四魂具足と常識 P9
惟神会委員長 川 俣 均
常識とは、専門知識と違って、普通一般人の誰もが知っていなければならないことです。
換言すれば、常識というものは、言葉となれば平凡であり、また行いとなっても万人共通の当り前の行いであります。
でありますから、なまじ学問などをした人は、平凡な、万人に通じるものは、なにかつまらないもののように考えがちでありまして、常識を軽蔑する傾向が強いのであります。
ところがこの常識が人間の社会生活にとっては、いちばん大切でありまして、言葉としては平凡でありますが、現実の問題としてはこれほど大切なものはないのであります。
『人間は食わなければ生きて行けない』といったところで、誰もこれを名論卓説とはいわず『そんなことは常識だ』と一言のもとに片付けてしまうでしょう。
しかし食うということは、現実の生活では最も大切なことでありまして 人間がこの常識を無視して食わずにいたら死んでしまうのであります。でありますから誰でも『食わなければ生きて行けない』という常識にそむくことはできないのであります。
このつまらないことが、実は人間生活にとって極めて大切であることを忘れてはならないのであります。
このように常識というものは、普通一般人の誰もが知っておらなければならないことでありますが、それと同時に、世間一般に通用するものの道理を理解したり判断する思慮分別のはたらきをもっているのであります。
したがいまして甲にとっては常識的であっても乙にとっては非常識と見えるものは、真に常識的とは申されないのであります。
換言すれば、時と所とを問わず、万人に共通して生活の指針ともなり思慮分別のはたらきをするものが常識であります。
父親が息子に向って、
『お前は常識はずれだ』としかります。
すると息子は反対に、
『お父さんこそ非常識だ』とやりかえす場合が往々見受けられます。
これは父親の生活環境と息子の生活環境とがちがっているので、そのかぎりにおいては当然親と子の考え方がちがっているにもかかわらず、お互いに自分の常識を相手に押しつけようとするところに家庭争議が起るのであります。
常識というものを、このように自分だけの狭い世界において考えてはならないのであります。常識は、親子夫婦はもちろん世間万人に共通するものでなくてはなりません。
ところで常識というものは、時と所とを問わず万人に通じるものでなければならないと申しましたが、実際に当ってみますと、過去においては常識的であったものが、現在では非常識とみえるものがないわけではないのであります。
戦前には常識的であったものが、戦後では非常識だといわれるものもあるのであります。またその反対の場合もあるのであります。
例えば戦前男女共学を唱えれば非常識との そしり(非難)を免かれませんでしたが、今
日では男女共学はひとつの常識となっているようなものであります。
しかしながら人間生活にとっては、時と所を問わず、舵ともなり指針ともなるものがなくてはならないのであります。
つまり人間の行いの舵であり指針となるものがなくてはならないのであります。
すなわち日常生活を生きて行くための心のもち方において、時と所を問わず、万人に共通するものがなければならないのであります。
これが 四魂具足 であります。
四魂具足に努力さえしておれば、人生をあやまることはないのでありまして、この意味において四魂具足は生活の常識であります。
常識というものは、生活そのものに間に合うものでなければならないものでありまして、人間から離れた遠いものであってはなりません。
孔子は『道人に遠からず』といっておりますが、その意味は『道というものは人から遠いものではない。もし道をなして人から遠ざかったならば、それは道ではない』ということであります。
でありますから、もし道を学んだがために、かえって人間から遠ざかるようになったのでは、それは道を実践したとは申されないのであります。
道とは、人間の充ち満たすべき道でなければならないのであります。充ち満たすということは 人間の生活に溶けこんで一体となることであります。
人間の生活と一体となるからには、人間の霊性に合致したものでなければなりません。われわれ日本人の霊性は、氏神信仰をすれば、努力次第でいつでも四魂具足し得る素質
をもっているのでありまして、この意味において、四魂具足はわれわれの充ち満たすべき道であります。
四魂具足は常識である と申し上げたいのは、実にここのところにあるのであります。
四魂具足は決して他所(よそ)行きのものではありません。
四魂具足は決して別の世界のものではありません。
四魂具足はどこまでもわれわれの身近かにある常識であります。
