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「はーくばっ♪」
 ぐわしっ、と、声と共に二本の腕が白馬の背後から、唐突ににょっきりと現われた。だけでなく、あろう事かそれらは非常に端迷惑な行動に出たのである。
 午後からの授業に必要な教科書に辞書、そしてノートを整えていた動きの邪魔をわざとしているように、肩口から回された腕が傍若無人に伸びて、邪険にされた哀れな教科書類が白馬の手から机上へとばさばさと散らされる。
 その内の不幸な何冊かは、そのまま床まで滑り落ちた。
「ちょっ、一体何事ですか!」
 慌てて尚も机から滑り落ちそうになっているノートに手を伸ばそうとしたが、肩口からぎゅっと巻き付いた腕が、あっけなくそれを阻んだ。
 背後から回された腕には当然その先に腕の持ち主がいて、彼はやたら上機嫌でケラケラと笑うと遠慮会釈なく白馬の背中に体重をかけている。
 たとえ声をかけられていなかったとしても、彼の他に白馬を相手にこのような悪ふざけを仕掛けて来る者などどこにもいないのも確かだったから、顔を確かめようともせずに白馬はためらいなくその名を口にのぼらせた。
「重たいですよ、黒羽くん!」
 離して下さい。
 そう苦情を訴えがてら辛うじて自由になった首だけで振り向くと、肩口に頬を預けた快斗の瞳と思いがけず至近距離でかち合って、ぎょっ、と続く言葉を飲み込んだ。
 目を輝かせたその顔は珍しくも全開の笑顔で、猫ならば目を細め喉を鳴らさんばかりの雰囲気で、……極めつきに快斗は、なんだとう、と舌ったらずに応えた。
 ……何だこれは?
「オレがだきついてやってんだぞー! よろこべ、はくばあ!」
 喜べと言われても、と言うか、頼んでいません、と言うべきか。困惑する白馬を余所に、黒羽快斗である筈の人物は、ご機嫌にケラケラと笑っている。
 黒羽快斗は客観的に見て基本的に、明るく気さくでよく笑い、陽気で率直で楽しい事が好きで、人を驚かせるのも楽しませるのも大好きだ。
 ……たまに調子に乗り過ぎるのと悪ふざけが過ぎるのは多少困った点だがそこに悪意はないようで、クラス内での彼はトラブルメーカーであるのを差っ引いてもそれ以上に良い意味でのムードメーカーである。
 ただ、その明るさは白馬の背にのしかかって発揮されるようなものではなかった、本来は。
「黒羽くん、君……、」
 まつげまではっきり視認出来るその距離に、白馬は軽く眉をひそめた。
 顔色は、取り立てて変わらない。
 鼻先をくすぐる呼気にも不審な点はない。
 背中越しに感じる体温は比較となる普段の体温を知らないので判断材料にはならず。
 ただ、ひたすらにハイテンションなのと白馬に対する態度が、あからさまにおかしい。
「もしかして……」
 決定的な一言を告げる、間際。
「いた! バ快斗ぉっ!」
 ピシャンと扉をスライドさせて登場した中森青子の雄叫びが、教室中に響き渡った。エプロンに三角布姿の彼女に、思わず白馬は腕から逃れようと身じろいでいた事も忘れぽかんと見遣る。
「もう、いきなり走って行くから心配したんだからねっ」
 ぷりぷりと快斗へと詰め寄る彼女からいつもは逃げながらからかい合戦に突入する筈が、何としたか今日の快斗はぴったりと白馬へと張り付く。
「うっせーよアホ子。じゃまだっつーの」
「何よ! 大体快斗こそ何やってんの、白馬くんの邪魔して!」
「オレはいーの! コイツのうごきをハバむのがオレサマのすーこーなるシメイなのだ〜」
「何それ、訳わかんないっ」
「ほおーらだからアホ子なんだよーだ、アホ子アホ子アホ子〜」
「バ快斗バ快斗バ快斗っ!」
