赤松健発言集2:赤松健インタビュー@『季刊エス』第4号(1/ 1)
『季刊エス』第4号 表紙  『季刊エス』第4号は2003年10月1日発行。マガジン本誌で「エヴァンジェリン編」が連載していた時期に取材されたものだと思われる。
 インタビューの他にも、第16話におけるモブシーン(単行本3巻p6-7)の作画解説、「背景のバンク化」に関する解説、第14話のネームの解説、などの記事が組まれていた。
 以下に、インタビュー本文、およびそれに伴った註釈、欄外コメントのみを引用した後に、筆者による解説を加えさせて頂いている。

取材:木阿野マルコ


──『魔法先生ネギま!』の第一話をみて「すごい漫画が始まった!」と思ったんです。

赤松 『ラブひな』が終わって、編集部が当然似たような作品を期待してるというのは感じてたんですよ。でも、また同じものをやりたくない。『ラブひな』で私のやりたいことや個人的なテンションはわりと達成されてしまったので、もう一本同じものをやったときに、多分テンションが保てない。それで(新しい作品では)とりあえず読者&自分自身をびっくりさせたいと(笑)。ハーレム形のラブコメっていうのは『ラブひな』でほぼ完成したと思っているんで、今度はもっと大規模にやるしかないっていう感じですよね。それで単純に人数増やしたっていうのはあります。それと、映画の「指輪物語」もそうですけど、ちっちゃいキャラがCGで、画面の隅っこを見ても一個一個が意志を持ってメキメキ動いてるのを見て、そういうマンガを手作業でやってみたいなっていうのはありました。
──『ネギま!』では、コマの隅っこのキャラクターまで、本当にきちんと描き込んでありますよね。

赤松 『HUNTER×HUNTER』のハンター試験(注一)で、最初に(モブの中で)小さく出てきてたキャラが、あとでまたちゃんとした役割を与えられて出てくるじゃないですか。それで、前の回を見直して「ああ、ここに本当に(そのキャラが)いる!」って。そういう何度でも見直せるっていうのは、ちょっと真似したいなと思いましたね。そのために、相当前から(キャラ設定を)作り込んで、隅っこのキャラまできちんと描く必要があったっていうのはあります。
──人数を増やすというところで、学園ものとか、クラス単位で、っていうアイデアも生まれてきたんですか?
赤松 最初に考えたのは車とかが出てくる……『機動警察パトレイバー』(注二)みたいなのをやりたくて、そういうネームを描いてたんですけど、なんとなく編集部としてはやっぱり「ラブひなっぽいやつをやってほしい」みたいなのはあって……。編集部から出てきたのかな、巨大学園でっていう話を聞いて、十年以上前に『蓬莱学園』(注三)とか『聖エルザクルセイダーズ』(注四)とか巨大学園ものっていうのもあったんで、そこらへんからスタートしてますね。一番最初はノーベル賞をとっちゃった少年が先生になる物語だった気がします。そこのところに、当時流行っていた某魔法少年を入れて(笑)、「あ、なんかいいな」と思い始めたのがだいたい(二〇〇二年の)十月くらいかなあ。それからネーム描いていって、編集会議は一発で通りました。
──キャラクターの作り込みに関してもお伺いしたいんですけど、どういう風に作り込んでいったんでしょうか。
赤松 自分はポケモン方式って呼んでるんですけど、女の子のカタログ化ですね。特に「モーニング娘。」のグラビアなんか見ると、フォーマットでポンポンと並んでいて、大人から見ると没個性なんですよね。大人にはどっちがツジかどっちがカゴかわからない(笑)。でも、そういう女の子のカタログ化っていうのはファッションのひとつのような気がしてたんです。それで、最初に女の子たちの名簿を載せました。名簿を見ると、一件没個性で、名前と顔なんかちょっと結びつかないと思うんですけど、ずーっと読んでいくと個性が見えてくる。「最初から各キャラにすごく個性があるよ」っていうんじゃなくて、似たような女の子のまとまったカタログみたいな感じなんだけど、あとから見て徐々に愛着が湧いてくるような、モー娘。の売り方みたいなのを真似したいなと思ったんですよ。だから『ネギま!』でも、そのうち第何期みたいにキャラを増やしていこうかなと思ったり(笑)。まあ誰かを落とすことは無いと思いますけど。
──例えば、強気の子がいれば弱気の子もいる、というバランスなどはお考えになったんですか
赤松 バリエーションに関しては、例えば「武闘派」とか「いまどきの一般人」とか「図書館」だの「幽霊」だの、要素をどんどん考えていったんですよ。落語に三題噺っていうのがあるじゃないですか。それと同じ作り方で、どんどん要素を組み合わせてキャラを作っていったです。これまで作ったキャラの中で、一番変な組み合わせなのは「黒人」で「巫女」で「スナイパー」(笑)。みんな大爆笑して「これイロモノ過ぎるよ」とボツにしようと思ったんだけど、ちゃんと登場してます。そういうふうに、「幽霊でなんとか」とか、「引きこもりでなんとか」とかいう感じで組み合わせを考えていって、それで「この組み合わせなら(外見は)こんな感じかな」と絵を描いて肉付けをしていきました。
──それだけの要素を考えて、組み合わせて、というのは大変な作業だったのではないですか?
赤松 実は、各キャラに担当者がいるんですよ。『ネギま!』はアシスタントと私含めて四人でだいたいの設定作ったんですけど、すべてのキャラは四人のうちの誰かが担当しているんです。ネームを描くときも、迷ったらキャラの担当者に相談する。そうすると「このキャラには、実はこういう裏設定があるんですよ」っていうのを各自考えてるわけですよ(笑)。私はその分、あんまり担当しないようにしてます。そういうふうに分担して考えた方がバリエーションが出ますよね。
──担当者のかたも、考えてくれっていわれると、じゃあ面白いの考えなくっちゃと思いますよね! 最初から分担して考えようと思われたんですか。

