辻の古道(一条街道)

 ここで紹介する古道は「生駒の古道」では全く取り上げられていません。理由は推測ですが、全道通過ができないことでしょう。この道は途中が完全に失われているのです。それでもここで取り上げようというのは「辻」という地名にこだわったためです。
 辻とは十字路ですよね。道が交差するところであり、大抵重要な地点です。交通量が多いので辻占が売られたり辻芸人、辻説法の論客などが活躍します。辻強盗が現れたり、辻君が辻斬りに切られる事件もおこります。重要地点なので各地に辻の名称が残っています。たとえば、古堤街道ファンにはおなじみの「傍示の辻」とか「尼ヶ辻」、荒木又右衛門は「鍵屋の辻」というように「ナントカの辻」と呼ばれています。
 ところが、ここで取り上げる「辻」は形容詞のないただの「辻」なのです。つまり生駒で「辻」といえばまずこの「辻」であるというきわめて重要な辻だったと考えられます。「辻」で交差する一方の道は南北に走る清滝街道です。東西の道は奈良の一条街道の延長で、そのまま一条街道と呼ばれていたようです。
 さて、辻については生駒市誌(通史・地誌編)X (昭和60年3月1日発行)に次のように書かれています。
【辻の地名の由来
 辻なる地名が、いつ、どうしてつけられたかは詳らかでないが、交通路の四つ辻からつけられたのであろう。明治四十一年測図の二万分の一陸測図をみると、村の中央部を南北に流れる平ノ川(現東生駒川)に沿って通じていた清滝(往時京)街道と、東富雄村二名から奈良の一条街道と結ばれ、西谷田村から河内中垣内に通じる道路との交差点が辻垣内である。このことは辻の地名がもたらした一つの資料となるであろう。江戸時代旗本松平氏がこの交通の要地を利用して陣屋を設けたのであろう。】(P.472〜P.474)
 ただし異説もあります。生駒市誌は上記に続けて次のように記しています。
【朝倉弘氏が奈良県史で述べているように、辻村が興福寺一条院方衆徒辻子氏の在地であったとすれば、この辻子氏から辻が出たのかとも考えられる。】
 後者の説ですと、私の主張も弱くならざるを得ないのですが、由来はともあれ、生駒の人にとって形容のない「辻」がどこかは、わかりきったことだったのは確かです。重要な道であることは間違いありません。

 では一条街道をご案内しましょう。
 生駒市誌にある「西谷田村から河内中垣内」というのは古堤街道のことでしょうね。ここは省略して、西谷田村から出発します。古堤街道との分岐点は「生駒の古道」P.47で言及されている「塩乾物の荷継場」付近からのようです。つまり、近鉄線路の南からです。大軌(現近鉄)が開通した後も近鉄線路を横切る道が描かれているのですが、昭和42年の地形図では消えています。当然、今は近鉄線路を横切ったりできません。近鉄ガード下から南へ進んだ左手にある山晃住宅駐車場の先から登る道がそれだと思うのですが、生駒-東生駒間の道路へ出てその先へ進めません。近鉄線路の向こうを見ると、防音壁に隠されて見えないのですが、線路際の道があるのが分かります。おそらく、その防音壁の最上部あたりへ道が続いていたのでしょう。下のカラー地図は一条街道の推定コースです。 

   
 大正11年(1922)測図  昭和42年(1967)改測

仕方がありませんから古道に最も近い道を進むことにします。古堤街道と近鉄が交差するガード北の線路脇に急坂があります。右手は近鉄線路の防音壁ですが、少し登ると防音壁が終わり、道は近鉄線路から離れていきます。この付近から南へ下っていたと推測されます。この付近から本来の一条街道ということになりますが宅地開発が進み、古道の面影は全くありません。もう少し登ると下りになり、峠ということになります。昔(昭和の終わり頃)この峠付近を歩いた時、「生駒釜風呂温泉」という看板を見かけました。その当時すでに営業はしてなくて看板だけが残っていたように思います。当時聞いたところでは八瀬釜風呂温泉の支店だとか。現在本家の八瀬釜風呂温泉もなくなっていますので調べようもありません。ご存じの方が居ればどんなものだったか教えてください。
 坂を下っていきますと左手(北)に地蔵堂と薬師堂(だと思います)が並んで祀られています。地蔵堂には多くの仏様が祀られています。地蔵様だけでなく阿弥陀様もおられます。おそらくこの付近の宅地開発で移動してきたものでしょう。六字名号碑らしいものもあるのですが、よだれかけをしているので恐れ多くて文字が読めませんでした。私はいい加減なので、地蔵堂と書いてしまいましたが、阿弥陀様もいらっしゃるのに地蔵堂では失礼で、「生駒市石造遺物調査報告書」では小堂と記述しています。薬師堂の方は前に「南無阿弥陀仏」と書かれた湯飲みが供えられていたので、阿弥陀様かと思ったのですが、お姿を拝見すると薬壺を持っていらっしゃいました。金色の薬師様です。石像でないので、調査報告書には何の記載もありません。

