ソーダ水のささやき




     (3)

 夜の痛い程の静けさや、不気味に虚ろな暗闇を、どこか幼い所のある幼なじみの少女は『怖い』と言う表現をした。
 それは間違いなく夜の持つ一面で、本能としてその認識を慎重さを警戒心を幼なじみが持っている事に、快斗は密かに安心している。
 そしてまた高潔でオレサマで無鉄砲で、強くて無敵で優しい名探偵は、夜は少しだけ自分を素直にしてくれると言う。
 身近にいる大切な人に程、意地っ張りで天の邪鬼な顔を覗かせる友人に、夜がかけるその優しい魔法は必要不可欠なものであるらしい。
 それも正しく夜の一面だ。
 快斗にとって夜の闇は危険から身を隠してくれる盾であり、夜の研ぎ澄まされた空気は身を引き締め集中力を上げ秘めたる決意を新たにさせる、そんなものだ。
 宝石箱をぶっちゃけたみたいな街の灯りも、塗りつぶしたような漆黒の宵も、不思議と夜であるだけで、快斗をゆうるりと溶かしこの身をふわりと自由にする。
 夜は舞台で、時にゆりかごで、最大の味方でもあった。
 それは目を眩ませる夜明けや、心を急き立てる朝、容赦のない陽に晒される昼や、取り残される日暮れには持ち得ない夜だけの力。
 十九時を回ると日は落ちているのにまだ周囲は幾分か薄明かりが残り、見上げた空に星の瞬きを確認出来るまではしばし時間がかかった。……目をこらして空を見上げ、辛うじて幾つかの小さな明かりを視認出来る程度だ。
 小さな児童公園のぞうさん滑り台はちびっこたちの人気の的だったが、それも十七時をピークに十八時を回ると最後の親子連れも家路についた。今は快斗の貸し切りだから、誰はばかる事なくぞうさん滑り台のてっぺんを占領させてもらっている。
 子供用の滑り台だから、その高さは成人男性よりは高いが、柵の分まで多く見積もっても二メートルもないだろう。腰を下ろしたぞうさんの頭の幅も快斗にはやや狭いくらいの窮屈さで、いかにも子供向けの遊具だ。
 それでもジャングルジムやシーソーなど他の遊具の中では一番高さを確保でき、位置的にも滑り台のてっぺんからは公園の入口までが遮る物なく見通せた。
 当然、足早に車止めをすり抜け街灯の下を行き、ブランコには目もくれず砂場へと踏み込んで来る彼の姿も、見落とす事なく。
 滑り台のてっぺんで同化するみたいに小さくなって気配も消して、身動き一つもしていないのに、周りを見渡しもしないでまっすぐにぞうさんの鼻先の砂場……滑り台の足元まで来た白馬が、ぞうのてっぺんを見上げる。
 いつもみたいに疑問系で名を呼ばれるのかと思ったら。
「お待たせしました」
 違った。
 仕事の続きみたいにかけられた声が、バイト中とは若干違う優しい音で綴られた。聞き慣れた、少し恐縮した柔らかい声音だ。
「おーよ、待ったとも。……なぁ、オマエさ、オレがここにいないかもとは思わなかったのかよ?」
 僅かにも帰ったとは思わなかったのだろうか。白馬は迷いなく公園へ入り、入口から見えた筈のない快斗の姿を探す素振りも見せなかった。
 平坦な快斗の声にも動じないで、彼は軽く肩を竦めてみせる。
「帰るならメールの一通くらいくれるでしょう、君なら」
 そのくらいならしても良い、と、膝に顎を乗せて思う。降りるつもりはまだない。
「来ていない場合なら可能性は二通りですが、一つめ、メモに気づかなかった、これはまずないですね」
 ナイフとフォーク、デザートスプーンを並べた紙ナプキンのその裏に、見覚えのある字で店からほど近い児童公園の名前と、数字。手紙ではなくあくまでも仕事中にそっと忍ばせたメモである訳だから簡潔でも仕方がないとは思うが、あまりにも素っ気ない、ものの見事に用件のみのものだった。
 勿論というか生憎にというか残念にもというべきか、快斗はそれに気づいた。
 場所と時間のみが記されたそれに。
「二つめ、気づいたけど帰った。これは予め某かの予定があった場合などがあたりますが、この場合も前述と被りますがメールなりで一言あると思われます」
 淡々と、授業中、簡単な方程式か証明問題でも答えるみたいに彼が言う。
「ではそうでなければどうか。気づいたが気づかなかったふりをして帰った。これも否ですね。あのメモに気づかなかったと僕に思われる不名誉を、君のプライドが許す訳がない」
 そんなつまらないプライドが自分を不自由にすると知っているが、否定出来ないのは間違っていないからだ。頷きも否定もしない快斗を見上げ、彼は続ける。
「そして気づいて無視して帰るとしたら、ケーキを食べた君が僕に借りを作ったままを良しとした事にもなる。それもないでしょう。なら不機嫌でも不本意でも、君は待っていてくれると思いました」
 正確には気づいたからスプーンを手にとった、のだ。借りを作るのを厭う快斗に、ケーキと同時にサーブされていたそのメモは白馬が与えた『理由づけ』だったろうから。
 証明終わり、というように言い終えた白馬が快斗の答えを待つみたいに、視線を交わして軽く小首を傾げた。合ってます?と問いかける瞳は案外いたずらっぽい輝きを放つ。
 一から十まで見透かしたかの如くの語調は一々無駄にしゃくに障るものの、悔しくも訂正すべき点は見つけられなくて、快斗は憮然とした面持ちで「別に不機嫌じゃねぇもん」とうそぶいた。
 彼のバイト終了までの二時間強を快斗が待つ事が、彼のおごりのゴージャスなスィーツの対価として釣り合いが取れるのかどうかは今でも判然としないが、彼のメモはそれで良いと語っていたから。用件のみを羅列して依頼も懇願もしていない素っ気ない文面だったけど、そうして欲しいと望む気持ちを汲むという大義名文には充分な力があった。
 彼の差し出す物に理由がなければ、まだ素直に手を出す事も出来ない快斗に、白馬が寄越したメモは大義名文と言う名の『言い訳』で、自分を納得させるのに必要な理由で。
 理解して納得したからスプーンを手に取ったのだから、場所の指定が一方的且つ待ち時間が二時間余りに及ぼうとも、それで快斗が不機嫌になる謂われはない。
 その上、並べられたケーキたちは文句のつけようもなく美味しかった。
 通常一品がランチ価格であると言う点だけは折り合いがつけれそうにないが、味も見た目も、完璧と言っても良いだろう。思い返しただけでも幸せになれそうな、そこらのチェーン店のカフェのケーキでは太刀打ち出来ないであろう味だ。
 それらをしっかり堪能もしたのだし、不機嫌である筈がない。
 ただ、誰にも知らせていないバイト先にいきなり快斗が顔を出した事で多少なりとも白馬の意表を突けたのだとしても、それはほんの一瞬で。
 その後の一貫した営業スマイルと十把一絡な対応も、それでいて特別にさり気なくスィーツを差し入れるそつのない態度も、それに対して拒絶ではなく受け取らざるを得ない方向への持って行き方も、受け取るのに必要だった『言い訳』も。
 全てが快斗を不機嫌にするのではなく、けれど手の上で転がされるような不本意さは消しようがない。自分で選択したつもりが、結局は白馬の良い様に翻弄されてしまっていたのだから。
 つまり、こうして下から見上げた白馬につっけんどんな物言いをしてしまうのも、彼がすぐそこ……ぞうの鼻先まで来ているのに降りて行かないのも、不機嫌だからではなく、不本意な結果が何となく釈然としないからだ。
