科学哲学ニューズレター

Newsletter No. 30, continued

(3)1836-1842


帰国したダーウィンが最初にしなければならなかったのは、航海中に集めた膨大な標本を整理し、学術的に検討してくれる専門家さがしだった。その過程で、彼は書物を通じて影響を受けていたライエルと遂に顔をあわす。ライエル邸のディナーでは、比較解剖学の権威になりつつあったリチャード・オーエンと知己になった。後に、彼はダーウィンの不倶戴天の敵となる。しかし、しばらくは、オーエンはダーウィンが持ち帰った化石標本の鑑定に大いに貢献し、ダーウィンの名前を上げるのに手を貸すのである。

地質学会でのデビュー(1837年1月)も成功し、ダーウィンの株は上がり続ける。イギリス科学界での改革派として派手な活動をしていたチャールズ・バベッジ邸のパーティにも招かれる。デズモンドとムーアの本にはあまり詳しい記述がないが、バベッジはすでに触れたジョン・ハーシェルの親友で、ケンブリッジの由緒あるルーカス講座教授(かつてニュートンが占めた地位)である。機械式の計算機(1834年以降の解析エンジンの構想は現代のコンピュータ思想の先駆と言われる)の設計と製作に精力を注ぎ込む一方、ロイヤル・ソサイェティ改革をはじめ、政治改革にも足を踏み入れようとした。

著者たちがここでバベッジを持ち出すのは、ホイッグ党政権の社会改革やバベッジの科学界改革という背景のなかに、ダーウィンの進化学説形成をはめ込もうとするからである。例えば、第15章のタイトルが「自然を改革する」とされていることから、これは明らかであろう。非常におおざっぱに言えば、トーリー党の支持層は貴族や国教会聖職者、あるいは聖職をかねる学者たちであり、保守派である。これに対し、ホイッグ党の支持層は、新興ブルジョア、自由思想家、商工業や職業的科学者を目指す非国教徒の人々で、彼らは政権の改革政策を是認する(ただし、急進派とは一線を画する)。もちろん、科学者が生きた時代の背景を知ることは重要である。また、ある学説の拒絶や受容に当たって社会的な要因が作用しうることも否定できない。しかし、こういった背景を知ることが、ダーウィン学説の(一般社会での受容ではなく)「形成」を理解するためにどう貢献しうるのか。著者たちの見解は、必ずしも明晰に述べられているわけではなく、叙述のレトリックを通じて伝えられることを意図されているようである。この点は後にまとめて論じたいが、評者は著者たちの話の持っていき方に必ずしも納得はしていないので、ここであらかじめお断りしておく。

さて、ダーウィンの学説形成に関わる基本的な事実の進行をかいつまんで要約しておこう。バベッジやハーシェルに代表される、新しい自然観、すなわち神の個別の創造や干渉によってではなく法則によって動かされる自然、という見方がダーウィンの心をとらえる(邦訳、292)。加えて、持ち帰った標本の分析が進むにつれ、化石動物と現生種との近縁関係が示唆され、種の安定性に対する疑問が深まる。ガラパゴス諸島の生物の重要性に気づくのもこの時期である。かくして、ダーウィンは種が変わるという転成説に傾き、種の変化を支配する法則を模索し始める。そこで、『ビーグル号航海記』の原稿が完成したのち、ダーウィンは転成説の新しいノートブックを開く(1837年7月)のである。 地質学会ではヒューウェルやセジウィックらの保守的な人々と交わりつつ、転成説の進展のためにダーウィンは家畜のブリーダーたちからの情報収集にも精を出す。彼の情報収集の徹底ぶりは、本書を読めばわかるとおり、彼の研究者としての顕著な特質の一つである。

ダーウィンはすでに、転成によって発展する過程を指す新語を考え出していた。「由来 [descent ディセント]」である。人間の由来を考えることは、猫や牛の由来を考えるのと同じくらい理にかなったことなのだ。(邦訳、320)

晩年の『人間の由来』(1871)の基本構想は、すでに転成説に傾いた当初からあった。これはノートブック中の多くのメモから明らかである。この点は、評者自身も確認したので全面的に支持できる。

このような過程で、自然淘汰説に至る一つのカギとなったマルサス(1766-1834)の意義を認識するのは、自身の結婚問題にも思い悩んでいた1838年9月の後半である。

