はるよい  〜KEEP OUT後日談〜 1




 タイミングが合う時というのは大抵そんなもので、その日も哀が阿笠に運転を依頼し連れ立って玄関先まで軽い足音を響かせてやって来た所で、それは起こった。
 見計らったように鳴ったドアチャイムに、二人は顔を見合わせる。
 履くつもりだった白地にピンクの某有名スポーツメーカーのロゴの入ったスニーカーではなく普段使いのサンダルを引っ掛けて、覗き穴へと少し足りなめの背を目一杯伸ばそうとした途中でドア越しに「灰原、いるかー?」とよくよく見知った隣人の声が聞こえた。
「どうしたんじゃ、哀くん」
「工藤くんよ」
 背後に向かって短く言いさして、その手でチェーンを外し、重厚な扉を哀は押し開ける。だがそこにいたのは、東の名探偵一人ではなかったのである。
「こんにちわ〜、博士、哀ちゃん♪」
 にこにこと気の抜ける笑顔で手まで振って見せて挨拶をするのは、言わずと知れた素顔の怪盗KID。
 あくまでも本人の言を採用するならば、黒羽快斗。自称・マジシャンの卵である、らしい。
 あれだけ大掛かりに奇術を駆使した破壊活動……否、社会活動をしておいて今更卵も何もあったものでもないだろうと思えるのに、アレはアレ、ソレはソレ、と彼は言う。
 マジックの技術もショーの組み立ても突き詰めるにはどこまでも奥が深く、追い掛ける背は遥か遠く。『黒羽快斗』としてはまだまだ未熟と苦笑と共に主張する。
 そんな彼の右手には近所の某スーパーのロゴ入りの半透明のビニール袋が一つ。ぶら下がった袋からやたら立派な白ねぎがにょっきりと突き出ている。
「……なんやねーちゃんら、出掛けるトコやったん?」
 目ざとく哀の手元の財布に目を走らせたのは元・西の高校生探偵、服部平次。関西在住の高校生探偵だった頃から足しげくこの地へ通っていた彼も、春よりとうとう東の大学生探偵の一人になった。
 現在は東都大にそこそこ近いマンションで一人暮しを満喫している……と聞いているが、大学の当確が確定したその足で阿笠邸に引越しそばを持参し挨拶に来た姿勢を鑑みるにどこを住まいと認識しているのかおのずと伺える始末だ。
 今現在、頻繁に隣家に出入りしてはそのまま泊まり込んでいる姿を見るにつけ、彼は家賃の半分以上をどぶに捨てているのではないかという疑念が哀の中で日々確信へと変わりつつある。
 その上探偵二人は度々連れ立って阿笠宅を来訪するので……先日も平次は阿笠の新しい発明品の実験台となっていた……彼の姿は阿笠邸に置いてすら既に目新しいものではなくなっていた。
 今日はジーンズにフードつきのパーカーと相変わらずの軽装で、見慣れない点として挙げるならば両手にスーパーのビニール袋を下げている事くらいか。
 そうしてその二人に挟まれるようにしてげんなりとした表情を浮かべた工藤新一が「よう」と力ない挨拶を呟いた。
 工藤新一と服部平次。
 もしくは工藤新一と黒羽快斗。
 そんなツーショットなら今更哀も驚きはしない。今更だ。
 しかし今までには有り得なかったスリーショットに、冷静沈着が売りの小さな学者も即座には返事を返せなかった。軽く一つ頷き返すのがせいぜいだ。
 けれど動じない人物もいる。
「今から買い物に出ようとしとったんじゃよ。それよりも君たちは揃って、どうかしたのかね?」
 その組み合わせの有り得なさに気付いていないのか、阿笠はいつものマイペースさで愛車のキーを顔の横でチャラチャラと振って見せる。
「買い物ってお夕飯の? だったらさ、スキヤキしない、スキヤキ! じゃーん、実は材料も買って来ちゃったー」
「ほんま、いきなりで悪いんやけど、こーゆーんは人数多い方が美味しいやん。しかも今日は卵のLがワンパック五十八円やってんで」
「ね! 安いでしょ。お一人様ワンパック限りだったから三人で買って来たんだよ、ほら。ワンパックはお土産。お裾分け〜」
 がさがさ、と。
 嬉々として怪盗がビニール袋の中の戦利品を家主と少女に披露した。白葱や卵のパックの下にはうどん玉や生椎茸、糸こんにゃくも顔を覗かせている。
「牛肉は三割引きやし玉葱はタイムサービスで一個十円てめっちゃ安かってん。ちなみにしゃぶしゃぶ風水炊きとかにも変更でけるけど……」
「こんなにあったかくなってからしゃぶしゃぶはないっしょ〜。絶ッ対、断然、スキヤキ! ねっ! 哀ちゃん、博士!」
「……ちゅー熱い意見もあんねん。すき焼きで、かまへんやろか」
 無邪気に浮かれる快斗とその快斗に押され気味な平次の様子に、阿笠は早々に相好を崩す。
「おお、それは美味しそうじゃのう。ワシもすき焼きは大好物だがなかなか二人ではなぁ」
「そら良かったわ。仰山買うて来たからガンガン食うてな」
「哀ちゃんは?」
 不意に会話を振られ、哀は一瞬瞳を瞬かせた。
 気付けば全ての視線は期待に満ち満ちたものと心配気なものとの二つで構成され一心に哀に注がれている。呆れるくらいの分かり易さに「いいんじゃないの」と応えれば、途端に上がる歓声。
「やったー。スキヤキ決定ーッ」
「ほな、上がらせて貰うでー」
「へへへ〜。おっ邪魔しまーす♪」
 家人そこのけの勢いでキッチンを目指す二人を筆頭にぞろぞろと一同は玄関を抜ける。
 その一番後ろ。
