赤松健発言集1:「大衆娯楽」 |
赤松健論 目次
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(1997年の日記帳 9月6日)それにはネタよりもまず魅力的なキャラクターが重要なんです。 ネタだし合宿(温泉)までに、それを用意しておくのが、私の役目。 絵柄と性格、表情がうまく描けていれば、ストーリーも自然と出てくる ような気もするわけです。(考えるのが面倒だからじゃなくて) 最近のギャルゲーでも、まず絵柄と性格と表情がキーポイントでしょ? ・・・でも、漫画というものを本気で考えている人達にこういう事を 言うと、怒られちゃうんだよね〜。(^^;) 作品(=芸術)として、ストーリーをないがしろにしているって。 マガジン編集部では有名な話ですけど、私は就職活動の時にマガジンの 編集部員になりたくて、でも2次面接で落ちちゃったんです。(笑) 性格も漫画家じゃなくて編集者タイプなんで、こういった産業主導の やり方にもあまり違和感を感じません。 私は、自分よりも才能のある人達が「その道」をあきらめる姿を延々と 見てきたので、単に怖がりすぎているだけなのかもしれませんが。
赤松健が創作活動においてまず考えることは、「物語ること」ではなく「人に受け入れられること」であることが窺える(=受け入れられないのは怖い)。まず受け入れられなけば、物語を発表する場所自体が手に入らないからだ。いくら良い物語を作ろうが、それでは「描く側」のリスクが高すぎる。
また、「ストーリーは自然と出てくる」と言っているのであって、キャラクターさえあればストーリーは不要だ、と切り捨てているわけではない。優先順位の問題なのだろう。
むしろ「テーマやメッセージなどといった大層なものは、人に好まれるものを作っていれば自然と後からついてくるものだ」という考え方は、大衆娯楽においてごく基本的な姿勢であるとも言える。ジャンプ系の漫画もそういった方針で作られているものが多い。
(また、赤松健の「編集者タイプ」という自己評価は、デビュー前の赤松健が「自分は漫画家に向いていない」というコンプレックスを抱いていたことに端を発している。これは彼の謙遜や卑下に過ぎないのだが、そのことは、この発言集を通して各自が確認していただきたい)
これはCGアーティストに限らず、自分の才能やハイセンスさを笠に着て「客の好みを考えようとしない」、自己主張の強い絵描き全般のことを言っているようにも読める。勿論コンプレックスなどもあってこう発言しているのだろうが、赤松健はそういった絵柄をあまり好まない。
「当時」とは、芸大の監督コースを落ちて浪人していた時期のこと。ポリシーを感じさせる一言。
浪人中の赤松健は、映画監督か小説家を目指していたようだ。漫画ではなくシナリオばかりを書き殴っていたというコメントもある。
(『A・Iが止まらない!新装版』2巻p68)ロバート・ゼメキスとか好きですね。「ロマンシング・ストーン」なんか好きですけど、もうギャグとかコメディーとか何やらせてもうまい。
赤松健が「ハリウッド的」と言った場合、その理想型のひとつとしてロバート・ゼメキスのスタイルが脳裏にあるのだと思われる。他にもゼメキスに対する愛情は二度三度と語られており、かなりの敬愛を窺わせる。
ちなみに『ロマンシング・ストーン』(1984年)はゼメキスの出世作で、その翌年に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を監督している。赤松健は公開当時16歳の高校生。
いや、創作をやりたくなったんで。まぁ、ゲームも創作といえばそうですが、文章とかをね。
当時はかなりひねてたんで、坂口安吾とかにかなり傾倒していましたね。その後は、阿佐田哲也とかの、娯楽の方にいきましたけど。
(『A・Iが止まらない!新装版』4巻p204)
今でこそ娯楽作品を好むが、根っこの部分では文学的な素地もあることを思わせる一文。阿佐田哲也(色川武大)は今でも好きらしい。
──日芸は一次試験が難関ですよね?
