溢れる光の向こう側
第八回
清潔感はあるが冷たい感じのする白色蛍光灯で、自分の影さえ出ないほど明るく照らされ、綺麗に磨き上げられている廊下を歩くと、立体感のない夢の世界におかれているようで、信一郎は不安感を覚えた。すでに夕食の時間も終わり、入院患者たちの希望と絶望感も、病室の扉一枚で包み隠してしまうような静けさが支配していた。
704号病室の名札に父の名前があるのを確認して中に入った。
母と妹、祥子の三人が背中を丸くして、ベッドの横に座っている。眠る父は、四日前に実家で会ったときより、頬がこけて顔は土色になっていた。
反抗をしていた高校生の頃の父の腕は筋肉質で逞しく、身長だけが父を追い越した信一郎でも敵わないと思わせていた。しかし今は見る影もないくらいに細くなり何本も点滴の針が刺されていた。
胸が上下して呼吸しているのも機械によって動かされているように思えた。自分の力で生きようとする意志が感じられないような姿である。
父の様子を一通り聞いたあと、今夜は自分が付き添うからと、疲れた顔をしている母と妹を帰し、父が眠っている間にと、祥子を病院の傍のレストランに誘った。
「すまないなぁ。結婚前にこんなことになって。普通なら晴れやかな気持ちでいる時期なんだよな」
「なに言ってるのよ! 結婚式のことより、お父さんの方が心配なのは、シンイチと同じよ」
そう言ってくれる祥子に、信一郎は頭が下がる思いを感じながらも、原発でのトラブルのことを、あらまし話して、明日にも戻らなければならないと伝えた。
「そう…… 結婚式延期した方がいいんじゃない?」
「それはない、そこまで遅れると原発の再稼動に間に合わないということだから。それはいいんだけど、俺がいない間、母と妹と協力して親父の世話を頼みたい」
「そんなこと、言われなくてもするつもりだったわ」
「すまないなぁ」信一郎は人前をかまわず祥子を抱きしめたいという衝動がこみ上げて来たが、なんとかこらえた。
「今夜は親父と二人きりになりたいから…… 祥子は遅くならないうちに引き上げた方がいい」
信一郎と父が一緒にすごすのは、今夜で最後になるかもしれないという気持ちを察してくれたのか、祥子はレストランを出たあと帰っていった。
父は煙草を吸わなかった。お酒も晩酌で少し呑む程度だった。長年看板屋をしてきて、ペンキのシンナー臭い匂いを嗅ぎ続けてきたことが肺癌の原因になっているのだろうか。
仕事一筋で遊びもせず家族を支えてきた父にとって、幸せを感じることが出来たのは、仕事に打ち込んでいるときだけだったのではないだろうか。
消灯された病室で、父の不規則な寝息を聞いていると、昔のことが色あせた映画のように脳裏に蘇ってくる。
「看板も、写真技術や大型印刷の技術が発達しているし、もうコンピューターとフルサイズプリンターで作る時代になって来ているんだから、技術革新しなきゃ」
大学に入った頃、父にいっぱしの意見を言ったことがある。
「いつまでもそんな仕事じゃ、世間に取り残されるだけなんだから。もっと最新の技術を取り入れて、事業としての広告業に切替えなきゃ」
「お前に言われる筋合いはない。これでもちゃんと飯を食えるぐらいは稼ぐし、お前も大学に行かせている。俺一代で終わる仕事ならこれで充分だ」
「話にならないね。いくら長年職人芸を守ったとしても、町の看板屋じゃ人間国宝はおろか文化勲章さえ貰えないんだから」
「分かったような口を利くな! 見栄や功名心で仕事をしてるんじゃない!」
顔を真っ赤にして父は怒鳴った。
父は信一郎に看板屋をついで欲しかったのだろうと、今更ながらに思い出される。
信一郎が継ぐのなら、事業としての展開も考えていたのかもしれない。
夜中に目覚めた父は水を欲しがった。ペットボトルの水を乾いた唇に少し与えると、黄色い目で信一郎を見つめた。
「仕事はどうした? 大事な仕事を放り出してくる奴があるか」
弱々しい声ながらも強い意志を感じさせる迫力が残っている。
「俺の仕事は大丈夫、心配しないで良い」
「心配しないでいいのは、俺の体の方だ…… 仕事仲間に迷惑を掛けるようなことはするな」
まるで高橋の事故を知っているかのような口ぶりである。暗い天井の一点を見つめながら父は話を続けた。
「結婚式だが、俺が入院したままでも…… 死んだとしても予定通りするんだぞ。先方のご両親や祝って参加してくださる方に、余計な心配や迷惑をかけるんじゃない……」
「相変わらず頑固だな。まあ、それだけ周囲に気を使えるなら、すぐに元気になるさ」
そんな言葉が気休めであることを、父が見抜いていることは、目を見るまでもなく分かった。
第九回へ続く