 賑やかな友人達を見送るような形で、最後に玄関に上がった新一が、友人達とは掛け離れたスローペースで哀と歩を揃えた。
「……灰原、その、もしかして怒ってるか……?」
 頭上から恐る恐る問われて、哀は口元に僅かに笑みを乗せる。
「あら、どうして。楽して美味しいものが食べられるのに怒る必要なんてどこにあるの」
 静寂を好む哀の性質を案じての台詞なのは分かるが、たまになら賑やかな夕食も、また一興だ。
 服部平次も、黒羽快斗も、あっけらかんと微笑まれると咄嗟の反応に困りはするが決して彼らを嫌ってはいない。……こうして心配気に視線を寄越す工藤新一は無論の事。
 阿笠はそもそも子供好きで面倒見は良いし、迷惑がるどころかむしろ賑やかなのを好む質だ。今も楽し気にキッチンで騒いでいる若者達と嬉しそうに牛肉の栄養と産地の何たるかをワイワイ語っている。
「ならいいんだけどよー。あいつら思い立ったら即実行、だから」
「そのようね」
 苦笑が漏れる。
 何となく彼のこの場に至るまでの朝からの翻弄され具合が、現在の憔悴した顔つきからも想像が出来た。着くまで相当引っ張り回されあのテンションにあてられていたのだろう。
 見送った二人の背は哀の小さな友人達三人分にも負けない見事なまでのはしゃぎっぷりである。
 はてさて、どうなることやら、と思った矢先に、二人が追いついたキッチンでは一部に既に混乱の兆しがほの見えていた。
「あのさ〜博士。スキヤキ鍋どこ? それから卓上コンロと、小鉢と」
「……はて、すき焼き鍋は……、どこかそこらにあったような……」
 快斗と阿笠が右往左往してあちこちの棚をひっくり返している。
 阿笠博士は紛れもなく阿笠宅の世帯主で類い稀なる発明家ではあったが、長かった一人暮らしでも炊事という才能は開花せず、生憎と努力と経験で培われる事もなかった。
 よってキッチン内の采配は現状、哀に任せっきりになっている。その保護者に救いを求められて、哀は心当たりを指さした。
「卓上コンロはその上の棚よ。すき焼き鍋は、確か……そっちじゃないかしら」
 小さな指先の指し示めす先に大の大人が神妙な顔付きでぱたぱたと従う。哀は不慣れな足取りを微笑ましく眺めた。
 反面、平次の動きはやたらとスムーズだった。
 勝手の分からないキッチンなのは快斗と同条件の筈だが、そうは見えない。
 あくまでも動作は淀みなく、泰然と。流しの下の戸棚を二、三開け、まな板に包丁、ザルと次々に見つけ出しては手早く作業を始める。買い込んで来た袋から材料を取り出しては水洗いし、鼻唄交じりにそれぞれを適切なサイズへとざくざくと切り出している。
 一通り器具の場所を指示し終えた哀はそんな平次の様子を見るともなしに見ていた。
 刃物を扱う手つきはとてもこの春一人暮らしを始めたばかりとは思えない手際の良さである。
「彼、いつでもあんな風なの」
 ふと隣へと問うと、同じくキッチンの入口で足を留めていた新一が小首を傾げる。
「あんなってなんだ?」
「……服部くん。包丁の扱いなんて、随分と手慣れたものに見えるけど」
「ああ。……そうだな、確かにあんな感じだぜ。つってもまともに料理とかしだしたのって、うちに出入りするようになってからだな。前はオレと同じでキューリ切ったら繋がってやがったんだけどさ」
「……そう」
 たいしたものね、貴方とは違って、と軽くからかって呟いて眺め、ふと閃いた。
「ところで、あの人達。エプロンをした方が良くはない?」
「…………そりゃそうだな、あるなら」
 何やら珍妙なエプロン姿の友人達でも想像したらしく、不意に新一の表情、特に口元が、微妙に笑いを堪えるようなひくつきを見せる。
 哀もにっこりと共犯者の微笑みを浮かべて足取り軽く踵を返した。
 流石に哀の今のサイズでは歩美と光彦くらいしか使用出来ないが、頂き物らしい通常サイズのエプロンを以前片付けをしていた目にした覚えがある。何とも謎の阿笠邸だ。
 哀が戻ると新一は心なしうきうきと友人達に声をかけた。
「おい服部ー、快斗! 灰原がエプロン貸してくれるって」
 新一の声に、手を止めた二人と、興味を抱いたらしい阿笠も寄って来る。
 周りを彼らにぐるりと囲まれた哀は、思いがけず高層ビル街にぽつりと残された平屋の住宅の気分をひしひしと味わった。
 阿笠の身長はそれ程でもないにしろ、コナンだった頃の後遺症かあまり代わり映えのしない新一であれ一般的高校生男子の平均値はクリアーしている。快斗は新一を僅かに上回り、似たり寄ったりだった筈の平次は更に縦へと伸びているようだ。
 にょきにょき育っている連中に囲まれると視界が悪いったらない。仕方のない事とはいえ何故だか、不利だ、と喧嘩を売る訳でもないのに思ってしまう哀である。
 そんな内心の複雑な思いを綺麗に隠して、快斗には白を、平次には水色のエプロンを哀は差し出した。
 ちなみに彼女の中では自分と阿笠と新一は労働要員の頭数に入っていない。
 阿笠は端っから戦力外だし、新一にトーストとコーヒー以上の料理を求める気はない。
「うっ、わー。ゴージャスフリル〜……」
興味津々で早速手を出した快斗だったが、びろん、と広げて気の抜けた感想を述べる。
 真っ白のエプロンは過剰なまでの優雅でたっぷりの純白のフリルと繊細さを誇るレースに縁取られている。一言で表すなら一昔前の新婚さんエプロンゴージャス版と言った感じだろうか。