 ほんのりとした笑顔を向けられても、素直な笑顔を返せない理由も多分、その辺りにある。
「そういえば、マスターが感心していましたよ、黒羽くん」
 不意に白馬が話題を転じた。
「感心……?」
 店内に居たのは数十分。ソーダ水とケーキを平らげるまでの時間で、さして長居はしていない。
 白馬が小憎らしくも快斗の視線に無視をかましたりするから、店主と思しき人物とは思いがけずジェスチャーなんかでコミュニケーションを取る羽目になったのだが、感心なんてされるような覚えはなかった。
 なんだそりゃ、と表情で語り、その裏でそうかあの人はマスターでいいのか、と店での様子がふと頭を過ぎる。
「君、入って来た時もその後も、僕に声をかけたり親し気な素振りを一切しなかったでしょう。なので、友人だとは思わなかったそうです」
「……ジョーシキだろ」
 そこは白馬のバイト先で、彼は働いているのだから。
「ところが今時の高校生にその手の常識は通用しないそうですよ。なので、君は控え目で良識と常識にあふれた出来た高校生だとマスターが感心していました」
「うわー……誰、ソレ」
 さらりと並んだ自分とはかけ離れた人物像に思わず苦笑うと「僕も返答に困りました」と白馬も白馬で微苦笑しか浮かべようがないらしい。
「普段の傍若無人な君を見たら、誤解なんて瞬殺だと思うんですけどね」
「どこが傍若無人だよ」
「それはもう色々とあるじゃないですか、伝説が」
 笑い混じりのからかいに、なんのことやらと視線を逃す。
 完全に夜と呼ぶには些か早いからか、投げた視線の先に星と言い切れる灯りはぼやけてうっすらだ。数十分前は微かに西の空の端がオレンジと藍色のグラデーションだったが、今は闇に沈まない程度の薄闇で、辛うじて白い小さな月が遠く確認出来る。
 白馬はつられたように一度空を見上げて、それから快斗へと戻した。一拍置いて、かけられる声。
「そこからは、何か面白いものが見えますか?」
「まぁな。普段見えないものが見える」
 呟いて、つい笑ってしまいそうになる。
 白馬にはいつもほんの六センチ程の身長差を盾に見下ろされているばかりだが、この高さだと珍しい彼の上目遣いが拝めてしまった。
 もっと高くからこっそりつむじを探したりした事もあるが、上空に過ぎると今度は表情すら掴めなくなって面白さは半減になってしまう。
 高過ぎない、こんな半端な高さから眺める彼はついぞ覚えがなくて新鮮な心地を運んで来た。
 そんな快斗の思わせぶりな台詞に、それは何かと重ねての問いがあるのかと思ったら、至極真面目に向けられた問いが飛んだのは、少々あさっての方向へだった。
「…………そこへ行っても構いませんか」
 しかもイエスともノーとも発していない快斗の迷いをたったの二十秒しか待たずに、彼は行動を起こす。白馬は迷いなくその足を象の背を這う階段へと向けた。
 ぞうの背に短い間隔で切り込みを入れた階段と、両側の手すりは子供にはジャストサイズだが、高校生である白馬にはやや窮屈な感がある。
 だが、頓着する様子もなく階段を四段、五段と登り、快斗の背後ににょっきりと白馬が顔を出す。
 快斗がてっぺんを占有しているので同じ場所に座るのは不可能だと悟ったか、白馬は登り切る前で足を止めたが、ぞうの頭に座り込んでいる快斗の頭の位置ははからずも彼の肩口で。高さ的には白馬が頭半分高くなり、振り向いた快斗にはうんざりする程見慣れた視線の角度に落ち着いてしまった。
 白馬の動向を目だけで追うにあたり全身で振り返る事はしていない。
 そうするには一度立ち上がって改めて振り向く必要があり、それ程に滑り台の頂きはスペースに余裕が少なく、出来なくはないが面倒だった。その上顔突き合わした白馬との距離も、やたら近くて。
 半端な態勢で上半身を捻っていたまま、快斗はやや身を引いた。不用意に距離を詰められると逃げようとしてしまうのは最早野生動物の習性に近い。
 退路はぞうさんの鼻を形取った滑り台だ。
 だが、快斗が腰をあげるべきか足を一蹴り座したまま遁走か悩んだ一瞬が明暗を分けた。伸ばされた腕に捕まった、腕。
 逃げるにも応えるにも、両側にしつらえられたピンクに塗られた鉄の手すりが肘にぶつかり腰にあたりと邪魔をする。身動ぐと無理な態勢に、背筋も軋んで喉まで呻きが出かけたが、一つ瞬きの間に飲み込んだ。
 ひんやりとした柵に動きを阻まれ不意に縮められた距離に快斗は息を詰める。反射的に身を竦めた快斗の額に、押し当てられた、唇。
 うわ、と内心で叫び、とっさに顎を引いたから、ほんの一瞬掠めただけの柔らかさなのに、痺れるように後を引き額が疼いた。
 キスとか、触れ合ったりとか。
 そういったものに至るには、自然と伝わるような雰囲気とか熱いまなざしや、妙に意識している時特有の緊張感や読むべき空気があるのだと白馬を知るまでは思っていたのに。
 だが、そんなののほとんどはテレビや物語の中の話で、ほとんど以外の世間一般にはあっても白馬には通用しないのだと進行形で身を持って学んでいる。どこで、何に因って彼にスイッチが入るのか、快斗にはまるで把握出来ていない。
 ただ、一々驚いていてはそれこそ白馬を喜ばせるだけなのは分かって来たので、唐突にも思えるそれらの行動にその都度うろたえたり赤くなったりしないように表情を消すようになった。けれど、そんな快斗の密かな決意も努力も、恐らくは端々から伝わったり読まれたりしているのだと、楽しそうな光がちらつく白馬の目から分かった。
 ……瞬間に離れた唇は、間を置かず前髪を鼻先で探るみたいにかき分けて、再度額へと落とされる。視界が、距離を詰めどこか甘い色を乗せた表情の白馬だけになる瞬間に、耐え切れず快斗は強くまぶたを閉ざした。
 額の次はまなじりに、そして眉間に。
 一度、二度、三度。
 啄むように矢継ぎ早に寄せられる唇だけでなく、触れる間際に感じる淡い吐息や掴まれたままの腕から伝わる熱に肌があわだつ。見ていなくても、……見ていないからこそ、肌に止まったままの唇の動きに神経が集まって、声なく紡がれたのが自らの名だと分かってしまった。
 うっすら開いた視界の中で、瞳を閉ざし祈るみたいな、彼。いつもは判で押したみたいに『黒羽くん』としか呼ばない癖に。
 伸びた腕が身体に回り、促す腕が快斗の意思を確かめもせず思いがけず強引に身体を引き上げるから、あちこちをぶつけながらの反転となる。
 それでも引き上げる腕に縋るみたいに狭い場所で足を縺れさせつつどうにか立ち上がり、白馬へときちんと向き直った処で遅まきながら彼も階段を登り切っていたのだと知った。
 子供向けの狭い滑り台のてっぺんにそれなりに育った男子高校生二人が立つには、足を絡め身を寄せるしか術はなくて。
 座っていれば動きを阻む手すりも、立ち上がってしまえば心許無い位に低くある。
 眉間から頬へ、そして唇へとうつろう唇を避けるには、足場が悪い。白馬の腕が背に回り、快斗は両腕を白馬の首に回して更に密着度を上げる。そうしないと揺らぐ身体をくずおれないよう維持も出来なかった。
