アメリカ村ユニオン



 アメリカ村ユニオンは、アメリカ村を愛する人達の集まりで、アメリカ村が生み出してきた文化の土壌を、より育てていこうというグループであり、6人の理事とそれに賛同する60人ほどのメンバーから成り立っている。この60人のメンバーは、主にアメリカ村の店主達で、それに加えてアメリカ村を愛する人達の参加が多い。
 基本的には6人の理事が町ぐるみのイベントを年2回程度企画し、実行にあたってはメンバーの人達が参加、協力していく。経済的には、毎回ほとんど自力でイベントを作り上げ、メンバー等の協力によって仕上げるが、どうしても予算のかかる部分はスポンサーを探すことになる。ユニオンの会計は、メンバーの参加金が最初1000円入金されるだけで、それ以外はない。非営利団体だ。けっして商店会組合ではなく、各店との営業的なつながりや、販売促進等を目的としていない。
 アメリカ村ユニオンは、82年6月「パームス」の日限萬里子さんの呼びかけに始まった。アメリカ村の約30名の店主達が、この時初めて同席し熱っぽい話し合いがなされた。この会合以後、アメリカ村ユニオンは、理事6名によって運営されていくことになり、82年9月の結成式、そして11月3日の第1回アメリカ村フェスティバルの実施へと進んでいく。
 アメリカ村フェスティバルは、アメリカ村始まって以来の町ぐるみのイベントであった。同じ日に行われた御堂筋パレードへの参加。バンに乗ったアメリカ村ユニオン理事でもあるマーキー谷口の移動DJと、それに合わせて踊る仮装した人達のローラースケートパレード。パレードのあと、アメリカ村の通称三角公園での様々なイベント。プロのローラースケートのデモンストレーション、インドネシア舞踊、漫才、ジャンケンクイズ、ストリートファッションコンテスト等々。これらはみな、有志によって無償で行われた。
 町中の各店は、それぞれにバーゲンセールや色々なサービスを展開した。この日アメリカ村は、数年前のピーク時の頃のように人があふれ、それぞれの店も売り上げを増やしたが、何よりも、この出来事を扱う新聞、雑誌、テレビ等報道関係の反応は想像以上に大きく、その反響で、その後のアメリカ村を訪れる若者の姿が再び増加した。
 その後、アメリカ村ユニオンは、半年後の第2回アメリカ村フェスティバル、美術展覧会「アート・アート' 83」等のイベントだけでなく、当時まだはしりであったミニFM局の設立で、大いに話題を呼んだ。
 一時低迷を続けたアメリカ村を盛り返したのは、このアメリカ村ユニオンであったといっても過言ではない。若者が自然発生的に作ったアメリカ村を、今度は再び自分達の手で作り直したのだ。
 若者の町は、若者が作る。若者の文化、若者の盛り場は、若者しか作り得ない。ところが、アメリカ村ユニオンによって再び盛り返したアメリカ村は、その後若者ではなく、資本家によって店も多く作られ、ファッションビルもでき、ついには大阪市と大阪21世紀協会によるアメリカ村のユニークタウン宣言が行われた。三角公園がイベント公園に改造され、毎日曜日にはいろんなイベントが仕組まれた。そして何より困ったことに、その頃からアメリカ村全体の家賃が高騰していったのである。
 今ではもう、若者がこの辺の1階に店を出すことなど、とうていできそうにない。そして最近では、東京からの出店も目立つようになった。これがアメリカ村の望む姿なのだろうか。正しい姿なのだろうか。

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