赤松 そうですね。いろんなスタッフの個性をなるべく引き出して、自分は楽したいと(笑)。それに、そのほうが、私だけがいいんじゃなくて、客観的にみんながいいと思うものができる。アシスタントたちにもいいと思ってもらえるものを描きたいし、そこからみんなのやりがいとかも出てくると思うんです。だから、ネームができたらまず編集者のOKをとって、その後はアシスタントに見せるんですよ。で、アシが難色をしめすと(ネームを)直します。だけど難色をしめしたからには最後まで責任を持って作画に付き合ってもらいます。
──客観的にとらえるというところについても、やっぱりアシスタントさんの役割は大きいですね。

赤松 もちろん。うちは『ラブひな』の頃から、ずっと同じアシスタントに手伝ってもらってるんですよ。他からはあんまりこないし他にも行かない。非常に独立した、ホワイトベースみたいな(笑)。独自の進化を遂げている感じです。
──作画に関しても、特にモブシーンなどはアシスタントなしでは描けませんよね。

赤松 モブシーンなんかだと、もう力技でやるしかないんですよね。ちゃんとやるしかないんですよ(笑)。他の作品だと、敵の戦闘員は同じヘルメットをかぶってたりできるんですが、こっちはヘルメットかぶれないんで、しょうがないんでネチネチ描く。(第一話の駅の改札シーンを描きながら)ヤバイな、と思い始めたんですけど(笑)。
──やっぱり「描き込まなくちゃいけない!」っていう使命感みたいなものはありますか。

赤松 ありますね。まぁ、うちの読者はものすごく細かく見てるから。細かい所をチェックしてきてるんで、こっちもそれに応えて細かいところまで描いてます。
──大きなコマの使い方、画面の見せ方とかも、『ネギま!』になって工夫されてる所はありますか。
赤松 もともと私は、カメラのレンズでいえば望遠の方が好きだったんです。だから、手前の人物がアップの時は後ろの背景などはボケていた。それが最近は広角が多めになってきています。キャラクターみんなを画面に入れて、しかも背景や奥のキャラクターにまできちんとピントを合わせている。そんな違いは確かにありますね。
──背景などは、CGで作られて使い回していると聞いたのですが。