 小さな児童公園の中では一番高さのある遊具ではあるが、世間一般的に見てもこのぞうさん滑り台は決して高い方ではない。
 ましてや電柱のてっぺんや高層ビルの屋上など、もっとずっと高い場所や足場の危うい場所、そして雨や強風などの悪条件が重なってさえ、快斗は危うさの欠片も見せる事ない立ち居振る舞いが出来る。
 なのに、キス一つで足はふらつき頭はくらくらと、理性も身体能力も軒並み制御不能に陥るのだから、困る。
 キスはまるで嵐のようだ。
 場所も時間も、会話の前後も、思考回路でさえ吹き飛ばして。
 閉ざした世界を真っ逆様に落ちて行く、彼の腕一つ命綱にして。





(4)

 嵐は永遠に続かない。
 彼の腕を命綱だなんて思うようなキスを交わした後で、その流れのまま押し倒されるか、日常へ戻る自然な顔つきが作れなくてどうしようもなく逃げ出す以外の選択肢を選ぶのは初めてだ。
 白馬が仕掛けて来たのはそういう種類のキスだった。
 物腰の柔らかさや触れる指の遠慮がちな丁寧さが彼らしさを伝える、警戒心を抱かせない、ふわふわとくすぐったい幸せなキスも白馬の寄越すキスの一つのスタイルで。
 声もなく引き寄せる腕の強さが象徴するような、洗いざらい奪い合って共に真っ逆様に落ちるキスもまた、白馬と分かち合って来たキスの一つだ。
 今はキスに酔っているのかキスの余韻に酔っているのか、どちらにしてもぼんやりと漂う意識が酷く心地良い。
 彼の肩越しに見上げた空に月の輪郭がしっかり視認出来る程に夜の帳が降りて来たのに気づき、同時に時間の経過を感じる。
 快斗の瞳に白馬もそれを知ったようで、名残惜しそうに再度ぎゅっと抱きしめられた後渋々と両の腕は弛められた。頼りなく笑う膝に気合いを入れ両足を踏みしめて、背に回された腕が離れる覚悟をしていると、それよりも早く呟きが耳元に落ちる。
「もう君をお家に帰してあげなくては」
 自らに言い聞かせるみたいに紡がれたささやきは、いかにも本意ではないと響くけれど、「そうだな」と快斗は軽く相槌を打った。
「明日は学校だし」
 今日は日曜だったから、快斗は怠惰に昼まで惰眠を貪って、のんびりとおやつの時間に白馬のバイト先を襲撃したが、彼はこの時間まで働いていたのだから遅くとも昼からは働いていた筈だ。
 入れ代わり立ち代わりと素晴らしく繁盛している訳でこそないが快斗がいた数十分でもちょこちょこと客の入れ替わりはあって、マスターはカウンター内を白馬はそれ以外の全てをと、たった二人で店を切り回していた。
 しかも、まるで何年も勤め上げたかのような完璧なウエイター姿を披露していたが、その実彼があの店でバイトを始めたのは恐らくここ数日の事と快斗はあたりをつけている。
 長くとも一週間は経っていないだろう。
 その状態の白馬がバイトの後のこの時間、疲れていない筈がない。
 ましてや残業でこの時間であるならもっと早くから働いていた可能性も打ち消せず、変に真面目な白馬が明日の授業中快斗のように居眠りなど出来ないだろうと想像もつくだけに、そろそろ快斗もこの腕を解放してやるべきだ。
 そう、思うのに。
 白馬の背に回していた手はずるずると落ちて、けれど彼の腰で留まって。
「そうですよね」
 白馬の左手も背に留まったまま、右の指やてのひらが髪を撫で、頬を掠め、放れていくかと思う都度覆されて戻り来る彼の手が、同意する白馬の口とは裏腹な意思を示す。
 離れたくない。
 離したくない。
 好きだとも愛しているともついぞ聞いた覚えはないが、そういった直裁な言葉を使わずに愛しさや好意や執着を伝えて来る術を白馬は持っている。
 彼のスイッチの入るタイミングはいつまで経っても読めないから、いつだって新鮮な驚きと戸惑いを持ってそれを快斗は受け取る羽目になった。
 極稀に彼なりの、遠回しな愛に代わる言葉を。
 そしてそれ以上に、視線が、唇が、指が、手が、言葉よりも雄弁に語りかける。
 分かり易い言動ばかりが愛ではなくて、気遣われていたのだとか大切にされていたのだと後に知って、悔しい想いと気恥ずかしい想いがない交ぜに、ほこほこと幸せな想いに陥ったりもする。
 もう少しはっきりと分かり易く見せてくれれば良いのにとも思ったが、実際に真正面から好きだの愛しているだのと言われれば逃げ出してしまいたくなるのだろうから、多分、こういうのを破れ鍋に綴じ蓋と言うのだろう。
 見慣れた微苦笑で、困ったように彼は続けて何事かを呟いた。快斗にさえ伝える気はなかったか吐息のように小さ過ぎた独白。

(でも、帰したくない)

 空気を震わす振動すら微弱で、辛うじて読み取れた唇は、そう動いたようだった。
 今はまだ、白馬は快斗の腕の中にいて、快斗は白馬の腕の中にいる。拘束と呼べえる程の力もないのに、どうしてか離し難くて快斗の指はいたずらに白馬のシャツの背にしわを刻む。白馬はため息とも吐息ともつかぬものを落として、快斗の自由に跳ねる髪に鼻先を埋めた。
 オレも、と答えれば彼の手は離れずにすみ、快斗の腕も離さずにすむ。現時点では仮定法に過ぎないが、恐らくは、必ず。
 けれど、その代わりに快斗は白馬の身体をそっと押しやって笑うのだ。溺れるようなキスを交わしたなんて、すっかり忘れたみたいな顔をして。……自分で今の自分の顔は見れないから、ひたすらにそんな顔が出来ていると、信じて、笑う。
「そろそろ帰ろーぜ、腹減ったー」
 親密な空気をカラリと吹き飛ばすあっけらかんとした声音と表情を、意識して作った。
「気にしてない時は全然平気でも、思い出したら急に腹減ったり、しねぇ?」
 互いの腕の中ではなく、学校の休み時間に交わされるに相応しい快斗の振った雑談に、白馬は瞬間だけ翻弄されたか微妙な顔つきで、それでも一つ頷いた。
「……ああ、そういえば」
 中途半端な語尾の同意を気のない様子で呟いただけでなく、視線を外し彼は快斗の頭越しにどこかへと視線を投げた。
「ああ、そういえば」
 継いで、まるで違う力強い語調で同じ言葉を繰り返す。明らかに今度の『そういえば』のニュアンスは「そういえばその通りだね」と言う軽い同意の意ではなく、何かを思いついたり思い出した時の、ポンと手を打つ『そういえば』の響きだった。
 続く言葉をきょとんと待っていた快斗を余所に、白馬は首を廻らせ後ろを見下ろし、そして快斗へと向き直るとおもむろに背に添えていただけの手を腰に回し直し引き寄せる。ぺったり、と胸も腹も上半身が密着したかと思えば力が込められ、よいしょとばかりに快斗は持ち上げられた。足先が十センチ程浮くに至り、慌てて快斗も白馬の肩と首裏へと腕を絡めた。
「おい、」
「暴れないで」
 どこか楽しそうに呟いた男は、そのまま慎重に一歩足をにじり、快斗を抱えたまま狭い足場で、くるりと反転した。腰までもないピンクの柵にあたったりもせず、スムーズな回転は半円を描き、とん、と腕から力が抜けて下ろされてみれば、二人の位置は丁度反対になっている。
 手を離す間際に、指がするりと頬を撫で、目を閉じる間も与えずに小さなキスが訪れて、すぐに離れた。
 まるで『暴れないで』の言葉を守った快斗への、良く出来ましたのご褒美のように。
