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Functional Explanation (3): Against Cummins on (B)

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(3)カミンズの批判再検討

前回までの議論では、(A)、(B)二つの前提に対するカミンズの批判の論点を敷衍するという観点から話を進めてきた。しかし、カミンズの議論が全面的に正しいという保証はない。そこで、その後もう少し関連する文献を調べ再考した結果を報告しておきたい。

まず、(A)に関する議論については、付け加えるべきことは何もない。前回、わたしが補った議論をあわせると、カミンズの結論の方が支持できる。しかし、(B)については、カミンズの側にもある種の誤解と混乱があるように見受けられる。この条件(機能分析における前提)を再現しておく。

(B)あるものがその機能を果たすとは、それを含んでいる系に対して一定の結果をもたらすことであり、その結果が系の活動遂行に対して、あるいは系における一定の条件の維持に対して貢献する、ということである。

この前提に対するカミンズの批判は、「系の活動遂行に対して、あるいは系における一定の条件の維持に対して貢献する」結果を、行き当たりばったりではなく、きちんとした原則にしたがって拾い出すのはむずかしいという趣旨であった。そして、カミンズは、ある種の原則にしたがった結果の特定(すなわち、問題の機能を同定するための結果の特定)の、これまでの試みが成功していないという議論を行なっていた。しかし、カミンズのこの言い分に対しては、「そもそもこの文脈で、なぜ原則が必要なのか」という疑問が生じる。また、かりに必要だということになっても、「正確にはどういう文脈でその必要性が生じるのか」という疑問が生じる。この疑問を、生物学のもっと具体的な話の中で検討してみたい。


適応と機能 に関するウィリアムズの見解

進化生物学の「適応主義」とよばれるアプローチにおいては、「機能」や「デザイン」という概念に重要な役割が与えられている。しかし、もちろん、これらは「設計者」を想定しないという前提で、古い、あるいは日常的な用法から転用されたことばであるから、その意図された意味を、「原則にしたがって」明示しておく必要がある。そこで、例えば進化生物学のジョージ・ウィリアムズによれば、次のような主張がなされる。

多くの出版物においては、著者がある結果を問題の因果的メカニズムの特定の機能と見なしているのか、それとも単に付随的な帰結と見なしているのか全然明らかでない。いくつかのケースでは、著者がこの区別の重要性に気づいてないかのように見受けられる。わたしは、この本では、この難点を取り除く助けとなるように、次のような言葉遣いの規約に従うことにしたい。ある結果が自然淘汰によって完成された適応の機能として生み出されるとわたしが考えるときは、わたしは人工物や意識的デザインに対して適当な言葉を適用することにする。あるものを、ある「目標」や「機能」や「目的」のための「手段」あるいは「メカニズム」だと表現することは、問題の機構がそれに帰属させられた目標のために自然淘汰によって形成されたということを意味する。そのような関係が存在するとわたしが考えないときは、このような言葉は使わずに、「原因」「結果」というような、たまたま成り立っている関係を表すのに適当な言葉を使うようにしたい。(Williams 1966, 9)

カミンズが、生物学において、最終的には「適応度」を持ち出して機能を定義しようという試みに触れたとき、彼の念頭にあったのは、ここで引用されたような見解──これを「適応主義者の公式見解」と名づけておく──であったに違いない。

しかし、ウィリアムズのこのような主張は、適切な文脈において理解しなければおかしなことになってしまう。ある形質やそのはたらきが「適応」であるか否かを探求するという文脈では、「目的」や「機能」が、あらかじめ自然淘汰の作用で備わったかどうかはまだわからないのである。したがって、このような文脈では、これらの言葉は、自然淘汰による「保証」を求めうる候補、という資格でしか使いようがない。探求の結果、それが首尾よく「適応」であると確証できてはじめて、このような言葉遣いが適切であったことがわかるのである。ウィリアムズがあげる適応の具体例の扱いを見れば、この点は一目瞭然である。例えば、彼の最近の著作『なぜ生物は進化するのか』(原題は The Pony Fish's Glow、1997。邦訳1998)におけるヒイラギという魚の発光腺についての記述を見てみよう。See Ponyfish.html

たとえば、ヒイラギという魚がいるが、これを解剖してみると、この魚には発光器と思われる器官、すなわち発光腺があり、その背後には特定の方向に光を送る反射板までが備わっていることがわかる。そこでわれわれは、この器官は光を発するのにうまくできているという結論を受け入れる。(長谷川眞理子訳、30)

