ソーダ水のささやき




     (1)

 ペットボトルよりややスリムなロングタイプの薄いグラスは、時間経過により少し汗をかいている。
 このクラシカルな店のメニューが言う所の『ソーダ水』は、何の変哲もないサイダーだった。二口ほど喉の渇きにまかせてグビグビ飲んだらスリムなグラスの中身は一気に半ばになってしまい、それ以来あまり手をつけていない。
 恐ろしい事にこの店のメニューは、ドリンクにランチ程の価格が記されていて、一高校生でしかない快斗には気軽に飲み物の追加は出来そうになかった。
 幾らか角の取れた感のあるそれでも大ぶりに割り出されたかのような氷がいくつかと、薄くスライスされた輪切りレモンの一片、そしてまだ気泡が抜けていない証拠とばかり細かい泡が連なって駈け登り、空気と触れ合って弾けている。
 パチパチだなんて擬音でいうのもおこがましい、耳にこそばゆい細やかな、囁きだ。
 休日の午後の店内は一人客が片手で足る程度の混み具合で、マナーもお構いなしにケータイで話し出すような常識のない客もいない。店構えも今時のチェーン店のカフェとは違い良く言えばどこかアンティーク調で、店外にメニューを張り出しもしていない無愛想さ。
 しかも入ってみれば軽食もろくにないコーヒーの専門店らしく、コーヒーの種類だけは豊富だがワンランク上な価格が客を選り分けてしまう。静寂を好む大人な常連客が、コーヒー一杯を静かに楽しんで去る、見ているとそんな感じである。
 店内にBGMを流さないのは店長の主義か何かか。
 カウンターで黙々と注文を捌いているのが店主だとすれば、店主と注文を取り伝える彼の声だけが、店内で交わされる会話のほとんどのようだった。
 雰囲気に気圧され、自然息を押し殺しがちになる自分に気づくと、快斗はクルリとストローを回して、口内を湿らせる程度にサイダーを口に含む。
 カラカラと氷がぶつかり合って立てるどこか軽い澄んだ音は、氷すらも自宅の冷蔵庫で作られるようなものとは違うのだろうと察せられた。
 ロック用の氷としてコンビニなどで見かけるようなタイプの物だ。
 自宅の冷蔵庫の製氷器の氷の二倍は大きく、澄みきり透明度は高く、砕かれた角度は一定ではなくまちまちで、故に時折光が乱反射する。……掘り出し、それぞれに違うカットを施した稀少な宝石のように。
 ペタンとテーブルに腕を折り、顔を埋めるようにしてそっと覗き見る、グラス越し。
 揺らめく乱反射の向こう穏やかな笑顔で、彼が注文を復唱する。
「ブルーマウンテンをホットで、ですね。少々お待ち下さい」
 伝票に注文を書き込み、踵を返すと店長にそれを伝える。
 とりたてて目立つ動きはしていないのに無駄なくそれでいてゆったりとしたその所作はどこか、優雅で。
 すっきり伸びた背筋に開襟の白いシャツ、黒いベストと同じく黒の細身のパンツに腰巻きのエプロンというシンプルなカフェの制服が、彼のストイックなイメージに輪をかけて妙に似合っていた。
 学生服などより余程似合っていて、こういう服装をすれば尚、彼は高校生には見えなくなる。
 キッドに関してはある程度思い切った事もやらかすようだが、基本的には優等生気質……というか堅物で融通も利かない彼が、学校に申請もせずにアルバイトを始めたと知ったのは偶然だった。
 場所は放課後の尾行であっさりと判明。
 どういう経緯か、カフェと呼ぶには流行ってなさげなややアンティーク調の小さな喫茶店で彼はウエイターをしている。
 面白半分冷やかし目的で日を改めて喜々揚々と乗り込んで見れば、一瞬途切れた「いらっしゃいませ」の声と見開かれた瞳にしてやったりと気分が昂揚したのも、束の間。
 水のグラスとおしぼり、メニューを渡して注文を受ける、その表情は既に動揺を消し去った完璧な営業スマイルで。
 反対にメニューを開いた快斗の方が、顎を外しそうになった。……小腹を満たせそうな軽食がまるでなかったからだけでなく、数少ないケーキ類とずらっと並んだコーヒーの価格が軒並みランチレベルの価格であるという衝撃に、開いた口が塞がらない。
 しかもコーヒーだけで四ページに渡っているのに、ケーキはたったの三種類。サンドやトーストなどの軽食は一切なく、パフェやホットケーキなどの喫茶店の定番メニューも一つもない。
 コーヒー以外はソフトドリンクとして百パーセントのオレンジジュースとソーダ水だけが辛うじて載っていた。当然少しでも安い方を選んだ結果が、これである。
 注文を通しておよそ五分。注文の品と伝票を置いて、彼は速やかにテーブルを離れる。
 その間絶やされなかった控え目な営業スマイルと、個人的な会話の挟まる余地のない視線と態度に、窓際の席を陣取りながらじわじわと後悔をしはじめて。
 居座ろうにもチェーンのカフェとはまるで違う空気と客層に、居心地の悪さを悟ったのもすぐだった。
 別段、冷やかしにといった所でバイトの邪魔をしようとかあわよくば奢らせてしまおうだとか特別扱いをして欲しいと思った訳じゃない。ただ少しくらい驚いた顔だとか照れくさそうな表情でも拝めれば、多分それで満足したのだ。
 ドリンクの一杯でも飲んで仕事ぶりを後でからかえるよう少し眺めて腰をあげるつもりだったのに。
 なのに、彼の態度は徹底しての営業スマイル、のちは視線の一つもなく他人行儀で完全なアウトオブ眼中。
 その上物慣れないアルバイト姿を見物する筈が、まるでもう何年もここに勤めているみたいに、堂に入ったそつのない立ち居振る舞いと静寂を乱さない存在感は酷くしっくりとこの店に馴染んでいて、どこを探してもからかうネタはまるでない。
 それが悪い訳じゃない。
 ただ、違う一面を垣間見れた喜びよりも、そんな彼は快斗にはとても遠く思えた。
 知らない人みたいに。
 彼じゃないみたいに。
 ストローをくるり回せば氷が乱反射して、その向こうにいる筈の彼を歪める。
「ちくしょ。来るんじゃなかった」
 小声でついたぼやきに相槌を打つのは、耳元で弾ける炭酸の囁きだけ。
 そつなく仕事をこなす横顔が、グラスの向こうでまた一つ知らない誰かに向かって微笑みかけた。





