法輪寺の仏像3

吉祥天立像 吉祥天立像
平安時代 木造 彩色 像高171.3センチ 重要文化財

かつては金堂にご安置していましたが、現在は講堂にお移ししています。
杉の一木造りで、背刳(せぐり)をほどこし、背板を当てています。眼・鼻・口とも浅い彫りで、柔らかく肉づけされた顔にやさしさを加えていますが、頸が短いため、お顔はやや四角ばった印象にみえます。両肩は幅広くいかり肩で、左手に宝珠をのせ、右腕は垂下して五指をのばしておられます。着衣の下から沓が見え、二段の丸框の上の荷葉座(蓮の葉の台座)上に立っておられます。浅い彫りや穏やかな像容からして、10世紀後半頃のものではないかといわれています。なお、光背や両手首・持物・台座などは後補です。
吉祥天(きっしょうてん)はまた功徳天ともいい、もとインド神話の吉祥(めでたいこと)の神が仏教に入ったもので、毘沙門天の妃とされています。天下泰平、五穀豊穣、財宝充足など、福徳円満の女神として古くから信仰されています。


毘沙門天立像 米俵乗毘沙門天立像
平安時代 木造 彩色 像高157.0センチ

もともとは樟の一木造りの像であったようですが、後世の補修が著しく、当初部分は頭部から腹部までで、他の部分は後の時代に檜や杉の材を適宜矧ぎ寄せて補ったものです。踏んでおられる米俵は江戸時代の後補で、他に例がなく、七福神信仰の影響ではないかとも考えられています。当初何を踏んでおられたかは伝わっていませんが、室町時代の『法輪寺縁起』講堂の条に、「米俵乗毘沙門」と記されており、当時すでに米俵であったことがうかがえます
毘沙門天(びしゃもんてん)は、護法神である四天王のうち、北方を守護する多聞天を独尊としてあらわしたものです。その妃とされる吉祥天と対であらわされる例が多く見られます。室町末期に成立した七福神の信仰に取り入れられ、護法の神が転じて、施福の神として解釈されています。


太子二歳像 聖徳太子二歳像
江戸時代 木造 彩色 像高57センチ

平安時代に聖徳太子伝が成立し、中世以降、聖徳太子信仰が盛んになるにつれて、そのエピソードに基づいた太子像をつくることが全国的に盛んになりました。南無仏像(二歳像)、孝養像(十六歳像)のほか、以前の一万円札の図柄にもなった摂政のお姿などが有名です。
聖徳太子二歳像は、生まれてから一言も発せられなかった太子が、二歳の2月15日に合掌されて「南無仏(仏法に帰依するの意)」と唱えられ、同時に御手の間から仏舎利(お釈迦様のお骨)がこぼれ落ち、お体からは妙(たえ)なる香りが立ち上った、という逸話に基づいたお像です。上半身裸で、緋色の袴をつけて合掌しておられます。
また写真にはありませんが、二歳像の隣に、江戸時代の聖徳太子孝養(きょうよう)像をご安置しています。これは太子十六歳の時、御父用明(ようめい)天皇のご病気に際してその平癒をお祈りになられるお姿で、身には袈裟をつけられ、手には柄香炉を捧げもっておられます。



釈迦如来坐像(非公開)
平安時代 木造 像高86.6センチ

昭和19年の三重塔焼失のとき救出された像です。三重塔初重内陣の北面にご安置しています。檜の一木造りで、10世紀後半頃の作といわれています。量感のある、若々しい表情のお釈迦様です。
本像は虫害が進んでおられましたが、三重塔の再建工事にあわせて修理され、塔の完成よりも1年遅れて昭和51年11月に開眼供養が行われました。


四天王像(非公開)
平安時代後期 木造 彩色 像高95.2〜96.5センチ

昭和19年の三重塔焼失時に救出された像。現在三重塔初重内陣の四隅にご安置しています。
浅く穏やかな彫りですが、一木造り(栴檀2体、檜2体)で、小像ながら量感があります。11世紀の頃のものと考えられています。


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