京道JP前の六字名号碑

 「生駒の古道」の京道の項で、菜畑JP前の六字名号碑が紹介されています。この名号碑は「生駒石造遺物調査報告書」にも当然取り上げられています。所在は緑ヶ丘・菜畑公民館分館横となっています。菜畑公民館は現在月見町にありますので、これが同じものかどうかかなり悩んだのですが、報告書の写真や、他の遺物の比較などから、JP前=菜畑公民館分館横と結論しました。4点報告書の写真と比較してみます。左が調査報告書、右が私の写真です。

資料番号528 石龕一尊像

 

資料番号529 石龕一尊像

  

資料番号530 一尊像

 

資料番号531 六字名号板碑

 

 私の写真は尊像がエプロンをしているため、比較が困難なのですが、一応めくらせていただいて同じものと確信しました。さてそうなると、菜畑公民館分館が気になります。周囲を見回しますと一軒おいて北に鉄条網で囲まれた建物があります。

 おそらくこれが、菜畑公民館分館跡なのでしょう。門柱が気になります。こういう門柱は小学校にふさわしく、公民館にはあまりない。10年間だけ存在した菜畑小学校の門柱かもしれません。建物の北には同じ鉄条網で囲まれたかなりの空き地があります。公民館にはこんな運動場風の広場は作らないような気もします。
 菜畑小学校については生駒市誌の生駒小学校の前身として、『明治九年菜畑北谷(△△氏の西側の台地 現在畑)に新築、菜畑小学校と改称して山崎・谷田・辻・菜畑の児童凡そ百名収容。(中略)明治十九年十一月小学校令の改正とともに既設の本校分校を廃して山崎に校舎を建設して山崎尋常小学校と改称。』程度しか記述されていません。場所については「菜畑北谷」というのはこの辺なのですが、「△△氏の西側の台地」という表現で、△△氏宅が周囲に見つからないし、「台地 現在畑」という部分も、台地というほど高くないという気もします。鉄条網の向こうに行ければもう少し探索可能かとも思うのですが、あきらめることにします。菜畑小学校について何かご存じの方がおられたら教えてください。

 ところで、このページの目的は重箱の隅をつつくことです。菜畑公民館について長々と書いたのは石像遺物調査報告書の記載遺物と同じものと納得していただくためです。では問題は何かというと、「生駒の古道」では、この名号碑の記銘年が文禄四年(1595)となっています。調査報告書では永禄十一年(1568)となっているのです。この不一致を見つけたため、どちらが正しいのかと、記銘年を確認しに行きました。下が名号碑左下の記銘年部分です。明らかに永禄十一年というわけで、「古道」の間違いです。なぜこんな間違いが生じたのかを想像したのですが、苦労して集められた伝承の「大融寺から移設して流行病を収めた」という部分に引きずられたのではないかと推察しています。大融寺には文禄四年の名号碑があります。(別項の西菜畑薬師堂参照)「古道」執筆に際して、忙しく、つい石造遺物調査報告書で記銘年を確認し、大融寺の記述とすり替わってしまったのではないでしょうか。まあ、間違いの原因はともかくとして、写真説明に、「西菜畑文禄名号碑」と名前を付けてしまったのは勇み足だったようです。「永禄名号碑」と呼ぶべきでした。

 間違いを指摘するだけでは芸がないので、この付近の見所をもう一つ紹介しておきます。北から京道をたどる方はJPを見つけるのに気をとられて見逃しやすいのですが、JP少し手前(北)の道路左(東)にさりげなく、道標が建っています。

 「榁木大師近道」と書いてあります。デザインは稻蔵神社道標とよく似ており、大正13年の銘が刻まれています。しかし、近道といっても遠道が思い当たりません。榁木大師は暗越奈良街道の矢田越の峠ですから、この地点から行くには、東へ進んで清滝街道に進み、南下して奈良街道に入るか、京道を南下して奈良街道に入るぐらいで、たいして距離は変わりません。「近道」と書いた意図は何かなあと考え込んでしまいます。道標の指方向に進むと、往馬大社ですが、神楽橋を渡らす、生駒川(竜田川)にかかる橋を渡ると橋の北東に次の「榁木大師近道」の道標が見つかります。こちらは風化が進んでいて記銘年が大正しか読み取れませんが、同じころのものでしょう。ここで指方向に進むと、往馬大社を見ないで榁木大師にいってしまうことになります。京道直進の方がいいような気がするのですが、移動しているとすると考えても意味がないのかもしれません。

メニューページ