KEEP OUT



 そうして意識を戻すと、平次は快斗から一メートルと離れずに足を止めている。何か考え込んでいるような、それでいて言いたそうな微妙な顔つきである。
「……ナニ」
 首を傾げる仕種で返事を促す。だが平次は曖昧な表情で『なんでもない』と首を横へ振る事で返事とした。ちっとも何でもなく見えないが、そう言われてしまえばそれ以上に突っ込む事も出来ない。
 相手は友人ではなかったし、相手にとっても自分は友人ではないであろうから。思い知らされたようで、少し気鬱になる。
 溜め息を漏らす、間際。唐突に目前にまで降りて来る、両のてのひら。
「……?」
 何をしたいのか分からずにへたり込んだまま訝し気に見上げると、彼の口元には小さな苦笑いが瞬間浮かんだ。
 苦笑いを空気ごと吹っ飛ばすように、切り替えられる眼差し一つ。声も常の服部平次っぽく明るく響く。
 引き上げられた口角に、苦かった笑みがたちまちいたずらっぽい笑顔に取って変わられた。
「立てへんの? 何やったら手ェ貸すで」
「はぁっ? ……わッ!」
 ぐいっ、と。
 両の二の腕を抱き寄せるように引っ張り上げる力は思いの他強い。
 不意を打たれ、詰まった距離と浮遊感に、快斗は面食らう。
「ちょっ! 誰も立てないなんて言ってない……っ」
 うろたえる快斗を少し目を見開いて眺め、平次はうろたえて腕から力を抜いた。
「かるー、……もしかして工藤より軽いンちゃう?」
「るさいなっ。そりゃ同じくらいだけど。でも新一よりは食ってるよ!」
 快斗が平均よりずっと小さい、軽い、という訳ではない。
 ただ怪盗KIDなんてものを始めてしまってから体重は必要最小限に留めるよう意識しているのも確かだった。女性に変装する場合やグライダーでの飛行には、軽いに越したことはない。
 筋肉を落とさないように、けれどラインは超えないように。それでもあまり食の制限に苦心していないのは裏稼業の運動量が多いのと、存外親譲りの体質のお陰であったのかもいれない。
 記憶の中の父親も、母親も、食べても贅肉になりにくいお得な体質であるらしいので。
 しかしその分、身長が伸び悩んでいる気がするのは快斗の密かな悩みである。
 むすっと答えるに、平次は悪びれる様子もなく。
「ホンマに? 普段からちゃんと食べとる? 棒っきれみたいに細っこいやん。ジブンら腕一本で運べそーや」
 言った側からまるで肉付きを確かめるようにペタペタとてのひらを滑らされて快斗は慌てて飛び退いた。
「大きなお世話! セクハラおやじみたいに触んないでくれる?」
 ぺしぺし腕を払いのけて『あっかんべー』つきの悪態に、平次が大きく吹き出した。
 屈託なく上がる笑い声が耳朶に心地良く響く。
 まさしく、破顔一笑。
「オモロイわー、ジブン。そーゆーリアクションなんやなァ」
 しみじみと頷かれてもそれこそリアクションに困るというもの。視線の不安定な動きにそれを知ったか、平次は軽く頭をかいた。
「ああ、スマン。気ィ悪くせんでな。元気なったらどないなんやろ、思ぅてたんが分かって嬉しィて浮かれとるだけやさかい」
「……、嬉しい? オレが、元気だと何か嬉しい訳……?」
 疑わし気な快斗を平次は笑顔一つで受け流す。
「そらー、もう! 感慨深いで〜。まぁ、座り」