ダーウィンはその理論を知っていた。マーティノーを夕食に招いていたダーウィンが知らなかったわけがない。貧乏人から福祉を取り上げれば、労働者間の競争が激しくなり、税金は減る。競争は優先事項であり、1830年代には、マルサスはホイッグ党の自由貿易論者にとっての天恵となった。しかし、知識として理論を知っていたダーウィンにすごい衝撃を与えたのは、マルサスの統計だった。・・・

ダーウィンの科学も救貧法が施行されている社会も、これで、競争原理のマルサス路線に沿って改革された。情け容赦のない競争が規範なのだ。それが生命の進歩と低賃金高収益の資本主義社会を保証する。(邦訳、350-351。斜体部分は内井の改訳)

このくだり、著者たちの言葉に注意しよう。前段の最後では、「マルサスの統計」がダーウィンに対する強力なヒントとなったという趣旨が述べられている。ところが、後段では「競争原理のマルサス路線」となって、いわばイデオロギーの役割に強調点が移行する。この手のレトリックは頻繁に出てくるので、読者が安易に追従しないよう注意を喚起しておきたい。ダーウィンが自説の形成にあたって「ある種の社会的イデオロギー」を利用した、というたぐいの主張は、そんなに簡単には「証明」できないのである。

この時期より、ダーウィンは身体の不調に繰りかえし悩まされるようになるが、エマとの結婚話が進む中で「秘密の」ノートを書きためていく。ついに1839年1月28日に式を挙げた二人は、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジの近くに新居を構える。その後、遅れていた『航海記』が5月にやっと出版されるが、彼の健康状態は悪化していき、一家はついに郊外脱出を考えはじめる。こうした中でダーウィンは、1842年の5月から6月にかけて、メア(ウェッジウッド家)とシュルーズベリで自然淘汰説の最初のスケッチを書き上げるのである。


(4) 1842-1851


ダウンに隠棲したダーウィンは、このあたり一番の大地主ジョン・ラボック(一世)と隣人になる。まだ子供だった息子のジョン(二世)は、ダーウィンに博物学研究の指導も受け、のちにダーウィン腹心の取り巻きの一人となる。ちなみに、ラボックの地所は3000エーカー(約千二百万平方メートル)、越してきたダーウィンの地所は18エーカー(七万三千平方メートル弱)だったそうである。

自然淘汰説を手にしたダーウィンが、みずからの転成説を初めて明かした相手は、八歳年下の植物学者、ジョゼフ・フッカーだった。フッカーは、1843年9月に南極航海から帰ったばかりで、南アメリカの植物相について深い造詣を披露し、以後ダーウィンとのあいだに頻繁な文通が始まる。(ところで、邦訳、415-416、431ページでは、フッカーに関する記述で「塩漬け」という不可解な表現が出てくるのだが、これは英語のくだけた表現 salted で、「経験を積んだ」というくらいの意味であろう。直訳では意味がわからない。)ダーウィンは、1844年1月の手紙で、自らの見解を「人殺し」になぞらえ、清教徒のフッカーに自説を漏らすのである。

1844年1月の時点では、転成説は、まだ暴動や革命、言い換えるなら赤新聞と結びついていた。・・・すでに出獄していたジョージ・ホーリーオークが発行する無神論的なな赤新聞・・・紙の進化論者たちは、キリスト教とペイリーの自然神学への攻撃を掲載していた。・・・転成説は、国教会支配の現状を叩き潰すことに没頭する街頭の無神論者たちによって喧伝されていた。・・・これが、ラマルキズムが殺人的意味あいを帯びていた理由である。(邦訳、416-417)

フッカーの反応は、賛成ではなかったが悪くはなかった。そこで、ダーウィンは二年前のスケッチに手を加え、夏までに230ページほどの『エッセイ』に練り上げる。ただし、彼は公表は断念し、死後出版の「遺言」まで書く。フッカーは、ダーウィンにとってその後、自説を試し、植物学の知識やデータを引き出せる、腹心の友となる。

ところが、同じ年の10月には、匿名出版で『創造の自然史の痕跡』という転成説の本が出て評判となった。この著者は、ロバート・チェインバーズという出版業の男だった。これをきっかけに、転成説は急進派の手を放れ、もっと広い層にまで知られ始める。ただし、この本はセジウィックのような保守派を怒り狂わせたので、ダーウィンは自説の発表についてなお慎重になったようである。現に、チェインバーズは英国学術協会(British Association for the Advancement of Science)の1847年の地質学部会で、並み居る地質学者たちにさんざんにつるし上げられたし(邦訳、459-460)、もっと以前の1838年には、ダーウィンのエディンバラ時代の恩師グラントが、進化論に敵意をもつ人々によって地質学会で袋叩きにされたのである(邦訳、363-365)。