 本当はただ茫然としてしまっただけの快斗だったが、キスに反応を返すまでもなく、そのまま白馬は快斗に背を向けしゃがみ、ずるずるとぞうさんの鼻部分である滑り台を降りて行く。
 どうやら降りるには登って来た階段を戻るより、滑り台を下った方が手っ取り早いと判断して、行く手を阻んでいた快斗を移動させた、というのが謎の行動の種明かしであるらしい。
 なーんだ、と思うと同時に軽い身震いに襲われる。
 けして肌寒い季節ではないのに、それでも寄り添っていた体温の喪失はそれだけで充分に快斗の全身を細かく震わせるだけの力があったようで。
 背を追うに迷いはなかった。
 そう高さがあるでもなく、角度も小さな子供すら怖がらないような穏やかさで、さらに下の砂場から靴について上がり込んだかしたのか、砂じゃりがあるせいで更にスピードが落ちる滑り台を、白馬を追って快斗もずるずると滑り降りた。
「君まで降りて来なくても良かったのに」
 登って来る前に置いたであろう、ぞうさんの足許にもたれかけるように置いてあった小さな手提げの紙袋を片手に、白馬が笑う。
「お。なに、なに、ソレ?」
 何か一言差し挟むつもりが、好奇心が先に立った。とてとてと近づき覗き込もうとする快斗から遠ざけるつもりか、白馬は微笑んだまま紙袋を後ろ手に回し、もう片手は快斗の肩にぽんっと置かれた。
「目を閉じて」
「えー……」
 面倒臭いを目一杯声に滲ませると「悪いようにはしませんから」と白馬が笑みを深める。宥めるような声音と隠されたもの程見たくなる怪盗根性が快斗を早々に折れさせた。
「しょーがねーなぁ。……はいよ。それで?」
 ジーンズの後ろポケットに親指をひっかけ、片足に重心を移し、リラックスを心で唱える。そしてまぶたを下ろした。
 間近な白馬の気配は何だか楽し気で。
 だから、いつもは楽しませたり驚かせたりは自らの特権とばかりに振る舞っている快斗だけれど、今は文句なんて一言で片づけ彼の言うがままに無防備に瞳を閉じてしまう。
「口を開けて?」
 はいはい、と素直に従うとごそごそと小さな物音がして。はい、と口の中に何かが放り込まれた。
 快斗がかぶりついたり無理に頬張ったりしなくても良いように一口大にされたそれに、快斗はためらいもなく歯を立てる。
 白馬の前で視界を閉ざす事、そして何をされるか分からなくても指示通り口を開ける事に今はもうためらいはない。……白馬の人となりを知っていて、彼を好きになっていて、彼がはっきりと口にはしなくとも比ぶるものなく彼に好かれている事を知っているから。
 たった一言、ほんの一匙の悪意ででもボロボロに傷つくぐらい快斗が一番弱り無防備になっていた時に、白馬は優しさや慈しみ、愛情しか寄越さなかった。
 君が弱っている所につけこんだだけですよ、と後に彼は自嘲的に語ったけれど、大切にされているのだと肌で知り、快斗本人すら軽々しくも投げやりに捨てようとした自身を彼は捕まえて。好きだとも、愛してるとも言わないで、ただ示し続けた。
 必要だと。
 必要としてと。
 人生から、生活から、心から、締め出さないで欲しい、と。
 そんな彼を前にすれば、絶対的な信頼は生まれてもくだらない警戒心なんてとうの昔に空の彼方で当然というもの。
 甘い香りを追いかけて舌先に甘味、ほんのりと残るのはナッツ類特有の香ばしさ。歯触りはしっとりと、そしてほろりと口の中で崩れた。
 口内に広がる味は、記憶に新しい。
「オマエのバイト先で食べた、アーモンドタルトだ」
「ご名答」
 ぱちりと目を開けると、笑った白馬が半分に砕いたタルトレットの残り半分を口許まで寄せる。まるで親鳥から餌を貰うヒナみたいに、快斗はぱくりと口を開けて、それを放り込んで貰った。
「マスターに余ったものを頂戴しました。一つで十分、三つで三十分、君の時間をこれで買収出来ませんか」
 渡された紙袋の底にはまだ、アーモンドのタルトレットとオレンジのタルトレットが仲良く並んでいる。
 あの店のプライスだったら一個で三十分くらい言えば良いのに、そこまで図々しくはなれないのが白馬らしいと言えば、らしい。しかし、現実問題として小さなタルト三つで空腹を宥めるとすればその程度の時間が妥当でもあるのかもしれない。
「オレがいつだってこンな安上がりだと思うなよ?」
 あくまでも素直でない切り返しの同意は、ちろり、と軽くにらみ上げて。だが、紙袋を返すつもりも毛頭なく、買収は成功を納める。疲れている筈の白馬は、それでも嬉しそうにふわりと微笑んで頷いた。
「思ってませんよ。少し、残念ではありますけど」
「……ナニが」
「そんなにお安くお菓子で買収されてくれるなら、いくらでもお菓子を貢いで君の時間を全部僕のものにするのに」
 好きだとも愛しているとも言わない白馬だが、耳がくすぐったくなる台詞はさらりと言ってのけるのだから傍迷惑な事この上ない。言う方はしれっと平然としたものだが、言われた方にすれば照れくさく気恥ずかしくて敵わないのだから。
 問題は、耳元で弾けるソーダ水のように、このくすぐったさはこそばゆくそれでいて耳に心地良く、心までが浮き立つと言う事で。こんなものを折々に与えられたら、癖になりそうで困ってしまう。
「そーしたらオレはお菓子食べ放題な上にただでオマエの時間を独り占めできる訳だ。……これってむしろ、オレ丸儲け?」
「あ。すみません、独占は無理でした。アルバイトには行かないと」
 自分が言い出した軽口な癖に、真面目な顔で無念そうに訂正を入れるものだから、その不器用な律義さに笑ってしまう。
「じゃあ丸儲けは置いといて、とりあえずは三十分、買収されといてやるよ」
 紙袋を抱え、快斗は空いたもう一つの手で白馬の手を取った。手を引いて歩き出す。
 白馬は快斗を見て、快斗に引かれている己の手を見て、二度、目を丸くしている。けれど、賢くも要らぬコメントは避けて大人しく快斗の促しに従った。……ふわりと、淡い紅茶色の瞳が細められ口許が柔らかく笑みの形を取るのを、快斗はちらりと盗み見てそっぽを向いて歩む。つられてつい微笑んでしまう顔は、彼から見えない角度でのみ自らに許した。
 砂場の回りをぐるりと回り込み、手を引いたままでジャングルジムの向こうへと。
 規模で言えば住宅地の中の小さな児童公園だが、遊具はそこそこ豊富に取り揃えられている。
 ぞうさんの滑り台に、てっぺんにカラフルな青色と黄色と赤の三色の羽根のオウムが乗っている球体型の回るジャングルジム、二台が横並びになったブランコを支えているのは眠たそうな眼の二頭のオレンジのキリンだ。ぞうさんの足元に四角く囲われた砂場を、囲っているコンクリートには花と蝶が交互に描かれていて、入口際には真ん中にどんぐりをかじるリスの親子がしつらえられた青いシーソーがある。
 ブランコの隣りには二匹、ベンチ代わりになりそうな遊具がどっしりと鎮座ましましていた。
 ペンキのやや剥れたコンクリート製の四つ足のパンダと、やたらと激しい水色のカバである。
 アピール度の強いのは断然カバで、快斗は迷わずカバを選んだ。ぱかっと大口を開けて顎をあげた、いわゆる水面口開けポーズだ。
 快斗は低い位置のカバに跨がるように腰を下ろす。
