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Functional Explanation (2)

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カミンズの批判

機能的説明に関するヘンペルとネーゲルの分析は、前稿でわたしが指摘した点も含めて、ロバート・カミンズ(Cummins 1975)によって啓発的に批判されている。彼は、ヘンペルとネーゲルの分析が、次の二つの前提のもとにおこなわれている、と指摘する。

(A)科学における機能的な特徴づけのポイントは、そのように特徴づけられた対象(器官、機構、過程 など)の存在を説明することにある。
(B)あるものがその機能を果たすとは、それを含んでいる系に対して一定の結果をもたらすことであり、その結果が系の活動遂行に対して、あるいは系における一定の条件の維持に対して貢献する、ということである。(49)

これら二つの前提を合わせると、あるものにある機能を帰属させることから、「その系にその機能を果たす対象が備わっているのは、その機能が一定の結果をもたらすからだ」という、その対象の存在(存続)の説明ができるという筋書きが出てくる。これが、すでに見たヘンペルとネーゲルの路線であることは明白であろう。カミンズの言い分は、近年のほとんどの分析は(A)と(B)を前提してきたが、これら前提自体の検討はまったくなされていないというところにある。

この言い分は、わたしの前回の指摘、すなわち「機能的説明の先行形態だった目的論的説明のある前提を引き継いだことに問題の一つの源があるのではないか」という疑問と同じ方向を指し示しているように思われる。なぜなら、(A)は説明されるべき課題(被説明項)を問題の機能を持つ器官や機構の存在に絞るということであるし、(B)はもたらされる結果のうちで特定のものに依存して機能を同定するわけだから、典型的な目的論的説明が依存している前提と同種のものである。この点をもう少し敷衍してみよう。


目的論的説明の前提

わたしが明確な意図あるいは目的をもっておこなった行動、あるいはその結果として生じた「もの」を考えてみよう。例えば、わたしは自分が所有する本の表紙または裏表紙の裏面に自分の署名を入れる。そこで、ペダンティックに、「この本にS.U.という署名があるのはなぜか?」と問いを立ててみよう。もちろん、素朴な答えは「わたしが自分の所有物であることを示すため」となろう。これは、素朴ではあるが、一つの典型的な目的論的説明であると解釈できる。では、同じ答えを「機能」という言葉で表現し直せるだろうか。もちろんできそうである。例えば、「S.U.という署名は内井惣七の所有物であることを示す機能を持っている」という、機能帰属の言明から、先と同じ答えにたどり着くのはほんの短いステップでできそうである。「機能」という表現にひっかかるなら、「役割」でも「はたらき」でもかまわないが、結局同じことである。表現は違っても、わたしによって意図された目的、機能、役割、あるいははたらきが、署名の存在を説明すると見なされているのである。これが(A)の前提を支えている直観にほかならない。

つぎに、わたしの明確な意図あるいは目的からして、署名の存在がもたらすすべての結果が「署名の目的」とされるわけでないことも明白であろう。それらの結果のうち、一定のものだけが「目的」と意図されているのである。すなわち、わたしの署名がもたらす美的印象ではなく、「所有者の明示」と理解される結果だけが目的にほかならない(そして、意図された結果が得られないような手段をわたしが選んだとしたなら、わたしはその手段の「はたらき」を正しく理解してなかったことになり、わたしの選択は合理的でなかったことになる)。これが、ヘンペルとネーゲルの「機能分析」に持ち越されると、(B)の前提を支えている直観となる。 (B)では、「目的達成」という条件は排除されなければならないので 、「系の活動に対して」とか「系の一定の条件の維持に対して」という中立的な表現が入るのである。

