■解説
このインタビューは単行本でいうと第3巻にあたる頃に行われたものであるから、当然その当時相応の作者コメントとして認識しておいた方が良さそうではある。この時点で発言されていることが、そのまま現在の作品に当て嵌まるわけではないからだ。
そうすることで特に良く見えてくるのは、作者のアドリブ感(ライブ感覚)の強さだろう。
一見、綿密な企画意図に沿って創作されているかのように語られている『魔法先生ネギま!』だが、実際は作者自身が敷いたレール通りに動いているのではなくて、その時々の状況に応じて方向性を変化させていることが、このインタビューと、現在の作品内容を比較してみることで理解できてくる。
例えば「大体中学三年生をメインにしてプラスマイナス一〜二年に見えるような感じで」とは述べられているものの、実際にはどう見ても中高生とは思えないクラスメイトが多かったり(体型が幼稚園児並のや、身長180cmを越えるのや)するだけでなく、「ずーっと読んでいくと個性が見えてくる」という慎ましいレベルではないくらいに、一人々々の個性や特徴も相当強いものになっていると思う。
やろうと思えば、もっと髪型や髪の色を地味に統一したり、ささやかな違いによって個性の味を演出することだってできたかもしれないが、流石にそこまで没個性に徹してはいない。
企画の段階では「没個性」を狙っていたとは言え、それはコンセプト止まりの話であって、頑固に貫こうとしていたわけではなさそうだ。狙いが部分的にでも成功していれば、それで充分ではあるだろう。
このような「狙いと実際との食い違い」は、作者自身の性質と、週刊連載という形態自体の性質の双方から由来していると考えても良い。
赤松健が良く用いる言葉に「逃げ道は欲しい」、「迂回するのが好き」というのがあって、麻雀でいう「決め打ち」になるような方針は好まないことが窺える。だから元々、フレキシブルな対応に耐えうる柔軟なコンセプト作りをしつつ、自身の「アドリブ感覚」に頼って連載を乗り越えてきたのが今のネギまだと評せるだろう。さてはもしかすると、文字通り「迂回」しているのが現状で、後から本来のコンセプトを取り戻せるようにしているのかもしれないのだし、「コンセプトが守られていない」と早合点するのもまた禁物である。
それと週刊連載の特徴として「一話あたりのインパクトが重視される」傾向がどうしてもある為、キャラクターごとの個性も自然、強調されがちになっていく道理だ。なによりコンセプトを厳守することばかりに拘っていては、ストーリーの面白味を損なうことだってあるだろう。当初の狙いを徹底しつつ、なおかつお話として面白く……などという完璧主義には、週刊連載の形態はあまり向いていない。
だからもし仮に、ネギまが週刊誌ではなく、月刊誌でゆっくりと連載している作品だったとしたら、「没個性の面白さ」を狙い通りに徹底した作品が見られたかもしれない。しかしそれはまた別の話である。
最後のコメントにある「みんなに喜んでもらうということ」のくだりは、≪赤松健発言集1:「大衆娯楽」≫の内容とも通底する、作家論的に興味深い部分である。
ここで注意して読むべきなのは、「極論すると〜」という表現の部分だろう。これは良く考えてみれば、「極論」というより、漫画家・赤松健としての「理想論」なのではないかと思う。
実際の人間がクリエイティブな作業をする上にあたって、「自分のやりたいことを100%しない」、そして「人に喜んでもらえることだけをする」ということは、まぁ普通に考えてみて、到底不可能なこと
だし、現実的だとは思えない。
「ありえない話だが、できるならばそうでありたい」。あるいは、「読者にはそう思われていたい」という願望が「極論すると〜」という発言の中に込められているような気もする。それほど
「自分のエゴイズムで創作すること」に抵抗感を持っているのかもしれないし、本心から「自分自身の楽しみよりも他人の楽しみを優先したい」と宿望しているのかもしれない──。
他のインタビューの場においても、赤松健は「ヒロイン達のデザインや性格は、先生の好みなんですか?」という質問を投げかけられた時に、いつも「
私の好みじゃなくて、読者の好みです」と(はぐらかして)答えているようなのだが、これも「できるならばそうありたい」という気持ちから発せられているのではないだろうか。
ここで唐突だが、漫画家・山口貴由の発言を引用することで、この解説の締め括りとしたい。上記の問題に比べて非常に対立的な意見ではあるが、決して矛盾しない考え方であるとも思う(しかし、当人達は反目しあうかもしれない)。
両極端な両者の姿勢の間に、何か感じ取れないだろうか。筆者としては、どちらの立場も共に支持できる。
──『シグルイ』をこんな読者に読んで欲しいというのはありますか?