     (2)


「お待たせ致しました」
 まるで耳元でささやかれたかのように間近で聞こえたその声に、テーブルに懐くようにぺったり伏せてグラスをにらみつけていた快斗は、ビクリと身体をふるわせて慌てて身を起こした。
「え、」
 その空いたスペースに、すかさず彼が手にしていたトレイから紙ナプキンを置き、フォークとナイフとデザートスプーンを並べ、仕上げに皿がするりと降り立った。
「うわ、ロイヤルコペンハーゲン……って、や、オレこんなの」
 頼んでねーけど、と指差し続けた言葉に笑顔の彼の「ごゆっくりどうぞ」が見事に被る。
 おいコラちょっと待てってば!と呼び止めるにはロケーションが悪過ぎた。この店はあまりにも静泌で穏やかで落ち着いていて、声を張ったり荒げたりしたら最後、店員だけでなく店内の全ての人から非難がましい視線の集中砲火をくらうのは目に見えている。
 ぱくぱくと声なき声で悪態をついたものの、完璧な営業スマイルでカウンター前の定位置に戻った彼は快斗に再び視線は寄越さない。店内の客にさりげなく気を配り、会釈や視線、僅か手をあげる素振りも見逃さない出来たウエイターぶりを発揮しているというのに。その癖、にらみガン見している快斗だけはまるで無視とは如何な事か。
 絶対わざとだ。
 わざとに違いない。
 結果、置き去りにされたものについて、今更拒否も出来なければ、それについて問い質す事も出来なくなった。
「……うーん。……素直におごり、とか……?」
 呟いてはみるものの、皿にも『うわあ』だが中身はもっと『うわあ〜』だ。ラッキーと流すには少々、否、かなりのゴージャスさを醸している。そんな物をどうぞと差し出されて引き下げてくれと要求するのは、出来なくはないが極力したくない。
 けれど同時におごりにしては無償とは俄かには信じ難い。何とメニューにあった一品がランチ価格という恐ろしいケーキが、ゾロゾロと並んでいる。
 しかもザッハトルテにはたっぷりの生クリームとミントが添えられ、表面に金粉があしらわれて上品な仕上がりだ。
 レアチーズケーキにはブルーベリー、ストロベリー、クランベリー、ラズベリー等がごろごろと使われた贅沢なベリーソースがとろりとかけられていて、目にも鮮やかで食欲がそそられる。
 こぶりなシュークリームは半ばに切目が入りカスタードクリームと生クリームの二層のクリームといちごが顔を覗かせて粉砂糖がふりかけられて何だかちょっと可愛らしい。
 それだけでも凄いのに、更にはアーモンドのタルトレットとオレンジのタルトレットにチョコとバニラのアイスまでが添えられている。タルトなんてメニューにもなかったのに、だ。
 そのゴージャスさは支払えと言われても困るがおごると言われても戸惑うといったレベルで。
 店のおごりだと言われても困るし、白馬のおごりと言われれば尚の事、天邪鬼が頭をもたげる。我ながら厄介な性格をしているものだが。
 そもそも一体いくら貰って何時間のバイトをしているのだか知らないが、これだけで今日の彼はただ働きではないかと御曹司相手にいらぬ心配までが頭を過ぎった。
 うずうずとフォークに伸びそうになる指をわきわきさせて再度視線を向けると、彼はカウンターの端でレジ対応の真っ直中で。
 どうした事か快斗の視線はカウンター越しに彼の上司にあたる人物に拾われてしまった。距離をものともせずかち合ってしまった視線に慌てて軽くお辞儀を返す快斗に、店長だかオーナーだか知らないが四十代と思しき男性は不意に瞳を和ませ胸元で両手のてのひら側を見せてひらひらとさせる。
 その手の動きが語る事は……。

(……立ち上がれ、じゃねーだろーし、普通に考えりゃ『どうぞ、どうぞ』?)

