バックナンバー(2000年1月〜12月)

「季節のつれづれに」の2000年1月〜12月(第8号〜19号)までのバックナンバーです。
2000年12月号(第19号)より

「餅搗き」

「仕事は相取」という馴染んだ言葉を如実に目にするひとつが餅搗きであろう。

例年迎春準備の終りが餅搗きとなり、ご近所より一日早い29日が定日で前日からの糯米洗いが一仕事であった。二斗四升、八臼分のうち、一臼はお雑煮用の小餅となる。打水しおいた太い割木をおくどさんに山積みし、蒸籠、大釜の点検から出来上り餅をのせる長膳を運び入れ、とり粉(うち粉)も忘れなく。

当日は早朝より糯米蒸しに火力を最大限に燃やし続けてかまどはフル操業となる。やがてぷーんと炊きたて飯のおいしい匂いが溢れ出すとフタをとって掌でさわってみ、粒がつかなければよし。

全身に湯気をまとい臼にあけ入れ、杵でまずこずきをする。心地よいリズムがくり返され、振り上げるまでのまとまりがなされてゆく。ペッタン、ソーレ、ペッタン、ソーレ… 杵を下ろす者と、臼の中の餅を引っ返す者との絶妙なやりとりの中で粒は姿を消し、見るからに柔肌を成しゆき、その頃合いをみて両手で底から掬いあげる呼吸の見事さ。

打ち粉をした大枡にフカフカの身を横たえた餅をやや細身にし、両手を締めるように千切って上下のバランスよい大きさの鏡餅にと手早く丸められてゆく。

整然と並んだ鏡餅はゆったりと残り少ない今年を楽しんでい、蒸し湯でぬぐわれたおくどさんのタイルはピカピカに余熱で干された台ふきんの列を貼りつけている。

塔再建の歳々には工事関係者一家も便乗の大賑わいの年の瀬の一日もあった。お手伝いの小母さんの老齢化とともにおくどさんも失くなり、最早往時の様をとりもどす術はないが、配達された美しい鏡餅のむこうに懐かしい餅搗きのあれこれが彷彿とし、心身を苛むのである。大晦日、三宝に白紙、裏白を敷き、頭上にみかん、干柿を侍らせて納まった鏡餅を各御堂に供えまわると後は除夜の鐘韻々と。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年11月号(第18号)より

「塔落慶の日」

愛染さんへの献酒祈願が仏縁の皆様の一念と相まって聞き届けられたのか昭和50年11月4日、当日は晴天であった。

完成まで惜しみなくご支援下さった方々と熱い言葉を交わしながら溢れる感情を制止できず流れるままに過ごした一日であった。再建への様々の思いは生々しく横たわったままなのに、秋天へ突きぬけていく崇高な塔の姿は心をとらえて、しばし天空へと誘うのであった。俄仕立ての舞台から聞こえてくる雅楽のはなやぎは塔完成の頌歌にほかならず、舞い散る散華の雨も又調べ高く、何も彼もが歓喜にうちふるえているようであった。狭い境内はごった返し、よろこびを共に交わし合う顔顔の何という輝きであったろう。平静であることに誰もが不可能と見えた「晴れ」の一日。塔という言葉を口にすることさえタブーであった塔焼失の深い悲しみの渕より正に灰燼より甦った塔の雄姿。宙に浮き立つような心許なさを支えた足袋は気前よく汚れて、走り回った帯の下はぐっしょりと汗に湿っていた。

記憶の中の鮮明なものにこだわりつつたぐりよせてみるあの日のその顔の多くは今に亡いが、遠いざわめきの内に確かな位置を占めて小尼の身内に力となり存在することの勿体なさ。

早や25年を経た今日、塔と共に過ごさせて頂く日々は合掌の内にすべてを包み込んであまりある安らぎそのものに思われるのである。(右上は三重塔落慶記念散華の3枚のうちの1枚。吉田善彦先生画)