過去の作品には、こんな読者というか、ある特定の個人に向けて「読んでくれよ!」というのがあったんですけど、今回はないですね。僕が、おもしろい、凄い、と思える作品を描いているだけです。
本当は大勢の人のことも考えないとダメなのかもしれないけど、人それぞれの心のうちを僕は読み取ることができないし、理解するすべももたない。
だから僕は自分が表現したいことを描くのが一番の目標で、どう受け入れられるかまで作戦に組み入れてないし、入れちゃダメだと思ってるんですよ。<中略>
動物園で虎を見るよりは野性の虎を見たいでしょう? 本物を見たいし、描きたいですね。
──「大勢の人のことなんか考えない」って、ずいぶん過激な考え方ですね。
考えないんじゃなくて、考えてもわからないんですよ。
僕自身、大勢の中の一人だし、大衆ですから。
このやり方で充分戦えると思っています。
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/インタビュー『シグルイ』(『大阪芸術大学 大学漫画』Vol.1より) |
「考えないんじゃなくて、考えてもわからない」「人それぞれの心のうちを読み取ることができない」という言葉の中に、赤松健が言う「極論」を実現することの困難さが述べられていると言ってもいい
かもしれない。一方、赤松健は同人誌『ネギま!で遊ぶ‥‥エーミッタム!!』内のインタビューで、その「読者の心のうちの探り方」についての(意外にも、イメージや感覚を頼りにした)私見を述べている為、可能ならばそちらも参照されたし。
「自分が表現したいことを描くのが一番の目標で、どう受け入れられるかまで作戦に組み入れてない」という姿勢は、赤松健の「自分のやりたいことはあんまり入ってない。それよりもみんなに喜んでもらいたい」という姿勢と、綺麗な対称形を成している。
ただ、山口貴由も「本当は大勢の人のことも考えないとダメなのかもしれない」と自覚しているのだし、以前は他者に向けて創作していたことも確かなのだ。今、山口貴由が「このやり方で充分戦える」と言い切れてしまうのは、漫画家として一定のキャリアを重ねて成功してきた(読者を楽しませてこれた)「裏地」に支えられているからに他ならないだろう。
山口貴由の才能は世間から求められていて、幸いにもその期待に応えることができたということなのだ。
それは結果だけを見てみれば、「読者に受け入れ」られんが為の創作態度であり、決して自分本位の考え方ではない。もし『シグルイ』が前作以下の評価しか受けなかったとしたら、山口貴由はどう考えただろうか。
そして反対に、赤松健のようなタイプの漫画家であっても、現実問題として突き詰めた所では「大勢のことを考えないで」創作しなければならない部分が多くを占めるのではないかと思う。「自分のやりたいことはあまり入ってない」と言えども、それはあくまで比率の問題であろう。
それに、作者自身の意志や企図がどうであれ、一読者として「コク」のある面白味を感じてしまうのは、やはり作者のそういう部分──本人の「裏地」に支えられた部分であるのも確かなのだ。
≪赤松健発言集2:赤松健インタビュー@『季刊エス』第4号≫・了
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