赤松 『ラブひな』の頃から、背景を描いておいてバンク(注五)していたんですよ。今では更に進歩して、教室などの背景は3Dモデルで作って、グリグリ回転させたりして使っているんです。ソフトは「ライトウェーブ3D」を使ってます。教室データは全部あって、アングルの変更とかレンズの効果とかもつけられます。教室の他にも、プールとか風呂場とか明日菜の部屋とか、ほんとしょうもないものまで(3DCGで)作ってます。わりと読者に気付かれない感じで作ってますね。(3Dで作った背景は)ポストスクリプトプリンタで出して、トーン処理をしたあとに人間を合成してます。合成と言っても、(キャラクターを)チョキチョキ切って貼り付けるんですけどね。そういう場面では、キャラクターの周辺に白いフチができます。だから、キャラクターに白いフチが付いている場合には、大体(3Dで作った背景の上にキャラクターを)貼ってるんですよ。
──そのような背景データは事前に作っておくのですか。
赤松 いや、そのネームができてから、割と急いで作ってます(笑)。
──キャラクターの合成というところにも関係するのですが、モブとしてコマの隅に登場する女の子っていうのは決められてるんですか? 誰を出して誰を出さないか、とか。
赤松 にぎやかしのやつは決まってますよ。桜子とか、委員長とか、双子とか。まあ(席順が)一番前に座ってるやつらですよね(笑)。後ろの方のやつらは、まあ、くだらんと思ってるんじゃないですかね。それで特に、ムードメーカーの桜子あたりはだいたい「キャーッ」って叫んで何をするか決めてしまう。
──前の方の席だと露出度も多い。
赤松 必然的にそうなってきますよね。あと席順に関してはわりと(読者から)メールが多いんです。「双子の席順が入れ替わってます」とか。でも双子が入れ替わってるのは、わざとやってるんですよ。この子たちはよく入れ替わって座ってるんです(笑)。
──そういう裏設定もあると(笑)。あと、一つのクラスの中で、年齢的な差がつけられないじゃないですか。それは相当苦労するポイントじゃないですか。
赤松 ロボがいたり魔法使いがいたり幽霊がいたりすると、バリエーションはつけられますけど、絵的に似たようなやつばっかになっちゃいますよね。でも、「バリエーションをつけなくちゃいけない」っていうのがやっぱり先入観だったっていうのがあるんです。要するにさっきモーニング娘。って言いましたけど、没個性っていうのが狙ってたものなので、そんなに(個性を)つける必要性を感じなかったんですよね。それでも、子供っぽいのや大人っぽいの用意しましたけど、(キャラクターの)絵としては大体中学三年生をメインにしてプラスマイナス一〜二年に見えるような感じで決めているんです。
──そういうところで逆に、集団の面白さみたいなところが出てくるんですね。
赤松 モーニング娘。は歌って踊ってる時のフリは一緒であって欲しい。そういう意味でキャラクター全員に制服を着せたかったんです。私服には絶対したくなかった。やっぱり、その辺では『ラブひな』とは相当違っていますね。『ラブひな』では、本当にありえないくらいな服を着ていて、それは衣装で個性を出そう出そうと努力してたんですけど、そこらへんは『ネギま!』ではやめています。
──じゃあ今後も私服はあまり出ないのですか?
赤松 私服は、たまに出るとわりと色っぽい感じなんで(笑)、ここぞっていうところで出してます。全員が寮生ですから、夜はパジャマとかになったりしますしね。結局、寮に住んでるっていうのもまず没個性ですよね。ハリーポッターなんかでも、やっぱり寮でみんなで食事をするときは、ずらーっと並んでいて個人個人はあんまりよくわからない。でも、それが面白くないかっていうと、逆に壮観だったりするわけですし。それに(モブの中のキャラクターを)よーく見ると、あとで活躍する子がなんかしてたりするかもしれないし。
──最後に、一番聞きたかったことなのですが、『ラブひな』や『ネギま!』の主人公は少年なわけですが、その少年たちに赤松さんご自身の少年の時の願望、憧れ、夢だったりが反映されているんでしょうか。
赤松 『ネギま!』の主人公を十歳にしたのは、『ラブひな』の時には大きなお兄さん達に支持してもらっていたので、今度はネギくらいの少年や女の子に読んでもらいたかったんです。じゃあ大きなお兄ちゃん達はどうすんのっていうと、三十一人の女の子に相手してもらうんですけど(笑)。だから、『ネギま!』の方は、私の少年の時の妄想とかっていうのは少ないですね。私の中にあるのは『Aiが止まらない』のひとしとか、『ラブひな』の景太郎みたいな、もてなくて浪人でオタクで、という感じ(笑)。ネギみたいに、みんなに可愛がられる少年みたいな要素っていうのは、わたしの中にはないなー(笑)。

 

魔法先生ネギま! (1)

魔法先生ネギま! (2)

魔法先生ネギま! (3)

 大学時代
もともとカメラをやりたかったこともあって、大学では映研とか漫研とかアニメ研に入ってたんです。昔は東京ムービーとかからセルをもらってきて、アルコールで絵を消すんですよ(笑)。そうして再生したセルにロットリングで絵を描いて、裏から色を塗っていたんです。でも、この前部室に行ったら(作業が)デジタルになっててびっくりしました。アニメ研も映研もデジタル化してましたよ。でも漫研だけ今でも手で描いてました(笑)。

