八大龍王五丁道標の元の位置は?

 宝山寺から生駒山上へのハイキング道で辻子谷越参道に分岐する向かいに、かつてはヤブに隠されていた八大龍王道標があります。この道標には「五丁」という里程が記銘されています。約500mと言うことですが、実際には1.2kmほどで全く数字が合いません。

   大正十年の銘があります。

 移設されたのは明らかですが、では元はどこにあったのか?旧鶴林寺から500mぐらいのところを考えますが、どうも適地が見つかりません。道標を建てる以上、そこは分岐だったと思われます。単なる丁石なら、分岐である必要はないのですが、巨大な道標です。指さしマークもあります。やはり分岐にあったと考えるのが妥当でしょう。まず考えられるのは多くの道が交差する五辻ですが、旧鶴林寺まで800mほどもあります。妥協できなくはない距離ですが、どうもしっくりしない。ではほかにあるかというと適地が見つからない。
 そこで考えたのが、「八大龍王は旧鶴林寺と違う」のではないかという考えです。生駒山の宗教施設には八大龍王を名乗る施設が数あります。南の神感寺、山上遊園西の龍光院、、東の龍岳院、そして旧鶴林寺です。このうち神感寺、龍光院は除外して良いでしょう。「鬼取山八大龍王」とありますし、大正10年にはまだ存在していなかったと思われます。龍岳院は大正10年には存在していなかったようですが、その位置は旧鶴林寺の奥の院で大正10年には八大龍王と認識されていたようです。生駒市誌に「八大龍王」の額を掲げた鳥居の写真が残されています。
 ではここを八大龍王に比定すると、「五丁」先に適当な場所が存在するのか?辻子谷越参道の峠である経塚を想定すると、約500m先です。道標を建てるには適地です。これは名案だ。
私のほかにもこの説を唱えている方がいらっしゃいます。奥の院と旧鶴林寺の関係についてはその方から多くのご教示をいただきました。現在は龍岳院として別の宗教法人になっていますが、大正十年当時は鬼取山八大龍王の本体だったと言うことです。これで解決・・・と一時は納得していたのですが、どうもしっくりこない点があります。なにかというと「参詣者にとっての八大龍王はどこだったのか?」という問題です。
 おそらく生駒三薬師の1つである、峯の薬師如来です。ここで旧鶴林寺について少し考えてみます。室町期には隆盛を極めていたと思われますが、戦国期に焼失し、衰退していったようです。江戸時代には暗峠-宝山寺参道からも遠く離れて参拝しにくいところになっていたようです。この江戸時代の暗峠-宝山寺参道についてはすでに紹介したとおりです。立合池の南部分が崩落しているようですが、他の部分はよく残っています。旧鶴林寺へお参りしようと思えば、立合池から登るわけで、宝山寺参拝の途中という位置ではなかったようです。お参りしにくいところだったに違いありません。
 この状況が変わるのが安政6年(1859年)の峯の薬師造立です。この仏様は宝憧寺の円超上人によって2万人回向のため建てられたと記銘されています。2万人回向とは何か?疫学史をひもとけば、前年(1858年)のころり(コレラ)大流行をさしていることは明らかです。ここからは少し想像を交えますが、円超上人はころり大流行に深く心を痛められ、熱心に調伏勤行をなさったでしょう。勤行の甲斐あってころりは調伏されます。そして、不幸にもなくなった犠牲者の菩提を弔うため、薬師如来が造立されました。ころり調伏の霊験あらたかな薬師様の誕生です。
 それまでは生駒の三薬師と言えば、泉光寺の薬師如来だったようです。(生駒市石造遺物調査報告書)たちまちのうちに三薬師の地位を獲得します。そこで暗峠-宝山寺道も付け替えて旧鶴林寺に参拝しやすくなりました。ここで、なぜ円超上人が宝憧寺でなく八大龍王の土地に薬師如来を造立したのかという理由を考えていけば、旧鶴林寺について探る糸口のひとつになりそうですが、ここでの論とは無関係なので脇に置いておきます。
 さて、このように尊崇を集めた峯の薬師にお参りしようと思って道標を頼りに進んだら、それとは別の奥の院だった・・・というような道標を建てるのかなあ、というのがしっくりこない点なのです。石切さんにお参りしようと思って道標を頼りに進んだら元宮だったとか、枚岡神社と思ったら神津嶽だったというような道標を建てるでしょうか。もちろん別の団体なら、詐欺的にミスリード用の案内をすることもあるでしょう。よそ様の人気にあやかって間違って来る人を誘おうという邪悪な行為は後を絶ちません。しかしこの道標は鬼取山の案内です。邪悪なミスリードはあり得ない。この道標が奥の院を示していたとしても邪悪ではないのですが、どうも不自然という感はまぬがれない。八大龍王がどこを意味しているかと言うことを中心に考えてもこれ以上は論が進みません。行き詰まってしまいました。新たな切り口が必要です。
 さて、新たな切り口として考えた第1点が、「道標はなぜ移設されたのか」という点です。この解答はほぼ明らかで、元建っていたところが不都合になるからです。道の拡幅などですと少し移す程度でしょう。多くの道標町石が少し移動しています。平地にあった道標はほとんどが少し移動させられています。大きく移動する場合はその道が付け替えられた場合と思われます。従って、その道標の元の場所は今は存在しない道ということになります。庄兵ヱ道入口にあって庄兵ヱ道道標を圧倒している巨大道標はこの例です。これはもっと上にあったとされていますが、移転の理由は参道が山上ケーブル線で付け替えられたためです。さてそう考えてくると、八大龍王道標が経塚や五辻にあったという考えは根拠が薄くなってきます。移転の理由がないのです。
 第2点です。手がかりはやはり道標記銘です。この道標には下部に寄進者名が記銘されています。背面4名、左右両面に2名の計8名です。この8名のうち、1名だけ大阪と記述されており、他の7名には在所の記述がありません。なぜ1名の大阪だけあって、他の7名には在所記述が無いのか?こういう問いの答えは判で押したように決まっています。「必要がない。わかりきったことだから。」というのが答えです。つまりその道標が建っている土地の人なのです。そしてそこは大阪ではありません。奈良側です。おそらく鬼取でしょう。この点で大阪と奈良の境界にある経塚はほぼ候補としての資格を失いました。

