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◆阪奈間鉄道施設の夢◆
当時の日本はといえば、日露戦争の勝利、産業革命の進行による資本主義発展により社会が大きく変ろうとしていた時代の最中にあった。しかし、日露戦争後に好況の反動から1907年(明治40年)頃から金融・産業界では企業倒産が拡大し、不況は慢性化の様相を呈していた。所謂、≪明治40年恐慌≫。
鉄道界に目を向けると、関西地域では明治38年に阪神電気鉄道、明治43年には現阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道、京阪電気鉄道が相次いで開業をした。
阪奈間にも明治39年に電気鉄道施設の計画を具体化する動きが浮上をし、同年の5月から7月にかけて阪奈間の軌道施設が出願されている。大軌奈良線の原案と見られるその内の主要な3派の計画は以下のとおり・・・
◎大阪奈良電鉄
明治39年5月21日出願。大阪府市の有力者、代議士を中心とする土居通夫氏ほか13氏(のち31氏追加)による。大阪市南区松屋町〜奈良市猿沢池畔間。
◎阪良電鉄
明治39年5月27日出願。京釜鉄道(韓国)発起人に奈良市在住者が加わった竹内綱氏ほか17氏(のち13氏追加)による。奈良市三条通〜大阪梅田停車場前間。
◎大阪奈良間電鉄
明治39年7月29日出願。大阪市南区有力者と沿道地主らを中心とする石川市兵衛氏ほか9氏(のち20氏追加)による。城東線(現大阪環状線の一部)玉造駅踏切〜奈良市三条町間。
これら3派のほかにも数多くの計画が存在し出願された模様であるが、内容検討の結果として上記3派が最終的に残る形となった。そして、残った3派についても計画の細部は異なるものの、概ね阪奈間の鉄道施設を目指すという最終目的においては差異は無いことから、大阪府と奈良県の当局者もその対応に苦慮を強いられることとなった。そこで最終的には、両府県当局からの勧奨により3派統合の動きが加速、明治39年11月29日に上記3派の合併契約が締結されるこことなった。合併後は社名を≪奈良電気鉄道株式会社≫とし創立委員会が作られ、同年12月5日には発起人105名とする、大阪(大阪市東区上本町6丁目154番地)−奈良(奈良市三条町24番地1)間の電気鉄道施設特許申請が行われたのであった。翌40年4月には大阪−奈良間鉄道施設の特許状が交付され、6月には社名を≪奈良軌道株式会社≫へと改称。阪奈間鉄道施設の夢は、具体化に向けて動き出したのである・・・
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