 流石に瞬間呆けたものの、快斗は楽しそうに瞳を輝かせて瞬く間に微笑みを浮かべた。
 しゅるしゅるとエプロンを後ろ手に完璧なリボン結びで仕上げてくるりと回って見せる。その動きに少女趣味なレースとフリルがヒラヒラと翻った。
「へへへ、似合うー?」
ニコニコと微笑むその姿を平次は信じられないものでも見るように凝視し、新一は予想通りと呆れ顔で、阿笠は極単純にビックリ目で眺めた。
 総じて賞賛の声も同意の応えも返らなかったが、そんな些細な事柄に怪盗は一向に頓着しない。 ……哀の想像の遥か上を行き、ハートフルな泥棒さんはかなりご満悦らしい。
 コメントを避けた様子の平次も覚悟を決めたか恐る恐る受け取ってしまっていたもう一つのエプロンへと視線を落とす。
 そろ〜り、と。
 まるで危険物でも扱うような慎重で緊張した手つきで広げると、彼はピシリと強張った面持ちのまま動きを止めた。
広げる前、一見それは無害なありきたりの水色の極シンプルなエプロンに見えた。……だが選んで来たのは哀なのだ。小さな意趣返しは当然である。
 前たての部分には、今にも踊り出さんばかりの某有名テーマパークのメインキャラクターであるネズミが二匹、手と手を取り合いキスを交わしている。
 その姿がシルエットになっているのは多少なりとも救いだったが、二匹の周りに飛び散っているピンクのハートや懇切丁寧に尻尾で形取られたハートマークが輪をかけて目に痛い。
 常日頃実用主義を掲げ服装にはやや無頓着な傾向のある平次を持ってしても、流石に即座の着用を躊躇わせたほどだった。
「……ねーちゃん、コレてもしかして……、」
「あ、嘘、そっちも可愛いじゃん! 後でかえっこしよーか♪」
 もしかして嫌がらせかと尋ねようとしたらしい平次は、快斗の台詞にまたしても瞬間的に凍りつく。
「かかかか可愛ええやて……?」
「うん。可愛いよそれ♪ ねー、哀ちゃん。コレも激しく振り切れてる感じで可愛いけど、オレそっちも好きだな〜」
 言うに事欠いて『も』と来た。趣味の良し悪しは他所へ置くとしても、思ったより快斗は事態を楽しんでいるようである。
 だが、平均的一般人を自負する服部平次の眉はすっかり八の字に垂れていた。
「好き、て……、ちょお待ってんか。これもこれやけど、交換てゆーたらもしかして……俺にその『振り切れた』ビラビラ着ィ言うん……?」
「え。これダメ? 意外性が面白いと思ったんだけどな〜。お試しでちょっとだけ、してみない?」
「勘弁してぇな」
 ほとほと弱った、という語調と表情で平次はぼやいた。
「……ちゅーか似合う訳あらへんって。多分、野郎でそれ着こなせんの、ジブンくらいのもんや」
「わーい、褒められちゃった♪」
「褒めたのかしら、今の」
 哀の呟きはあっさり黙殺される。
「でもさ、オレに似合うって事は新一にも似合うって事じゃない? ……、ってちょっと新一?」
 会話を振られた日本警察の救世主は、友人達が各自見繕われたエプロンを宛てて見せた時点で既に声もなく笑いの発作に襲われていたのだった。
 前屈みにお腹を押さえ、プルプルと肩が震えている。
「くどー………」
 恨めし気にじと目で見られてようやっと笑いを収める事が出来る。
「いや、ほら、エプロンはエプロンじゃねーか。灰原の厚意だしよ、な」
「せやろか……どことなく厚意以外の何や知らん、感じるんやけど……」
「あら。何かって何かしら」
 やたらと低温で地を這いそうな抑揚の見られない哀の問いかけに、はたと現実に立ち返ったような顔で「なんもあらへんです」と平次は血相を変えて首を振る。……さりげなく少しばかり失礼だ。
 名残惜しそうに水色のエプロンに指をかけていた快斗も諦めたようで「じゃあコレ借りるね」とヒラヒラエプロンを翻し足取り軽くキッチンと名のつく戦場へと立ち戻った。
 これまた別の意味で諦め顔の平次も、エプロンを拒否するでもなく……本気で哀の厚意と納得した訳でもなかろうが、抗う程の余力もなかったのか……きゅっと後ろ手に蝶々結びでエプロンを装着しのろのろ快斗の後に続く。
 ふと思いさして哀はその後ろ姿を呼び止めた。
「手は足りているの」
 意外そうに振り返って哀を視野に納めると、平次はへろりと頬を綻ばせた。
「ああ……、いや、ええよ、押しかけたんコッチや。出来たら声かけるし、それまでのんびりしとって」
 微苦笑と共に新一をちらりと見やって「工藤の相手、頼むわ」とつけ加える。
「おまえに頼まれる謂れはねーよ。大体、子供じゃねーんだから別に相手なんかして貰わなくったって、」
「せやかてジブン、ほっとかれんの嫌いやん」
「だーかーら! ガキみたいに言うなって!」
 拗ねた語調はまさしくお子様だった。
 『言うた通りやろ?』とでも言うように僅か目を細めて哀に微笑む探偵の言い分は的を得ている。成る程、と手伝いよりも必要性に迫られた仕事を認識した哀である。
 キッチンに戻る二人の素人シェフと野次馬半分会話を楽しむ事にしたらしい発明家をキッチンの入口で見送って、そして。
 ふて腐れた探偵に、向こうの部屋でコーヒーでも飲む?、と、声をかけたのは至極自然な流れだった。結果としては、しきりと羨ましがる子供二人と保護者にねだられ結局五人分のコーヒーを淹れる事となったが、それもまた致し方ない成り行きである。