 肩を取り有無を言わせず促され、ローテーブルを回り込み、なし崩しのまま快斗は平次の隣へと並んでソファーへと腰掛けた。三人掛けのソファーを二人で占領する形になる。
 平次が何を言い出そうとしているのか分からず、酷く心許ない気分に陥ってしまう。毒気を抜かれた面持ちで、快斗は隣の男を窺い見た。
「工藤が言うたんや。無愛想なんか機嫌悪いんか、嫌われとるんかどれや思う、って聞いたら、そーやなくて具合悪いんやろうって」
 沈黙を破った声は普段より低めに落とした柔らかい語調で。
「せやから楽しみにしとってん。元気なったらどんな風に喋ったり笑ぅたりするんやろって。……怒らせる気ィも邪魔するつもりも、ホンマにあらへんかってんで」
 揺らぐ視線を正すと満足そうに笑う和んだ目元とかち合った。それこそ電柱の下、見上げて来た探偵の鋭利で胡散臭いものでも見るような視線からは想像もつかない。
「怒鳴るん聞いたらホンマに元気なったんやなーて、……安心した」
 厭味や当てこすりではなく本気でそう言っている、思っているのが伝わる声音に、意外さが際立つ。
 寝込んで面倒をかけていた間中の自分の態度はとてもじゃないが褒められたものではなくて。それをして尚、こうまで言ってくれるなんてとんでもないお人よしもいい所だ。
 けれど、呆れるよりもじんわりと広がる、嬉しい気持ち。思いがけないプレゼントに近い。
 真っ直ぐでてらいのない好意をストンと手の上に乗せて貰った、ような。
 照れくささと、ほのかな暖かさ。
「……、うん。ありがと」
 我ながら驚く。
 不思議と酷く素直に、するりと礼の言葉が口をついた。……まるで新一といる時のように。
 それでも彼に語る言葉は未だ慣れず、その分どうしてもぎこちなさが目立った。おずおずと平次を窺いつつ言を継ぐ。
「風邪うつしちゃって、ゴメン。……え、と。身体、平気?」
 平次がぱっと相好を崩した。
 ひまわりやお日様を連想してしまう開けっぴろげな笑みは、快斗には少し眩しくて。どうして、と思う。
 どうして彼はこんな風に微笑めるのだろう、と。
「心配してくれたん? おおきに。もう今は大した事あらへんし、気にせんで。それにジブンにうつされたんともちゃうから」
 少しばかり意外そうに見開かれた目は、嬉しそうに細められた。笑顔にと綻ぶ口元。
 ……眩しい。
「……なんでそーやって、笑えんの……?」
「へ」
「だって。だって、男が好きだなんて言ったらフツー、気持ち悪いとか冗談じゃないとか、何かあるでしょ」
 どうしても俯きがちになる視線を気力で保っての快斗の台詞だったが、語尾は弱く緩く消えて行く。
「それ、か」
 平次はすっと笑みを納めた。少し眉を顰めるように虚空を見て、考え込む。沈黙が束の間落ちて。
 快斗にとって、そこは避けては通れない場所だった。
 快斗と平次、平次と新一、快斗と新一。名前を並べて見ても、関係と呼べるものは一部ではとても希薄だ。そこにバランスを取る天秤は存在するのか、否か。
 知りたい。
 快斗の目には平次が新一に向ける好意はあからさまで、秘めたるものにはまったく見えない。彼の数々の言動がそう物語っている。
 だが、新一を好きな筈の男にしては反応が妙過ぎる、とも思うのだ。
 快斗の気持ちに理解を示すのは、その気持ちが分かるからだとしても、同じ相手に好意を寄せているのだとしたらこんな風に穏やかにいられるものだろうか?
