実在論のどこが問題か?ファインの『シェイキーゲーム』、続

ファインの『シェイキーゲーム』についてはすでにコメントをいくつか加えたが、「科学的実在論」についての彼の見解をもうすこし敷衍してみよう。彼が実在論論争をふまえて打ち出した独自の立場は「自然な存在論的態度Natural Ontological Attitude (NOA)」と名付けられたスタンスであり、「実在論」も「反実在論」も、このスタンスを踏み越えて擁護できない主張を展開しているというのが彼の独自の主張である。

いわゆる「実在論論争」の問題点を理解するためには必ず押さえておかなければならないポイントがある。

(1)たとえば、現代物理学によれば「電子」や「光子」あるいは「ニュートリノ」といった粒子は存在する。反実在論の多くの立場は、これを否定しない。では、彼らは何を否定するのだろうか。彼らが否定するのは、(R)「現代物理学のこの見解が、理論とは独立に確定している実在に照らして本当に真だ」という主張である。この(R)が実在論の主張の核心部分である。

【1】科学の理論内の言明(いわゆる観察命題も含む)と、【2】「その理論とそれを超え出た実在との関係」を述べようとする言明とは異なるレベルに属している。19世紀や20世紀前半の科学哲学では、この区別が必ずしも明確に意識されていなかった。たとえば、マッハが「原子」の存在を認めなかったことも、この区別に照らすと解釈の余地があるので注意が必要である。しかし、数学基礎論で基本的となったこの区別を無視することは、21世紀の科学哲学では無謀である。

(2)ファインは、(R)は擁護できないと見なし、この点で多くの反実在論の論者と一致する。なぜか。「・・・が存在する、〜はしかじかである」という科学の理論内の命題は、それがしかるべき手続きに従って確立されたと見なされたなら、認められてよい。科学的立証、あるいは確証の手続きは、なんといっても、問題解決のためにわれわれが有する最善の手段と言っていいものだからだ。しかし、(R)の主張は、これにとどまらず、「科学内で認められていることが、本当の実在に照らして(それに対応して、あるいは近似的に対応して)真である」という、科学の手続きを超えた主張にまで踏み込む。よく言われるような、「実在論は科学の成功を説明できる」という主張はこれに基づいているのである。そこで、ファインの批判は、「われわれは、そのような主張を確立できる手段をどこにも持っていない」ということになる。

前述のコメントに続けるなら、とくに「科学の基礎付け」の文脈では、【2】の方にはより厳しい条件が科されることに注意しよう。科学理論の正当性をいうための文脈で、当の科学理論で使われている道具立てよりも多くの道具立てを仮定するのでは本末転倒のはずである。しかし、数学基礎論の成果から明らかになったとおり、【2】のための道具立てをより厳しく制限して貧弱にしたのでは、【1】で言えることよりわずかのことしか言えないはずなのである。

(3)同様な批判は、反実在論にも向けられる。たとえば「観察可能」なものとそうでないものとを区別し、科学の目的を「観察可能な」ものを体系的に救うことだけに絞ろうとする立場については、ファインは、「観察可能なものをそうでないものから区別する基準はどこから出てくるのか」と問いを突きつける。この基準が科学の内部のものであるなら、哲学の出番はない。しかし、それなら科学の目的を科学内部の基準で設定するという循環論法にすぎないではないか。他方、その基準が科学の外部から、たとえば哲学によって、持ち込まれるなら、科学の基準にはかなわない怪しげなものを持ち込むことになって、実在論の形而上学と五十歩百歩になるではないか。

かくして、ファインの処方は、「・・・論」には立ち入らず、NOAのスタンスにとどまれ、ということになる。(ところで実在論擁護を標榜する戸田山本『科学哲学の冒険』にファインに対する言及が皆無なのはなぜかね?)

さあ、諸君、どうする?

文献

Arthur Fine, The Shaky Game, 2nd ed., Univ. of Chicago Press, 1996. 邦訳『シェイキーゲーム』(初版の訳、町田茂訳、丸善、1992)


Last modified Dec. 15, 2005. (c) S. Uchii

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