四魂具足をば、他所行きのもの、別の世界のものと考えるから、四魂具足を他人行儀視して、自分自身をいっそう固苦しくしてしまうようになり、折角頂けるみいつも頂くに由なくなって
しまうのであります。
『食わねば生きて行けない』ということが常識であるように『四魂具足しなければみいつがない』ということは、氏神信仰する人にとって立派な常識であります。
四魂具足という常識をはずれて、四魂不具足という非常識を敢えてするから、みいつを蒙ることができないのであります。
平田先生の御訓示のなかに、
『会員たる者は、朝眼が醒めたら直に四魂具足といふ心が真先に
おこるやうに四魂具足々々々々と心懸けて貰ひたいのであります』
とありますのも、四魂具足を常識として身につけよとの仰せと拝察されるのであります。
私がつねに、
「四魂具足は神のことばなり 反覆これを唱えまつれば神人感合おのずから成る
稜威信じて疑わず四魂具足を唱えまつるべし」と申し上げておりますのも、四魂具足を常識として身につけて頂きたいからばかりであります。四魂具足が常識であるということは、誰でもが持ち、また誰にでも通用する心のあり方であるからであります。
われわれの信仰は、神人一体の信仰でありますから、神さまに通じることができると同時に、他人に対しても通じるところがなければなりません。
いうならば神人共通のものでなければならないのであります。
ところが人間は生前どんなに修業しても、神と人とは根本的に素質が違いますので、到底神になることはできないのであります。
ただ残された道は、神人感合あるのみであります。この神人感合をもたらすものは、ただ四魂具足あるのみであります。
でありますから、神人感合を望むためには四魂具足ということを、つねに自分のものとして身につけておかなければならないのでありまして、ここ四魂具足は常識としてわれわれの信仰生活を貫かなければならないのであります。
畏くも八意思兼大神さまは、間違った信仰によって人をあやまらせないように、正しい信仰態度というものを万人に教えられて、一つの信仰の対象、信仰すべきものを与えられ、これを信仰してさえおれば、人間の生活をあやまることはないぞと仰せられて、われわれを氏神信仰にまで導いて下さったのであります。 すなわち敬神崇祖四魂具足の信仰であります。
氏神信仰をすれば、人間の生活をあやまらないということは、氏神信仰は氏神信仰と絶対不可分の四魂具足という絶対善の道徳律の実践を欠くことのできない条件としているからであります。
そこで四魂具足ということを、われわれの常識とするためには、四魂具足という神のことばをつねに唱えることがいちばん効果的でありますが、それにはただ四魂具足の素読(意義を解することなく、ただ文字だけを声を立てて読むこと)に終ってはならないのでありまして、四魂具足の内容をよく理解した上で唱えなければなりません。
奇魂のはたらき、荒魂のはたらきや和魂のはたらき、幸魂のはたらきをよく理解して、この四魂が過不足なくはたらく場合に始めて四魂が円満に具足することを念頭に置き、真神霊にまします氏神さまは、つねにこの円満具足の状態におられるのでありますから、われわれはこの状態に少しでも近づくように努力するのが四魂具足への努力であります。
昔の寺子屋時代には、最初は論語の素読ばかりを教えたものでありますが、訳はわからなくても読まないよりはましでありますものの、やはり読むからにはその内容や意義を併せ知らなければその効果は十分とは申されないのであります。
それかと申して、いわゆる『論語読みの論語知らず』で、書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得なくては駄目であります。
でありますから、四魂具足を常識として身につけるためには、まず四魂具足の意義をよく理解する(敢えてむずかしく考える必要はない)と同時に、四魂具足だけが神に通じるただ一つの道であることを信じて、御神前はもちろん時と所を問わずつねにこの神のことば四魂具足を唱えることが大切であります。
つまり四魂具足々々々々と唱えるうちに、自然と四魂具足の意義が頭に浮んでくるように修練する必要があります。
四魂具足の素読式唱え方も結構ではありますが、信仰の進歩向上をはかるためには、四魂具足の意義を理解しながら唱えるようにならなければならないのであります。
人間の知識というものは、世の中が進めば進むほど、ますます高まっていくのであります。ところが人間の知識は、かならずしも善い方面ばかりでなく、悪い方面にも影響を与えるのであります。