   
 地蔵堂と薬師堂  地蔵堂
   
 薬師堂  六字名号碑

この付近は古道の雰囲気が残っています。地蔵堂のすぐ下で左(北)から旧清滝街道が合流します。十字路ではなく接近したT字路2つが組み合わさった辻です。交差点のすぐ北に辻町自治会館があり、その手前(南)にある細い階段を上ると、聖観音石造のある、大慈寺があります。清滝街道のページで紹介しています。一条街道をもう少し進むとすぐ先の郵便ポストのところで右手(南)に清滝街道が分岐します。この付近が辻村(現辻町)の核心部ということになります。ポストの先で東生駒川を渡り、国道168号を渡ります。

 168号を渡って歯科と整形外科の入ったビルの南の道へ入ります。東生駒北ガーデンハイツの駐車場を左に、酒屋を右に見、さらに北ガーデンハイツとの境界斜面を左に見ながら進むと、左手斜面の一角にお地蔵さんが2体並んでいます。生駒市石造遺物調査報告書によると江戸時代の作だそうです。

  

古街道を見守るお地蔵さんかと思ったのですが、調べてみると、お引っ越ししてきたもののようです。生駒民俗会会報「ふるさと生駒42号」に次のように書かれていました。

【近鉄ガーデンハイツ25号棟南の道路ぎわに石垣が積まれていて、その上に二体の石造地蔵菩薩像が祀られている。生駒市石造遺物調査報告書によると、一体には「元文四己未天十一月」、もう一体には「文化十二年六月」の銘文が読み取れるという。 ここが森八王子の伝承地である。■■さんによると、昔モリさんはもう少し北にあって山裾に樹木がこんもり茂っていた。ガーデンハイツの造成工事で消えてしまい、そこに祀られていたお地蔵さんを現在地に移したとのことである。】

ここを過ぎてさらにすすむと、駐車場に突き当たります。その先の道は田のあぜ道となり、「これより先私有地につき契約車以外一切進入禁止」という掲示があります。歩いて行くのはかまわないわけですが気分は良くない。ここで右に曲がってください。明治の古道も右へ曲がっていました。少し進んで左折し、宅地裏の畦道状の所を通り山際まで進みます。その先で山道になりますが、一時は大変なヤブで通行できませんでした。今ご覧いただいている記事は2019/3/3の現地調査の結果書き換えたものですが、それ以前の記事では「よっぽど藪こぎの好きな人でもためらう代物です。」などと悪口を書いていました。現在は刈り込まれていて、問題なく通行できます。阪奈道路そばを通り、溜池の北を過ぎると矢田丘陵遊歩道に出ます。山道に入ると迷うところはないのですが、それまでがわかりにくい。YAMAPレポを参考にしていただくと安全です。
 矢田丘陵遊歩道は陸橋で阪奈道路の上を通ります。この橋は阪奈道路からゴルフ場への自動車道です。橋の北に立つと東に山道が2本あります。北の方は矢田丘陵遊歩道の入口で、最近作られたものです。南の自動車止めチェーンの向こうに続く道が一条街道の名残です。チェーンがあっても人間が通るのに支障はありませんので、チェーンを超えてすすむと、左(北)に、降り気味の道が分岐します。これが一条街道だと考えられます。もう少し直進した貯水タンクのゲートすぐ手前にも、やや登り気味の道が分岐するのですが、こちらは貯水タンク建設の際に作られた新しい道のようです。分岐を進むと三叉路(下地図のA点)ですが、正面に丸太がおかれてその先に道の痕跡が残っています。これが一条街道の痕跡のようです。痕跡はかなり明瞭ですが富雄団地にぶつかる付近から先が辿れませんでした。左の道は小明付近からの古い里道で、ここで一条街道と合流していたわけです。この道は矢田丘陵遊歩道として整備されています。右への道は古堤街道へ向かう道ですが、富雄方面へ降る道は現在これしかありません。ここを少し進むと、貯水タンクのフェンスにぶつかり、富雄団地へ下る階段が現れます。階段を下り、広い道路に出ます。
   この丸太は2019/3/5時点では朽ちてわからない状態でした。
 その先の道はかなり明瞭な痕跡を富雄団地にぶつかるところ
 まで辿ることができました。
 これもYAMAPレポで紹介しています。
 通行止め丸太の先が旧街道  
 ここから南東に直進すれば、近鉄電車と阪奈道路を越えて古堤街道に合流します。このコースもよく利用されていたと思われますが、一部を除いて旧道はなくなっています。一条街道の方はというと、生駒市誌の記述では【東富雄村二名から奈良の一条街道と結ばれ】とありますから、二名のある北東方向に進むことになります。明治の地図と照らし合わせると、富雄団地の北東にある三松ヶ丘緑地(下図のB点)から東北東に進む道がぴたりと符合します。下図の代替道路を通ってB点にたどり着きます。残念なことに、この地点から本来の一条街道を逆にたどるのは不可能で、下図AB間の一条街道は全く失われているようです。池がありますから管理道があるのですが、少し離れたところの入口にゲートがあって鍵がかかっていました。三松ヶ丘緑地から東は、ほぼ古道が残っており、富雄川までたどることができます。道標でもないかと探したのですが、発見できませんでした。富雄川を渡った先の法融寺以外にはめぼしい見所はないようです。ただし、古道らしい雰囲気の道です。

メニューページ