 白馬は長い足を持て余すように四つ足のパンダの背に軽くもたれて、鼻面をぺちぺちと撫でてみたりしている。どこか物珍し気な様子に、こういった子供向きの遊具が本当に珍しいのかもしれないと頭を掠めた。
「ん〜とに、美味いっ」
 タルトレット……小さなタルトにはオレンジリキュールの利いたカスタードクリームが詰められ、オレンジが三切れ飾られている。ゼリー液をまとった果実は瑞々しく艶やかで、添えられたミントの緑とオレンジの対比も鮮やかだ。
 二口でペロリと気持ち良く平らげる快斗を白馬は目を細めて眺めている。孫を見る祖父の如く微笑ましいを絵に描いたような視線を向けられて、居心地悪く快斗は軽く身動いだ。
「良かったです。マスターにも伝えておきますね」
「うん。……ところでさ、これって同じくらい美味いよな? ……オマエん家のシェフさんが作ったのと、同じくらいに」
 ゆっくりと、同じくらい、に強打点を打った快斗の台詞に、瞬間間を置いて白馬は満足そうに微笑んだ。
「分かりましたか」
「んー、もしかしたらそーかなー、くらい。カスタードの味が同じだったから」
 連絡なしに押しかけても白馬の家ではおやつ時には勿論、夕飯をご馳走になると必ずデザートと称してとても立派なスィーツにありつける。聞けば普段から白馬はそう甘い物を食べつけないので腕の振るい甲斐がなかったという白馬家のシェフが、甘い物大好きな快斗が訪ねると俄然張り切るのだと言う。
 結果、白馬邸では様々なスィーツに出会って来たが、今日お店でご馳走になったシュークリームのカスタードの味が、すっかり馴染んだ彼の家のシェフのそれととても似通っていた。
「うちの料理長とマスターは、パリの老舗の洋菓子店で修業した兄弟弟子なんです」
「あ、やっぱり」
「二人して変わり種ですけどね」
 どちらもスィーツに関わるのはやめてはいないが、結局二人してパティシエではない道に進んでいる。
「じゃあ、やっぱりシェフさん経由でバイトしてんのか」
 最後のアーモンドのタルトレットを惜しみつつぱくりと半分頬張って、快斗は呟く。
「やっぱり、って何故です?」
 何気ない呟きを拾われて、快斗は軽く肩を竦めて見せた。
「急にバイトなんて始めるから。普通バイトする理由の一番はこづかい稼ぎだけど、……なぁ?」
 軽快にイギリスと日本を行き来するような御曹司に、今更こづかい稼ぎはないだろうとからかうと、白馬は苦笑を答えに代えた。
「社会勉強の為に、ってのもそれこそオマエには今更だし、あの店の店員に惚れてとかいうのもありがちな動機だけど、」
「まさか!」
 言葉半ばでムキになったような素早い否定が割り込んで来た。腰まで上げかけた白馬を、どうどう、と笑って宥める。
「うん、一応端から除外しといた、これは」
 実際に行ったお店に可愛いウェイトレスの女の子がいなかったから、ではなく、白馬に限ってこの理由だけはないと信じる位はしてやらないと、流石に関係が破綻してしまいそうだ。互いに、好きだとも愛してるとも言わない恋人同士だけに。
「……何だよ、その微妙な表情は」
 だと言うのに。
 ほっとした顔になるかと思った白馬は、妙にすっきりしない表情で、視線を流す。
「あ、いえ、その」
 もごもごと言い澱む姿に瞬間的にもやっとした空気を感じたか、快斗と視線を合わせると慌てたように彼は言い募る。
「……信用して貰えているのは嬉しいのですけど、……少しだけ、君が嫉妬してくれないかな、なんて」
「したよ」
 言葉を紡ぎながらどんどん俯いていった白馬が、快斗の一言で弾かれたみたいに顔を上げた。
 もぐ、とタルトレットの最後の一口を飲み込んで。
「少しどころか、いっぱいした」
 紙袋をくしゃくしゃと手の中で適当に丸め、えいや、と投げつける。軽い紙の玉はぽこりと気の抜けた音を立てて白馬の肩口に当たり、落ちた。
 当たってもダメージの欠片もない歪なでこぼこの紙玉は、なんの威力もないけれど、くだらない嫉妬を伝える手段としては悪くないように思える。
「可愛いウェイトレス目当てのバイトなんて思わなかったけど、オレ無視して他人にばっか笑ってんじゃねーよ、とは、思った」
 こっち見ろっていっぱい念も込めたのに、いつも快斗を……キッドを……追いかけて来た熱をはらんだ視線が、ちっとも返らなくて。
 知らない人にばかり笑いかけるから、悔しくて寂しくてくだらないと分かっていても嫉妬なら山程した。売る程した。
 虚を衝かれた白馬が、瞬きを一つ、ゆっくりと紙玉を拾う。
「……あれは、営業スマイルですよ」
「知ってる! でもムカついたしいっぱい妬いた、悪いか!」
 開き直る快斗に白馬がふわりと笑う。面映ゆい、が笑う目許にも口許にも表れている微笑みは、照れくさそうであり、幸せそうでもある。
 彼の手がぽいっと紙玉を投げ返した。快斗の頭に当たって転がり落ちて来たのをてのひらに受ける。
「僕も妬きました。君、マスターと初対面なのにすぐ仲良しになるんですから」
「仲良しって……普通だろー」
 ぽこり。
 そこでコイツは妬くのか、と照れくさいのを隠して投げ返す。
「仲良しですよ。ジェスチャーで会話してたじゃないですか」
 ぽこり。
 至近距離から投げられる紙玉と一緒に、こんな機会でもなければ飲み込んでしまうような他愛ない嫉妬もぽろり、ぽろりと。まるでじゃれているのか、キャッチボールをしてるかのように、紙の玉と一緒に口に出さなかった気持ちが行き交う。
「あれはオマエが無視するからじゃん」
 ぽこり。
 勢いをつけた所でへろへろとしたろくに飛ばない紙玉は、今度は目標をやや反れて白馬の腕に当たる。パンダの背を転がるのを、白馬がすかさず拾い上げた。
「君が見てるのに失敗したくなかったんです!」
 ぽこり。
 避ける事も当たる前にキャッチする事も容易いのに、二人してそれはせず互いに投げて、当たって、そして投げ返す。
 行き交うのは軽い紙の玉と、飲み込んでいた不満と言うにも他愛ない言い合い。そして、子供じみた行動に笑いが込み上げてしまうから、二人して笑みを交わしてしまう。
「失敗って……しそうな気配もなかった癖に」
 ぽこり。
 むしろ何年も勤めているかのような完璧なウエイター姿だった。
「君は見ていないから。初日は散々でしたよ」
 ぽこり。
 胸元に当たり落ちた紙玉をキャッチして、快斗は振りかぶる片手を上げたポーズで、止まる。
「……オマエが……?」
 小首を傾げた快斗に白馬が苦笑混じりの吐息をこぼして白状した。
「オーダーは聞き漏らす、聞き間違う、レジを打ち間違える、お客様の合図に気づかない、片付けまで手が回らなくてもうパニックです」
「マジで?」
「ええ」
「うわーそれが見たかったのに!」
 うろたえる白馬、パニクる白馬、失敗して悄気る白馬。どれもこれもレア過ぎて、彼のバイト初日に気づけなかったのが心底悔やまれる。
「意地悪言わないで下さい。まぁ、そんな訳で、君が見てるので緊張してましたし、目が合ったらそれこそ何かしでかしてしまいそうでしたので、……わざと視線を避けていたのは謝ります。すみませんでした」
 神妙な面持ちで下げられた頭。
「謝るなー」
 カバから身を乗り出すようにして腕を伸ばす。ぽす、と紙玉の代わりにてのひらを乗せた。指を遊ばせるにはこれ以上はない、という指通りを楽しんで、なでなで、と髪を撫でると白馬がかなり微妙な表情で顔を上げる。