背面   右面  左面 大阪とあります。

 さて以上の点を考慮して、道標の場所を考えると、「奈良側(おそらく鬼取)にあり、大正10年には存在していたが、その後道が付け替えられて、今は廃道であり、旧鶴林寺または現龍岳院から五丁の距離にある辻」を見つける必要が出てきます。今は廃道ですから、見つけるのは困難です。しかし、たまたま暗峠宝山寺道の明治地図ルート探索に取り組んでいたため、ある地点が浮かび上がりました。

 自分でも驚く結論ですが、すべての条件を満たしています。この地点付近は、現在生駒石搬出道に破壊され尽くしており、現地付近の放浪によっても場所の特定が困難ですが、だからこそ移転の必要な地点という条件にはぴったりになります。こんな所に道標が必要だったのか?必要だったと思います。すでに大正7年(1918年)宝山寺ケーブルは完成しています。暗峠側からの参拝客は激減し、宝山寺側からの参拝客が主流になっています。道はいったん降って登りになります。直進したいのが人情です。さらにどちらも鬼取です。もしかしたら「鬼取へはどう行くの?」と聞いて、「この道をまっすぐ降るんだよ」と教えられた不幸な人が居たかも知れない。
 この道が巻き道に変わるのはおそらく生駒石搬出道が作られたためです。次第に道が寂れたのなら、移転せず忘れられただけだったかも知れませんが、工事によって移転が余儀なくされ五丁の記銘はどうしようもなくても、もっと効果的な場所として、現位置に移されたのではないか、というのが私の仮説です。
 この結論は自分でも驚いていて、「こんな所に?」という感がぬぐえません。必要だったという根拠を作るため、間違えて降った不幸な人の作文までしておりますが妄想に近いのではないかという気もします。皆様方がさらに優れた説を考え出して下さることを期待します。

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