「面接の時に、面接官として居並ぶ監督達に、まず利益を上げることが大切だという持論をぶちまけちゃったんですが、そしたら君はプロデューサーのほうが向いているんじゃないかとひと言言われて……」
(『ラブひな0』p182)
赤松健が受験した1987年当時は、「邦画の低迷期」と呼ばれていた時期のただ中にあった(その前年でヒットしたのは『子猫物語』くらいか)。後に、「製作者がマーケティングというものをまるで考えていなかった」と揶揄されることすら多い時代である。
当時の邦画界を俯瞰した赤松健が、「まず」利益を上げて業界を立て直せる監督が必須なのだ、と考えても不思議ではない。また、その考え方こそが正しいエンターテイメント作品の在り方であるとも。売れない映画とはつまり、「ターゲットが何を観たがっているのかを考えていない映画」「殆どの大衆にとってつまらない映画」であるに違いないからだ。当時の映画監督──この面接官達──はそういう作品ばかりを撮っていたのではなかったか。
しかし、ここで仮に赤松健がプロデューサーになっても意味は薄いだろう。当時の邦画界ではプロデューサーが作品に口出しできる権限が少なかったし、肝心の映画監督が頑固ならば「産業主導のやり方」に反発してくるかもしれない。赤松健のような性格の人物が映画技術を学び、マーケティングに則った作品を撮ってしまえば、それに越したことは無いのである。
87年には『ハチ公物語』『私をスキーに連れてって』などがヒットするが、それは一過性のもので、やはり長く低迷を引きずっている。ターゲットをうまく見極められないタイトルが多かった為だ。
アニメ研では作画監督、そして監督と段階的に体験しました。作業的にはセル画を描いて色を塗ったりするんですけど、いま一つ私には合っていないと感じられたんです。また、システム的なことなんですが、アニメの製作は分業なんですね。監督が決めたり、脚本で書かれてたことを絵にする。描き手の意思というのがあまり表れない気がしたんです。(『ラブひな0』p183-184)
赤松健のスタジオがアニメ製作現場をモデルにしていることは有名だが、実は「アニメ製作そのもの」とはまた異なるスタイルを求めて「漫画家」を選んでいたことが解る。
一般的な漫画家とアニメ監督の中間、ということなのだろうが、赤松健は自作品を「描き手の意思」でコントロールしようとする。分業体制によって失われる何か、というものも確かにあるのだろう。
──'80年代の後半頃はアニメも全盛でしたよね。
「昔『ヤマト』とかそのあたりのアニメを見て育ってきた人たちが、クリエーターとして出始めた頃ですね。凄い作品を見てた人が作った作品ってやはり、好きな人のツボを心得ているというか。例えば当時『マクロス』とかを見てオーッというのはありましたね。これは漫画作品にも言えるんですが、ああ、こういうのを自分も作りたいなと思いました」
(『ラブひな0』p184)
これは大衆娯楽というよりも、マニア向けを狙った作品の理想を語ったもの。たとえマニア向けであっても、赤松健は「受け手視点」で作品の善し悪しを考えていることが分かる。
赤松健のエンターテイメント精神は、ただ「一般向け」や「広い客層」を志向する時だけでなく、マニアが好むツボを刺激する時にも発揮される。
「“良さ”をワカってるヤツにはワカる」、というニクい表現のことだろう。
まず、江川達也先生。(中略)オタク系だと伊藤岳彦さん。どちらかというと、漫画家一筋という職人タイプの方よりは、例えば、アニメに進出するなど割とプロデューサーな人なんですけど、そういうタイプの人に憧れます。
(『ラブひな0』p185)
本人はこう言っているが、少年誌から離れた江川や、漫画をあまり描かなくなった伊藤らに比べて、赤松健は「現役の週刊漫画家」である点に注目したい。
週刊連載中の漫画家は(その多忙さから)否応にも「漫画家一筋」にならざるをえず、プロデューサーらしい活動は大して行えないという現実的な問題に注意。
実際、赤松健は自作のメディアミックス展開などに関して、あまり企画や口出しもできない境遇にある。本当にプロデューサータイプの人物になろうとするなら、まず週刊連載を終わらせる必要があるだろう。
また、休筆中に原作を担当したアニメ『陸上防衛隊まおちゃん』に対しても、何故か赤松健は積極的な口出しを控えていた。自分にはマルチな活動は向いていないと考えていた可能性もある。
あと、私は映画監督のロバート・ゼメキスの大ファンなんです。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのような大作はもちろん、アニメと実写を組み合わせた『ロジャー・ラビット』のような試験的な映画も作る。しかもちゃんとヒットさせるところがさすがですね。
(『ラブひな0』p185)
前述した内容にも繋がってくるが、これが、赤松健が理想とする監督像なのであろう。
赤松健自身も、自作品で「試験的な漫画技術」を導入することを好み、なおかつその手法を成功させるといった成果が多い。
私が実際に漫画を描き始めたのは大学からなんですが、漫画家志望のヤツらって、中学時代から、上手いと言われ続けている。(中略)当然、自分の絵にもこだわりを持っているわけで、悪く言えば頑固で聞く耳を持たない人が多い。その点、私はこだわりはなかったので、逆に柔軟性はあったのではないでしょうか。(『ラブひな0』p187)
赤松健は「客の好みを考えようとしない」が故にデビューできなかったり、面白い作品をモノにできない漫画家志望者達を揶揄して言うことが多い。