 影付け
下描きをライトボックスでトレスして、最後にペン入れして影を入れます。影っていうのは普通の作家さんは青(色の鉛筆など)で指定するんですけど、私のスタジオではそれをせずに全部アシスタントが自分で影を入れていくんです。だからアシスタントの癖が出ないかって聞かれるんですけど……、まあアニメーターなんかも(影などを入れる時は)みんな自分でやってるわけですからね。それと大体似たようなもんです。私から見ると確かに深めの影が好きなアシスタントがいたりはしますけれども(笑)。

 みんなに喜んでもらうということ
極論すれば、作品の中に「自分のやりたいこと」はあんまり入ってないです(笑)。それよりもみんなに喜んでもらいたいなあ、と考えてやってます。漫研の後輩なんかに、どういう漫画を描くのが目的・目標ですかって聞くと「自分の納得のいくものを描くことです!」って。読者にウケることで納得いくやつと、受けないけど自分が納得いってるものどっちがいいですかって聞くと、やっぱり自分が納得いくものって言うんですよ(笑)。そのへんの考え方が、私とは違う感じなんです。


解説
 このインタビューは単行本でいうと第3巻にあたる頃に行われたものであるから、当然その当時相応の作者コメントとして認識しておいた方が良さそうではある。この時点で発言されていることが、そのまま現在の作品に当て嵌まるわけではないからだ。
 そうすることで特に良く見えてくるのは、作者のアドリブ感(ライブ感覚)の強さだろう。
 一見、綿密な企画意図に沿って創作されているかのように語られている『魔法先生ネギま!』だが、実際は作者自身が敷いたレール通りに動いているのではなくて、その時々の状況に応じて方向性を変化させていることが、このインタビューと、現在の作品内容を比較してみることで理解できてくる。

 例えば
「大体中学三年生をメインにしてプラスマイナス一〜二年に見えるような感じで」とは述べられているものの、実際にはどう見ても中高生とは思えないクラスメイトが多かったり(体型が幼稚園児並のや、身長180cmを越えるのや)するだけでなく、「ずーっと読んでいくと個性が見えてくる」という慎ましいレベルではないくらいに、一人々々の個性や特徴も相当強いものになっていると思う。 やろうと思えば、もっと髪型や髪の色を地味に統一したり、ささやかな違いによって個性の味を演出することだってできたかもしれないが、流石にそこまで没個性に徹してはいない。
 企画の段階では
「没個性」を狙っていたとは言え、それはコンセプト止まりの話であって、頑固に貫こうとしていたわけではなさそうだ。狙いが部分的にでも成功していれば、それで充分ではあるだろう。
 このような「狙いと実際との食い違い」は、作者自身の性質と、週刊連載という形態自体の性質の双方から由来していると考えても良い。
 赤松健が良く用いる言葉に
「逃げ道は欲しい」「迂回するのが好き」というのがあって、麻雀でいう「決め打ち」になるような方針は好まないことが窺える。だから元々、フレキシブルな対応に耐えうる柔軟なコンセプト作りをしつつ、自身の「アドリブ感覚」に頼って連載を乗り越えてきたのが今のネギまだと評せるだろう。さてはもしかすると、文字通り「迂回」しているのが現状で、後から本来のコンセプトを取り戻せるようにしているのかもしれないのだし、「コンセプトが守られていない」と早合点するのもまた禁物である。
 それと週刊連載の特徴として「一話あたりのインパクトが重視される」傾向がどうしてもある為、キャラクターごとの個性も自然、強調されがちになっていく道理だ。なによりコンセプトを厳守することばかりに拘っていては、ストーリーの面白味を損なうことだってあるだろう。当初の狙いを徹底しつつ、なおかつお話として面白く……などという完璧主義には、週刊連載の形態はあまり向いていない。 だからもし仮に、ネギまが週刊誌ではなく、月刊誌でゆっくりと連載している作品だったとしたら、「没個性の面白さ」を狙い通りに徹底した作品が見られたかもしれない。しかしそれはまた別の話である。