「ホントは、ちゃんと分かってっから」
 彼は、きちんと、当たり前に働いただけだ。
「こっち見ないのも、お客に笑顔の大盤振る舞いも、仕事なんだって分かってる」
 快斗だってバイトをしたら知り合いにかまけたりしないだろうし、客商売なら笑顔なんて基本中の基本だ。
 それなのに妬くだとか拗ねるだとかにまで構ってはいられない。真面目に取り合うものでもなく、ウザイ、の一言で切って捨てるのが普通だ。
 白馬はきちんと仕事をした上で、ちゃんと快斗を気遣ってくれていた。視線は寄越さなかったし、特別な言葉もかけられなかったけれど。
 提供されたのはゴージャスなスィーツのプレート。ケーキは単品メニューしかなかったのに、三種と更にメニューにはなかった可愛いタルトレットまでが盛り合わさったプレート。
 その上借りだ貸しだと気にする余り素直にフォークも手に取れないであろう快斗の気持ちも見透かして、理由づけまでがセットとは行き届いているにも程がある。
「だからさ、明日も頑張れよ? とっととバイトなんか辞めてオレと遊びやがれ、なんて言わないでいてやるから」
 くす、と白馬が吹き出す。
「寛容な恋人で有り難いですね」
 軽口かもしれなくても、さらりと告げられた言葉に、彼の認識を再確認した気分になる。
 好きだとも愛してるとも言い合わない間柄で、でも彼は快斗を『恋人』と正しく認識しているのだと。
「僕は新しい人が決まるまでの繋ぎですから、そう長くはならないと思いますよ」
「繋ぎでって最初から頼まれたんだ?」
 こづかい稼ぎでもなくて、社会勉強でもなくて、女の子目当てでもない白馬がバイトをするとしたら、残りは探偵としての潜入捜査か、知り合いに頼まれたかだろうと言うのが快斗の読みだった。
「頼まれたとかではなくてむしろ押しかけた、と言う方が正確な気がします。料理長経由で人を探していると聞いたので。その時に断られかけたんですけど……なんと言うか、少し特殊なお店でしょう」
 苦笑がちな白馬に、確かに、と同意の頷きを返す。
 コーヒーの専門店というだけでなく、明らかにお客を選ぶような雰囲気があるから、確かにアルバイトにしても誰でもと言う訳にはいかないだろう。客を選ぶのと同時に、あの店だけに店員も選ばねばならないのも分かる。
「面接の前に電話で断られました。高校生ではちょっと、とね」
「……ああ、ありがちだよな」
 クラスの秘密裏にアルバイトに励んでいる連中からそういった話はよく聞いている。募集要項に書いていない事項で面接にも辿り着けないのは珍しくもないと言う。
 だが、白馬はそうではなくて、と続ける。
「そもそも募集してたのはアルバイトではなくフルタイムで入れる社員候補だったらしいんです。でも僕は初めて行って以来あの店のファンでしたので、諦めきれなくて」
 挙げ句、せっかく使って頂いても迷惑のかけ倒しでしたが、としょんぼりする白馬は、英国帰りの探偵でも大人びた顔を見せる御曹司でもなく、どこにでもいる高校生の顔をしている。
 試験に騒いだり、恋に盛り上がったり、バイトで落ち込んだりする、極普通の高校生のような。
「でも雇って貰えたんだから良かったじゃん」
「ずるをしました」
 頼りない小さな児童公園の街灯にぼんやりと照らされた、後ろめたそうな表情。
「必ず料理長の耳に入れるだろうな、と言う相手を選んで嘆いて見せたんです。……ね、ずるいでしょう?」
 まるで酷いごり押しでもしたかのように後悔を絵に描いたような顔をするものだから、親の立場を振りかざしてキッドの現場に捩じ込んで来た人物と、同じ人物とはとても思えない。
 生真面目で、馬鹿真面目で、……コネなんて幾らでも使える立場なのに、そんな小さな『ずる』で後悔の海に沈んでしまいそうな頼りない顔をするだなんて、よっぽどずるい。
「僕の思惑通り、事情を聞いたうちの料理長が口添えをしてくれたんです」
「……後悔してる?」
 そっと問うた。視線がかち合って、そして白馬が俯くのと同時に静けさの中を漂うように、ささやきが落ちる。
「してます。虎の威を借る狐のような真似はもうすまいと思っていたのに」
「料理長さんは、マスターさんにそんなに影響力があるんだ?」
「……料理長が兄弟子にあたりますし、仲も良いと思います」
「でもオマエが料理長さんに何とかしてくれと言った訳じゃないだろ」
「彼の立場なら同じ事です。彼は白馬家の使用人で、僕は白馬家の『坊ちゃん』ですよ」
 そうじゃなくて、と言い募ろうとした言葉を飲み込む。
 彼は頑な目をしていた。
 そんな程度はずるじゃない、そう言っても聞き入れはしないだろうと分かってしまう。
 そして快斗の視線から逃れようというのか、公園の入口へと白馬は視線を流した。その通りの先にある、ここからは見えないお店へと思いを馳せるように。
 その瞬間に快斗は腕時計を外した。マジシャンでもある快斗にかかれば腕時計を外してこっそりポケットに忍び込ませるくらい、瞬き一つの間もかからない。
 これで買収された三十分を超えつつある時間を示す腕時計は、彼の視界から消えた。
 白馬愛用の懐中時計の登場やケータイ電話がいらぬ自己主張しない限り、まだしばらくは現状が維持出来る。
 早く帰してやらなければとの思いから、快斗は目を逸らせた。それよりもこのまま帰す訳には行かないという、脈絡のないそれでも使命じみた思いが快斗をつき動かしている。
 幸いにも快斗のそんな些細な動きに白馬は気づかなかったようだ。
 ただ、外れたっきりの視線と同時に意識までが逸れたのが分かって、快斗は右手を振りかぶる。
 投げそびれていた紙玉を、えいっと投げつけた。
 ぽこり。
 丸められた小さな紙袋だったものは、白馬のお腹あたりに当たって、若干慌てた様子のその手に拾い上げられる。
 たったそれだけで、しかし快斗の思惑通り、白馬の視線も意識もしっかりと引き戻されていた。むしろ、こっち向け、とばかりに投げたのが分かるからか、彼はその眼から重い陰りを消してそっと眩しいものでも眺める時のようにその琥珀の瞳を細めた。
 微笑には至らないものの、頑なだった表情は幾分柔らかさを取り戻している。
「投げ出すなよ」
 唐突に切り出すと、白馬が軽く目を見張った。
「悔いてもさ、投げて急に辞めたりすんじゃねーよ?」
「……黒羽くん、……」
 その考えは一度は頭を過ぎりはしたのだろうか。彼の唇は快斗の名を紡ぐだけで、瞳はしきりと瞬きはするもののその唇から続く言葉は出て来ない。だが、その瞳は変わらず快斗を食い入るように見つめ続けた。
「そりゃーオマエが言うように確かにずるだったかもしんないけど、でもオマエが使いもんになるよーにマスターさんは仕込んでくれたんだろ?」
「……ええ」
「だったら。ちゃんとした人が見つかるまでの『繋ぎ』でも、オマエが辞めたらマスターさんはまた誰か探して時間かけて教えなきゃならないんだぜ。『繋ぎ』ならちゃんと『繋げ』てナンボじゃねーの」
 自分の事でもないのに、何をムキになっているのだろうと自分でも思う。
 自分の事ではなく、白馬の事だからこそ、ムキになっているのだろうか?