 豆から挽き丁寧にハンドドリップしたコーヒーをカップにつぎ分け、二人分のカップを手にリビングへと引き上げる。
 腕を奮うから楽しみに待っててね、だなんて無邪気に笑う怪盗の笑顔に送られて。
ヒラヒラと翻る白いフリルは怪盗の白装束より余程似合っているだなんて告げたら、快斗はどんな顔をするだろうか。彼の事だからそれはそれで喜びそうな気もする。
 そんな事を思いつつ哀は何時になく賑やかなキッチンを後にしたのだった。


     *    *    *


「それにしても、すっかり親しくなったようね、あの人達」
 淹れたてのコーヒーを手に、二人してリビングの一角に退避して早速一口つけてからおもむろに切り出す。
 一人は新一と並び称される元・西の高校生探偵で、また一人は世間を騒がす月下の貴公子・怪盗KID。
 それぞれが新一と懇意にしていたのは承知していたが、新一を介さない彼ら自身において友好関係おろか直接的な関わりすら希薄だった筈だ。
 少なくとも哀の知る限りでは。
 彼らに関する最新の記憶は、快斗の風邪の看病に平次が新一に呼び出された時のもので、その一段階前ならば怪盗KIDが服部平次を挑発したと聞いたあの時。
 時間は確かに過ぎてはいるけれど……。
「うまく転んだのじゃない」
 雁首並べて動く程度には付き合いがあるのだから。しかし新一は同意の方向へとは首を傾げず、微妙な角度で斜めに倒した。
「いや、それが……ああ見えてこれが結構、複雑でよ」
 心底困り果てた、という語調に哀は軽く視線を向ける事で先を促した。
 視線の意味を汲んだ新一が「つまり」と話を続ける。
「仲良くっていうか、実際気は合うようなんだけど……あいつらの場合相互理解がとんでもなく、なっちゃいないんだ」
「……まあそれは、誰しも多少は……、」
「いや、多少とかそれなりとかいう可愛い話じゃなくて、誤解と遠慮と思い込みっていう深く大きい川がある」
「誤解に……遠慮?」
 やたらと力説されても彼が何を言いたいのかは想像がつかず、哀は話の成り行きを内心面白がりつつ小首を傾げる。さらり、と耳元で揺れる髪を押さえて。
「ああ。快斗がさー、やたらと服部を気にしてるとは思ってたんだけど、どうやら本気で惚れたらしくって」
 話の流れが急カーブで鋭角に方向転換した。相互理解と遠慮の川の行方は分からないものの誤解と思い込みは存分に力を発揮したのかもしれない。
「……そう。……春だものね」
 束の間絶句して……他にコメントも見つけられず、とりあえず真顔で答えてみる哀である。
「見た感じは普通に仲の良いお友達同士に見えるけれど」
「実際そうらしい、今はまだ。快斗にした所で服部相手にすぐどうこうってつもりはないみてーで、ほら一応男同士だしとかさ、そこんとこ棚上げしてもあいつには……色々、あるから」
 一つ頷く。
 彼が本懐を達せずに夜の世界より姿を消すとは考えられず、また好意を抱いた相手に対して裏の顔を隠し続け騙し通せるものかどうなのか、それはそれで疑問だ。
 共同戦線と言う大義名分はあったものの、快斗が一度気に入り懐に招き入れた新一や哀達に向ける好意はあからさまな程で、彼が平次に同等の、あるいはそれを超える好意を抱いたとしたら同様に全てを曝け出す可能性もある。
 あるいは、新一の言葉通り新一や哀に向ける好意以上のものを抱いているのなら、真実は隠匿されるかもしれない。
 どちらにしても決めるのは快斗自身だ。
「それで服部は服部でどうやら快斗が気に入ったようなんだけど、見た限りじゃLOVEかLIKEか分からない。……付き合ってる女はいないみたいだし、今ン所目の色変えるような相手なんてKIDくらいだけど……それもなぁ」
「あら。それなら別に、いいじゃないの」
 相手が黒羽快斗と怪盗KIDなら合わせた所で一人だ。
 そして新一の友人の彼らがLOVEになってもLIKEな間柄であっても、新一にとって二人が友人であるのが変わらなければさしたる問題ではない。
 哀にはシンプルな理屈だ。
「それ、現時点じゃ表向きお友達の輪が広がっただけで、掘り下げた所で黒羽くんの恋が片思いか両思いかって話でしょう。……深くて大きい川はもうおしまい?」
 相互理解と遠慮がまだ残っていた筈だ、二人の間に横たわる大きい川として。
 すると、新一はおもむろに身を乗り出す。
「それそれ!」
 一応メンバーがキッチンに揃っている自覚はあるのか、二人はぼそぼそ囁き合っていたが、その一声は少しばかり大きく発せられる。
 だが、はっと我に返った新一は慌てて声量を落とした。
「いや、これから出て来るんだよ、その川が。まず、服部は快斗がオレを好きで、その上オレに振られたけど、快斗はまだオレを好きなんだって思ってる」
 重々しく紡がれた言葉に、唇をカップのふちにあてて、哀はしばし停止した。
「そう、なの?」
「まさか!」
「………そう。じゃあ服部くんが勝手に誤解を?」
「してやがるんだ。それも思いっきり」
 我が意を得たり、と新一が大きく首肯する。
「ただ服部が勝手に誤解したっていうよりは快斗がそう思わせる言動を取った節もあって、」
「何故、……わざわざそんな事したの」
 哀の素朴な疑問に新一は力無く首を振る。