さて、1846年10月頃には、ビーグル号で持ち帰った標本の記載はほぼ終わっていた。ただ一つ、小さなフジツボ一種だけが残っていた。ところが、これの研究に取りかかったダーウィンは、何とその後8年近くをフジツボの研究に費やすことになる(第一巻が51年、第二巻は54年に出版)。これも、いかにもダーウィンらしいエピソードである。比較のためフジツボのほかのグループの研究にも手を広げ、化石種も参照し、という具合に、結局フジツボの全グループを網羅する包括的な研究へとダーウィンはのめり込んでしまう。フッカーが、他の人をさして漏らした、「たくさんの種の詳細な記載もやっていない人間に種の問題を云々する」権利はないというコメントが、ダーウィンを突き動かしたらしい(邦訳、450-451)。 しかし、この研究は予想外の発見──雌に寄生する微小な雄のフジツボと、雌雄同体から性が分化する漸次的な移行形態を示す事例──をもたらした(邦訳、470-472)。

身体の不調に悩まされ、冷水療法などに頼るかたわら続けられた長い研究のあいだに、彼は父を失い、長女のアニーも亡くする。しかし、この研究のおかげで、ダーウィンはロイヤル・ソサイェティのメダルを受賞し(1853年)、動物学での専門家──フジツボの世界的権威──の地位も築いた。 このあたり、学会でのイデオロギーがらみの争いやイジメの話と、そういった関連のつけようがないフジツボの話とが好対照である。


(5)1851-1860


学問に打ち込むにはけっこう金がかかる。そして、大学教授でもないのに進化論やフジツボの研究に没頭するダーウィンは、情報収集(すでに述べたように、並みのやり方ではない!)やそのほかで物いりだったはずである。1851年の段階で、ダーウィン一家には9人の子供が生まれていた(そのうち2人は死亡、そして、なんと、エマ48歳の1856年にまだもうひとり生まれる)。また、ダウンの屋敷には、10人近い使用人がいたはずである。ダーウィン一家はどのように生計を立てていたのだろうか。

第26章にはこの疑問に答えてくれる記述がある。

二人合わせた年収はちょうど3000ポンドを超えたばかりで、全国の不労所得生活者番付の上位数パーセントに入っていた。相続した資本を抜け目なく投資した結果である。14000ポンドの資産価値のあるリンカンシャーのビーズビー農場のほかに、チャールズは父の死によって四万ポンド相当の遺産を手に入れていた。・・・エマも、父親の遺言によってたっぷりの収入を得ていた。・・・すべてを合わせると、エマとチャールズは、八万ポンド以上の投資をしていたことになる。(邦訳、574-575)

ダーウィンは、学問に没頭して遺産を食いつぶすような「専門バカ」ではなく、けっこうやり手の投資家だったのである。

さて、デズモンドとムーアの記述に従えば、ダーウィンが、1844年の『エッセイ』ではまだ欠けていた「形質分岐の原理」の着想を得たのは1854年の11月である。

労働者が専業化することで産業が拡大したように、生命もそうだったのではないか。ダーウィンはそういう認識に立っていた。しかし自然は「もっと効率的な工場」を持っている。競争的な状況にとらわれた動物間の「生理学的な分業」は、自然淘汰によって自動的に増大するのではないか。彼はそう論じている。・・・島での隔離が、それまで考えていたほど決定的に重要なものでないことは明白だ。競争は、過密な地域集団をこじ開けて四方八方に散らし、圧力のかかっていない自分にあった隙間を見つけさせることで、たくさんの個体を激しい生存競争から脱出させる。新しい変異体は、親の系統から積極的に引き離されるおかげで、交雑による希釈効果が和らげられる。ちょうど、混雑したロンドンのような大都会では特殊技能を要するあらゆる種類の商売が、直接の競争もなしに軒を並べて共存できるように、種は自然界の市場で未占有のニッチを見つけることで、圧力から逃れるのだ。動物の機能面での多様性が高まるほど、一つの地域が支えうる種数も増える。

メタファーの拡張は完成した。自然は自己改善を図る「工場」であり、進化は生命の動的な経済なのだ。(邦訳、613)