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年10月号(第17号)より

「障子貼り」

秋の気配と共に例年苦になる模様替えの時を迎え、納戸に押しやられていた黄ばんだ障子を運び出す。お手やわらかにと満身創痍の障子を洗う。

寺の生活はこの障子一枚によって内と外を分ける部分が殆どである。破れ障子ほどみすぼらしいなさけないものはないといい聞かされてきた日々に思いを廻らせながら、折れた棧を見失うまいと心を配る。洗いあげ骨枠になった障子の列の美しさはたとえようもないが、無頓着に貼ってしまおうものならたちまち立て付けが合わず天地までも隙間ができてしまう古障子。おそらく薪にもなるまい骨が紙一枚によって見事に変身し、立派に一冬の生活空間を生きるおどろき。貼りたての白さもひときわ凛と寒さを待つ姿となり喝采を送りたくなる。

明と暗、内外界を分つ一刀両断の心地よさを一枚の障子に託した先人の智慧の確かさ。座る文化とともに、白一色無垢なる証のような清浄な空間を演出する障子は日本の家屋になくてはならぬ建具である。

たじろがされ泣かされてきた古障子も内九枚だけが世代交代の時が来て、今年は木の香も清やかなお目見えとなる日が近い。馴れ親しんだ古障子はまた新しい用具として再利用したいと考えている。折角の長いご縁、骨の髄までつきあってゆきたい執着の深さである。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年9月号(第16号)より

「曼珠沙華」

「暑さ寒さも彼岸まで」という先人の生活感あふれる言葉が通用しなくなって久しいここ数年の季候不順である。

声なき植物たちにとっては殊更に迷惑千万な地球の温暖化であろうに、例年彼等は律儀に発芽して季節到来のメッセージをくれ、変わらぬ出会いの感激を新たにしてくれる。

境内の生け垣のあちこちからある日突如つうーと一本のみずみずしい茎が伸びだし続いて次々と勢揃いする。ああ、お彼岸が近いなと挨拶を受け止める喜び。

手折らずにはおられず手桶やかごに活けて合性よく、またガラスにあってモダンな妖しさを見せるが、やはり野にあってこその命の花である。

戦中戦後には根茎を水にさらして食用にしたと聞くが、今日各地に忌み嫌うた名残りの名が多くみられるのも、仏花として伝来したこの花のもつ生来故であろうか。

色づき始めた稲田を縁取るように畦に野に群生する燃えるような色は、しのびよる人間界に仇なす者を許さぬ結界の炎とも見えてありがたい。

底ぬけに高い秋空へ向って発進する見事な感性を心強く身にとどめたい印象深く美しい花である。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年8月号(第15号)より

「百日の白」

当寺の百日紅(さるすべり)は白色である。

季節到来を待ちかね幹から潔く手をさしのべるようにのびた枝先に、一塊になって花をつける。灼熱の太陽に競い立つことなく、やさしく受け入れてたわわに揺れる花は、みごとに伽藍の清涼剤として例年訪れる参拝者の心に清いものを印象づけてくれるようである。また氷苺(こおりいちご)のような赤い盛り上がりのイメージの方には、白い色はいささかもの淋しく、古寺を意識させるようでもあるが、寿命の長さにおいては退けをとらぬ。殊に玄関前の老木は南面半分がウロになっていて、これは昭和十九年の塔炎上の折の後遺症であり今もまざまざと紅蓮の炎一色の様を語りかけてくる。

火傷の疵を樹皮でしっかり被い込んだ幹を撫でながらよくぞ生きのびたものよといとおしむ。そのものの持つ生きる力というものに、あらためて感佩の時である。

次々と開花していく強さを称え、百日程も長くしかも一夏を共に過ごしてくれる花に百日紅を当てはめた先人のこころを偲ぶ。民家の塀に薄色から濃色までとりどりに覗かせている百日紅は、炎天下にあってやわらかに強い花である。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年7月号(第14号)より

