世のため人のため P09
惟神会委員長 川 俣 均
本日は、畏くも八意思兼大神を本会に御奉齋申し上げた、まことに記念すべき日であります。大神さまは、もともと智慧の神 思慮の神 政治の神であらせられますが、本会へは氏神の総代表としてお鎮まりになられたのであります。実に 昭和三年二月四日のことであります。
氏神の総代表という意味は、次の三つに分けて考えられるのであります。
その一つは、氏神は天照大御神の御孫のニニギの命のみいつに成りました御子神たちであって、天照大御神の御神意のまにまに、日本民族同化のはたらきをなされておるのであります。
すなわち大神さまは、かつては天照大御神の相殿の神として、よろずことの御相談相手の立場におられた関係上、敬神崇祖四魂具足の信仰をあまねく国民に実践させて、完全な日本民族同化の大神業を遂行なさるために、氏神たちを統轄(全てを治める)されておられるのであります。
第二には、神界には、氏神たちを委員とする氏神委員会という組織があり、そのなかに委員長の神、副委員長の神が選ばれて、大神さまの大前で氏神会議が開かれるのであります。
そしてこの氏神会議を統率されるのが大神さまであります。
第三には、大神さまは第一第二の立場におられるので、氏神たちは大神さまの大みいつを蒙ることによって、各家庭にお鎮まりになり、またこの大みいつの故に、氏神としての全機能を発揮することができるのであります。
つまり、みいつの点において、大神さまは氏神たちの総代表であります。
以上申し述べました三つの理由から、大神さまは、氏神の総代表として、本会にお鎮まりになっておられるのであります。
まことに、大神さまは、敬神は崇祖に在りという日本民族本来の信仰でなければ、真に日本国家を救うことはできないという大経綸のもとに、氏神奉齋という大神業を創めさせ給うたのであります。
一口に国家の建て直しといっても、ただ単に産業や経済の面からだけでは、その全ては期せられないのでありまして、なんとしても民族としての自覚の上に立たなければ真の建て直しはできないのであります。
つまり日本民族魂というものを、しっかりと、われとわが心に認識することであります。
このためには、魂の与えオヤである氏神を信仰することが、ただ一つの許されたる道であります。
魂のふるさとに帰るということは、魂のよみがえりを意味するものであります。
古往今来、日本人はすべて同一素質の魂を氏神から授かっているのでありまして、この魂は、氏神を信仰することによって、いつのとき、いかなる場所においても、つねに四魂具足し得る素質を有するのであります。
日本人の魂は、四魂から成り立っておるのでありますが、肝心の信仰の対象がとんでもない方角違いのものであったり、また無信仰であったりするために、四魂具足という日本民族本来の在り方から、はるか遠い姿におかれているのであります。
大神さまは、この状態を御心配になって、敬神崇祖、四魂具足の信仰を宣べ広めようとしておられるのであります。
○
申し上げるまでもなく四魂は、奇魂、荒魂、和魂、幸魂の四つの魂から成り立っておりますが、その何れの魂の本質も、すべて国家、社会に対して役立つことを目的としているのであります。
従いまして、四魂具足ということは、単に自分の一身一家だけでなく、広く国家社会に役立つところまで拡大して解釈すべきであります。
西田哲学では、善とは社会に役立つことであるという意味に説いておりますが、しからば、どうすれば社会に役立つかという方法論に及んでいないのであります。
もっともこのことは、哲学の分野の外ではありますが、どうすればいちばん社会に役立つことができるかということが、真にわれわれの知りたいところであります。
大神さまは、われわれにこれを四魂具足、敬神崇祖という民族信仰の形において、説き明かしておられるのであります。
自分が救われるということは、結局、他人も救われる。他人が救われれば、結局、自分も救われる。これが四魂具足のほんとうの在り方であります。
四魂具足ということを、自分の一身一家だけに局限して適用しようとすると、なんとなく窮屈に考えられますが、これを自分の一身一家を通じて、広く世のため人のためになるように心掛けることと考えれば、心は大きく豊かにひらけてくるのであります。
自分を愛するということは、決して悪いことではないのであります。悪いのは、自分だけを愛することであります。
つまり、自分を愛するあまり、広い社会との関係を絶って、ひとりでつまみぐいをすることが悪いのであります。
いまの世の中には、このひとりでつまみぐいする人が、実に多いのであります。きびしい現実だからといえばそれまででありますが、これでは世の中は決してよくならないのであります。
自分も愛し他人も愛し、あるいは自分も利益し他人も利益すべきであるということは、いろいろな道徳倫理において、飽きるほど聞かされています。
ある道徳倫理の専門雑誌では、自分が幸福になるには世のため人のためにつくすことだ、と教えています。
しかしながら、言葉や文字の上だけで、世のため人のためになれと説いたところで、心からその気になることは、なかなか難かしいのであります。
文字や言葉だけで、世の中が幸福になれたら、こんなうまいことはないのであります。
科学が進歩発達し、人間の物質生活が向上するに従い、幸福な人よりも不幸な人が多いという事実は、言葉や文字の上の幸福談義では解決されない、何ものかがあることを示しているのであります。
いかに世のため人のためと説いたところで、ひとりひとりの人間の魂の問題を忘れたり気がつかなかったりしたならば、世の中は決して幸福にはならないのであります。