最近は、タイやブラジルやシンガポールからの応援メールが増えてきました。 美少女絵柄の価値観は、日本と同じなのだろうか・・・・。謎です。 (スポーツや格闘の面白さだったら、世界共通なんでしょうけど。) 映画だと、インディペンデンス・デイで、アメリカ大統領がF18でミサイル 発射!みたいなシーンで喝采してしまう自分がいたりするのですが、全世界で 価値観の共有化が進んでいくと、面白いやら怖いやら。 まかり間違って、ラブひな的な価値観が全世界の少年に広がったら怖ろしい 事態に。(笑)
(2001年の日記帳 3月2日)
「普遍的な面白さは存在するか」という問題に対する思考実験。
ハリウッド映画は全世界に配給され、しかも商業的に成功するというシステムを実現させた世界最大規模の大衆娯楽産業である。しかしマーケットの巨大化(価値観の共有化)にも限界があり、時々崩壊することもある(マーケティングを広く取りすぎて「面白さ」を損なう例、ターゲット選択を誤って良く解らない作品に仕上がる例など)。
新人賞の応募作と言うと、各雑誌とも「SFファンタジーや妖怪退治モノ」が 非常に多く、そのジャンルはどこに行っても不利と言えます。 要するにこの2つは、考えるのがラクで楽しいジャンルなのです。 大学の漫研でも、学生達はほとんどの場合「SFファンタジー」を描いてます。 そして、一般市民はSFファンタジーなんか読みません。 この現象に、編集部員はウンザリしているわけなんですが、さりとて一般市民が 普通に読んでいるスポーツ漫画などが新人賞で有利かというと、別にそういう わけでもありません。例えば、今さらボクシング漫画で、ジョーや一歩を越える キラリとした才能を見いだすのは、何となく無理っぽい感じです。(^^;) ・・・では、何が最も有利なジャンルなのでしょうか。 実は、それを知っても「すぐ描けるわけではない」ので、あまり意味が無いかも しれません。(笑) 「描きたいジャンル」が「大衆の求めるジャンル」と偶然一致すれば、楽に漫画家に なることができるのですが・・・。
(2001年の日記帳 11月2日)
漫画家の資質や好みによって、描ける作品の幅は限られてくるという話(努力によって幅を広げることはできるが、それにも限界はある)。大抵の人間は、マニアックなものを作りたくなるからだ。
「大衆が求めているもの」を「素直に描きたいと思える」、ということは作家にとって「希有な素質」のひとつである。ただ、赤松健も述べているように「一般市民向きの漫画」で面白い作品をモノにするには、並以上の才能を要すると言えよう。
また、ここにも「できるなら描きたいものを好きなように描いて評価されたい」という赤松健の本音が見え隠れしている(ラクして考えられる漫画を描きたいだけかもしれないが)。
天才タイプの内藤さんがおられたということで、絵柄とドラマに関して朝まで議論。 色々と質問をしてデータ収集を決行しました。 (中略) (1)普遍的に(永遠に)ウケる絵柄というものは存在するか。 素直に考えると、実写に近いアメコミなどは、異星人にさえ理解できる普遍的な 絵柄とは言えよう。しかしアメコミで萌え〜なオタクは少ない。 その点、貞本さんとか宮崎駿監督は、一般人とオタク両方に受け入れられる 絵柄的パラメータを持っている、希有な人材ではないか。そういう普遍的な 絵柄があるとすれば、それを追求していけばより有利なのではないか。 (2)漫画家として生きるにあたって、究極の目的は何か。 「自分が完璧に納得いく作品を作る」というのが究極の目的であった場合、 その作品が全然ウケなかった(だれも面白いと言わなかった)ならば、それは 良いのか悪いのか。 自分のために描くのか、他人のために描くのか。どちらの方針から、より 天才が出やすいか。 (3)ゴッホは天才だったのか。 死んだ後に作品が評価されるのは、一体どうなのか。 自分はそうなりたいか。社会はどう考えるか。 また、痴呆症の人間は、自分がボケていることが分からないわけだが、 良いと思っていた自分の絵柄に対して、いきなり「あんたの絵柄は変ですよ」と みんなに言われたら、自分と他人のどちらが正しいと思うか。自分の絵柄が いびつでないという証明ができるか。
(2001年の日記帳 11月9日)
赤松健は、時折「自分のために描く」と「他人のために描く」を対比させようとする。赤松健自身は後者寄りの作家であり、またそのことを公言し、誇らしげに語ることも多い。
しかし「自分の好きなものを描く」という欲求がまったく無いわけではないことは他のコメントから窺えることでもある。自分は天才にはなれない、というコンプレックスもあろう。
これは筆者の憶測だが、この時の赤松健は「自分が完璧に納得いく作品を作ろうとすればする程、全然ウケないというリスクも負う」「しかし、自分のために描く作家の中からこそ天才は出やすい」という二律背反的な考え方を持っていたと思われる。それを内藤の言葉で裏付けて欲しかったのだろう。
また三問目などは、一種残酷な怜悧さすら感じさせる質問である。これは全ての創作者にとって究極の問いだろう。
(なお、この「実写に近いアメコミ」というのは、かなり古い時代のアメコミの絵柄に対する印象を語ったものだと思われる)
ちなみに、「有利なジャンル」というのは、例えば (1)新人賞応募作ならば、賞を取りやすいようなジャンル。 (2)商業誌ならば、本誌での人気が高くて、また単行本も売れるようなジャンル。 (3)H同人誌ならば、何のパロをやるかというジャンル選択。 (4)作家的に言えば、「より自分が満足しやすい」ジャンル をさします。 普通、(1or2or3)と、4を同時に満たすのはなかなか難しいと言われています。 他人の快楽のために、自我を滅することをしないと、エンターテイメントは実現しにくいと いうわけですね。 しかし、まれに「天然で好きなものを描いて、しかも面白い」作家もいるようです。 これを、便宜上「ニュータイプ」と呼んでみましょう。