この、新種が親の種から枝分かれし、親との形質の違いを広げていくことを説明する原理は、評者も9年ほど前に調べたことがある(論文は、内井1993、abstract 参照)。この原理は、実は(私見によれば)やがて1858年に起きるウォレスとの先取権問題を公平に裁くためのカギとなる。ダーウィンは、手回しよく、この原理を1857年9月5日づけのエーサ・グレイあての手紙で述べておいたので、ウォレスの自然淘汰説の論文が届いて大急ぎでリンネ学会での「同時発表」がお膳立てされたおり、その抜粋を付け加えることができた(後述)。

話が先走りしすぎたので少し時間を戻す。十九世紀中葉といえば、職業的「科学者」という、新しいホワイトカラーが出現する時期である。フッカー以後の世代が主としてこの流れに乗り、ダーウィンや(従弟の)ゴルトンのようなジェントルマン科学者は消えていく運命にあった。しかし、ダーウィンはこういった若い世代の「科学者」を取り巻きに集める。 1856年には、青年親衛隊が組織されつつあった。

ハクスリー、フッカー、ティンダル、そして彼らの仲間たちが、戦略を練り、敵を見定めていた。彼らの優先順位第一位は、ロンドンの科学講師陣のためにもっと力を掌握し、「公衆に対する影響力」、そして国庫に対する影響力をもっと高めることだった。彼らは、ケンブリッジの聖職者ナチュラリストと比べて自分たちの報酬はおそろしく少ないと考えており、ひどく憤慨していた。(邦訳、627。斜体部分は内井の改訳)  

しかし、この親衛隊の人々も、ダーウィンの進化学説をまだ知らない。というよりも、ダーウィン自身もまだ学説をまとめてはいない。「怒れる若者」だったハクスリーは、オーエンとのもめ事を始める一方で、スペンサーとの親交も持ち始めていた。

そうこうするうち、ついにダーウィンにとって「知られざるライバル」が現れた。マレー群島で動物の標本を(生活のために)採集しながら種の問題を考えていたウォレス(1823-1913)である。ボルネオ島のサラワクで書かれ、1855年に出版された論文「新種の導入を規制してきた法則について」において、ウォレスは種の分化についてダーウィンと同じ樹状の枝分かれのイメージを示し、転成説を提示していた。自然淘汰のメカニズムは欠いていたものの、この論文はライエルに衝撃を与え、ライエル自身が種の問題のノートブックをつけ始めたのである。それだけでなく、ライエルは同じ問題に首を突っ込んでいるはずのダーウィンの見解を問いただし、先を越されることを警告しにダウンを訪れた(1856年4月中旬)。著者たちは、ダーウィンがこの論文の「重要性を見逃した」(邦訳、636)と簡単に片づけているが、評者は異なる見解を持つ。

いずれにせよ、ライエルの警告がきっかけとなって、ダーウィンはついに1856年5月に進化論の本を書き始める(同じ頃、エマの妊娠がわかる)。この本は1858年まで書き続けられ、結局ウォレスの論文が届いたため未完に終わるが、 後に「Big Species Book」と呼ばれるようになるものである。ついに、スロー・スターターの巨匠、ダーウィンの大仕事のエンジンがかかった。同じ1856年の10月には、ウォレスから最初の手紙が届き、二人の文通が始まる。ダーウィンは、抜け目なく、自らの手の内を明かさないでウォレスを牽制する。こういった文脈で考えれば、先に触れたエーサ・グレイあての手紙など、おそらく後々のための意図的な布石であろう(邦訳、663を参照)。

以後の顛末は多くの人たちによっていろいろに語られてきたので詳細は省略しよう。シナリオは一義的には確定しないことだけ銘記しておく。「ダーウィン側」の公式見解によれば、1858年6月18日に「青天の霹靂」がやってきた。ウォレスの自然淘汰説が明晰かつ簡潔に述べられた「テルナテ論文」(テルナテあるいはジロロで書かれた)が郵便で届いたのである。

著者たちは言及していないが、この手紙が届いた日付については直接的な証拠が欠落している。いくつか推理された説があるが、ブルックス(1984)のもっとも早い5月18日説、ウォレスが同じ船便でイギリスの友人に送った別の手紙の到着日付から推定された、マッキニー(1972)の6月3日説などがある。いずれにせよ、重要な書類は残す習慣のあったダーウィンにしては、この欠落は大きな謎である。