 平次は新一に好意を寄せているという自分の読みが外れているのか。それとも平次は己が抱いている好意を自覚していないのだろうか。
 けれど、自ら穿り返した話題なのに、いざその視線に晒されると居たたまれない気持ちになるのはどうしようもない。
「誰ぞンな事、言いよったん?」
 問い返す声は、引くめで、抑え目なトーンである。
「そうじゃないけど……ってかベラベラ言って回ってる訳じゃないからオレだってよく分かンないけど……フツーの反応ってそんなんじゃん」
「……うーん。気ィ悪くせんでくれたら嬉しいねんけど」
 平次の前置きに、快斗は軽くてのひらを握り込んで、一つ頷く。
「首突っ込みついでにイッコ聞いてもええ?」
「……う、ん」
 何、と眼差しで促すと。
「ジブン、男が好きやの?」
 直球だった。
 らしいと言えば、とてつもなく彼らしい。捻りも裏もない、そのまんまの物言いに、快斗は咄嗟に返す言葉が見つからない。
 頭を抱えたくなる。
「それとも、工藤やから、好きなん?」
「…………それは、」
 その件に関しては快斗自身、たった今少しばかり自信をなくしかけている所だった。
 新一を好きだと思っていただけなら『彼だから』と答えれば良かった。だが、平次に惹かれる気持ちが確立したものならば、もしかしてという疑念も否定出来ない。
 けれど平次相手に第二の告白をぶちかます訳にもいかない。そんなつもりもなければ、まだ気持ちだって自分の事ながらはっきりしてもいないのだから。
 茶番劇にも程がある。
 どうせ、伝わらない。視線を真っ直ぐに上げて、隣の男を見据える。
「……好き、だよ。新一が、好きだよ。誰でもいいってんじゃないよ。……これで、満足?」
 好奇心は満たせた?
 決してダイニングキッチンには届かない、やや自嘲気味な密やかな囁き声に、平次はそっと目を眇める。
「せやね。聞けて良かった。……気持ち悪いとか、思ぅてへんよ」
 身構えた快斗だったが、平次の呟きは穏やかで、奇妙な程に。眩しそうに眇めた目を相棒の消えたダイニングキッチンへと流す、視線。
「工藤やから、言うンは分かる気ィもするし」
 懐かしむように、どこかを見る視線はひたすらに優しい色だけに染まっている。
 快斗は知っている。
 平次が小さな姿の友人を見ていた目は、優しさと冷めない熱と表には出さない激しさを確かに感じた。そして言葉より先に伸ばされる手に何時しか焦がれている。
「ジブン、工藤の事情も知っとるんやって?」
「…………コナン……?」
 小さな姿の名探偵。最初に出会ったのは高校生の探偵の彼と時計塔で。
 それから少しして次に会ったのは、春。とあるビルの屋上だった。その時にはもう彼は『江戸川コナン』と名乗る子供の姿だった。
 せや、と平次は頷いて。
「俺なァ、多分、あン時の工藤、好きやった思う」
「!」
 こんな形で平次の気持ちをはっきり聞く事になるとは快斗は思っていなかった。思わず息を飲む。
 鼓動の音が強く響いて、まるで周りの何もかもを打ち壊してしまいそうな程に感じる。それでも平次の密やかな声は刻む鼓動よりも明瞭に快斗の耳に届いた。
「男が好きなんやのぅて子供やから好きやったんでもあれへん。ただ、あの時の工藤は眩しィて、強ぉて、せやけどどっか危なっかしーて。自分でもどーかしてる思った事もあったけど、工藤前にしたらそんなんどうでも良かったんや。俺で出来る事があんねやったら何でもしたる、思った」
 彼が懐かしむ視線の先には幾多のハンデを物ともせず挑み続ける強く輝いた一つの魂がいた。江戸川コナンと名乗っていた小さな探偵は、確かに工藤新一だった訳だけれども、同時にもう二度と戻らない幻のような儚く眩しい存在でもあった。
「そんなん、もう『ダチ』の範疇ちゃうやん? 全然、超えとるんやから」
 服部平次という鮮やかで闊達なイメージを覆す、穏やかな波長と声音。
 僅かに快斗の方へと身を寄せて、口元には人差し指を立てると「今のン、工藤には内緒やで」と微笑む。
 こっそり囁く耳に心地良い筈の彼の声は、快斗にはうっすらと痛みを伴って届いた。