 益々白馬の首にかじりついて、あっかんべーと舌を出す快斗といきり立つ青子の間にようやく白馬は声を滑り込ませた。
「あの、青子くん? これは一体……」
 話にならない快斗を張り付かせたまま尋ねた白馬に、青子は一つため息を落とした。そして、声もやや落とす。
「あのね、私たち調理実習でカップケーキ作ってたんだけど、そこに快斗が来てね」
 週に一回ある選択教科で調理実習が含まれる家政は、音楽、美術、技術工芸などの中で一際女子率が高い。
 その一人に中森青子は名を連ねている。
 そして白馬と快斗は同じ技術工芸をとっているが、……勿論、偶然にも、である……白馬の不器用さを授業の度に散々からかった後、彼はとっとと姿を眩ませていた。
 ここ三週に渡り白馬が挑んでいる木工細工の失敗だらけで遅々とした歩みは快斗には恰好のからかいのネタであるらしく、毎度授業の半分は白馬を槍玉に挙げるのに費している。
 その合間に自分の作品をサクッと進めては飽きてしまうのか二時間授業も後半に差し掛かる頃には彼は大抵どこかへといつの間にやら姿を消してしまっていた。
 授業が始まればある程度の指示だけ出して担当教師は放任するので、無法地帯となった教室から抜け出すのは難しくない。
 現に今日は少し早めに白馬も抜け出して来たが、ばれてはいないだろう。
 一足先に脱走した快斗は教室で足りない睡眠を補ってでもいるかと思ったのに、予想は外れその姿は見えなかった。
 ならばどこかで何かしでかしているのではとの危惧を抱いていたら、案の定それは杞憂には済まなかった訳である。こうして彼女が飛んで来たからには。
 嫌な予感は大抵外れず、それでもこうして快斗に首にかじりつかれている限り、無関係であっても無関係な顔が出来ないのも白馬の白馬たる所以である。
 そして快斗はといえば、くだらないものからとんでもないいたずらまで、嬉々として実行してしまう。その巻き添えを食うのも、騒ぎの余波を白馬が被るのも初めてでもなかった。
「もしかして、せっかくのケーキを勝手に食べてしまったとか、駄目にしてしまったとかですか……?」
 恐る恐るの問いに、青子は苦笑いで首を横に振る。
「そこまでじゃないんだけど、……カップケーキに使う干しぶどうをふやかす為のラム酒を、快斗ってば全部飲んじゃったのよ」
「……ああ、……どうりで」
 テンションは妙な上、語調はやや怪しく、いきなり白馬におんぶおばけ状態で離れないという奇行も、成程と納得である。
 顔色には出ていないし、呼気が酒くさい、とは感じないが、酔っ払っているといわれればそれなりに符合は合う。
 ふと気付いたらしい青子が、床に散乱している教科書を不思議そうに指さすのに頷くと、身動きの取れない白馬の様子に苦笑と共に拾い集めてくれる。
「すいません」
「はい、ここ置くね」
「ありがとうございます。ところで、その……彼、相当飲んだのですか」
 声をひそめた白馬の後ろで話題の主は「なんだよアホ子ー」「あっちいけー」「はくばはくばー、はらへったー!」などと小学生以下の騒々しさだ。
 だが、そのおかげでどうにか教室内にいる同様に授業の一部を自主的に短く繰り上げたらしき数人の生徒たちの耳には、届かずに済んでいるようである。
 ぶっちゃけて高校二年ともなればこのご時世、ビールや缶チューハイなどに手を出した事がない生徒は少ないだろう。
 かく言う白馬にしても親の立場も立場なだけにおおっぴらには出来ないが、嗜み程度にはと言いつつワインなどは実はかなりイケる口だと証明済みだ。
 だが流石に飲酒を教室で声高に言及する訳にもいかない。
 しかも校内での未成年の飲酒ともなれば良くて反省文、普通は停学か下手すれば退学騒ぎに成り兼ねない懸案だ。