 最後のコメントにある
「みんなに喜んでもらうということ」のくだりは、≪赤松健発言集1:「大衆娯楽」≫の内容とも通底する、作家論的に興味深い部分である。
 ここで注意して読むべきなのは、
「極論すると〜」という表現の部分だろう。これは良く考えてみれば、「極論」というより、漫画家・赤松健としての「理想論」なのではないかと思う。
 実際の人間がクリエイティブな作業をする上にあたって、「自分のやりたいことを100%しない」、そして「人に喜んでもらえることだけをする」ということは、まぁ普通に考えてみて、到底不可能なこと だし、現実的だとは思えない。
 「ありえない話だが、できるならばそうでありたい」。あるいは、「読者にはそう思われていたい」という願望が
「極論すると〜」という発言の中に込められているような気もする。それほど 「自分のエゴイズムで創作すること」に抵抗感を持っているのかもしれないし、本心から「自分自身の楽しみよりも他人の楽しみを優先したい」と宿望しているのかもしれない──。
 他のインタビューの場においても、赤松健は「ヒロイン達のデザインや性格は、先生の好みなんですか?」という質問を投げかけられた時に、いつも
「 私の好みじゃなくて、読者の好みです」と(はぐらかして)答えているようなのだが、これも「できるならばそうありたい」という気持ちから発せられているのではないだろうか。

 ここで唐突だが、漫画家・山口貴由の発言を引用することで、この解説の締め括りとしたい。上記の問題に比べて非常に対立的な意見ではあるが、決して矛盾しない考え方であるとも思う(しかし、当人達は反目しあうかもしれない)。
 両極端な両者の姿勢の間に、何か感じ取れないだろうか。筆者としては、どちらの立場も共に支持できる。

 

──『シグルイ』をこんな読者に読んで欲しいというのはありますか?
 過去の作品には、こんな読者というか、ある特定の個人に向けて「読んでくれよ!」というのがあったんですけど、今回はないですね。僕が、おもしろい、凄い、と思える作品を描いているだけです。
 本当は大勢の人のことも考えないとダメなのかもしれないけど、人それぞれの心のうちを僕は読み取ることができないし、理解するすべももたない。
 だから僕は自分が表現したいことを描くのが一番の目標で、どう受け入れられるかまで作戦に組み入れてないし、入れちゃダメだと思ってるんですよ。<中略>
 動物園で虎を見るよりは野性の虎を見たいでしょう? 本物を見たいし、描きたいですね。
──
「大勢の人のことなんか考えない」って、ずいぶん過激な考え方ですね。

 考えないんじゃなくて、考えてもわからないんですよ。
 僕自身、大勢の中の一人だし、大衆ですから。
 このやり方で充分戦えると思っています。
 

/インタビュー『シグルイ』(『大阪芸術大学 大学漫画』Vol.1より)

 

 「考えないんじゃなくて、考えてもわからない」「人それぞれの心のうちを読み取ることができない」という言葉の中に、赤松健が言う「極論」を実現することの困難さが述べられていると言ってもいい かもしれない。一方、赤松健は同人誌『ネギま!で遊ぶ‥‥エーミッタム!!』内のインタビューで、その「読者の心のうちの探り方」についての(意外にも、イメージや感覚を頼りにした)私見を述べている為、可能ならばそちらも参照されたし。

 「自分が表現したいことを描くのが一番の目標で、どう受け入れられるかまで作戦に組み入れてない」という姿勢は、赤松健の「自分のやりたいことはあんまり入ってない。それよりもみんなに喜んでもらいたい」という姿勢と、綺麗な対称形を成している。
 ただ、山口貴由も
「本当は大勢の人のことも考えないとダメなのかもしれない」と自覚しているのだし、以前は他者に向けて創作していたことも確かなのだ。今、山口貴由が「このやり方で充分戦える」と言い切れてしまうのは、漫画家として一定のキャリアを重ねて成功してきた(読者を楽しませてこれた)「裏地」に支えられているからに他ならないだろう。
 山口貴由の才能は世間から求められていて、幸いにもその期待に応えることができたということなのだ。

 それは結果だけを見てみれば、「読者に受け入れ」られんが為の創作態度であり、決して自分本位の考え方ではない。もし『シグルイ』が前作以下の評価しか受けなかったとしたら、山口貴由はどう考えただろうか。

 そして反対に、赤松健のようなタイプの漫画家であっても、現実問題として突き詰めた所では「大勢のことを考えないで」創作しなければならない部分が多くを占めるのではないかと思う。
「自分のやりたいことはあまり入ってない」と言えども、それはあくまで比率の問題であろう。
 それに、作者自身の意志や企図がどうであれ、一読者として「コク」のある面白味を感じてしまうのは、やはり作者のそういう部分──本人の「裏地」に支えられた部分であるのも確かなのだ。


≪赤松健発言集2:赤松健インタビュー@『季刊エス』第4号≫・了

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