(2001年の日記帳 11月10日)
漫画家の資質に関する講話の続き。前掲した「内藤泰弘への質問」とも話題的にリンクしている。
「自分が満足できるジャンル」と「多くの客層が好むジャンル」を完全に一致させることは、作家にとって一種の「ゴール」であるとも言えよう。赤松健も基本的にはその地点を目指している。現に、大ヒット作『ラブひな』について、完結後に「(自分にとって)全部好き」だと満足げに語っているように。
しかし赤松健の場合特徴的なのは、最初こそ「人に受け入れられること」に専念して(ある程度、自我を滅しながら?)作っていただろう『ラブひな』が、いつのまにか作者も大好きな作品に変化しているということだ。
赤松健は、「客の視点」で人に好まれる作品を作ろうとする。そして、自分自身が「客」と同じ目線に立つことで、自分で自分の作品を「好き」になってしまう。これはクリエイターとして好ましい資質だろう。彼にとっては「人に好かれること自体が好き」なのかもしれない。
余談だが、実際の赤松健は、人当たりが良く親しみやすい人物なのだそうだ(あるインタビュアーの印象より)。人前ではウケを取りたがる性格なのだろうな、と思わせる言動も多い。そういった彼の「地」がそのまま作品に表れているような気もする。
さて、この世には、天然の「ニュータイプ」系と、後付けの「強化人間」型の 作家がいるというお話をしました。 ・・・そして、いきなりですが、「ニュータイプ」系の方とはここでお別れです。(^^;) というのも、ニュータイプ系の人間に、いかにしてデビューするかなどという 類の講話をしても、それほど意味がないからです。 ★ ニュータイプ系の作家は「自分の思ったとおりに創作し、受けたら天才と 呼ばれ、受けなかったら死ぬ」のが本分だと思って下さい。(^^;) 下手に作戦などを立てて、そのインスピレーションを濁らせてはいけません。 もちろん、天才のやることは、最初は受け入れられないかもしれません。 しかし、新しいものが一般化して商業的に受け入れられるようになるには、 まず基本的な実験が延々と行われていくという段階が必要なのでございます。 そう、ニュータイプ達は、科学で言うところの「基礎研究」をするのです。
(2001年の日記帳 11月29日)
赤松健の正反対の存在である、芸術家タイプ達や天才タイプ達を「ニュータイプ」と呼ぶ。彼らに対する愚痴やコンプレックスをこぼすことの多い赤松健だが、その存在価値を充分に認めていることが解る。
また、「『ニュータイプ』系の方とはここでお別れです」という言葉は、この発言集そのものにおいてもあてはまることを注意しておきたい。赤松健は「人に受け入れられること」を「作りたいもの」よりも優先して創作するタイプだが、ニュータイプ達の創作活動は、まったくその逆の発想が求められるからだ。もしあなたがニュータイプ系だとするなら、あまり赤松健の大衆娯楽的な思想に感化されてしまうのも考え物だろう。
ニュータイプの仕事を「基礎研究」と喩えているのも面白い。普段は見返りが少ない一方で、一度その功績を認められれば一斉に注目を受け、多大な影響を後世に残す所などが似ている。
で、録画しておいた「プライベート・ライアン」を朝まで観賞。 「シンドラーのリスト」と同じように、最後にライアンの演説(?)シーンが あり、テーマが非常に分かりやすくて納得。 「物語の最後に、主人公のテーマ演説がある」という構成に関しては、 ”ラブひな”でもチーフアシスタントと結構もめた部分でした。 14巻のラストで、景太郎と成瀬川が、ひなた婆さんに対して、 「自分たちにとって何が最も大切か、何をどうしたいか」ということを 延々と口で演説するシーンがあるのです。 チーフ曰く、「物語の最後に、テーマをもろに口で言わすのは、シナリオ としてはレベルが低い。そこまでのドラマで、テーマが説明できていない のならば、それはシナリオ的な負けである。」 ・・・しかし、私の世代だと、「宇宙戦艦ヤマト」なんかが最後に 「我々に必要なものは戦いではなく、愛だ!」などと口でもろに語って おり(笑)、こういうのは何も考えなくても分かりやすいので、どうにも 違和感無しなのです。 あとは、チャップリンの「独裁者」(最後に長々と演説)や、宮崎駿作品 にも”テーマの演説シーン”は結構あり、その辺の流れが念頭にあった 私は、結局原案ネーム通りにラストを執筆しました。 ・・・この手の議論は、うちのスタジオ内では結構なされており、私が アシスタントや編集者に説得されて、自説を撤回することもかなり多い です。その辺が、共同作業の一番面白い部分なんですね。 (「まず自分の納得のいく作品を作りたい!」という芸術家タイプの 漫画家さんにこういうことを言うと、大体軽蔑されるのですがね。(笑))
(2002年の日記帳 2月11日)
恒例の、「芸術家タイプ」の作家に対する愚痴。同時に、自分の柔軟な創作スタイルを自慢してもいるようにも読めて、微笑ましい。
これは一種の「才能」である。他人の意見を自身の作品に反映させるという作業は、素人が想像する以上に困難なものだ。ここで書かれている例のように、「自説を押し通さなければならない場合」と「自説を撤回した方がいい場合」の両方があり、その明暗を見分けるセンスと判断力が作者には必要だし、路線変更に伴う破綻や矛盾を取り繕う為の、高い管理力や構成力を要するからだ。
付け加えて言うなら、チーフアシスタントの主張していたことは「作品の完成度」を求める理想論に近く、「読者に対するわかりやすさ」を軽視していたという側面もある。ここで「わかりやすさ」をあくまで優先した所からも、赤松健の作家性が見て取れるだろう。