それはともかく、この窮状を救った黒幕は、ライエルとフッカーだった。ダーウィンの家では、二年前に生まれた知恵遅れの息子、チャールズが猩紅熱で危篤状態となり、6月28日に死んでしまう。娘のヘンリエッタもジフテリアにかかる。その大騒ぎのさなか、29日にダーウィンは『エッセイ』からの抜き書きとグレイへの手紙からの抜粋を用意し、それを受けたライエルとフッカーはリンネ学会の臨時の集会(7月1日)の議題に、ダーウィンとウォレスの「合同論文」を滑り込ませた(6月30日)。かくして、ダーウィン自身は欠席のもと、そしてウォレスには何ヶ月もたってからの事後承諾のもとで、「同時発表」が行なわれた。 この一方的な処置は、ウォレスに対して著しく不公平である。しかし、だからといってダーウィンのオリジナリティまで疑問視されることにはならない。すでに述べた「形質分岐の原理」は、ウォレスには欠けていたのである(内井1993、abstract 参照)。

こうして、もう後に引けなくなったダーウィンは、大急ぎで『種の起源』にかかり、翌1859年の11月に初版が出された。 これから翌年にかけて、ダーウィンをめぐる人間関係がはっきりと色分けされてくる。


(6)1860-1871


フッカーやハクスリーをはじめとする親衛隊や、そのほかの幾人かの人々は、『種の起源』に対する積極的支持を表明し、聖職者をはじめとする保守的な人々は激しい反対を表明した──これが紋切り型の図式である。しかし、実状はもっと込み入って複雑である。例えば、国教会聖職者でも、キングズリーのように支持に回った人もある(邦訳、690、702)し、内輪の支持者でもライエルのように「人間の問題」には最後までダーウィンに反対した人々もいる。また、ハクスリーのような「ダーウィニズムの代弁者」を買ってでた人でさえ、「ダーウィニズム」の理解はダーウィン本人とはかなりの違いがあり、しかもダーウィニズム擁護を別の目的のために利用したふしがある。
ハクスリーは高位聖職者たちを公然と刺激し、聖職者の支配から科学を引き剥がすために『起源』を利用し、聴衆の中のオーエンのような人々をかりかりさせた。(邦訳、703) 

著者たちが描く構図は、ハクスリーを代表とする親衛隊が、新しい「科学者」の力を増大させるために『起源』を利用し、ダーウィンを意図的に巻き込んだ、ということらしい。この構図をレトリックだけではなく、きちんと立証することは相当むずかしいと思われるが、とにかく、ダーウィンがこれまで壊さずに保ってきたオーエンとの関係は、これ以後悪化の一途をたどる。 

通俗的に有名な、ウィルバーフォース主教対ハクスリーの対決も、後世の脚色によって人口に膾炙したことはすでに常識であるが、真相は、フッカーも絡んで「藪の中」(邦訳、708-716)。いずれにせよ、ダーウィンは後戻りできない。しかし、忘れてならないのは、人間を動物と連続的にとらえるという見地を一貫して、しかも徹底して貫いているのはダーウィン自身だということ。ダーウィンも時代の偏見に縛られていたという著者たちの一般的見解を認めるにはやぶさかでないが、この徹底ぶりにおいてダーウィンは彼の「時代を超えている」と、著者たちの序章の言葉に対して異議を唱えておきたい。彼は、ハクスリーの『自然界における人間の地位』(1863)や、後年のハクスリー(『進化と倫理』、1894)のように妙な妥協はしないのである。他方、エーサ・グレイのように神の意志を持ちだして「自然淘汰」を擁護しようとする人を、抜け目なく利用することもダーウィンは忘れない(邦訳、721)。ハクスリーの活躍も派手だが、わたしには、巧まずして裏で糸を操るダーウィンの方が一枚上手に見え、哲学的にも筋が通っているように見える。

ちなみに、この時期ネアンデルタール人の化石が発見されている(1858年)し、ハクスリーは類人猿と人の脳の違いについて、オーエンの見解を徹底的に攻撃した(1861年)。また、1863年には、始祖鳥の化石が大英博物館に入った。