 あのアンティーク調な喫茶店で他人にばかり笑いかける今日まで知らない横顔を見たくないと思ったのも確かなのに、どこかであの緩やかな空気の店に相応しい空気感で働いていた彼に同じくらい心惹かれていた。
「…………」
「雇って貰ったきっかけはオマエが言うずるだったのかもしれないけど、どうせなら『高校出たらうちにおいで』くらい言われるようになっちゃえよ」
「……、本当に、」
 俯いて、彼は一度大きな溜め息を吐き出す。掠れた呟きが、吐息に混じるように『君ときたら』と紡がれたが、不意に顔を上げた白馬からは何かが払拭された清々しさだけが見て取れた。
 ふわり、馴染みの微笑みが向けられる。
「君にかかれば僕のちっぽけな悩みなんて、あっという間に飛んでっちゃいますね」
「飛ぶのも飛ばすのも得意だからな」
 飛ぶなら誰にも負けない自負がある。
「それにさ、飛んでった時に悩みのちっぽけさなんて分かるもんなんだよ」
 自分で言っておきながら『哲学っぽい、すっげーオレ!』とカバの上で自画自賛で笑う快斗を、白馬はしみじみと眺める。その表情には、辞めるのではないか、という危惧は既に見えない。
「なん、だよ?」
「いえ、ただ本当に……」
 語尾がふわりと消えていく。意味不明、と小首を傾げるとそれ以上の言葉もなく、彼は笑った。
 微笑む、と言う柔らかい表情ではなく、少し意地の悪い言動に繋がる事が多い、要注意な笑みだ。向けられる割合は変動中だが、彼『らしい』や『らしくない』で言うなら柔らかい微笑みも要注意な笑みも、どちらも果てしなく彼『らしい』笑みでもある。
 勿論、意地の悪い、と言っても白馬のそれは恋人同士のはんちゅうから大きく逸脱はしないので、快斗にとっては要注意ではあっても警戒よりも期待が大きい。その笑みは、意地の悪い真似をする時の何かを企んでいる時の笑みでもあり、それが発揮されるのが主に深夜の特定の場所でであったりするからだ。
 黙したまま見返す快斗を白馬の視線が刷毛でなぞるように丁寧に這う。呼応するように、快斗も自然と白馬へと向かう視線の色が変わった。
 時折前髪に隠れる淡い紅茶色の瞳は柔らかい色を浮かべ、また、時に穏やかなだけでない色も見せる。
 すっきりした頬骨のラインと、彫像のような理想的な鼻筋。
 触れ合わせると案外弾力のある唇と、どれだけ暑い時でも涼しげに伸びる首筋。開襟のシャツから覗く鎖骨はその下へ下へと記憶を誘う。
 言葉は瞬間的に意味を成さなくなった。
 指の一本も触れてさえいないのに、自然と思い出したように吐き出した吐息には熱がこもった。
 焦らし、指で辿るみたいな視線に、時間も場所も完全に脳裏から消える。
 知らず伸ばした手を取って、白馬が低く呻くように呟いた。
「君ねぇ、……なんて表情、するんですか」
 吐息だけでなく交わすまなざしにも、隠しようもない同じ熱がある。
「オマエこそ、エロい表情しやがって」
「誰のせいだと、」
「オレのせい? ……だったら嬉しいかも」
 率直に吐露した本音に、白馬は咄嗟に口を噤むと、視線をふらふらと泳がせた末にやや目を眇めた。
 その僅かな仕草だけでも充分に有力な手掛かりだが、どこか頼りない街灯の灯りにも彼の肌の白さ故にほんのりと目許を染める朱が見て取れて、そうした所にも彼が隠そうとしているのであろう照れが透けて見える。
「本当に君は、つくづく……」
 伸ばした手を取った、その手をただ捕らえられているだけでなく、確かな意思を持って繋ぎ直す。絡めた指と指そして隙間なく重なるてのひらは、シーツの海を漂う夜の記憶を呼び覚ました。同じ熱さ。
「つくづく?」
 声には出さない笑みで促し微笑む快斗に反して、白馬は微妙に苦笑がちな面持ちである。
「つくづく、読めません」
 負けを認めるみたいな、以前の白馬ならそう簡単には口にしなかったであろう台詞だ。けれど苦笑混じりとはいえ、そう告げる白馬は決して不本意そうな渋面ではなくくすぐったそうな甘い表情で、繋ぎ直された左手をちらりと一瞥した。
「不思議ですね。むしろあまり君をよく知らなかった頃の方が君の言動は予測し易かった」
 ああ言えば、こう言い返す。
 こう言う態度をとれば、こんな風に返される。
 白馬探ならこう言う。
 黒羽快斗ならこうする。
 そして探偵なら、怪盗ならば。
 快斗にとってそれは自身を演じているようなものだった。
 あまり友好的とは言い難いクラスメイトで、場所が変わっても対立する立場の関係性は変わらなかったから、互いの対応一つとった所で選択肢も限られている。多面を隠してその一面、もしくは二面だけを見せる事によって関係は維持されていた。
 そんな状態だったから、ある意味過去の快斗は読み易くて当たり前かもしれない。
「でも僕は君の一面だけに触れて分かったつもりになっていただけだったようです。今日だけで何度君には驚かされたか」
「別に、驚かそうなんて、」
「思いもしなかった、と言えますか?」
 語尾をさらうように疑問系に持っていかれて、なくはないかと微苦笑に落ち着く。
「狙ったのはお店に顔出した時だけだってば」
 彼のバイト先に顔を出したのは間違いなく驚かせてやろうと思っての仕業だが、身に覚えがあるのはその一件だけだ。
 他は白馬が勝手に驚いたり虚を衝かれたりしたかもしれないが、快斗が驚かせてやろうと意図してやったものはない。
「それも驚きましたけど、君が神出鬼没なのは今に始まった事じゃないですから、いいんです、それは。むしろ先刻手を引いて貰った方が驚きました」
 自然と快斗の意識も白馬の視線も互いに繋ぎ合わせた手へと向かう。
「君とああして手を繋いで歩くなんて、想像もしませんでしたから。君はそうして笑いますけど、ドキドキしてたんですよ」
 今も絡めたままの指を口許に寄せて、指先に、そして手の甲へと贈られたのは、啄むような軽いキス。
「オレも心臓バクバクしてましたよーだ」
 別段、平然としていた訳ではないのだ。
「けどさ、手ェ繋ぎたいなぁって思った時に繋げる幸せは味わっておいてもいいんじゃないの」
 距離を持って接していた頃にはそんな真似は間違っても出来なかったし、気持ちは通じても天の邪鬼が基本装備で素直になれなかった頃の快斗には、ただ手を繋ぐという幼稚園児にも容易い行為が果てしなく困難を極めた。
 一般的に考えてても同性の恋人だけに、手を繋ぐには相当時と場合を選ばなくてはならない。
 そもそもその相手が白馬なのだ。『好き』だとも『愛している』とも口にしない思い人なのである。
「ああ、でも、前のオマエ相手なら出来なかったかもしんないな」
 はっきりと快斗に好意を示してくれる今の白馬が相手だから、手を繋ぎたい、と思うのだ。ただ反発しながら惹かれあっていただけの前の自分と、まっすぐなだけに頑なで快斗に惹かれつつも裏側を読む事が常となっていた白馬のままなら、平行線は交わらず、手を取ろうなどとは思わなかっただろう。
 変わったのはどちらが先か。
 それは所詮、鶏が先か卵が先かの論争でしかなく、共に気持ちも距離も、態度も関係性も、変わった今だからこそ彼に素直に手を伸べれた。
「微妙な顔されたら嫌だし、なんか……照れくさいってのもあったし」
 手を繋ぐ、を筆頭に、白馬を前にすると素直になれなかったり羞恥心に負けたりして出来なかったり伝え損ねた言葉が沢山ある。
「いえ、……分かる気がします。僕はかなり君に態度が悪かったですよね」
 自己嫌悪を顔一杯に広げて白馬が顔をしかめる。
「そりゃもう、人のコトをキッドだって決めつけて嫌味言うしつけ回すしアリバイアリバイってうるせーし、事ある毎に疑いの眼で見やがって面倒臭い奴だなぁって思ったよ」
 言葉を重ねる度に俯いて悄然としていく白馬に、快斗はギュッと繋いでいた手に思いを込める。
「けど、案外そーゆー緊張感とか、駆け引きとか、キッドだけ特別に追いかけて来んのとかが、気持ち良くなっちゃって」
 普段は取り澄ましている彼の、なりふり構わない執着が、快くなった。
 なくては物足りないと思える程に。
「そうやって見てたらさ。そつないと思ってたオマエが妙に要領悪くて、アレって思って。オレのあら探ししかしないと思ってたのに、思ってたよりずっとふつーに嫌味交えずにも話せるし、そしたら案外話し易くて、アレレ、って」