(2)自分のやりたいジャンルを押し通すチャンスである。 ・ところが逆に言うと、こういう時期を除いては、自分のやりたい ジャンルに手を染めるチャンスはあり得ないとも言えます。 今こそ、やりたいものをやり、描きたいものを描くべき。
(2002年の日記帳 2月28日)
言ってみれば、『ラブひな』はメインターゲットをオタクに絞り込んだ「色モノ企画」だった。大衆娯楽的かというと人による好みが激しく、世間的な評判が良かったとは言えない作風であって、(本人にとっては思い入れのある作品であることには違いないだろうが)赤松健が理想とする「娯楽作品」から離れたタイトルであったようにも思う。
ここから、赤松健の向上心のようなものが読み取れる。
ビートルズで例えると、モーツァルトはポールで、ベートーベンがジョン。 ポール派の私は、モーツァルトがありとあらゆるジャンルで”売れ線の曲” ばかりを書けるのが本当に凄いと思っているのですが・・・・世間では 何故かベートーベンの「第九」やジョンレノンの「イマジン」の方が ずっと尊敬されているようで、何か気に入りません。(^^;) 同席したTさん(※アニメ業界人にあらず)によると、ベートーベンにも オペラはあるが、あんまり(後世に)残っていないとのこと。 そういえば、全然聞いたことないかも。
(2002年の日記帳 3月7日)
これもまた、「芸術家タイプ」のアーティストに対する愚痴。勿論、ポールやモーツァルトも偉大な芸術家なのだが、繊細な作曲力や、柔軟なマルチさをも兼ね備えていることを高く評価し、憧れているようだ。
彼が述べている「世間」、つまり一般層においては、ベートーヴェン(「第九」)の方が人々の耳に残りやすく、有名で、その作曲過程が美談として語り継がれることも多い。対してモーツァルトの曲は、それが「モーツァルト作」として殊更意識して聴かれることが少ない。しかし、耳馴染みのある“深い”名曲を数多く残しているのがモーツァルトその人なのだ。
世間での評判と、実際的なものとの間にある複雑な「ズレ」がここでは語られている。ジョンとポールの関係にも似たようなことが言えるだろう。
私は9ページ(※引用者註:『ラブひな』11巻p11のこと)みたいな独白とか、ドロっとしたのが得意なんです。ギャグとかHばっかりと思われているみたいだけど、ホントはそっちが描きたい(笑)。でもそればかりではつまらないので、主にHやギャグをやってるんです。
(『ラブひな∞』p446)
このコメントにはふたつの見所がある。ひとつは、「本当に描きたい」という表現欲求を赤松健が持っているという点。そしてもうひとつは、「描きたいものばっかり描いてもつまらない」と本人自身が自覚しているという点だ。
これを安直に「描きたくないHやギャグを、読者の為に嫌々描いているんだな」という意味で読み取る必要は無い。客観的評価として「つまらなくなる」という判断もしているのだろうが、本人にとっても「つまらない」と考えている可能性もあるのではないか?
「面白さを重視した作品」を作るにはネタのバリエーションが不可欠であり、時に「作者が別段描きたいとは思っていないもの」も織り交ぜなければならない。娯楽作品としての「メリハリ」が無くなるのだから、それは当然の作為だろう。
実は高校生のときに、ゲーム制作会社の仕事を手伝っていたことがあるんですよ。はじめは私ひとりでやっていたのですが、そのうち分業化が必要になってきたんです。私はひとりでやりたいタイプなので、この世界は違うなと。そこで自分の可能性をさがすために、多くのことに挑戦した結果、マンガが残ったんです。
現在は週刊誌の連載を抱えていますので、5人のアシスタントに来てもらっています。
アニメ研での経験と同じく、ゲーム製作の現場でも「分業」に対する苦手意識を抱いていたことを語っている(もっとも、最近では少人数スタッフによるゲーム制作も珍しくないのだが)。
赤松健は、創作における「共同作業の良さ」を繰り返し強調しているが、「分業」と「共同作業」を別物として考えていることがここからは読み取れる。
赤松健の性格では、「数人のアシスタント+数人の担当編集者」あたりの人数が、快適に創作できる環境の限界なのだろう。だとすると赤松健は、映画やアニメの現場には実は向かないタイプだったと考えていいかもしれない。漫画家を職業に選んだことは、実際正解だったのではないだろうか。
絵を描かない人にも「絵柄の好み」は存在しますので、絵描きは「自分の 絵柄が主流派であるかそうでないか」ということを常に認識しておく必要 がありそうです。 人(自分も)の「好み」は軌道修正できませんので、好きじゃない場所で 好きじゃない絵を描いていると、好きじゃない女と付き合っている男の ごとく、やがては破綻してしまうわけです。 絵柄がそうそう変えられないことから、やはり最初に考えるべきは、 「描く場所」と言えるかもしれません。
(2002年の日記帳 11月16日)
「作品は作者一人で成り立つものではない」という赤松健の考え方が良く出ている。作者が「作品を楽しんでくれる受け手」と出会って初めて、「作品」は成立するのだろう。
作風が主流派であればメジャーの場に進出するべきだし、そうでなければマイナーから出発せざるをえない。そうすることが、作者本人にとっても幸福な選択であろう。
実際、赤松健がマガスペで一時的に連載していたのも、そこが「描く場所」として彼に相応しかったからだ。マガスペで漫画家として成長した(絵柄を変えることのできた)赤松健は、その後「描く場所」をマガジン本誌へ切り替えることに成功した。今はむしろ、マガスペは赤松健の描く場所としてそぐわない誌面になっている。
──創作はやらなかったんですね。
「やりませんでしたね。同人誌の創作って、あれはねえ…よくないですよ、ハマると(笑)。プロになれないです」
──なぜでしょうか?
