稻蔵神社参道

 この道は古道ではありません。大正時代に作られたものですから「生駒の古道」が取り上げないのは当然です。従って私のサイトでも、重箱の外に収録しました。しかし、古堤街道を歩けば、2ヶ所も稻蔵神社参道の道標に出会います。ここは一つ全道をたどってみましょう。
 古道でないとしたのは明治41年測図の地図には無く、大正11年測図で現れるためです。この間に、新道工事がなされたことになります。下図は明治41年測図ですが、マウスを当てると大正11年図に変わります。古い小径を利用して、島田と谷田を繋いだことが分かります。大正3年の大軌(現近鉄奈良線)開業にともなって参拝客を稻蔵神社に誘導しようということのようです。

 それでは稻蔵参道をご案内しましょう。下図の赤線が参道で、青丸が道標です。番号は私が勝手に付けました。仏像などの注釈に書いてある「報告○○」は「生駒石造遺物調査報告書」の資料番号です。これがついてないものは報告書に記載されていないものです。稻蔵神社道標は大正期以降なので記載がありません。この記事にそそのかされて行ってみようという方、地図を印刷しようという場合はクリックするとPDFファイルを呼び出せます。

 スタート地点は近鉄生駒駅ということになります。もっともここから「道標1」までは見所がありません。生駒駅付近に何かあったと推測しているのですが、今となっては何とも分かりません。なにぶんに生駒駅付近は宝山寺鳥居も撤去されている状況です。しかし、何もないでは案内としてつまらないのでトリビア的な知識を一つ。
 生駒駅から県道までの道路下には宝山寺川が流れているのですが、暗渠となっていてほとんど気づかれない。実はこの道の途中に、地下の宝山寺川に下るマンホールがあります。「奈良県」と書かれたマンホールです。交通量が多いのでそばに近寄って観察するのはお避けください。
 県道を渡りさらに橋を渡りますが、この橋の下で宝山寺川が生駒側に合流しています。宝山寺川には生駒山系最大の滝である清滝があり、駅からほんのわずかの距離なのでもっと知られてもいいと思うのですが、この「清滝」という名前さえ実ははっきりしていない状態です。

 橋の先で古堤街道に合流します。左手(北)に東生駒への市道と近鉄をくぐるガードがあり、そこに「道標1」があります。この道標にはいつも、ゴミ収集に関する注意札がぶら下げてあるのですが、土地の人に聞くと犬の小便対策だそうです。これから道標をたどっていく前に、各道標の表記と建立年を一覧にしてみました。2列目は方向表記法で「左図示」とあるのは指さしの図、「左」とあるのは漢字で書かれたものです。方向の表記法、神社の呼称、建立年、一つとして同じものがありません。個々に建立されていったのですね。道標2だけ稻蔵が稻倉になっています。反対面では稻蔵なのは誤入力でなく、道標の通りです。

 

  方向表記  表示内容  建立年  側面または裏面 
道標1  左図示  稻蔵大神道  大正9年   
道標2 左図示及び左  稻倉大明神道 昭和14年  稻蔵神社一の鳥居跡 
道標3 左図示 稻蔵神道  大正10年   
道標4 左  稻蔵大明神道 大正8年   
道標5  左図示 蔵蔵大明神道 大正10年  右子安地蔵尊 
神社石標    稻蔵大明神 大正10年   

 左折して古堤街道を進みます。すぐに谷田の地蔵堂、その左は観音寺参道の急坂です。地蔵堂には多くの石造遺物があり、生駒市石造遺物調査報告書にもほとんどが記載されています。観音寺も多くの遺物が報告書に記載されていますが、境内がきれいになっていて、「○○残欠」という遺物は見当たりません。石段は少しきついのですが、石段手前の禁札は眺めておきましょう。「當山禁殺生制酒肉」と記されています。この禁札は調査報告書からは漏れていますので、江戸時代末以降なのでしょう。

 

 ここを過ぎるとまもなく、「道標2」の交差点です。この交差点には稻蔵神社一の鳥居があったということが道標に書かれています。ところで方向表示が「左・・・」となっていますから、北からやってきた人用の表記です。大軌開通後の表記としては少しおかしい。まあ、この表示は北に面していますから読むためには南を向くことになり、そうすると左で正しいのですが少々不親切です。この道標にはこれ以外に奇妙なところがあります。北面の方向表示と、南面の「稻蔵神社一の鳥居跡」という表記で「くら」の文字が違います。南面と北面で文字の摩滅の程度が違いますし、字体も不一致です。そうなると昭和14年という建立年が怪しくなります。両面が同時に刻字されたとは思えない。他の道標と同じころに作られた古い道標を利用し、南面の記述を書き加え、鳥居跡の記念碑として使用したのではないでしょうか。その時移動させたため不親切な道標になってしまったと推測しています。しかしここにあった鳥居はどうなってしまったのでしょう。稻蔵神社へ行ってもそれに当たる鳥居が移設されていません。今のところ謎です。

 