「……あいつなりに色々思う所はあったみたいだけど。快斗って口から産まれたみたいによく喋る癖によくよく聞いてるとあんまり自分に関して突っ込んだ事は話さねぇから」
「……そう」
 つまり、真意は分からないと言う事か。哀は曖昧に頷く。
 生憎、黒羽快斗について新一に意見するも、はたまた彼の考えを否定するにも核となる判断材料が少な過ぎた。
 頭と口が直結しているような考えなしも知り合いとしては勘弁願いたいが、かと言ってあまり複雑怪奇に手の内を読ませないタイプも面白がるのを越えれば苛々を募らせるだけだ。
 黒羽快斗。……そして怪盗KIDがどちらに属するのかはおいおい判断もつくだろう。
 既に浅く短いご縁を越えているのはこの際目を瞑り哀は鷹揚に構えた。
「仕方がないわね」
 現段階、哀が出来るのは提案程度。
「誤解されているのが困るなら、服部くんと話し合いなさい。まず誤解だけでも解けばいいじゃないの、大人しく誤解されたままなんかでいないで」
「いやそれが、そうしたいのはやまやまだけど解けないんだ、快斗に口止めされてて」
 『口止め?』と哀は片眉を引き上げる。
 大仰に溜め息を落とした名探偵は、更に憂鬱そうに言を継ぐ。
「そうなんだ。しかも快斗は快斗で服部がコナンだった頃のオレに惚れてるって誤解、してやがる」
「……それ冗談かしら。それともあなたのろけてるの?」
 冷めた口調に狼狽した新一が「冗談でものろけでもねーよ!」と隣室に噂の主要人物が雁首揃えているからか、またもや抑えた叫びを上げる。
 しっかと手を取って握りしめる心底泡を食った様子に、哀は少しばかり溜飲を下げた。
 彼が友人達を気遣っているのも振り回されている節があるのも彼等の仲の良さも受け入れているが、たまには釘を刺しておくのも運命共同体の務めと哀は心得ている。馬鹿馬鹿しい気持ちが強いのも否めなかったが。
「そんな誤解されても、困るだけで嬉しくなんかない!」
「あら、そう? でも二人してそんな誤解するだなんて……心当たりの一つや二つ、あるんじゃない」
「ないないない! 服部とはそりゃあコナンだった時のが付き合いは長いけど、やたらスキンシップ過剰な奴だとも思ったけど、……、けど、……いや、まさか、な……?」
 言いながら段々自信を失ってきたか、語尾が徐々に怪しくなって顔つきも微妙になって来る。困り果てた、という表情で見られ、やれやれと哀は嘆息する。
「いや、とにかく服部にそーゆーの仄めかされた事もねぇし、多分きっと快斗の思い過ごしだと思う」
「じゃあ黒羽くんにそう言いなさい」
「言ったよ」
「それで?」
「……気付かないオレが鈍いんだって暴言くれやがった」
「………………」
「揚げ句三ヶ月近く、音信不通で雲隠れしやがってさ」
大袈裟とも思える仕草で、がっくり、と名探偵は肩を落とす。はぁ、と細く溜め息を吐いて、彼は物憂げに視線を揺らした。
「なんか、あの時……快斗と連絡取れなくなった時、な。腹立たしいとかより正直、ぎくっとした。『ほら、こんなに何も知らない癖に、分かってなんかない癖に、友人面して』って言われた気がしたんだ」
 姿を見せなくなって、連絡も取れなくなり、探しても見つける事も叶わなくて、そうなって初めて気付く。
 受け取るばかりでどれだけ自分からのアプローチが足りていなかったかを。傍に居てくれて助けられるばかりで、いかに彼を知らなかった、知ろうとしていなかったかを思い知らされた。
 いつでもこうやって全部捨てていけるんだって言葉でなく行動で突き付けられたみたいで愕然とした。
 本当にここ最近になって、ふらりと傍らに戻ってきた友人に対し、安堵のどれほど大きかった事か。
 わざと音信不通状態を維持していた自覚はあるのか、戻ると開口一番謝った快斗に、寂しさを感じはしても憤りはなかった。むしろ、切り捨てられてしまう程度の付き合いしか築いて来れなかった自分への大きな後悔が、ある。
 新一の思考の流れも方向性も、哀には分かり易かった。
「……馬鹿ね」
 自然と出た優しい語調に、顔を上げた東の名探偵の不思議そうな興味深い視線が真っ直ぐに向けられる。
 哀は、何もかも見据え見透かすような彼の鮮やかな蒼い瞳が、知り合った当初は殊更に苦手だった。
 痛い位に綺麗で、綺麗で。
 無遠慮な程真っ直ぐに貫いて、逃げ場すらくれないから。
 けれど今なら分かる。
 真っ直ぐに貫く視線は、泰然と構えているのではなく、痛みを恐れないで踏み出す足と同じ彼の真摯さから来ている。
 高みに立って見下ろしているのではなくて彼の瞳は常に物事の……多くは真実と言う名のものの……中心に焦点が合う、オートフォーカス機能を備えているだけだ。
 本人が望むとも限らぬ場合に置いても。そういう人だ。
 そういう眼なのだ。
 そこには上も下もなかった。
「……人の気持ちは変わるものよ。そんな事くらいあの人達だっていずれ分かるわよ。ましてや互いの気持ちが落ち着けばあなたの言葉に傾ける耳くらい持ち合わせているでしょう? あなたの友達、だもの」
コーヒーを飲み切って呟いた哀に、顔を上げた東の名探偵の視線が真っ直ぐに向けられる。
「要はあなたが誤解されていると言う事実に暫く目を閉じていればいいのよ」
 断言を受けて名探偵が束の間怯んだ。
 一見、繊細な新一である。