フランスの哲学者のベルグソンによれば、人間の知性というものは、どうかすると、人間の生活を破壊するおそれがある。なんとなれば、知性はまず利己的に発達するものであるから、人間は協同生活をしているにもかかわらず、まず自分自身を重く見るというような自己本位の考え方が、知性と伴って起ってくる。そこでその知性を抑えるために、知性を人間に与えた自然(物理学者のいう自然ではなく、一種の魂のようなものを持っている…宇宙創造の神とでもいうべきか)は、人間に対して利己的な自己本位的な知性を与えるとともに、それに対する反作用、つまり知性が利己本位になることを防ぐ反作用を人間に与えた…それが宗教である、というようなことがいわれているのであります。
すなわち自分だけを考えないで、人間を考え、社会を考え、世界を考えるようになるために、宗教によって人間の知性を善導しなければならないといっているのであります。
知識というものは、限られた或る特定のことがらによく通じ、よく知っていることでありまして、高低深浅の差はありますが、要するに専門的のものであります。
これに反し常識は常に識ると読まれるとおり、普通一般万人に通じるものでありますから、専門の知識が自己本位になったり社会悪に加勢したりしないためには、この常識というものが必要となってくるのであります。
知識人は、ともすると、常識的なことを軽視しますが、とんでもない間違いであります。ベルグソンは、知性を抑えるためには宗教があるといっておりますが、われわれをしていわしめるならば、その宗教をどんな宗教に求めるかということが問題であります。
そこでこの問題に解答を与えるものは、四魂具足という絶対善を不可欠の条件とする敬神崇祖の信仰であります。
でありますから、人間の知性を抑えるためには、四魂具足という絶対善によらなければならないのでありまして、それには、この四魂具足をひとつの常識として身につけなければならないのであります。
四魂具足は知識ではありません。
四魂具足は人間の常識であります。
常識というものは、時代により、場所により或いはまた人によって異なるかもしれませんが、四魂具足という常識は、時代も場所も人の立場も超越した常識であります。
過去も現在も未来も一貫した常識が、四魂具足であります。
この意味におきまして、四魂具足は、惟神会員の常識であり日本人全体の常識であり、さらにまた世界人類の常識と申しても過言ではないと思います。
現代のように混乱した時代に、道徳を説けば、とかく迂遠(まわりくどい)との そしり(非難)を受けるでありましょう。
しかしながら、迂遠とそしられてもそうした人たちが一人でも多くなれば、それだけ世の中はよくなっていくのであります。そしてそうなってゆくことだけが、真に時代の混乱を救う道であり、それ以外の道は、所詮一時のごまかしに過ぎないのであります。
この世知辛い世の中に、いまさら四魂具足を説いたところで、それこそ迂遠のそしりのもとに一笑に附せられるかもしれません。
しかしながら、この四魂具足だけが、この四魂具足という絶対善だけが、自分自身を救うと同時に世の中をも救うことができるのであります。
こう申しますと、たいへん、大言壮語のように聞えましょうが、これは、私が申し上げるのではなく、大神さまがかく教え導かれておられるのであります。
神に二言なし われわれはこの真実を信じ切らなければなりません。
信じ切るということは、これを身につけて実行しなければ何の役にも立ちません。
われわれの信仰は、宗教学、宗教哲学に終始してはならないのであります。どこまでも、宗教実学、宗教実践でなければなりません。それには、この四魂具足ということを、つねに常識として身につけなければならないのであります。
昭和五年二月三日の神人交通に、
「四魂具足の道に入ろうとする心を以って信仰すべきではなく、
四魂具足することによって、神は信仰をお認めになる」ということがあります。
四魂具足するためには、これを信仰するものの常識として身につけなければならないのであります。
四魂具足は、決して遠い別の世界のものではなく、その人自身にそなわるべき身近なものであります。
四魂具足ということを、神さまから始めて教えられたときには、それは一つの信仰上の知識であったでありましょう。
しかしながら、三十年を経た今日では、四魂具足は知識ではなく常識であります。
私がつねにみなさんに、四魂具足という神のことばを唱えなさいと申し上げておりますのも、この四魂具足をば、知識としてではなく、常識として身につけて頂きたい念願からであります。
(昭和三十三年九月七日
八意思兼大神月次祭における委員長の講演要旨)
以 上