「せやからジブンが工藤好きや言うんも驚いたけど、気持ち悪いとかそんなんは思わへん。工藤に惚れるやなんて、ジブン中々目ェ高いやないか、思うで」
 我が事のように得意げに、平次は目を細める。
「新一の事、もう過去形、なんだ……?」
「ん? ああ、工藤か?」
 迷った訳ではないにせよ、一瞬の空白の、間。鮮やかな夢の余韻を惜しむような。
「せや、変に心配せんでええよ。今はもう何とも思てへん。工藤は大事な相棒や、それ以上でも以下でもあらへん」
 そう言って、はんなりと笑む。
 それはそれで事実ではあるのだろう。けれど快斗はその言葉を丸ごと信じる事も出来ない。……引っ掛かってしまったから。
 平次がコナンを語る時の声。目つき。
 それは完全に過去に、思い出にはなっていない、ような。自覚はなくても平次の中で『終わって』はいないように思えるのだ。
 むしろ、幻と消えた分だけ想いは強く色濃く、彼の中へと沈んでしまった。きっと、簡単に払拭出来ないで、昇華しないで。
 なのに、本人は気付いてもいないのだ、その恋に。
 快斗は愕然とした。
 握りしめた右手をそっと胸元にあてて、膝を引き上げる。ソファーの上、痛みを堪えるように、丸くなる。膝に額をつけて俯いて、完全に平次から顔を隠した。
 出来るものなら耳だって心だって、全てを遮断してしまいたいくらいに、言いようもなくショックだった。それでいてどうしようもなく冷えている部分が心の中、しこりのように、ある。
 やっと自らの心に素直になろうとしたら、もう失恋確定、だなんて。
「羨ましいわ」
「……え……?」
 ナニ、と。言葉を拾い上げ認識して、向けられる覚えのない言葉に呆然と目を見開く。
 それでも顔を上げる事が出来ないでいると、くしゃりとてのひらが快斗の髪の上を柔らかく過ぎる。猫でも撫でるように、さり気ない動き。
「俺、ジブンみたいに、そんな風に真っ直ぐに好きになったコトあらへんし、そんな風に好きになってもろたコトもあらへんもん」
「嘘。だって新一が言ってた、すごくもてるって」
「工藤、からかっとるだけや。そら、上っ面や学生探偵や言うんで興味本位で軽ぅ騒いどる子ぉはおるで。けどそんなんには興味も持てへん。ジブンみたいな真摯な目ェとは全然ちゃう。せやから、」
 少し照れたように吐息を漏らして、平次が俯き加減に言を継ぐ。
「事情は色々あるやろけど、そういうのとっぱらった所で、まっすぐなジブンも、そんな風に想われとる工藤も、羨ましい、思うねん」
 快斗は更に膝の上についた両腕に、顔を埋めた。
 貰った言葉に、嬉しいのと切ないのと誇らしいのと、気持ちが胸の中せめぎあってない交ぜになっている。けれど胸が痛くて、目頭が熱くて、今にも泣いてしまいそうだったからそれ以上動けなくなった。
「……上手くいったら、ええなァ?」
 優しい声音に、顔を上げる事なく一つ頷いて。その振動で瞼にたまっていた一滴が静かに落ちて、膝を濡らす。
 一度堰を切った雫は、最早快斗自身の意思に従おうともせず、後から後から眦を伝って、落ちて行く。
「……ありが、と」
 どうにか紡ぎ出した言葉は無様に少し掠れた。
 泣き顔は見られたくなかった。
 泣いている、と悟られるのも本意ではない。
 けれど相手は呑気に見えても気配には殊更聡い、探偵を名乗る男である。きっとバレてる。そんな確信もあった。
 だが平次はぽん、ぽんと丸まった背を優しいとも言える手つきで繰り返し叩いただけだった。……宥めるように、慰めるように。
 それ以上何も尋ねず、語らず。
 柔らかいコーヒーの薫りがほのかに漂い空気を満たすまで、沈黙が隔てた外界は、不思議と遠く感じた。

◆KEEP OUT:平×快◆つづき


HOME

コナンTOP
通販案内

  1. ここは、いちコナンファンが勝手に作っているページで、講談社・原作者等とは一切関係ありません。
  2. 2号が霜月弥生の許可の元勝手に作ってるので誤りがあったら申し訳ありません。詳細はメールで必ずお問い合わせ下さい。