「だってあなたの大切なお友達は、互いの良い所も知り合ってこれから仲良くなってゆく所じゃない。あなたが望んだ通りに。少しばかり世間一般と友愛の認識に差があっても、好意の度合いが友人間を越えてしまっても……そこはまぁご愛嬌ってものよ」
「そ、……そうか……?」
 一見繊細だが、その実新一は傍若無人である。だが。
「そうよ」
 重々しく断言されて。
 一見繊細、その実傍若無人、けれどその上をいって強気に出られると意外に押しの弱い一面のある新一は、納得して良いものか微妙な哀の提案になし崩しに押し切られてしまった。
「ただもうしばらくは二人に巻き込まれる覚悟はした方がいいでしょうけど」
「……どうしてだよ? あいつらが、まあ恋人になって付き合うのも今一つピンと来ねぇけど、ダチなら別に間にオレを挟まなくったって勝手に連絡取り合って会えば、」
「それが出来るなら、あの人達の間にご立派な大河なんて流れてないわよ」
新一は自分の言い出した深く広いなんとやらの川を思い返して、ようやっと現状への認識に至った。
「じゃあ今日の騒ぎって……」
「ええ、恐らくは。二人で逢うには気まずいとかで、あなたをダシにしたんでしょうよ。示し合わせもしてないでしょうけど、どうせ二人してね」
 新一を巻き込み、その上哀と阿笠まで巻き添えにした。
 勿論、皆で楽しくスキヤキを突っつきたかったと言うのはあながち嘘八百ではないだろうけど、それよりは彼等はそんな風にして未だ互いの位置とその距離を測っているのではないだろうか。
 大胆不敵に新一経由で哀とコンタクトを図って来た怪盗KIDや、人見知りや遠慮という単語とは掛け離れた所を闊歩している関西人気質丸だしの西の探偵とも思えない、微笑ましい所業ではあるが。
「まったく、困ったものね。その歳になって純情路線まっしぐらだなんて。今時小学生だってデートくらい二人でするわ」
呆れ切った哀の口調に、新一も『同感』と溜め息を落とす。だが、端迷惑の極みであっても彼等が新一にとって大切な友人であるのは間違いなく、哀にとってもただの知人を越えた存在である。
やれやれと肩を竦めてはみても、結局は彼等が巻き起こす騒動がどういったものになろうとも最終的には付き合ってしまうのだろう。そう想像もついてしまう二人だった。


    *    *    *


用意が整ったとひらひらエプロンを翻し足取り軽く快斗が呼びに来たのはそれから暫くしての事。
 テーブルにつくと上機嫌で平次が熱したすき焼き鍋に牛脂を回している。
 阿笠も既に箸を片手にスタンバイOKの構えだ。
「お待ちどぉさん。ほな始めよか」
「ハイハイ! ジャンジャン行くよ〜ッ」
「アホっ待たんかい!」
 がぼっと野菜の盛られた皿を抱えてそのまま傾けようとした快斗を慌てて平次が押し止めた。
 火元に心配気な視線を寄こしたのは阿笠だけでテーブル上は早くも混戦の兆しだ。
「のっけから野菜入れてどないすんねん! 脂で牛で割り下でそン後で野菜やろ。まず肉や! 牛さんやで」
「えーっ。オレんちスキヤキの時初っ端から全部入れてたぜ」
「論外や! せっかくの割り下が水臭さなるやん。行くでお肉や〜っ」
「え〜、え〜……」
「って、ちょっと待てっ服部!」
快斗も或いは正統派ではなかったのかもしれないが、関西人は関西人で型破りに大層豪快だった。
 消極的に不服を訴える快斗を気迫で制して、ラップを剥がしたまま置いてあった牛肉のパックを掴んでそのまま鍋上にひっくり返そうとしたのだ。そんな平次を今度は新一が絶叫で止めた。
「馬鹿! ちゃんと一枚ずつ入れろ! 勿体ねぇ!」
 怒鳴り飛ばされた平次が首を竦めて「すんません」と応える。
「快斗、火加減見とけよ」
「ハーイ♪」
「ほぉー。ジブン、工藤相手やとめっちゃええ返事やねんな」
「そっちこそやたら素直じゃん」
 コソコソ囁き合う二人だったが、当然の如く新一には一顧だにされず、主導権……世間一般的に言う鍋奉行……は速やかに新一に移行した。
 とは言っても元来面倒臭がりな性格が突然変質する訳もなく、結局の所鷹揚に構えた奉行様の指示に従い平次と快斗、中でも主に平次がいそいそと動いている。
 快斗もたまに手は出すがむしろ茶々を入れる方に忙しそうだ。
 次々と肉を並べ火を通してゆく。
 お手頃価格のオージービーフは少しでも焼き過ぎるとすぐに硬くなってしまう。焼き色がつくかつかないかで手早くひっくり返すのがコツだと楽しげな阿笠に哀は一つ相槌を打った。
 新一と快斗に左右からやいのやいのと注文をつけられつつも平次は砂糖と醤油で割り下を作り鍋に回し掛ける。瞬く間に甘辛い香りが部屋中に広がった。
 歓声が上がる。げんきんにもこの時ばかりは一同の足並みが揃った。
「博士、はい卵」
「おお、すまんのぅ、哀くん。しかし賑やかじゃなぁ」
「……本当に」
和んでいる約二名をよそに食べ盛りが恐ろしい勢いで肉を鍋に敷き詰めていく。その合間合間に冗談を飛ばし、ボケて、突っ込んで、はやし立てる。手も口も忙しい事この上ない。新一が目を光らせて漸く、ではあるがそれ以上の暴挙は防げたかに見えた。
 が。
「あ、灰原、オレにも卵」
何気なく請われ、手渡すと新一はその手をすき焼き鍋の上に伸ばした。
「わーっ。新一何すんの!」
