少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ネギま!編(4/4)

■総論

 ここまで『A・Iが止まらない!』、『ラブひな』、『魔法先生ネギま!』と順番に見てきたが、そのことで驚かされるのは、赤松健が常に前作の失敗を乗り越え、少年漫画家として成長し続けているという点である。一般に漫画家は「ヒット作の次回作をヒットさせる」ことが困難だと言われているが、赤松健はそれを成し遂げたばかりでなく、マガジン本誌にふたつ目の風穴を開けることにも成功している。ネギまが新たに獲得した読者層は、うまく扱えばまた新しい路線をマガジンに切り開く助けになるだろう。

 現在の所、赤松健は「人気萌え漫画家」程度の評価に留まっているように思える。読者が『魔法先生ネギま!』を萌え漫画として読むか少年漫画として読むかは自由なのだが、少年漫画家としての赤松健がこれからどういった結果を見せてくれるのかが、今後注目する価値のあるトピックではないだろうか。


■あとがき

 <少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷>は、以上で一応の完結である。
 最後に、ここで用いている「少年漫画」という言葉の意味について再確認を。<AI止ま編>の始めでも述べたことだが、「少年漫画」という言葉自体に、どこかストイックでステロなイメージを抱いている人は多いと思われる。「努力・友情・勝利」の三箇条が必須条件だと考えている人も多いだろう。
 しかし極論すれば、「努力・友情・勝利」の内、必ず描かれなければならないのは「勝利を目指す過程」のみではないだろうか。努力や友情は、その過程を盛り上げる味付けの要素に過ぎないし、場合によっては敗北しても構わないケースだって存在する。勝つことを諦めないでいる限り、それは少年漫画と呼ぶことができる。逆に勝利を目指さなくなった時こそが、少年漫画とは呼べなくなる時だろう。それは青年誌やマニア誌、あるいは少女誌寄りの表現になってしまう。
 主人公が勝利を諦めないという要点を守ることで、ラブコメ漫画やギャグ漫画であってもそれは少年漫画足りえるのだ。

 最後の最後に、本論を執筆した意義のようなものを、蛇足かもしれないが述べさせて頂きたい。
 本論は、一般的に漫画作品としての批評を受けることが少ない赤松作品を語ろうとする上で、作品論の地盤を固める「地均し」の役目を果たすことを第一の目的として考案・発表されている。特に重視したのは、AI止まやラブひなにおいて「読者がなんとなく不満を覚えていた箇所」を言語化し、俯瞰的に参照可能な、整然としたものにすることだった。本論を下敷きにすることで、更なる作品語りが読者の間で広げられれば嬉しい。そういった作品語りを試みた一例として、<補論2:『拳児』、『史上最強の弟子 ケンイチ』との比較>というコラムも併載した。興味があれば参照して頂きたい。
 第二に、副産物としての少年漫画論を発表する場としての意義があった。<AI止ま編>における「少年漫画ラブコメの原則」論や、<ラブひな編>における「師匠と主人公の関係」論、<ネギま!編>における「ねぎま串方式」論などがそうである。これは赤松作品を分析する必要性から自然とあてがわれたものだが、当然、他の少年漫画一般に対しても充分通用すると思われるし、「少年漫画読み」の入門編としても適切な内容なのではないかと自負している。他の少年漫画を読む際に、本論が一種の物差しになることを期待する。だから本論は、「赤松作品から見た少年漫画の姿」でもあるのだ。
 第三に、これは当然のことだが、漫画家としての赤松健、及び、漫画としての赤松作品の魅力や奥深さを広く伝えたい、という目的がとても大きな動機としてある。少しでも多くの人に伝わらんことを祈りたい。とりわけ、食わず嫌いの解消に繋がるようなことがあればこれ幸いである。

 もう少し蛇足を続けよう。
 本論を読んでいる最中に、「いくらなんでも理屈で考えすぎている」「少年漫画ってこんなに難しいものだったのか」という印象を得た方は多いかもしれない。特に<ラブひな編>の「師匠と主人公の関係」論は、小難しい、メタ視点すぎる、あるいは、漫画に教条的なメッセージを期待しすぎだろう、という、難渋な解釈をされかねない内容だったと思う。
 だが、そういった誤解は解いておく必要がある。 
 あくまで漫画とは「気持ち」で読まれるものだ。なかんずく少年漫画は「熱さ」という感覚的な言葉で面白さが形容されるように、読者の「感情の昂ぶり」および「大衆的なわかりやすさ」こそが何より重要視される「大衆娯楽」なのだ。そのことを筆者は忘れていないし、皆さんも忘れないでほしい。言い換えれば「読者に熱さが伝わるならなんでも許される」のが少年漫画なのだが、今まで挙げてきた少年漫画のルールや原則などというものは、その熱さを効率良く引き出したり、 娯楽性を阻害しない為の方法論──その最大公約数的な解答の一例でしかない。
 そもそも実際の少年漫画制作の現場において、ここで述べたような原則が金科玉条のように守られているかといえば、おそらく答えはノーだろう。本当に少年漫画の原則となっているのは、編集者や作家らが時間をかけて蓄積してきた経験則であり、それは時に感覚的な「職人のカン」のようなものではないかと思う。
 ただし、何百万人もの手に取られる雑誌である以上、連載作品のアベレージを保つ為に何らかのルールやガイドラインは用意されていておかしくないだろう。それは各雑誌ごとの秘伝のようなものなのかもしれない。

 「師匠と主人公の関係」についての考察にしても、単に、一部の読者が『ラブひな』を読み進める最中で「あれ、この展開はあんまり熱くなれないな」と、「気持ち」の上で感じた不満感を、あえて理論的に言語化しようと挑戦してみた結果にすぎない。別の視点の切り口があれば、また別の答えが導き出せると思う。
 決して「論理」が先にあるのではない。読者の「気持ち」が先にあり、論理はそれに満足行く解答を示すものでしかない。
 そしてその「気持ち」すらも、読者の個性によって千差万別に変容する。本来は読者一人々々に異なる「気持ち」が存在し、それらを十把一絡げにして語ることは不可能なのだ。
 言ってしまえば、ここまで述べてきたことは全て、筆者の(と、筆者の師匠筋にあたる漫画読み達の)「我流」な読み方でしかない。
 漫画の読み方などは、十人十色で構わないのだ。
 そうして筆者のでっち上げた読み方がどれほど有効なものかどうかは、是非各人が実際に少年漫画を手にし、自分の「気持ち」と照らし合わせながら検証して確かめていってほしい。
 貴方の読み方は、貴方だけが決定できるものだし、貴方によって、また異なる「我流」の読み方が生まれるかもしれないのだから。
 そうされることこそが、本論にとって最も有意義なことかもしれない。

 

≪少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:AI止ま〜ネギま!まで≫・了
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■執筆スタッフ

AI止ま編 ・・・・ 原案・監修:結城忍、執筆:いずみの、友情協力:みやも
ラブひな編 ・・・・ 原案・監修:結城忍、執筆:いずみの、友情協力:みやも
ネギま!編 ・・・・ 原案・執筆:いずみの、原案・監修:結城忍、文章指導:伊藤悠、友情協力:みやも
補論1 ・・・・ 原案・監修:結城忍、執筆:いずみの
補論2 ・・・・ 原案・執筆:いずみの、文章指導:伊藤悠、友情協力:結城忍,みやも,加納
カット ・・・・ いずみの

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