに申せば、いかに多くの人達が、正しい信仰に目ざめないで、いかに多くの邪神信仰のとりこになっているかということであります。でありますから真に幸福であるためには、原因結果の関係が、ハッキリと数学的にさえ現われるところの真の敬神崇祖にもとづく四魂具足の氏神信仰に入らなければならないのであります。
このことは決して我田引水の手前味噌ではなく、民族の信仰は祖神信仰でなければならないという世界民族共通の民族信仰観から申し上げるのであります。
申すまでもなく日本民族の祖神は氏神であります。
この祖神信仰である氏神信仰にいそしみながら、なお且つ、不幸をかこつようでありますならば、その原因はその人自身にあることを深く反省しなければなりません。
前掲の神人交通は、この間の事情を極めて明瞭に断定されているのであります。
神に二言なしという鉄則は、この場合にもきびしく作用することを忘れてはなりません。
まことに人生というものは、原因と結果との関係で営まれているのであります。原因のあるところ、かならずその結果が生じ、逆に結果に対しては、それを生ぜしめたところの必然的な原因があるのであります。そしてこの原因結果の関係は、決して単純なものではなくむしろ複雑微妙ですらあって、人間の知力では十分に解明できない場合が多いのでありまして、そこに神の力の偉大なるはたらきがあるのであります。
まことにこの原因結果の大原則によって、世界の秩序が保たれ運行されているのであります。
よく昔から「蒔かぬ種は生えぬ」といわれておりますように、原因を作らなければ、結果は生じないのであります。
辛抱強く四魂具足を積み重ねるという「種を蒔く」原因によって、はじめて幸福という結果が生じるのであります。信仰向上のために努力もしないで、ただ御神徳だけを頂こうと考えることは駄目であります。蒔かぬ種は生えないのであります。
とかく世間には種を蒔かずに、実だけを得ようとする人が多いのでありますが、人間界も自然界も、すべて原因結果の関係によって運行されているということを忘れてはならないのであります。
この「蒔かぬ種は生えぬ」に対して、「蒔いた種は苅り取らねばならぬ」ということもいわれております。
これもまた原因と結果との関係を表わしているわけでありまして、自分の行ったことに対しては責任を持たなければならないことをいっているのであります。
四魂不具足の種を蒔けば、不幸という結果が生じるのでありますから、その結果は甘んじて受けるべきであります。自分の不信仰を棚に上げて、不幸の原因を他人に帰したりしてはなりません。また間違っても神さまや祖霊さまの御守護の厚薄を云々(以下を省略)すべきではありません。
四魂不具足の種を蒔いて、不幸という悪い結果が生じた場合、その責めはあくまで自分自身にあるのでありますから、その罪けがれを氏神さまに心から反省懺悔してお詑びすると同時に、身にふりかかっている不幸な結果はこれを甘んじて受ける、という素直な気持ちになれば、その不幸というものは意外に早く解消するものであります。
つまり「禍を転じて福とする」ことになるのであります。
このように原因と結果との関係は、人間界、自然界を貫いている世界運行の大原則でありますから、この大原則が最も端的に作用するところの敬神崇祖、四魂具足の氏神信仰にいそしむためには、「蒔かぬ種は生えぬ」「蒔いた種は苅り取らねばならぬ」の二つの諺をよく肝に銘じて、つねに神のみこころに叶うように、いわば「神は近づかず近づくべし」の信念のもとに、四魂具足の原因によって四魂具足の結果を得るように努力しなければならないのであります。
(昭和三十五年九月十一日 八意思兼大神月次祭における委員長の講演要旨)
以 上