割る寸前、快斗がはしっと手首を掴む。平次はあんぐりと口を開けたまま、茫然と新一を見ている。
「何だよ。卵入れようとしただけだろ」
「だから、何で? 卵はつけて食べるもんでしょ?」
「当たり前だ。それと別に肉に味が染みてから卵落とすだろ?」
「うわ、ナニそれ〜っ!」
「有り得へん! すき焼きにそれは有り得へんで工藤ッ」
平次がさい箸を振り回して絶叫し、快斗も「卵とじはラストの雑炊でが定番だよ〜」と力なく平次に同意を示す。最大の暴挙を平然とかまそうとした東の探偵は、訝し気に残る二人に視線を転じた。
「まあ……その、すき焼きで肉の卵とじは、聞かんのぅ」
「そうね。翌日に丼にするとかならそれもありでしょうけど」
「……分かったよ」
 多数決、新一の負け。
 旨いのに、と呟きながらも不承不承の呈で卵を引っ込めた新一に、快斗と平次が目に見えてほっと安堵の吐息を漏らした。
各自の元に一渡り肉が取り分けられ、更に肉、少しして端に避けて焼き豆腐や糸コンニャク、野菜などが盛大に鍋に盛れられてゆく。幸いな事に今度は誰からもクレームは出ない。
 それより肉に誰もが心奪われ舌鼓を打っていてそんな暇はないだけかもしれなかったが。
煮え待ちの間にすっかり忘れていたと思われるビールで遅ればせながらの、乾杯の声。
「とりあえずカンパーイ!」
「とりあえずはねぇだろ。何かないのかよ」
「ゆーたかて、合格祝いには遅すぎやし、……せや、誰か誕生日近かったりせぇへん?」
「それも強引だよー。素直にスキヤキにカンパイでいーじゃんか」
「素直っちゅーか無難っちゅーか」
「健康に、とかはどうじゃろう」
「……何かよっぽど普段不健康みてぇ」
 真剣にああ言えばこう言う、で意見はちっとも纏まりを見せない。
「普通に、探偵が二人も揃って居るのに何も事件が起こらなかった事にでも乾杯すれば」
 この場に死体も発見されなければ阿笠邸に着くまでに事件に巻き込まれもせず、今現在呼び出しのコールの一つもない。三歩歩けば事件に当たるも過言ではない事件体質の希代の名探偵が二人とオフレコだが怪盗まで揃っているにしては、この平穏はかなり奇跡的な現状と言えた。
 あ、と口を開け東西探偵が顔を見交わす。阿笠と快斗が盛大に吹き出してあっさりと哀の意見は採用された。
 缶ビールが未成年の手を行き交うのを阿笠は苦笑と共に目を瞑って、改めて鍋の上、賑やかに乾杯の声。
 黙って烏龍茶のグラスを傾けた哀に、不意に快斗が身を寄せてくるりと悪戯っぽく瞳を回して笑いかけた。
「哀ちゃんもちょこっと、どーお?」
 缶ビールを持ち上げて問いかける姿は至って無邪気だが、勧める方も次の誕生日が来た所でおおっぴらに飲酒が出来る歳ではないし、ましてや勧められた方は未だ小学生の身体である。
 多少のビールなら大丈夫だと判明していてもアルコールは成分によって哀の身体に変化を及ぼす可能性は捨て切れない。
 哀は新一が江戸川コナンではなく工藤新一として生きる事を選択した時に、宮野志保ではなく灰原哀としての生を選び取った。志保に戻るリスクが高かったから、戻った所で志保を待つ家族も友人も既にいないから、というだけでなく決意に至るまでには様々な要因が絡み合っている。
 かと言って哀のままなら体質が安定しているのかというと断言も出来ない。安易に不確定要素を取り入れる訳にはいかなかった。
「止しておくわ。この身体には良い事はないもの」
「そっか。そうだよね。じゃあ気分だけ一緒しようよ」
 哀のグラスにどこから取り出したのか光沢のあるブルーのスカーフをヒラリと被せ、一同の見守る中、小さくスリーカウント、指を鳴らして。
 するりと滑るようにスカーフが快斗の手の中に戻ると、哀の手のグラスには烏龍茶の濃い茶色の代わりに、透き通る金色の発泡飲料。
 起こるどよめきと拍手にマジシャンは悪戯っぽく笑みながら哀にこっそりウインクを一つ贈る。
 そんな中一際高く歓声を上げたのは平次だった。
「なあ、なあ、工藤! 今の見とった? めっちゃすごいやろ!」
 何故だか本人より得意気に新一の肩を叩きまくって自慢している。
 しかし『ハイハイ』と苦笑いで受け流していた新一も、快斗がエノキダケを空中に浮かせ、牛肉を消し、糸コンニャクを球コンニャクに変えてしまったとあっては目の色も変わる。いわゆる探偵の眼だ。
「おい快斗、今のもう一回!」
 躍起になってトリックを解こうと瞳を凝らしている探偵と、拍手喝采で素直に楽しんでいるようでも視線はしっかり一挙一動を追っているらしいもう一人の探偵と。
 一観客の立場の阿笠に哀はともあれ、探偵二人を前にそれでも緊張の色も見せず、マジシャンは優雅に指先を操って一渡り場を盛り上げた。
 流石に食事中だけに大掛かりではない。それでもどういう仕組みかは一切垣間見せず、快斗の動きは淀みなくその手が繰り広げるマジックはプロ顔負けである。
「じゃあね、次はソレ。博士、そこの卵に何か描いてくれる」
「何かと言われてものぅ」
 マジックを渡されて戸惑っている阿笠に、哀がパックから卵を一つ手渡す。
「星でもハートでも何でもいいよ。単に目印だからね」
 促され、それなら、と阿笠は恐る恐る卵にマジックを滑らせる。
 点、点、そしてコーヒー豆のようなマーク。
「何やろ、……けったいな暗号みたいやな」