 思い込んでいた姿から彼が逸脱し始めた頃から、快斗の目線も多分変わり始めたのだ。
「足捻った時も保健室までつき添うなんて言い出すから、また何か探るつもりかと身構えてたのに、先生に引き渡したらさっさと保健室出てくし、肩透かし食らったと思ったら今度は廊下で待ってて送るとか言い出すし」
 翻弄された。感じたギャップに興味を持った。そして同時に白馬にハマったのはこの頃からだったのかもしれない。
「すいません、あの、……君にうっとうしがられるだろうとは分かってたんですけど、……あの時は、とにかく心配で」
「うん。分かってる」
 微笑む快斗をおずおずと白馬が伺う。
「オマエのせいでも何でもないのに、あんな真っ正面から心配されてさ、親切にされたり気遣われたりとか。どんな顔すりゃいーんだか分からなくてあの時は逃げてただけ……ええっと、今更だけど、ゴメン」
 ちろり、と上目遣いの謝罪に、白馬が慌てて首を振る。言葉にはならなかったのか、妙に必死な振り方が可愛くて、快斗はまた少しだけ笑う。
 白馬を可愛いだなんて思うようになったのも、出会った当初から思えば衝撃的な変化だ。
 精一杯言葉を並べて見せても、深い想いを取り出して伝えるのはとても困難だ。
 快斗は言葉を操るのが不得手なのではなく、つい顔を出す天の邪鬼な性格が何より問題で。その上、言葉をすっ飛ばして行動で伝えようとしてしまいがちだ。
 その結果が互いに『好き』だとも『愛してる』とも言わないで成立した、どこか曖昧さを伴う恋人関係なのかもしれない。
 それでも確かな思いは受け取っていたから、不安はなくこのままでも良い気もしていた。けれど、やはり想いを言葉でも欲しいと思うなら、快斗自身も言葉を惜しんでいては駄目なのだ。天の邪鬼でも、ぎこちなくとも。
「でも、今のオマエが相手だから、」
 ほんの少しの距離でも良かった。
「平気」
 誰もいない夜の公園だから、思い切るのにもいつもより気持ちの垣根が低くて。
「って言うのも変か。悪ィ上手く言えないけど……オマエなら笑うと思った」
 悪い意味で『嗤う』のではなく、きっと幸せそうにちょっと照れくさそうに微笑んでくれるだろうと信じられた。握った手は握り返されるものと疑いもなく。だから、ためらわず彼の手を取った。
「僕は、少しは変われていますか……?」
 眩しそうなまなざしを向けられて、快斗は笑顔で頷きを返す。
「多分、オマエが思うより、ずっと」
「なら、君のお陰です」
 頬や髪に触れていた手が差し出される。その意を汲んで快斗もカバから腰を上げ改めて白馬へと向き直った。正面に向き直った彼とまっすぐに重なり合わない視線は、未だ6センチの身長差に因る。
 繋いでいた手はそのままに。
 白馬のもう片方の手が再度差し出される。とん、とそのてのひらに指を遊ばせてから、同じようにてのひらを合わせ指を絡めた。
 不思議と伝わるものがある。
 示し合わせたように快斗が僅かに踵を浮かせ、白馬が微かに身を屈める。それだけで触れ合える唇に、そっと寄せた唇が離れると自然と笑みを交わした。
「……君が語ってくれるように、率直に言葉を伝える術が僕にもあれば……」
「あると思うよ」
 至近距離で見交わした瞳に、白馬の戸惑いがうつる。
「なんたってこのオレにでもひっくり返したら出て来たんだからさ。嫉妬した、なんてオマエ相手でなきゃ冗談でだって言わない」
 先刻の会話を自ら引き合いに出しておきながら、じわり、と顔に熱が上がるのを感じる。
「君のその思い切りの良さや潔さを、とても尊敬しています」
 好き、ではなくても心をくすぐる優しい言葉に、もっと聞かせて、とてのひらに込めた力と、まなざしでねだる。
 受けた白馬が視線を泳がせる。その迷いだとて快斗にも覚えのあるものだ。しばしの沈黙を経て、白馬は口を開いた。
「……先刻、」
 ためらいがちに紡がれる、言葉。
「僕が君に目を閉じて、口を開けてとお願いした時、正直笑い飛ばされるかなと思いました」
 心地良い強さで『離さない』と告げている、快斗の右手にぴたりと添う、彼の左手。白馬の右手と添うた快斗の左手。ほっとする温かさに何度でも目を閉じたくなる。
「けれど君はためらいもせず僕の言葉を受け入れてくれましたよね。あれは嬉しいのを通り越して胸が痛くなりました」
 ゆっくり瞬く先、白馬の独特の柔らかな気配に微量の張り詰めた堅さが混ざる。……緊張、だろうか。
「あれ程に、無防備でオープンになってくれるのだと、衝撃が過ぎると愛しさで目眩がしました」
 快斗は声もなく白馬を見返す。『いとしさ』で、と彼は言った。
 『好き』だとも『愛している』とも言葉にしない白馬の発した、『尊敬する』よりも極めて『愛』に近い言葉だ。それだけに快斗もくらくらする。
「同時にとても怖い事だと気づきました。君は僕を信じてくれて無防備になってくれる、それは僕が間違えば君をとても傷つける、という事でしょう?」
 彼の表情に潜む堅さがじわじわと浮き彫りになる。そこにあったのは緊張ではなかった。
 怖い、と彼が口にした通りに、怯えだ。それは快斗を傷つけてしまうかもしれない、という仮定法の上に成り立つ恐怖だ。
「確かに、多分オレは他の誰よりオマエに傷つけられるのが、一番ダメージくらうだろーな」
 信頼しているから。
 好きだから。
 だからこそ、その分きっと深く傷つきもするのだろう。
 『好き』だとも『愛してる』とも言わない快斗なりの精一杯の応えを、白馬は頷きで受け止める。
「でもそれが分かってるオマエが、わざとオレを傷つけたりしないって知ってるから」
 わざとでなければそれは人間関係だ、誤解だって行き違いだってある。傷つける事もあれば傷つけられる事だってあるだろう。
 しかし。
「オレはちっとも怖くない」
 白馬なんか怖くない。
 傷つけられるかもしれない事だって、怖くない。
 だから言えば良い、と笑顔で唆す。言いたい事、伝えたい言葉、想いがあるのなら、と。
 笑う快斗に、白馬の表情が泣きそうな微笑みにと崩れる。
「本当に……君は僕が思う君の、上ばかりをいく」
 こつり、と、熱を計る時のように正面から額を合わせて、白馬が目を眇めた。呟きは、少なからず苦み混じりではあるものの、どの発言か態度かに起因するものか不明ながら、快斗に対する驚嘆の色も確かにある。
「どうしてでしょうね。もうこれ以上なんてないと思うのに、何度だって、その時以上に、」
 不意に、語尾が途切れた。
 オルゴールの最後の一音が鳴り終わった時のように。
 線香花火のちりちりと針金のような灯りが最後のまあるい熱の玉となって、落ちる一瞬のように。
 ソーダ水の最後の一滴のように。
 幸せな気分が唐突に終わりを告げる一瞬は、いつも、より大きな幸せへと続くのかもという期待と、糸が切れるよう幸せが断ち切られるかもしれないという不安だ。
 それは、同じくらいの強さで喉元にまで競り上がって来ては快斗の鼓動を騒がせた。
 聞かせて、と小さく呟く。
 祈るように見上げた瞳が、同じ熱にけぶっていた。
「僕は君を……、」

『好きになる』

 耳へと直接吹き込まれるささやきは、パチパチと弾けるソーダ水のように、甘さとくすぐったさを伴って鼓膜を震わす。
 『好き』だとも『愛している』とも言わなかった男が注いだ一滴の甘露は、耳から全身へと瞬く間に広がった。
「好きです」
 一度口に出した事で堰が切れたか、口に出す事によって確かめているのか。
 繰り返されたささやきは、心を震わせ、継いで全身を震わせた。
 言葉がなくとも愛されているのは知っていた。けれどそこに言葉という形を取って流れ込んでくる想いが加わると、二倍にも三倍にも甘さは染み渡る。
 うん、と快斗は頷いた。
「オレも」
 『好き』だとも『愛してる』とも言わなかった快斗も、直接その耳へとささやきかける。
「大好き」
 ころん、といびつで小さな紙の玉が足元を転げた。
 さらけだせなかった気持ちの片鱗を乗せて行き交った、役目を終えた小さな紙玉を、白馬が拾い上げた。
 長い、長い、キスの後で。



・END・

◆『ソーダ水のささやき』◆白×快◆


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