「描きたいものとか努力とか夢とか、そっち側に行くと商業誌でやる必要がなくなってくるんですよ。同人誌で自分が描きたいものを描いていると、商業誌で描くときに編集者から『オモシロクないから直して』って言われても『え? オモシロイですよ』とかって言っちゃう(笑)。それじゃダメでしょ。読者は読んでくれないから」
(『ゲームラボ』2003年1月号)
前掲した、「CGが上手い人のクドさ」や「新人賞の応募作にはSFファンタジーが多い」「自分のために描くのか、他人のために描くのか」「考えるべきは描く場所」などの問題に通じる話題。
最初の「自分よりも才能のある人達が『その道』をあきらめる姿を延々と見てきた」という、自身の実体験に繋がっているようにも思える。
コミケとは「漫画オタクの客が、趣味に合った本を自分から探しにきてくれる」という、特殊なマーケットであり、メジャーなマーケットの在り方から大きくかけはなれている場であることを語っている。そのような場で好評価を受け、作者自身も満足していようと、その作者のカラーが一般人の興味から大きく乖離している可能性は高い。広く受け入れられる作品を発表したいという、相応の向上心や志が作者にあれば別だが……。
(一応フォローしておくと、「少数の読者の為だけに描かれた同人誌」はそれはそれで掛け替えのない価値のあるものだ。マイナーな場でしか描けない漫画の素晴らしさ、というのは確かに存在するし、需要もある所にはある)
─── 今回のキャラCDですが、最初はどこからどんなお話があったんですか?
2003年のいつだったか、スタチャの大月Pから企画の申し入れがあって、CDを毎月1枚、12枚連続で出すんだ、と(笑)。それで俺は「いくら何でも無謀すぎる(^^;)」と反対したんだけど、どうやら某社が何枚もの“テニプリCD”を出して大成功したらしくて、それに対抗した企画らしいのね。で、大月さんの意思が固くて、結局俺も折れたわけ。でもアニプリと違って、こちらはアニメでもなんでもないし・・・。
(中略)
全12枚で、これがデビュー作の新人声優さんが結構いる“ネギま”では、かなり難しいと思ったんだよ。とにかく毎週のスケジュールがマズい状態だから、CDジャケットの書き下ろしも不可能。せめて一枚ならねえ・・・。
─── まあそうですよね。すると・・・?
ジャケット絵はジーベックに頼むしかないよね。
(中略)
─── 今回のCDは、オマケの仮契約カードの人気も高いようですが。
スタチャでは、最初オマケとして「31人分の生徒証」を付けることを計画していた。(中略)でも当時、ネギま!ではクラスメートから“パートナー”を選ぶという話が始まってて、その契約の証しとして「パクティオー・カード」を登場させることを考えていたんだ。それで、スタチャに「私だったらカードの方が欲しいので、オマケはコレに変えましょう」と提案してみた。
─── カードは赤松さんのしわざだったんですか。さすが悪どいと言うか。
何でやねん(つっこみ)。やっぱりファンとしては、作中に何度も登場するグッズの方が欲しくなるはずでしょ。
(中略)
─── 2枚目の木乃香カードが、いきなり書き下ろしですが。
激しく後悔したね(笑)。一応スタチャHPの広告には「カードが付かない場合もあります」と書いてもらったんだけど、明日菜CDがいきなり大売れして、とにかくカードを付けないわけにはいかなくなった。
(中略)
─── でも、カードはアデアット遊びとか出来て、楽しいですよね。
俺もやってるよ。パンチラはしないけど(笑)。仮面ライダーのベルトとか、やっぱり欲しくなったしね。
(中略)
─── 肝心の、CDの内容についてはどうですか?
フォーマットは決まっていて、挨拶・曲・リミックス・カラオケ・ドラマ・フリートークでしょ・・・でもこれってよく考えると、1曲しか作ってないよね(笑)。これは凄いと思った。普通のシングルCDみたくもう一曲入れると、多分定価1000円を超えてしまう。そこでリミックス&カラオケを入れて、ドラマもフリートークも一気に録音して、とにかく安価でお得感のあるCDに仕上げてしまった。スタチャの狙いは鋭いんじゃないかなぁと。
─── でも大きなお友達なら、定価2000円でも買ってくれるのでは?
