アメリカ村概略



 アメリカ村は、心斎橋筋から御堂筋をこえた西側一帯。エリアを少し広めに考えれば、北は長堀橋筋から南は道頓堀 東は御堂筋から西は四ツ橋筋までをいう。
 一時は大きな話題を呼び、各雑誌でも必ず取り上げられ、町ぐるみのイベントなどは新聞の社会面にも報じられたが、大阪の人でもまだここへ来たことのない人は多い。だが20代までの若者で、ここへ一度も来たことのない人は、おそらく5パーセント以下だろう。
 若い感性を刺激する町、それがアメリカ村なのだ。
 あるデータによると、ここへ来る人は、ほとんどが御堂筋側からやってくる。アメリカ村に近い地下鉄四ツ橋駅からやって来た人は500人の調査中1人だけであった。つまりは、心斎橋筋から若者だけが御堂筋をこえて。ぞくぞくとやってくるのである。
 ここには確実に若者をひきつける何かがある。それはひとことで言えば、若者の「文化」である。感受性が強く、不安な若い世代にとって、ここには刺激があり、安心がある。おしゃれな若者にとってはメインステージであり、日曜日の少年少女にとっては大きなおもちゃ箱なのだ。
 アメリカ村に今のように若者が集まる以前、ここで若者らしい所と言えば「VAN」の本社があったことと、そこのデザイナー等ファッション関係の人が集まる「ループ」という喫茶店があっただけである。あまり人通りもなく、ファッション業界の関係者が少し目立つ程度で、ほかにこれといった特徴はなかった。町並みには、住宅と事務所、倉庫が目立ち、店と言えば町の雑貨屋さんくらいのものだったらしい。
 ただここは、心斎橋から2〜3分の距離にしては大きなビルもなく、空が広い。公園もあって土と緑がある。
 1975年頃、アメリカブームとサーフィンブームの中の若者は、ミナミへ来てこの土と緑のあるアメリカ村周辺を遊び場にしはじめた。そしてその頃、ここにサーフショップや古着屋ができはじめた。
 ここに店ができたのは、それに十分な若者が集まってきているからではなく、ただ単に家賃が安く、心斎橋筋に近いことが理由であった。ここに最初にできた古着屋は、事務所ビルの2階の奥といった、普通ではおよそ考えられない場所であった。他の店も倉庫を手作りで改装したものや、自分でペンキを塗って仕上げた所が多い。
 店主がアメリカ滞在中に見た多くの古着のおもしろかったことと安かったこと、それをそのまま日本に持ち帰って商売にしてみたら、飛ぶように売れた。品切れになってすぐまた、アメリカへ買いつけに行くといった具合に、かなり急速に彼らの商売は軌道にのっていった。
 こんな所にできた店を見つける若者の感性、そしてそれが皆に伝わる伝達速度の速さ、そしてまた、そんな場所まで足を運ぶ行動範囲の広さ。これが若者の町を作る力である。
 その頃の古着とアメリカ小物は、若者の感性に大いにウケた。古着屋も忙しい頃は月に2回もアメリカへ買いつけに行ったという。
 輸入代理店等を使わず、自分達の目と感性で選んだものを自分達で買ってくる。若者と同次元の感性を持った店ができるわけだ。
 古着屋も増え、サーフショップも増え、集まる若者も増え、1978〜9年アメリカ村はピークに達した。
 ここへ来れば、今のアメリカがあり、アメリカへ行かなければ見れなかったもの、買えなかったものがある。ここはアメリカと直接パイプで結ばれた町なのだ。
 それまであたり前のように東京の文化を受けていた大阪が、この時、東京と全く関係なく独自の文化を生んだのである。
 アメリカ村は、全国的なサーフブームの震源地となった。若者雑誌やファッション雑誌がこぞって取材にやってきてアメリカ村の店々はスター的な存在になった。サーフファッションに関して言えば、この時、東京は大阪より2年ほど遅れ、東京の方がローカルになった。ファッション雑誌もアメリカ村ファッションを後追いした感がある。
 しかし、この頃をピークとして、アメリカ村もやや苦しい時期を迎えることになる。
 サーフブームが去り、アメリカ指向の若者が、少しずつアメリカ村から離れはじめたのだ。
 集まる若者の姿も減りはじめ、店々の売上もピークの頃に比べるとかなり落ち込んだ。閉める店も数軒あり、そこにはまた、新しい店ができて、交替がはじまった。
 だがけっして若者の町アメリカ村としての価値が下がったわけではない。それはピークの頃に比べて見劣りはするものの、全国的に言って代表的な若者の町であることに変わりはなく、感性の強い若者は、やはりここを遊び場とした。店も相変わらず増え続けた。
 そしてこの時、「アメリカ村ユニオン」が生まれることになる。

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