 身を乗り出して覗き込んだ平次が首を傾げた。うーんと新一が難しい顔で指を顎にあてて考え込むと、阿笠は面目なさそうに微笑む。
「描き慣れておらんのじゃよ。丸いと特に難しくてな」
 受け取った快斗がぷっと吹き出す。
「なーるほど」
「快斗?」
 にや、と笑って快斗は卵を目の高さに掲げる。
「卵のヒヨコちゃんだ。ね、博士」
 言われてみればアンバランスな点と点はつぶらな瞳にも見えるし、ぎこちないコーヒー豆マークはくちばしに見えなくもない。目に見えホッとした様子の阿笠に笑いのさざ波が緩やかに広がった。
「そんで? ソレどないするん?」
「ヒヨコちゃんはね、こうします」
 おどけた仕種で快斗は手にしていたヒヨコ卵を危なげなく二、三度お手玉し、四度目に右手から投げられた卵が左のてのひらに辿り着く前に右手からは二個、三個目、四個目の卵からがどこからか現れて、次々に左のてのひらに吸い込まれ、消えていく。
 言葉もなく食い入るように集まる視線に、快斗は至極満足気に笑って。
「ハイ、こっちからコンニチハ」
 翻る、華麗な手捌きで空手だった筈の右手から突如現れる卵。間違いなく阿笠作のヒヨコ卵である。
 思わず拍手の平次にあっさりと卵を手渡して。まじまじと眺めた平次の手から、新一に。
 探偵は真剣に卵を睨んでいるがヒヨコ卵はヒヨコ卵で消えたり現れたりするのは快斗のてのひらだけで見た限り特に種があるようにも見えない。
 苦笑した快斗の手にもう一度卵が戻ると、彼はいきなり新一に向けてそれを放り投げた。
「わっ。何すんだよ」
 どうにか取り落とさずに潰さずに卵を両手で捕まえた新一に、マジシャンはウインク一つ。
「大丈夫、割ってみてよ」
 訝りながら従った新一は、卵を器に打ち付けた所で動きを止めた。
「工藤?」
「……ゆで卵だ」
 茫然と呟く。
 割れた殻から顔を覗かせるツルリとした表面は間違いようもなくゆで卵である。阿笠と平次も新一の手元を覗き込んで感嘆の声を上げた。
「いつの間に?」
 卵のパックを開けたのも、阿笠に手渡したのも哀だ。ゆで卵をその時点で擦りかえるのは不可能だ。そしてヒヨコは阿笠の描いたもの。
 お手玉の時に卵は増えていたけれど、ヒヨコ卵がゆで卵になる時間も手段も当然ない。
 ポカンとする一同にマジシャンが種明かしをする筈もなく、すまし顔で焼き豆腐を頬張りながら快斗は「お粗末でした」とにっこり笑った。
 ああだこうだとトリックを説き明かそうと盛り上がる探偵達と発明家を前に、快斗はニコニコ笑ってすき焼き鍋に箸を伸ばすばかりだ。
 視線があまりに不躾だったろうか。快斗に不意に視線を返されて、一瞬怯んだ哀に彼は僅か身を寄せる。
「お口に合ったかな?」
「……ええ。見事なものね」
 すき焼きも、マジックも、場を盛り上げ和ませる術も。一言に込めた称賛のニュアンスを拾い上げるのが得意なマジシャンは、その一言で全てを推し量ったか嬉しそうに顔を綻ばせた。
「良かった」
 これもまた一言に凝縮された思いは率直で、温かく。彼はニコニコと笑顔で視線を合わせた。
 グラスを口許に運ぼうとした哀のグラスに、すかさず快斗がビールの入ったグラスを軽く触れ合わせる。
「探偵さん達の平穏な午後にカンパーイ♪」
「あ、灰原、オレもオレも。乾杯!」
「あーっジブンらずっこいわ。俺も……、ちょお、遠いなー。ほな、乾杯」
目敏く見咎めたらしい新一が阿笠の向こうから、そして向かい側、卓上の鍋を避けるよう身を乗り出して平次が、次々に哀のグラスに小さくグラスを触れ合わせて行く。何故だかやけに楽し気に。
 最後に隣から阿笠までがにこやかにグラスを鳴らせたので、とうとう哀も呆れながらも言わずにはおれなかった。
「乾杯」
呟きにはちゃんと全方向から笑顔が返される。季節を少しばかり無視したすき焼はそれでも最高の仕上がりを見せていた。
 自覚もなかった漠然とした不安感やまるで大人の宴会に紛れ込んでしまった子供のような心許なさはとうになかった。
 決して蔑ろにされる訳でなく、と言って過度に子供扱いを強要するでもない。彼等は仲間としての連帯感と、個人の意思の尊重を心得ている。
 その辺りの匙加減は絶妙で、流石に江戸川コナン時代からの彼の友人を名乗るだけの事はあると密やかに感心した。
 なのに、少し目を放した隙に大人げなく牛肉争奪戦に発展してしまっている姿は、少年探偵団を名乗っている哀の小さな友人達とまるで同じレベルだ。
 隣人とその友人達は時折見せる大人びた横顔とは裏腹に、今はくだらない事に本気で大騒ぎしてはしゃいでいるただの子供になってしまっている。
 呆れ顔で眺めながらも、哀はそっと小さく満足の吐息をもらした。
 見えない大河を漠然と案じるよりも、こんな風に。より近く、共に笑い合う機会を得る事で彼等が互いの距離感をも知っていければいい。そう思う。
 甘辛さの絶妙なバランスがすき焼きの旨味であるのと同様に、彼等の関係も今はまだ甘いだけでも苦いだけでもなく、曖昧で、……曖昧は時に人に優しい。
グラスの中パチパチと弾ける金色。
ジンジャーエールは舌の上で楽しげに弾けた。

◆平×快◆つづく 


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