ところが“ネギま!”は“ラブひな”より読者の年齢層が下がってて、しかも少し女性が増えているという調査結果があるんだよ。だから、1000円というのは重要。これより高いと、毎月買うのはキツい。
(同人誌『ネギまの働く城』p24)
赤松健の才能である「受け手視点のサービス精神」が後先考えずに「働きすぎてしまった」一例。
確かにファンは欲しがるだろうが……スターチャイルドの強引な商品戦略とも相まって、毎月千円するCDを買い続けなければならないという、若年読者のサイフには厳しい状況を生んでしまった。
更に、そもそもジャケット絵を描き下ろせるスケジュールが無かった筈なのに、なぜか毎回カードイラストを描き下ろさなければならないという「謎の現象」で自分の首を絞めてすらいる。それもこれも、うっかり「受け手が欲しがっているもの」を思い付いてしまったが為の因果であろう。
それでも、「私だったらカードの方が欲しいので」と考えることのできる、赤松健の「受け手との一体感」は鋭いと言わざるをえない。
今年の抱負はですねぇ・・・
「週ごとのアンケートやら評判やらに一喜一憂せず、どっしりと構えて、
長い目で見ながら描き上げる」ことかな〜。(笑)
(中略)
(でもやっぱり、小動物のようにビクビクしながら描くんだろうけど。(^^;))
(2004年の日記帳 1月6日)
他にも赤松健は「アンケートはそもそも相対的な指標なので、順位が高いからと言って作品が絶対的に面白いとは限らない」という分析を日記に記している(2005年5月24日)。
仮に、アンケート結果や読者感想だけに従った作品を作ったとしよう。それは結局「一部の読者の好みに偏った作品」にしかならない筈だ。
本当に理想的なのは、もっとこう、そう、“どっしりと構えて”自分の中で「手応え」のようなものを探りながら「面白さ」を追求することなのだが……。
トーハンの最新ランキングが出て、 先週:フルバ・のだめ・ネギま・犬夜叉・MAR・一歩 今週:フルバ・犬夜叉・ 一歩・ネギま・MAR と変化しています。 案の定、一般向けの『一歩』&『犬夜叉』に抜かれた『ネギま』ですが(^^;)、 他のライバルが少なかったためか4位と粘っています。珍しいことです。 (仮説その一:ネギまは既に一般性が得られた。・・・んなわけない。)
(2004年の日記帳 9月28日)
赤松健は自作の売上実績をいつも気にしているが、これは「一般向け」の巨匠達に対して、「オタク向け」出身である自分がどれだけ健闘できるかということに興味が注がれている為と思われる。
この「仮説」は、赤松健が「オタク向けの中から一般層へと食い込める作品を作ること」を夢見ていることを窺わせるが、それは事実上突破不可能な壁に阻まれているようにも見え、涙を誘う。
しかし「大衆娯楽」を志向する赤松健にとって、「一般にもオタクにも楽しめる作品」は最終的に目指すべきものであろう。それが叶えられることは「おそらくありえない」のだが、たとえ叶わずとも、大衆娯楽を志す姿勢の内から「面白さを重視した作品」は生まれるのではないだろうか。
森川「赤松くんは、飄々として稼ぐタイプだよな。(笑)」 赤松「そ、そんなことはないですよ・・・。(^^;)」 森川「グッズとかいっぱい出てるじゃん。CDも儲かってんだろ。 一歩なんかグッズひとつも出てねぇよ。(笑)」 赤松「いや、CDは印税方式とかじゃないので・・・(^^;;;;)」
(2004年の日記帳 12月27日)
関連CDや、ゲーム、アニメのDVDなどがいくら売れても印税収入にはならず、原作者には一定の商品化権使用料しか入らないそうだ。
また、(一般人は知る必要の無い業界知識だが)講談社が出すグッズがいくら売れても講談社の利益になるだけであり、やはり作者には固定の著作権料しか入らないとの情報もある。
関連グッズが売れるのを見て「儲かってるんだろうな」という感想を抱く人は、こういう経済的な事情を知っておいて損は無いだろう。漫画家の基本収入は、原稿料と、そして単行本の売上による印税のみ、というのが一般的である。
エンターテイメントにおける、基本中の基本。
何度も指摘してきたように、赤松健の中では「人に好まれる作品を描くこと」と、「自分の作品を自分で好きになること」はほぼ一致している。
いや、私なんかは同業者からは、「芸術家じゃない」みたいないわれ方をしてて、相当尊敬されていないですよ。商業主義だから。ハリウッド的なところとかね。たぶん小室哲哉やつんく♂も同業者から尊敬されていないかも、と思うんですけど、私にもそういう側面があります。しかし、私はそれでいいかなと考えているんですよ。人から尊敬されるためにやっているわけじゃない。読んだ人によろこんでもらおうと思ってやっているわけですから。
(『萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造』第22回「赤松健の世界」)
■赤松健は、「大衆娯楽の良さ」というものを信用しているか、深く愛している所がある。
本人は、自らがオタク向けの作家であることを自覚しながら、たとえオタク向け、マニア向けであろうと「エンターテイメントの精神」を常に忘れようとしない。
