Logic Seminar

von Neumann and IAS computer

ペンシルヴェニア大学で製作されたENIACコンピュータの話はテキストで紹介した。このチームのリーダーだったモークリー、エッカートらと喧嘩別れしたフォン・ノイマンは、プリンストン高等研究所(Institute for Advanced Study, IAS)に帰り、そこでプログラム内蔵式のコンピュータを作り始めた。この情景は、エド・レジスの愉快な本『アインシュタインの部屋』上(工作社、1990年、大貫昌子訳)で次のように描かれている。

そ のけしからぬ人間とはジョン・フォン・ノイマンである。もっとも重いものは一本のチョーク、最大の音とは図書館で紙がカサカサ擦れる音のみという世界最高 の象牙の塔の中で、あろうことかフォン・ノイマンは堂々と新種の電子計算機を組み立てたのだ。それも頭の中で組み立てた抽象的計算機ではなく、ちゃんと金 属板やねじ釘でできた本物の機械である。そのてっぺんには赤く光るフィラメントや真空管の熱を外に出すため、煙突やダクト、排気パイプなどが林立している ところは、さながら蒸気機関だった。(213)

数学者の中には意外にも数を足したり引いたりかけたり割ったりするのが苦手だ という者が多いが、フォン・ノイマンはその正反対で、さながら人間計算機だった。彼の電子計算機ができあがり、いよいよ最初のテストというとき、誰かが2 の累乗指数をもとにしたわりに簡単な問題をだした。・・・研究所で彼の助手をつとめたポール・ハルモスによると「ジョニーとコンピュータが同時にこの問題 にとりかかったんだがね、ジョニーは何とコンピュータより先にさっさと答えをだしてしまったよ。」(224)

しかし、フォン・ノイマンはそもそもなぜコンピュータの開発に関わったのだろうか。これがまた面白い。

こ の西半球きっての「超速頭脳」たるフォン・ノイマンと、「電子頭脳」ENIACとのめぐり合いは、まさに数奇な宿命のようなものである。折しもENIAC の開発は、プリンストンから五十マイルのほんの目と鼻の先のフィラデルフィアで進行中だった。それとフォン・ノイマンとの二つの「数の神様」が出会ったの だからこれはまさに世紀の歴史的瞬間というべきだろう。(227)

ENIAC のプロジェクトはすでに始まっていた。このスポンサーは陸軍の弾道研究所で、ハーマン・ゴールドスタインが研究所とENIACチームとの調整役となり、ア バディーンとフィラデルフィアの間を頻繁に行き来していた。ゴールドスタインは駅でフォン・ノイマンを見かけ、挨拶をした。これは1944年8月のこと (ENIACは完成間近)。

「そ れまで僕はあの大数学者には一面識もなかったんだ」とゴールドスタインは言う。「だがもちろん彼のことはいろいろ聞かされていたし、その講義にも何度か出 たことがある。何しろ相手は名だたる大学者だ。だから思いきってそばに行き、自己紹介をして話ははじめたものの、まったくおっかなびっくりだったよ。とこ ろがありがたいことにフォン・ノイマンは気さくなあったかい人柄で、こっちの気を楽にさせようとしきりに気を配ってくれた。そしてあれこれ話しているう ち、まもなく話題は、僕の仕事のことになったんだ。この僕が一秒、333ものかけ算をやれるような電子計算機の開発に肩入れしているときくやいなや、今ま での気楽な世間話のふんいきはガラリと一変して、まるで学位論文の口頭試問みたいになってしまったよ。」

それから二、三日後、早くもフィラデルフィアに現れたフォン・ノイマンは、ENIACの現物を根掘り葉掘り調べていた。(228)


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