このきわめて単純な例において、素朴な目的論的説明、およびヘンペルとネーゲルの提示した「機能的説明」の難点は、次のような形で露呈する。わたしが意図した特定の結果をもたらす手段は、「署名」だけではなく、「捺印」でも「シールの貼り付け」でもよかったはずである。この文脈で、署名が意図された結果をもたらすための十分条件だったとしても、必要条件である保証はどこにもない。葉緑素のケースでのネーゲルの注意にもかかわらず、この事例では「同じはたらきをもつ」現実的な手段(機能的説明の文脈では、「機能的等価物」といわれる)はいとも簡単に見つかる。ところが、必要条件であることが示せない限り、説明の対象と見なされた「署名の存在」は、演繹的推論の結論としては導出できない。


前提 (A) の難点

以上の簡単な分析からいくつかの教訓が示唆される。まず、署名の目的、役割、はたらき、あるいは機能がわかっても、これと「署名の存在」とは直結しない。署名の存在からもたらされる一定の結果(所有者の明示)が確認されたとしても、まだ「署名の存在」が説明されるわけでではない。例えば、なぜ「捺印」ではなく「署名」が存在するのだろうか?この「なぜ」に答えない限り、「署名の存在」が説明されたとは言えないであろう。そして、この「なぜ」に答えるのは、例えば「わたしの手元に印鑑がなかったから」とか、「署名が最も手軽な方法だったから」、あるいは「わたしが捺印より手書きを好むから」という、目的や機能とは無関係な事情を持ち込まない限り不可能であろう。先に見たネーゲルのコメントにある種の説得力があったのは、複数あり得る機能的等価物の中から、問題の事例において機能とは無関係な事情によって候補が一つに絞り込まれるという事態を指摘していたからである。とすると、控え目に言っても、(A)の前提は見直されなければならない。

ここで、「では、なぜヘンペルをはじめとする多くの有能な哲学者が、目的論的説明や機能的説明のポイントを見誤ったのだろうか?」という疑問が生じるかもしれない。(A)の前提を支えていた直観はまったくの誤りだったのだろうか。この問題の診断についても、カミンズの議論は興味深い。彼は、人工物の目的論的説明と、自然的な系での機能とを区別すべきだという。わたしの署名の例に戻ってみよう。これは、明確な目的によって生み出された人工物の一例である。「署名が存在するのは、所有者を明示するため」という説明にある種の説得力があったのは、「所有者(つまり、わたし)が署名した理由は、所有者が誰であるかを明示することであった」という事実による、というのがカミンズの診断である(Cummins 1975, 53)。つまり、目的論的説明の説得力の源は、行為者や設計者がなぜあるものをあるところに配置したかという理由を与えるところにある。この「なぜ」に対する一つの答え(必ずしも答えのすべてではない)を与えるので「説明」と見なされるのである。

しかし、生物などの自然的な系においても同じような説明が可能だとはかぎらない。少なくともダーウィン以後のわれわれには、生物の設計者を想定することはできないからである。ヘンペルやネーゲルは、単なるアナロジーを説明と見なすようなヤワな哲学者ではないことに注意されたい(それゆえ、ネーゲルは人工物と自然系の機能を統一的に扱おうとするライトを批判している。Nagel 1979, 296-301)。では、彼らはどこで誤ったのか。われわれは、標準的な科学の手続きによって、光合成を説明するために葉緑素を持ち出し、血液循環を説明するために心臓の機能に訴える。これは、普通「最善の説明への推論」と呼ばれる手続きである。例えば、緑色植物における光合成について、葉緑素を持ち出す標準的な説明に代わる対抗説は認められていない。簡略に表現するなら、光合成の最善の説明には葉緑素の存在が不可欠なのである。この説明への推理の妥当性を、哲学者たちは前提(A)の妥当性と読み誤ったのだ、というのがカミンズの診断である(Cummins 1975, 54)。一言注意するなら、この最善の説明では葉緑素の存在が説明項に入り、光合成は被説明項となるのに対し、機能的説明のモデル( (1b) 参照)では葉緑素の存在が被説明項に入る──方向が逆転しているのである。 