人間の魂を度外視して、世のため人のためということを説いたところで、それはちょうど、配給品を用意しない配給所の係員のようなものであります。
御承知のように、人間は魂の命じるままに行動するのであります。
惟神科学的に申せば、第二霊(意識霊または本霊)が第三霊(経験霊)を限定することによって概念が生じ、それが行動を起す原動力となるのであります。
この第二霊は、ひとしく氏神から授かったものでありまして、四魂具足し得る素質を有しますから、氏神信仰に入れば、この第二霊が第三霊を限定する力は、 ますます強くなるので、邪悪な第三霊は自然と退散して善良な第三霊と交代するようになるのであります。
従ってここに自然と、四魂具足が行いの上にあらわれてくるのであります。
でありますから、四魂具足につとめれば、心の底から世のため人のためにつくすようになるのであります。
氏神信仰がなぜ必要かということは、魂の問題と密接不離の関係があるからであります。
従来もまた現在も、多くの倫理や道徳の言説に権威がないということは、人間の魂の問題を忘れたり気がつかなかったりするからであります。
大神さまは、自他ともに幸福になるために、世のため人のためという四魂具足の教えを、われわれ人間に説き示して下さったのであります。
○
また大神さまは、敬神は崇祖に基かねばならないということを教えられたのであります。
敬神思想は、昔から沢山唱えられておりますが、一つとして崇祖に基いたものはないのであります。
氏神は魂のオヤであります。先祖は肉体のオヤであります。しかもこの先祖の魂(祖霊)は、ひとしく氏神から授かったものであります。
してみれば、われわれが肉体のオヤとして先祖を崇め尊ぶ以上は、この先祖の魂の授けオヤである氏神を崇め尊び、これに対して信仰のまことを捧げるのは、当然のことであります。
ここに、報本反始(祖先の恩に報いる)という人道の根本が成り立つのであります。
大神さまは、本会にお鎮まりになられて、『自分ひとりでは日本国家を救うわけにはいかない。 相談相手なり手足として氏神を世に出さねばならない』 という意味のことを申されたのであります。
また氏神さまは、『氏神には手足が必要である。手足とはすなわち氏子である』と申されたのであります。
氏神の手足であるところの氏子という意味は、現界では家長はじめ家族親族であり、霊界では祖霊ということであります。
氏神信仰につとめれば、氏神のみいつにより人間は現界で、祖霊は霊界でますます四魂具足の方向に進んでいくのであります。
祖霊が四魂具足化するということは、すなわち祖霊の淨化ということであります。また別の言葉で申せば、祖霊がところを得るということであります。
人間の信仰が進めば、祖霊の淨化作用はそれだけ強化され、また祖霊が淨化すればそれだけ人間の信仰も進むのでありまして、それはまさに車の両輪のようなものであります。
世のなかは淨化された祖霊が多ければ多いほど、世のなかは明るくなり幸せになるのであります。現代の不幸は、淨化された祖霊が、あたかも大海のケシツブのごとく、あまりにも少いところに原因しているとも申されるのであります。
でありますから、氏神のみいつにより、多くの祖霊がそれぞれところを得て淨化されるということは、それだけ世のため人のためになるのでありまして、世の中の不幸を救う所以であります。
大神さまは敬神崇祖の信仰をすれば、必らず祖霊は淨化されて、家族親族に対してはもちろん、広く世のため人のために、はたらかれるということを教えられたのであります。
○
以上申し述べました通り、四魂具足につとめるということは、自分の一身一家を通じて世のため人のためにつくすということであります。これが自他ともに幸福になる方法であります。
世知辛い現代に甚だ迂遠のように思われますが、これが神さまから約束された自己を救い他を救う方法であります。
見かけ倒しの幸福論は世間に横行していますが、所詮一時のごまかしに過ぎないのであります。また淨化された祖霊が増加すればするほど、世のなかは明るくなり幸せになるのであります。これも立派に世のため人のためになることでありまして、自分の一身一家の幸福の土台となのであります。
大神さまは、こうして敬神崇祖四魂具足の信仰によって、自分の一身一家を通じ世のため人のためにつくせば、自他ともに、幸せになることを教えられたのであります。
この大きな御恩に対しては、われわれはこれを肝に銘じて忘れてはならないのであります。
まことに敬神崇祖四魂具足の信仰こそ、世のため人のためになる信仰であり、自他ともに幸福になれる信仰であります。
従いまして、この信仰を世に広めれば広めるほど、ますます世のため人のためになり、ますます自他とも幸せになれるのであります。
換言すれば、この信仰を広める以上に、世のため人のためになるものはないのであります。これが大神さまに対し奉る唯一の御恩返しであります。
しかしながら、この信仰を広めるということは、決して生易しい道ではないのであります。どんなに険しい道でも、ないよりはましであります。全然道が見つからないほど、苦しいことはないと思います。しかし道が見つからないということは、われわれにとって、決して最後の場合ではないのであります。道が見つからない場合には、道を切り開くという手段が残されている筈であります。
われわれは、この信仰を広めるためには、あるいは険しい道を通らなければならないかもしれません。ときには道が見つからないで、途方に暮れることもありましょう。
しかしながら、われわれには道を切り開くという最後の手段が残されているのであります。
この道を切り開くという努力が、世のため人のためになると同時に、自分自身をも幸せにするのであります。
昭和三十年二月四日 八意思兼大神奉斎記念祭における委員長の講演要旨)