 と言われても、だ。
 快斗は自らの前に置かれた皿を指差し、自分を指差し、顔の前で横に手を振る。困惑の表情を交えて『頼んでいません』を伝えたつもりだったのだが、その人は更にニコニコと顔中綻ばせて、一つ頷いた。……何だか非常に伝わっていない感がモリモリである。
 分かっている、と言うように微笑むのに、何故だか仕草はもう一度身体の前でてのひらをひらひら……『どうぞ?』だ。
 ためらう快斗に向けたゲームのような店主のジェスチャーはまだ続く。どうもこの店の雰囲気と店主と思しき彼のテンションは違うらしい。
 快斗の方を指差して、頬に両手をあて何度か擦るように動かし、腕を上げて力こぶを作る仕草。

(それは、頬が落ちるくらい、自信作、だよ、かな?)

 さも楽しそうに嬉し気に薦め続けられるといい加減断り難い。しかも何を期待されているのか『どうぞ』に並々ならぬ意気込みすら感じられる。
 それなら、と、快斗はまずテーブルの隅に立てて合ったメニューを掲げて見せ、次に服のポケットをパタパタと叩いて、お手上げのポーズに両手を挙げて見せた。お金がありません、をジェスチャーで示しこれでどうだと見やる。
 男性は『おおー』と言う表情でポンと手を打った。
 そして今度はおもむろに右手の親指と人差し指で輪を作る。その後、顔の前でてのひらをひらひらと振る。
 お金はいりません、の仕草に快斗は慌てて首を横に振って『そういう訳には!』と訴えてみる。
 と、店主……未確認だが面倒臭いのではっきりするまではそう呼ぶ事にする……が、継いで、自分を指差し『違う』と手を振り、白馬の背をちょいちょいと指差して、ウインク一つ、そして再度両手をひらひらとさせ、促す仕草。

(白馬のおごり?)

 視線で追いかけた背中は、客の去ったテーブルを静かにそれでいて手早く片付けている。相変わらず一切視線も返らず、快斗を気にしているようにも見えないが、この皿が彼の気遣いだというのだろうか。
 半信半疑にケーキを指差し、白馬を指差して小首を傾げると、店主は大きく一度頷き、微笑んだままそっと一本立てた指を唇にあてて見せた。
 『内緒だよ』は、白馬のおごりとばらしたのは『内緒だよ』との意なのか、店の者のおごりなのは他のお客様には『内緒だよ』の意味なのか。
 声のない手振り身振りだけでは細かい意思の疎通は困難なものの、このゴージャスなデザートはどうやら白馬のおごりで快斗に『どうぞ』と提供されたものだと言うのは理解出来た。
 だが、プライスというひっかかりは依然として残されている。
 御曹司である彼がお金に困るような育ちとは思わないが、アルバイトをしている理由も知らない以上その貴重な稼ぎで顔を出したというだけの快斗が、どれ程美味しそうなケーキが並んでいるとしても想像するだに恐ろしいプライスがつきそうなプレートを意味なくおごられるのは、釈然としない。
 どうしたって抵抗したくなるのだ。
 まるで借りでも作るみたいで。
 父は一流のマジシャンだったが現在も過去も思えば黒羽家は至って普通の庶民の暮らしだ。
 肩書きが色々とくっつく彼の背景に張り合うのは馬鹿らしいと知っていても、せめて肩書きが響かない場所でくらい対等でありたいと願う心が快斗を時に必要以上に頑なにさせてしまう。
 ジャンケンで勝ったから缶ジュースをおごらせるだとか、小さな頼みごとをきく代わりに彼の家で豪勢なアフタヌーンティーを平らげるのとかは構わない。それは決して一方的な借りではないから。
 けれど第三者である店主に間に入られてはその微妙な葛藤はぶつけようがなく、恐らく快斗の逡巡も店主からすれば高校生なりの単なる遠慮にしか見えないのだろう。
 そうする間にもアイスは溶けて来るのだろうし、今更いらないと言っても他のお客に使い回す訳にもいかないのだから、ここで快斗が拒否すれば恐らくこのケーキたちには行き場がない。こんなに美味しそうでゴージャスで美しく盛つけもされているというのに、だ。
 快斗はあくまでも善意で勧めてくれているであろう店主に表情を読まれないよう深く俯いて、盛大に顔をしかめた。

続き


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