赤松健はしばしば「あざとい」「商業主義」という言葉で評されることが多いが、それは大衆娯楽の一側面を斜に構えて見た時の評価にすぎない。マーケティングを重視し、客層におもねるという行為は「大衆娯楽の本質」に他ならないからだ。逆に、全く客層におもねらずに作った作品があったとすればどうだろうか? それは「わけのわからないユニークな作品」でしかないだろう。それもまた、一部の需要があろう(その存在価値を否定するつもりはない)。だがそのようなものは、読者にとって楽しみたくても楽しめない、作者の独りよがりが生んだ創作物である可能性は無いか? それに対して、常に受け手の視点を忘れようとしない「エンターテイメントの精神」とは、つまり送り手側の誠意なのである。
赤松健は「自分が楽しければいい」「一部のコアなマニアが楽しければそれでいい」というような作品を手掛けようとはしない。マニアも、そしてマニア以外も共に楽しめる作品を理想としている。それは、彼にとって「大衆娯楽」という概念が好ましいものであるからだろうと思う。
その「大衆娯楽の良さ」とはなんだろうか。それは、「広く人を楽しませられるものは、きっと良いものだろう」というような考え方の上に立脚している。産業主導であろうと、薄っぺらい商業主義であろうと、エンターテイメントの精神から外れていなければ(マーケティングに溺れすぎたり、扇情的な話題性や広告戦略に頼りきっていなければ)、それは良質な作品として評価されていい筈だ。
優れた大衆娯楽は「広い」だけではない。「深さ」も充分に備える可能性がある。何万人、何十万人、何百万人もの受け手に愛されるということは、並大抵のことではない。「何か」の普遍的な魅力があるのだ。
結局、多くの人間に好まれるということは、それはよりプリミティブな快楽原則を満たしていることの証明になる。例えば少年漫画のことを考えてみよう。「スポーツ」や「バトル」や「少年の成長」といったテーマが広く読者に受け入れられるのは何故か? それは、人間の根源的な欲求や夢を満足させてくれるからだ。「戦って勝つ」ことに興奮しない人間は限りなく少ないし、「子供が成長する」ことに共感できない人間は限りなく少ないのである。人間の脳は勝利や幸福を求めるように作られているし、子供時代を知らない人間などはまず存在しない。
青年漫画誌よりも少年漫画誌の方が発行部数が多いのは何故か? それは、少年漫画で描かれるテーマが、子供から大人までが広く楽しめる普遍的なものであるからだ。
そして、快楽原則に従った内容のものを、わかりやすく魅力的に描くということは、そのまま「広さ」だけでなく「深さ」にも繋がる。否応なく「人間が抱えている本質を描く」ことになる(なってしまう)からだ。
「テーマやメッセージなどといった大層なものは、人に好まれるものを作っていれば自然と後からついてくる」のである。
それは時に、哲学的な内面に踏み込んだ文学作品になることもあれば、くだらない低俗な内容になることもある。思わず作家の人間性を晒け出してしまう結果になることもある。これが、大衆娯楽が芸術として認められたり、カルトなファンが付いたりする瞬間だ。
赤松健は『A・Iが止まらない!』→『ラブひな』→『魔法先生ネギま!』と新作を発表するたびに、より広い客層を新規開拓し、理想的な大衆娯楽へと近付こうとしている。
そして正直に評してしまえば、『A・Iが止まらない!』や『ラブひな』には、テーマらしいテーマがあまり見られなかったのだ(漫画としての面白さとは別にして)。
しかし『魔法先生ネギま!』には、「周囲の人々に支えられながら、父親に憧れる少年が将来を見据えて冒険する」というジュブナイル的な成長のテーマが確かに存在するようになった。何故か? 赤松健の作風が、より大衆的な物語を描くようにバージョンアップしたからだ。
そしてそのバージョンアップは、一度マガジンで『ラブひな』をヒットさせることで得た地位を利用することでしか為しえなかったものでもある。例えば、新人漫画家がいきなり『魔法先生ネギま!』のようにスケールの大きな作品を連載させてもらえるだろうか? 赤松健が、オタク向けのマイナー誌で『魔法先生ネギま!』を連載しようとするだろうか?
ネギまは、マガジン編集部の商業主義に支えられて初めて発表できるタイプのエンターテイメント作品なのである。
赤松健が「ビジネスによる利益」よりも「漫画としての面白さ」を優先していることは明らかで、それは最新作『魔法先生ネギま!』が、30人以上のレギュラーキャラを抱えた巨大学園漫画という、漫画界の常識を覆すような設定を選択していることからも窺える。物語もスロースタートであり、何十話もかけてようやく本来の魅力を打ち出せるような作風だ。
どう考えてもアニメ化に「不利」なこれらの要素は、アニメ化による販促効果を殆ど考慮に入れていなかったことを意味する。実際、赤松健はCD化やアニメ化に際して終始及び腰の姿勢を見せていた。本当に商売っ気を出すつもりなら、アニメ化を考慮に入れて連載を始めるものだ。
事実CD化やアニメ化が進行した後も、原作者としての支援活動に励んだり、関連商品のヒットを喜びつつも、遠慮がちなコメントを残すことが少なくない。
ただ、「商売のワク」の一部を犠牲にしたことと引き替えに、「漫画のワク」を大きく拡大しているのが『魔法先生ネギま!』という作品である。その広いワクの中には、受け手(つまり、我々)に向けられた作者のエンターティナー精神が溢れんばかりに満たされている。
≪赤松健発言集1:「大衆娯楽」≫・了