今頃になって指先のあかぎれがひどいのも、ついついと砂利をかきわけかきわけ草取りをする故であろうと思うが、終日境内にこだまする鴬の正調を耳に、おもしろいように抜けでる雑草の生命を無断でもらい受ける残忍さにも耐えられる気分爽快のこの日々。
芽立ちのみずみずしい木々の香りや小鳥のさえずりに耳を傾ければ一首も一句も生まれてきそうなものなのに、なんと頭のなかはなんにもないのである。考えることを否定してはいないのだが、それどころか名歌を名句を作すまたとないタイミングというのに、空っぽなのである。心をここにおいてと構えてみるものの、ほんの数秒のうちにホッと気づけば空っぽでなんにも考えていないのである。
次から次へと膝を移しながら雑草を追って両手に満杯の草の山を盛り上げていく楽しみは、老尼にとって最良の時間なのかもしれない。掃除をしながら悟ったという先人もあると聞くのに、なんという体たらく。
さほど広くない境内にも鳥が運んできたのか、思いがけないところに芽を出してすでに小木になり蕾をつけているものや、見慣れた本葉をつけている幼木に出会うのは作務の至福であり、平素見落としがちのことごとや目先ばかりの日々への反省をうながされる機会でもある。
一木一草、仏の庭に生きてあればこれまた仏弟子に連なるような思いがして、無理にひっこ抜かれ、抜かれても出てくる生命に申し訳ないとすら思う。あえて素手で草や落ち葉に接するこだわりはせめてもの詫びのしるしであり、心からのねぎらいであり、また出ておいでよと暗黙のうちの語りかけでもある。「根こそぎ」とて雑草撲滅薬の誘いも届くがそれは当寺の本意でなく、ときには弱音を吐きながらも広々した空の下での気分転換であり、「雑草のような命」という生命力に直にふれる喜びでもある。
境内には緑が一番と白い花のほかはあまりよしとしなかった先代住職にならって、折節の季節感を大切にしながらも、よくいえばあるがままとてのかわり映えのなさをお許し願うばかりである。
大楠も生け垣の樫もようやく更衣をしたが、樒はいまだ日々更衣中で、一日のゆるみもくれない。草木の調子もうかがいながら、仏縁のよしみを総身に浴している四月である。
(文章 住職 井ノ上妙覺)
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