「どちらが利用し、どちらが利用されたか」という決着のつきそうにない問題に触れたついでに、著者たちの得意な「科学と政治」の話にもうひとつ触れておこう。英国学術協会(BAAS)における国教会派の画策に対抗して、秘密結社Xクラブが1864年11月に結成された。要するに、「ダーウィン軍団」である。メンバーは、ハクスリー、フッカー、ティンダル、バスク、スペンサー、ラボックほか二名(化学のフランクランド、数学のハースト)で、後にスポッティスウッドが加わり九名。

会の目標は、自然を反動的な神学から解放し、科学を貴族の後援から解放し、イギリス文化のトップに知の司祭を据えることだった。彼らはロイヤルソサエティを内部から操作し、会員の選出方法を変えて仲間の会員を増やし、ほどなく会長人事をも手中に収めた。

Xクラブが最初に起こした行動は、「ロイヤルソサエティの由緒あるオリーブの葉の冠」であるコープリー賞をダーウィンにとらせることだった。(邦訳、754)。

これは著者たちも触れていない余談になるが、英国学術協会の設立(1831年)自体、実はロイヤル・ソサイェティの改革問題がらみで、ハーシェルやバベッジ、それに政治問題には一貫して関与を避けたファラデイまで巻き込んだという経緯がある。興味がある向きは、ピアース・ウィリアムズの『ファラデイ』(1965、p.355)を参照されたい。

相変わらず体の不調に悩まされるダーウィンは、療養の合間に彼の思弁的な遺伝学説「パンジェネシス」を書き上げる(1865年)。また、人為淘汰とのアナロジーを頻繁に批判されたことを気にして、「自然淘汰(選択)」に代わるスペンサーの代案「最適者生存」という言葉も、気が進まないながら使い始める。そして、Xクラブの面々も、次第に権力の座に近づいていく。他方、「同時発見者」ウォレスは、人間の進化についてダーウィンとたもとを分かち、経済的にはいつも危機状態で、悪いことに心霊術にまでのめり込む。

性淘汰のアイデアをダーウィンが追及し始めたのは、1867年の春頃かららしい。きっかけは、アーガイル公爵が自然淘汰説に対する反証として持ち出した、ハチドリのきらびやかな色彩である。えり飾りがエメラルド色なのはなぜか。新しい変異が生じれば自然淘汰は働くかもしれないが、変異をもたらす原因は何か(これは、反ダーウィニズム陣営の得意の論法である)。エメラルドのえり飾りは「神のための美」ではないのか(邦訳、780)。

しかし、ダーウィンの発想は、徹頭徹尾「この世」からのものである。

女の子はハンサムな男を見ると、鼻や髭がほかの男よりも三ミリ高いか低いか、長いか短いかなどには気づかないまま、相手の見かけにうっとりして、あの人と結婚してもいいわと口にするものです。クジャクの雌もそうだろうと、ぼくは思っています。(邦訳、789)

若いときにすでに着想を得ていた道徳起源論と並んで、この性淘汰が『人間の由来』の二大テーマとなる。

ダーウィン軍団の活躍ぶりもめざましい。英国学術協会の会長になったフッカーは、1868年の会長講演で自然神学を酷評し、自然淘汰説を讃えた。物理学部門では、ハクスリーと並ぶ花形講演者のティンダル(ファラデイ引退のあと、ロイヤル・インスティテューションを代表する講演者)が、自然主義をぶち上げた。ドイツから巡礼に訪れるヘッケルも、大部の著書を次々とものして「ダーヴィニスムス」の普及に貢献した。政界を目指したラボックは、1870年、ついに下院議員に当選する。そして、ダウンに隠棲するダーウィン自身は、大英帝国中に情報網を張りめぐらせて、新しい本の執筆に励んでいたのである。

『人間の由来』は1871年の春先に出版された。この本の第一部の意義については、評者はすでに何度か論じたので省略する(『進化論と倫理』abstract「ダーウィニズムと倫理」「道徳起源論から進化倫理学へ」)。


(7)1871-1882


『人間の由来』にまつわるエピソードの一つとして、ここではダーウィンとセイント・ジョージ・ジャクソン・マイヴァート(1827-1900)との確執を簡単に紹介しよう。これは、もちろん、評者自身の関心の持ち方に依存した選択である。