「光を発するのにうまくできている」という表現は、「光を発する機能」と同義である。しかし、ここでは、ヒイラギの発光腺が適応だという結論はまだ確証されていない。この「機能」に「自然淘汰の保証」はまだないのである。では、ウィリアムズは一体なぜこの「機能」を帰属させることができたのだろうか?理由の概略は、引用文から推察できる──「発光腺と光の発生とはとても「偶然的」に結びついているとは思えない」ということであろう。明らかに、ここで「公式見解」を持ち出すのは場違いなのである。しかし、もちろん、探求が進んで「何のための発光腺か?」という疑問が適応主義の路線で解決されたと見なされたなら、この機能帰属は適切だったということになって、「公式見解」に合致することになる。


カミンズの混同

そこで、以上の点を確認してヘンペル、ネーゲルらの前提(B)に戻ろう。探求の文脈において、ある器官や形質の「機能」を(かりに、仮説として)同定するときには、この前提にはあまり問題がないように思われる。カミンズの批判は、「公式見解」のレベル(すなわち、確証まで得られた段階)の話を、探求のレベルにまで拡張解釈したために生じた難点を非難していたにすぎないのである。もっとも、ヘンペルやネーゲルの側にも同じような混同がなかったかどうか、保証の限りではないが。もうひとつ確認すべきことは、カミンズの批判が、この特定の事例だけではなく、一般に的はずれになっているかどうかを調べる仕事がまだ残っているということである。

では、ダーウィニズム以前も以後も「機能」と見なされてきた典型的な事例を調べてみよう。例えば、「目のはたらき」についてはどうだろうか。目の機能の同定は、探求のレベルではどのように行なわれるのだろうか?これについても、ウィリアムズ(1997)にまとまった記述がある。自然神学のウィリアム・ペイリーの有名な箇所を引用し、ウィリアムズは「光学機器としての目」、あるいは「情報処理装置としての目」という記述を肯定している。ここでも機能の判断が行なわれていることは明白である。しかし、この機能の同定の段階で、「公式見解」に合致する論証が行なわれているわけではないし、「適応」の確証が示されたわけでもない。この段階の「機能の判断」は、形質や器官の構造や推定されたはたらきからケースバイケースで個別的になされる判断であり、カミンズが要求したような、高尚な「原則にしたがう」判断が必要なわけではない。しかし、このように、まず機能の(少なくとも暫定的な)同定がなされないと、次段階の適応の論証には進めない。しかも彼の「公式見解」がめざす適応は、最終的には、個体の繁殖成功ではなく「遺伝子成功」(個体の生存期間を超えて、遺伝子が存続し集団に伝播すること)にまで関係づけられなければならない。ここに至るまでに、何段もの中間レベルが介在しうることも容易に想像できる。例えば、草食獣が生き延びて繁殖に成功する(一群の遺伝子が「遺伝子成功」を収める)ためには、(1)繁殖可能な時期にまで生き延びなければならない。また、(2)配偶者を見つけて自分の子供を作らなければならない。そのためには、(1.1)食糧を確保し、(1.2)捕食者から逃れ、(2.1)異性を引きつける形質や行動特性を身につけ、(2.2)生殖の成功に資する一群の形質や能力を備えなければならない。こういった階層を経て、ようやく「公式見解」の条件を満たす「機能」に到達できるのである。この草食獣の「目のはたらき」は、おそらく(1)に従属する機能のひとつとして位置づけられるであろう。

この階層の中でのひとつの形質や形質群は、いわばその場での課題(適応課題)を満たすための「モジュール」として、いろいろな制約の中で自然淘汰によって獲得されてきたというのが、近年の適応主義の基本的な考え方である。したがって、これらのモジュールが持つ「機能」は、進化の過程の中でいわば場当たり的にしか決められない。唯一の共通点となるのは、最終的には「遺伝子成功」に関係づけられるということしかない。これを除いて、他の「原則」を要求するというカミンズの条件は、いわば「無いものねだり」のたぐいで不合理な要求に見えてくる。

ただし、カミンズの要求に対するこの批判にもかかわらず、ヘンペル、ネーゲルらの提唱した機能的説明では「説明の方向が逆に理解されている」というカミンズの論点は生き残るであろう。なぜなら、適応主義での最も重要な説明は、「ヒイラギの発光腺は何の役に立つか」「草食獣の目は何の役に立つか」という問いに答える文脈で現れる。暫定的に同定された「機能候補」が、現に成立している、あるいは成立していた生態的条件の下で、事実適応度を上げることに決定的に貢献していることが言えてはじめて、説明が完成するからである。「機能の存在」が説明されるのではなく「その機能ゆえに適応度があがる」というのが説明の方向である。「適応ゆえにその機能が存在する」という不正確な言明は、同じ事態を省略的に言い換えた、誤解を招きやすい表現にすぎない。これはすでに前回までに指摘したとおりである。


文献

Williams, G. C. (1966) Adaptation and Natural Selection, new edition, Princeton University Press, 1996 (original ed., 1966).

Williams, G. C. (1997) The Pony Fish's Glow, Basic Books, 1997. (長谷川眞理子訳『生物はなぜ進化するのか』草思社、1998)


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