この批判に対してヘンペルらの前提(A)を弁護できるだろうか。まず指摘しなければならないのは、この前提を受け入れている(ように見える)のは、哲学者だけではないという事実である。ヘンペルやネーゲルは、自分たちの頭の中だけで構成された問題を解いて満足するようなタイプの哲学者ではなく、実際の科学の題材のうちに哲学的問題を発掘しようとした哲学者である。ヘンペルの1959年の論文を見ても、ラドクリフ-ブラウン、マリノフスキ、マートンらの人類学者、社会学者の仕事からの引用が示すように、「機能主義」と呼ばれた社会科学の学派がおこなった機能分析を念頭に置いて、ヘンペルの分析はなされている。「機能主義」の中心的な主張は、社会的な慣行や制度がもたらす一定の結果を指摘し、「それらの慣行や制度がそのような結果をもたらすという機能ゆえに存在している」というものである。ということは、これらの社会学的分析も前提(A)を共有していると見なければならない。しかし、この指摘は、前提(A)自体の哲学的弁護にはならない。

そこで、「説明の方向の逆転」について少し検討してみよう。もし葉緑素(正確には葉緑体)の機能分析、あるいは葉緑素に対する機能帰属が、光合成の説明の後でしか(論理的に)行なうことができないのであれば、これは(A)に対しては致命的な打撃となるだろうか。カミンズの(必ずしも明確に述べられてはいない)言い分は、「致命的な打撃になる」ということであろう。葉緑素の役割あるいは機能が明らかになるのは、当然光合成の説明を求める過程においてである。この同じ過程の中で「葉緑素の存在」を説明しようとするのは明らかにおかしい。この過程のポイントは、光合成を説明することであって、葉緑素の存在を説明することではない。この点、カミンズの言い分は正しい。しかし、この説明にたどり着いた後で、「では、一体なぜ葉緑素(体)が緑色植物にそなわっているのだろうか?」という新しい問いを立てることはできる。前提(A)は、この文脈において理解するのがヘンペルらに対する礼儀というものだろう。そして、この文脈でなら、すでに得られた光合成の説明を使うことには問題はない。この(受け入れられた)説明において、葉緑素は光合成において不可欠の機能を担う(緑色植物の現体制のうちに、代わりとなるようなものは見あたらない)のだから、「葉緑素は光合成のために存在する」と言えそうである。しかし、これは(A)の弁護にはならない。というのは、たったこれだけのことなら、何も進展はないからである。仮定により新しい問いを始めたのだから、答えには新しい情報が含まれていないと意味がない。そのためには、機能帰属の命題以外に、葉緑素の存在に決定的にかかわる事実が言及されなければならない。ところが、ヘンペルらの機能的説明のパターンには、それが抜け落ちているのである。以上の議論を補えば、カミンズの言い分の方に分があるとわたしは考える。

かくして、カミンズの見解によれば、機能的説明の目標は、ある機能を果たす器官などの対象の存在を説明することではなく、そのような器官をもつ系全体の能力を、部分的器官の機能に訴えることで説明することだ、とされる(Cummins 1975, 57)。わたしの例に則して言うなら、署名のはたらきを持ち出して説明されるべきことは、(もちろん、話の脈絡を指定しなければ正確には同定できない)例えば「図書館に忘れたこの本がなぜわたしのところに還ってきたか」という問いや、「なぜわたしは自分の本に署名するのか」という問いのように、署名という活動を含むより大きな系の振る舞いだ、ということになる。このたぐいの説明において、機能への言及が不可欠であることは明らかであるし、複数の機能的等価物のうちからどれか一つが選ばれるための(あるいは同じような機能を果たす二つ以上の器官が存在するための)条件も言及されることには、何も問題はない。


前提 (B) の難点

では、次に(B)の前提がはらむ問題点に話を移そう。これは、前稿の(1)や(2)のような、機能帰属の言明を分析するときの前提である。ヘンペルの機能帰属の分析は、心臓の例では次のようなものであった。