 道標2の記述方向で右往左往しましたので右も左もどうでも良くなりました。東へ登る道を進みます。やがて峠になり、降りにかかります。この付近で谷田から桜ヶ丘(昔は小明)に変わります。桜ヶ丘自治会館、児童公園を右に見て進むと阪奈道路をくぐるガードに突き当たります。このガード少し手前の左に三太郎大明神社があります。三太郎大明神社ですぐ神様の正体が分かる人は阿波にゆかりのある方ですね。タヌキの神様です。おそらく四国八十八ヶ所巡りの巡礼で連れ帰ったか、ついてきたものでしょう。タヌキ神なので稲荷神社のコマギツネのようにコマダヌキでもいるとかわいいのですが、残念ながらいません。考えてみれば、稲荷神社のキツネは神の使いで要するに家来、ここのタヌキは神様だから門番はしない、などと下らないことを考えてしまいました。御タヌキ様の神様というのはなかなか愉快です。御神体は自然石に神様の名が刻んであるだけの至って簡素なもので、タヌキ像はありません。徳島の御本家、万福寺には信楽産のタヌキがいます。こんなことを書いてると私が阿波ゆかりかと思われますが、ただのタヌキ好きです。

 

 ガードをくぐり、もう一度登ります。峠少し手前の道路右に道標3があります。ガードからここまでが稻蔵神社新参道として新しく開設されたもののようです。ところで、この位置は一応十字路なのですが、左右の道は細く迷い込む人がいるとは今では考えられない。昔は参道が細道で、左右の道と優劣無かったのかもしれません。もう少し登ると峠で、右手の生垣の陰に地蔵尊が祀られています。道から直接は見えませんので、気をつけていないと見過ごします。

 

 峠を下ると東生駒川を渡り、旧清滝街道にぶつかります。ここに、道標4があります。左へ進むとすぐに国道168号に合流します。国道の西の歩道を小明寺垣内バス停北の信号まで北上します。ここで信号を渡らないと次の道標に出会えません。

 コースは信号を渡るのですが、少し寄り道して、逆方向(西)に少し行ってみましょう。すぐ右(北)へ分岐する道があり、登っていくと小明墓地があります。この入口に「生駒市石造遺物調査報告書」346番の六地蔵があります。写真をご覧になると分かりますが、七地蔵です。写真ではよく分かりませんが、さらに二体の小地蔵が後にいて、九地蔵ということになりますが、報告書の備考には六体としてあります。後から三体が集団に参加したようですが、前面の大きな地蔵様のうちどなたが新参かはよく分かりません。資料写真の段階ですでに七体になっています。墓地の中に入ると339番から345番の外、記載されていないもの多数など多くの石像物があるのですが割愛します。

 交差点に戻って信号を渡ります。交差点の北東に児童公園があり、その北が小明自治会館です。自治会館の前に道標5があります。道標南面には「右子安地蔵尊」とありますので、交差点から東進して稻蔵寺を見ておきましょう。山門前に報告書338番の禁札があり、「不許酒肉五辛入」と表示されておりますので、お酒をお持ちの方は何らかの方法で処分してから入らないといけません。酒肉は分かるとして五辛とは何でしょう。辞書によると「ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ハジカミ(ショウガ、サンショウ)」ということだそうで、私の好きなものが満載。お弁当を持っていると戒律を守るのが難しい。境内には子安地蔵尊をはじめ、報告書320番から337番の石造遺物など見所多数ですが、これも写真は割愛。山門前の道をさらに東へ進むと矢田丘陵遊歩道への道になります。この道は小明地区から一条街道へと続く古道ですが、今回は割愛、いずれアップ予定の「矢田越えの道 補完」編で紹介する予定です。

 

 自治会館から北上すると、程なく稻蔵神社ですがその前にもう一ヶ所見所があります。報告書350番の「一尊像等」です。報告書では所在地が「ホームセンター前」としてありますが、すでにホームセンターはジョーシンに変わってしまいました。摩滅して正体不明ということで「一尊像等」と記述されています。写真に写っている切り株は報告書が作られた時はちゃんとした立木でした。

 北上して信号を渡るとその先に大鳥居、神社の石標があります。私が初めてお参りした頃は大鳥居はまだ無く、石標だけがありました。参道も砂利道でした。大鳥居が建てられたのは平成18年だそうです。境内直前の石鳥居が昭和8年、木の鳥居が昭和15年、社殿直前の鳥居が明治35年で一番古いようです。社殿右には烏帽子岩があり、兵役逃れの御利益があるということで、参詣者が多かったとのことですが、御利益の噂を広告することは当時の世情から考えられず口コミで広がった噂なのでしょうね。社殿裏手は八百万の神様のオンパレードで自然石に名前のみ刻まれています。大抵の神社はいくつもの神様を祀るのですが、ここは特に多いような気がします。これらは石像物とは見なされていないようで、調査報告書には全く記述がありません。

 

  

追記:このページをご覧になった方から私のミスについてご指摘くださるありがたいメールをいただきました。(2017/01/24)道標2の所の一の鳥居は移設されたとのことで、上写真の平成18年記銘の鳥居がそれだとのことです。ご指摘に感謝し、他の方々のご指摘も期待します。
 ところで、新しい謎が発生してしまいました。道標2にある「昭和14年建立」の意味は何だろうということです。昭和14年に一の鳥居が建てられたのでしょうか。少し遅いような気がします。昭和14年に一度撤去されたのでしょうか。それなら、移設された現一の鳥居は2代目ということになります。もしそうなら、どんな理由だったのでしょうか。一つわかると新たな謎が発生してしまいました。面白くてこたえられません。

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