「蚊帳」

曾ての夏の風物が次々と消えてゆく中で今年も蚊帳のお世話になる日々となった。

上下の蒲団が急に嵩低くなった頃から棹に日干しされていた蚊帳が「日(か)」のつく日を待って吊り始められた遠い日の初夏。螢を放ち、兄の語る怪談を耳に恐怖と関心を綯い交ぜに、折角の天瓜粉も汗びっしょりの夜な夜な。蚊帳の裾を両手にもって一・二・三で素早く潜り入るタイミングのとり方で蚊を入れようものなら大騒動の果てには一晩中悩まされることにも。雷鳴とどろけば日中でも蚊帳を張って逃げ込んだ麻の香と雨の匂いと。

何の屈託もなかった夏の日のあれこれは吊り手の金具の音色までもが懐かしく胸に迫る想い出であり、一張りの蚊帳の中は凝縮された昔日の日本の夏姿そのものに思える。

一匹の哀れ蚊と共にお役御免の移ろいの日は妙に記憶にとぼしいが、夏の終わりの寂寥は格別で何か取り返しのつかぬ無くし物をしているような心許なさを覚えたものであった。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年6月号(第13号)より

「慈雨」

雨もよいの日が続いて、葉の色に同化した雨蛙がじっと蹲る姿を随所に見かけるようになった。

しおらしいひたすらな雨乞いの様である。

梅雨という言葉には暗いうっとうしいイメージを重ねやすい年月があったが、近頃では傘一本にしてカラフルな楽しい目新しさが加わった。ましてや心だけは己がもの。持ちようで陰にも陽にも過ごしうる毎日ではある。

さて今年の梅雨模様はどんなことになろうかと案じられる。どうぞ蝸牛が悠揚と紫陽花に這い、草木には夫々の実りへと向かうべきいのちを満たす量であってほしいものである。

生きとし生けるものにとって時を得た穏やかな慈雨、慈しみの天水であってほしいと願う。

それには日々の精進如何が大きくかかわってくることであろうように思われてならない。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年5月号(第12号)より

「花楝」

五月は「万緑」に代表される緑の季節である。この力強い語感にものみなの生命の頌歌がこもる。緑風を単衣の袖に入れてこの勢いに対峙する気力を持ちえた日から、今日のたじたじと気圧されがちな迎え方は思ってもみなかった口惜しさである。

そんななかで下旬にもなると、楝の花が淡紫色の小花のマッスを数限りなく咲く。やさしい風情に出逢うとやさしい人格が生まれそうな心地よさ。

  妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに

大伴旅人の胸中を代弁した山上憶良の詠というが、例年楝の花の下に佇むとそこに思いが至る。先代住職が植え置いた一本が大木となって目を独占するまでになって久しい。かつては庫裡の裏にあって、冬は実を拾い霜焼けの特効薬として重宝したともきいた。そんな懐かしさが新たな若木を育てたい思いにかられたのであろうと想像する。

花も実も生活にうるおいとなりえた楝。境内の東南の位置に早や芽吹きをみせ、見事な花を見あぐ楽しみをくれる日を待つこの頃である。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年4月号(第11号)より

「法輪寺桜」

花といえば桜。古来より万人に愛され、また魂をゆさぶるような文芸も数多く残されてきた。当寺にも境内を埋める花の雲が見られたが、塔再建の折に幾本かが貴い犠牲になり、数は少なくなったものの染井吉野の老木が花咲く。

その花筏が人の世の縮図を描くかに流れた後に、桜桃のような二つにぶら下がった蕾が開きはじめる。淡紅色八重咲きの一見代映のない八重桜と見えるが、嬉しいことに寺名と同じ名を持つ。仏縁の方のご尽力によって昭和五十六年二月二十六日、八重にちなんで八本頂戴した。成木(十二年生)一本と幼木七本。翌年には幼木も花をつけ感動の出逢いであったが、染井吉野を見なれた目にはぼってりした華やぎは何となう面映い中で漫ろな気持ちをもてあました。が、年々成長する木々とともに寺名の誼が思い入れを深め、手前味噌も甚だしい今日となっている。