(1a)脊椎動物における心臓の鼓動は、血液循環という結果をもたらし、それによってその動物の身体が適切にはたらくために必要な、一定の条件を満たす。

つまり、あるものにある機能を帰属させるためには、一定の結果を選び出さなければならないが、その選択の基準は、問題の器官や機構を含む系が「適切にはたらく」(ヘンペルの原語では、"proper working of the organism")ために必要な条件といういうこと以上の具体的な内容は与えられていない。もちろん、人間が設計し制作するような、自動車とかコンピュータのような系の場合は、系全体が「適切にはたらく」という条件は設計やプランによって与えることができる。また、(1a)のような特定の事例については、「個体の生命を維持する」という常識的な条件で当面乗り切れることは否定できない。しかし、生物のような自然の系については、この条件はどのように決まるのだろうか。これが決まらないと、生物の形質、器官、あるいは機構の「機能」が定義できないことになってしまう。行き当たりばったりではなく、きちんとした原則にしたがってこの条件を決めるのはむずかしいというのがカミンズの批判である。ヘンペル自身、(社会学の)機能主義者に対してこの点をついた批判を行なっている(Hempel 1959, sect. 5)が、この弱点は機能主義者の怠慢だけではなく、前提(B)自体がふくむ弱点ではないのか。

近年の進化生物学では、この点について一つの標準的な見解があると言われるかもしれない。すなわち、系が適切にはたらくとは、その系の適応度(子孫を増やす度合い)を維持する、または増進させるということだとする見解である。これが一定の文脈で成功を収めてきたことは否定できないが、生物学的機能のすべてのケースがこの枠内で扱えるという保証はどこにもない。例えば、鳥の翼の機能は、適応度ではなく解剖学的な構造や飛行という活動に言及して取り扱われるべき事例であろう(Cummins 1975, 60)。なによりも、(B)の前提は、「系が適切にはたらく」ということによって、結局、系全体の機能(「はたらき」とは「機能」の別名でないのか?)を分析されないまま前提することに等しい。したがって、機能分析の課題は常にどこかで先送りで残される(つまり、系全体の機能が同定できなければ部分の機能も同定できない)こととなり、生物学的機能に限定してさえ、不十分なままである(キリンが適切にはたらくとは、あるいは人間が適切にはたらくとは、どういうことだろうか?)。先に前提(A)の批判に際して、説明の方向の逆転を指摘したが、(B)についてもそれが持ち越されてはいないのか。

*この節の議論については、網谷祐一君のコメントにより改訂を加えた。Oct. 3


ヘンペルやネーゲルの路線は、機能的説明と機能的ではない(普通の、あるいは標準的な)説明との差異をできるだけなくしようとする試みである。カミンズは、彼らのそういう動機づけが(A)(B)二つの前提の背後にあり、機能的説明の独自性を見失わせた元凶であると批判する。それに代えてカミンズが提唱するモデルは、ある系全体がもつ能力を分析していく過程で部分部分の役割が「機能」として同定されていくという、独自の構造のものである。もちろん、これがヘンペルとネーゲルの路線より優れているかどうかは、きちんとした検討なしでは判断できない。しかし、カミンズの批判は啓発的であり、十分傾聴に値する。人為的機能と自然的機能を統一的に扱おうとするライトの新しい試み(Wright 1973)もあるが、これも(A)(B)二つの前提に依存するので、やはりカミンズの批判を克服する必要があろう。


文献

Cummins, Robert (1975) "Functional Analysis", Journal of Philosophy 72, 1975; reprinted in Conceptual Issues in Evolutionary Biology (ed. E. Sober), MIT Press, 1994, 49-69. Page references are to the reprint version.

Nagel, E. (1979) Teleology Revisited, Columbia University Press, 1979.

Wright, Larry (1973) "Functions", Philosophical Review 82, 1973; reprinted in Conceptual Issues in Evolutionary Biology (ed. E. Sober), MIT Press, 1994, 27-47.


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