二人のつきあいは1868年の春に始まる(邦訳、791)。マイヴァートは法廷弁護士から動物学に転じたカトリック信者である。彼の師がオーエンとハクスリーの両方であることも、後のゴタゴタを暗示するようである。ハクスリーの口利きでダーウィンと近づきになったが、カトリックに忠実で、魂や道徳性の物質界からの隔絶を信じるような人物が、(私見によれば)ダーウィンとそりが合うわけがない。マイヴァートは、物質界では自然淘汰を認めるが、人間と精神の世界は進化とは独立だと見なす。したがって、彼は、最初こそ解剖学の知識でダーウィンを助けた(邦訳、792)ものの、まずハクスリーの宗教攻撃と猿人の話に辟易し(邦訳、812)、ついで人間本性と道徳性に関するダーウィン的見解に反論を出版するという意図を世話になったハクスリーに告げて、裏切り者と見なされた(邦訳、814)。

『人間の由来』が出版される直前に、マイヴァートは『種の創生』という、自然淘汰説の包括的な批判の書を出版し、「自然淘汰説は偽りであるばかりか、道徳や宗教に適用すると危険な説である」(邦訳、823)と論じて先制攻撃をかけたのである。評者の考えでは、これはダーウィンにとって絶対に譲れない信念に対する攻撃である。マイヴァートは「旧体制、アンシャン・レジーム」(邦訳、829)に寝返ったのである。というよりも、(評者に言わせれば)ハクスリーやダーウィンに近づこうとしたこと自体が大間違いである。

評者はこうした見方をとるので、ここでも著者たちの序章での言い分にささやかな異議を申し立てたい。こういった、譲れない信念、思想を持ち、それを「のらりくらり」とではあっても実践した人物として、その著作を通じてダーウィンは明らかに「時代を超えている」。歴史家はいざ知らず、哲学をやるものにとっては、「時代を超える」ポテンシャルを持たない思想は研究に値しない。著者たちの「社会的叙述」は、この点を際だたせるためのバックグラウンド・ミュージックみたいなもの(大変勉強にはなる)だ、というのが評者の率直な感想である。

話の残りはもう付け足しのようなものである。マイヴァートによる『人間の由来』の書評は、「旧体制」からの見方として一読の価値はある。しかし、1874年、ゴルトンの優生学に同調的な論文を書いたダーウィン家の次男、ジョージに対する匿名批判を書いたマイヴァートは、当時の基準によればジョージを中傷し、ダーウィニズムを侮辱して、適切な謝罪ができないまま、ついにハクスリーからも、ダーウィンからも破門、絶交されてしまう。後日談として、マイヴァートはカトリックからも(教会批判で)破門される。なお、マイヴァート批判を書いてダーウィンを喜ばせたアメリカ人は「シャウシー・ライト」(邦訳、832)ではなく「チョンシー・ライトChauncey Wright」。プラグマティズムのパースともつき合いのあった数学者・哲学者である。

マイヴァートとの関係が事実上修復不可能になっていた1872年頃より、ダーウィンの関心は、『人間と動物の感情表現』(これは『人間の由来』のテーマより派生したもの。現代の心理学研究者のみなさん、論文が書きにくいと言わないで、ダーウィンの路線で是非やってください!)を仕上げるかたわら、ミミズに向かう。食虫植物や、植物の性、植物の運動などの研究を仕上げたあと、ミミズの知性を試す実験に夢中になり、1881年に『ミミズの活動による腐植土の形成』を仕上げる。翌82年4月19日に永眠。

ダーウィンの遺体をウェストミンスター大聖堂へ埋葬する工作は、ゴルトンの旗振りで行なわれた。なにしろ、ロイヤル・ソサイェティの会長はXクラブのスポッティスウッドが務めているのだから。おまけに、ラボック議員も下院にいる。かくして、科学から宗教を排斥する運動の張本人が華麗な儀式のもとで大聖堂に収まった。

大聖堂への埋葬は、イングランドが経験中の、大規模な未完の社会改革を祝うものだった。新しい植民地、新しい産業、それらを運営する新しい人間が存在した・・・。ダーウィンの亡骸は、新しい専門家たちの名誉をさらに高めるために祭られたのだ。(邦訳、962)

そうかもしれない。しかし、レトリックとしてではなく、字義通りにこれを立証するのは大変である。有り体に言えば、これは、著者たちの歴史解釈であり、「社会的叙述」の筋を通すための解釈である。これは、本書をおとしめるためのコメントではなく、「これが決定版だ」というキャッチコピーを鵜呑みにしないための注意にほかならない。本書がおもしろいことはすでに評者の保証つきなのだから。 (了)

Back to Newsletter 30


(c) Soshichi Uchii

Last mdified Nov. 30, 2008