 それを分っているであろう青子も「うるさいなぁ、もう!」と快斗にあっかんべーを返しながら、同様に白馬へと小声で返した。
「お菓子作り用の小さいラム酒の瓶をね、あっという間に三本全部空けちゃって急にゲラゲラ笑い出したの。それから、ふらふらあちこちぶつかりながら飛び出して行っちゃって。慌てて追いかけて来たんだけど……」
 呆れ顔で青子は快斗を眺めた。
 結果が何故だか白馬におんぶおばけである。思わず怒鳴りたくもなろうものだ。
「分かりました」
 白馬は決然と立ち上がった。肩に背にのしかかっていた快斗が振り落とされそうになって何やら文句をたれているが、ここは綺麗に黙殺に至る。
「彼には後できちんと謝罪させますが、とりあえず……このままの状態で次の授業を受けさせる訳にはいきません」
「謝罪だなんて……いいよ〜、そんなの」
 謝罪のくだりで青子は慌てて両手をパタパタと振る。
「快斗がでたらめなのなんていつもの事だもん」
 それより、と彼女は声をひそめる。
「保健室?」
 素朴な疑問に白馬は苦笑いだ。
「それはちょっと……」
 青くなって頭でも押さえていてくれれば体調不良で押し通せるかもしれないが、こうも調子っ外れにケタケタ笑っていては、流石に寛容な保険医だって目のつぶりようがない。
「屋上ででも頭を冷させますよ。ご心配なく」
「うん。ありがと白馬くん」
 青子と話しながらも、後ろからへばりついた快斗の腕を外させようとするが、彼は意地になったか益々離れまいとぎゅうぎゅうとしがみつく。
「苦しいですよ、黒羽くん。ほら、離れないならせめて少しは弛めて下さい」
「……くるしい? ……おこった、はくば?」
 聞き取れない程の小声で零された呟き。それは、今し方までの陽気にケラケラ笑っている人物と同一人物とは思えないような、頼りな気で密やかな声音だった。反則だ、と思うのに。
「……いいえ」
 やれやれ、とため息を落とす筈が思ったより柔らかくなった応えに、腕はぎゅっと抱きついてから僅かそっと緩む。
 思いがけず素直な腕を『よくできました』と軽く叩くと、更に背中にすり、と小動物にでも懐かれたような、気配。
 途端、青子がぷぷっと吹き出す。
「なんか白馬くん、そうしてると快斗のお父さんみたいだね」
「……は?」
 思いがけない一言に咄嗟にろくな言葉の出ない白馬に、
「っていうか、お母さんみたい!」
 と、青子は朗らかに言い切る。
 そこで時計に目をやり青子は『いけない!』と小さく叫んだ。
「いい加減戻らなきゃ恵子に怒られちゃう」
 じゃあよろしく〜、と邪気なく白馬を打ちのめして彼女は手を振ってエプロンを翻し、颯爽と踵を返したのだった。
「……お母さん……ですか……」
 条件反射的に振り返した手もそのままに半ば呆然と見送った白馬は、気づけば背中で鼻歌混じりの快斗と残されている。
 大抵において呑気で大雑把で、傍迷惑で破天荒で型破りな彼にかけられた迷惑の数なんて、最早枚挙の暇もない。
 なのにどうしてだかこんな事態に陥ったとしても、文句の一つも言うだけでこの腕を投げ出す事はないのだ。それは押し切る彼が得な性分だからか、押し切られる自分が損な性分なのか。
 ともあれ、どうにかこうにか気力をかき集めて、快斗を肩に引きずったまま白馬は廊下へと踏み出す。そこへ。やはり脱走して来たらしきクラスメイトから声がかかった。
「黒羽、白馬ー? おまえら何やってんだ?」
 通り過ぎ様の級友の呑気な声。それに、背で嬉々として快斗は応えた。……それはもう、明瞭な声音で、楽しそうに。
「いやがらせー♪」
 ……脱力の極みにしゃがみ込みたくなった白馬を誰が責めれただろうか。

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