そもそも後水尾天皇勅名の桜で京都嵐山法輪寺の名桜だという。ともあれ当寺に仏縁のあかしの如く育ち、訪れる季節に備えている様を見ることは有難い限りであるが、現在、監理不行届きで六本になってしまったのは返すがえす申し訳ない次第である。

皆さんとともに重宝に愛でつつ、大樹に花開く寺名桜を見守っていかねばと思う。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年3月号(第10号)より

「お彼岸さん」

此の岸より彼の岸へ。

彼岸とは此岸(現世)に対する言葉であり、悟りの世界、転じては浄土を意味するとも解されている。

文化がその国々の国民性によって左右され、形成され発展してきた歴史をみる時、日本では暮らしの中で、春秋の彼岸はことさら季節を分つ折節のように考えられ、また、先祖の霊を祀る、いわゆる墓参の風習を生み出しているのに気づく。

「お彼岸さん」と親しみをこめた声を耳に育った日々は、春、草だんごの蓬摘みから、素足で味わう水ぬるむ感触であり、野辺に遊び呆けた遠い日が陽炎の中でシルエットになってうごめく。

長い寒さから解きはなたれるよろこびを、神仏に感謝の形が、今に、あちこちに、受け継がれているようだ。

かつて滔々と流れるガンジス河を前にした先代住職は、「お釈迦さまはすべての煩悩から解脱し、絶対値の境地に立たれたればこそ、小さな渡し舟に身をゆだね、この大河を何の不安もなく彼の岸へ渡ることが可能であられたんだと了解した」と語られた。

いつの日か、小尼もガンジスの岸に立ちたいと願う。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


2000年2月号(第9号)より

「伽藍の鬼」

「伽藍の下には鬼が住む。これはわたしらのことや。伽藍を護らせて頂いているわたしらが鬼なのや。」 自嘲ともとれる姑の言葉を興味深く心にとどめて聞いてきた。棟々にのっている鬼瓦を見あげる度に相呼ぶものがその言葉に連なる。

殊に金堂の西側下り棟の鬼瓦は昭和三十六年の第二室戸台風で見事に吹き落され、修復再生された鬼瓦である。鬼面の頭上ににょっきりと突き出しているのを「鳥衾」と呼ぶが、これも当時の強力な接着剤にて甦り、四十年近くを経た現在も、そんな苦い思いをみじんも見せない鬼を演じていてくれる。

人心の奥底に住むのも鬼なら、堂々と棟の上から見下ろすのも風格備わった鬼さまである。仏にも鬼にもなろう人の気ままな眼が鬼瓦に託した心を今更あらためて語るまでもないが、無敵の存在、異形のものへの憧れにも似た感情が形をとれば、こういうものなのだろうか。形の中にひそむ凄まじくおどろおどろしたものこそ真実鬼そのものなのに。

今日一日の伽藍の事無きを頼んで鴟尾に鬼瓦に合掌を捧げる早暁の日課である。

(住職 井ノ上妙覺)


2000年1月号(第8号)より

「淑気かな」

裸木の影を凍てついた土に踏んで 暁(六時)の鐘を撞く。

容赦のない朝の寒気が顔を打つ。

撞き終えて東にむかえば、村の鎮守の上に五色の雲がたなびく。あの日本画の巨匠の描く瑞雲。新しい年が明けたのだ。

穏やかな三井の里の新春がしずもりの中に息づいている。三拝して今日の無事を祈る。

肺いっぱいに広がる清しきものを確かめつつ、そこはかと湧きあがってくる感情を抑えて、「妙見堂改築の用材購入」との決意を声に出してみる。吾がことだまは境内の片隅に生じ、ひそひそと伽藍を渡っていく。

ひそやかな実感が凛と満ちて、着ぶくれた身内に走る。両手に深い熱い息を吹きかけて庫裡へと急ぐ。

冬至から十日余を経て日脚が春へと伸ぶを覚える。

(文章 住職 井ノ上妙覺)


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