KEEP OUT |
「快斗」 呼び出した、と言う自覚があったからだろうか。珍しく玄関先での出迎えを受けて快斗はスニーカーを蹴散らすように脱ぎながら思わず微笑む。 「うん、来たよ。……新一、なんて顔してんの」 指摘に、途方にくれていた子供が親に会えてホッとしたような無防備な安堵の微笑みが、慌てて取り繕われた仏頂面の後ろへと隠れる。 「別に、どんなもそんなも……いつもこんな顔だよ。悪いか」 「全然。どんな顔しても新一は美人さんだからね、見てて楽しい」 にっこりと答えると、あからさまに呆れ視線が返って来た。 新一は「はいはい」とおざなりに受け流すと、一足先に会話を切り上げリビングへと踵を返す。快斗も続いた。 「それで、あ」 アイツ、と言いかけて僅かに躊躇い、言い直す。 「……のヒトは、寝てんの」 「ああ。一度起きて薬飲んだから熱さえ下がれば平気だって言ってた」 「哀ちゃんが?」 「いや自己申告」 「うわ〜あてになんない」 盛大に顔をしかめる快斗に新一からも苦笑が漏れる。 「まったくな。誰かも似たような事言ってたようだけど」 「あはは〜あてになんないよねー」 明るく笑い飛ばすと『おまえだ馬鹿』と小突かれる。快斗はちろりと睨まれて薮蛇かぁ、と笑みつつ首を竦めた。 幸いな事にそれ以上の追撃もなく、快斗は新一の後に従いコートを脱ぎながらダイニングテーブルの定位置へと辿り着く。 椅子の背に半分に折ったコートを引っ掛けると「後でちゃんとハンガーにかけとけよ」と普段言われる専門の物ぐさを体現した家主が、仕返しとばかりに嬉々と階上を指さし言う。 「うん、後で。……なーに、何かいれてくれるんだ?」 珍しくリビングでなくダイニングへと通されたと思ったら、ヤカンがしゅんしゅんと音をたてている。 「コーヒー。飲むだろ」 既に準備してあったのか、丁寧にペーパーフィルターを折りながら尋ねる新一に、快斗は全開の笑顔で大きく三度ばかり頷いた。 彼の手元から、ふわりと挽きたての珈琲豆の香りがダイニングキッチンに広がる。 くんくん、と鼻をならし快斗は問う。 「んー……と、スペシャルブレンド?」 「いや、モカ・イルガチェフ。嫌いだったっけ」 「うううん、好き好き」 この場合、モカ・イルガチェフが殊更好みと言うよりは、彼の淹れてくれるコーヒーが好き、が正確だったりする。 実際、新一自身が豆から挽くコーヒーは滅多に口に入らない希少な飲み物で。 快斗といる際は『快斗、コーヒー』の一言で反論の余地なしだった上、一人で飲む時は当然一人分しか淹れない為、突然押しかけた所でお相伴には預かれない。 よっぽど機嫌が宜しくないと快斗の前に登場しないのが新一の淹れるコーヒーだった。 しかも実は結構おおざっぱでせっかちな所のある名探偵だが、コーヒーを淹れる時は細心の注意を払い丁寧に慎重にゆっくりと淹れてくれる。そんな彼のコーヒーは薫り高くとても美味なのだ。 「卵酒もねぎ湯も梅番茶も悪かないけど、朝はやっぱりコーヒーじゃなきゃ目が覚めないんだよね」 「……この場合オレはもう昼だって突っ込むか、ブラックで飲めばもっと目が覚めるって突っ込めばいいのか、どっちだ?」 「や、どっちも遠慮させて下さい。っていうかさー、……そういうお笑いの勉強なら、お抱えの講師にお願いして。しかも無料、本場仕込みじゃん」 「それが使いものにならないから、無理言っておまえ呼び戻したんだろーが。ほら、詫び代わり、有り難く受け取りやがれ」 「……恐悦至極でございます、お代官様」 ははー、とダイニングテーブルに両手をついて深々と頭を下げると「うむ、くるしゅうない」と悪ノリに乗っかった新一が、頷いてコーヒーカップを快斗の前へと差し出す。 砂糖壷、ポーションミルクをテーブルに並べるといつも通り新一は快斗の向かいへと腰を下ろそうとした。が、何かを思い立ったらしくぐるりとテーブルを回りわざわざ快斗の隣の席につく。 常ならば新一は快斗の向かいか斜向かいの席につくので、隣は大抵が空いた席の筈だった。 その上がたがたと椅子を快斗の間際まで引き寄せて来るに至って、快斗は二すくい目のグラニュー糖をティースプーンに盛り上げたまま動きを止めた。 彼のその態度は気まぐれさよりも殊更意味深に見えるのだ。つられた快斗もやや身構える。 自ら他人との距離を縮めるとはあまり工藤新一の行動パターンには見られない一例だった。 口に出したら『失礼な』と怒られてしまいそうだが、何やら良くない前兆のような恐ろしい事の前触れのような気がして落ち着かない。 「……ななな、何かな。どーかした?」 びくびくと様子を伺いながらの問いに、新一はカップを片手に快斗の肩へと手をかけ耳へと唇を寄せる。……内緒話の要領に『なに?』と快斗は再度瞳で促すと。 「おまえ、服部に昨日盗み出した宝石、返したんだって?」 深刻そうに声を潜めて何を囁くと思ったら、やはりというか何と言うか、裏のお仕事……怪盗KID……がらみである。 確かに大声で吹聴されても困る。 その気遣いは有り難い訳だが、こういう話題でもない限り新一から内緒話を仕掛けて来る事もないのだと思うと、快斗的にはそれはそれでどうにも複雑な心境だった。 くるりくるりとスプーンを回し、ミルクを入れると細く白い渦が次第に拡散して優しい茶色にと染め上げる。 酸味と苦味の控えめなマイルドな味わいが広がり、芳醇な薫りが鼻孔をくすぐった。 ふぅ、と一息入れる。 一瞬滅多に『有り得ない』シュチュエーションに警戒しながらも心僅かに浮かれただけに落胆も大きい。 「あー……あれ、ね」 力無い小さな笑みを口元にたたえ、快斗はぼそぼそと答えた。 「ハズレだったから。けど、返したって言うかー……うん、まあ、限りなく穏当な表現を選ぶなら、そんな風にも言えるかなぁ」 「? なんだそれ。じゃあ率直に言ったらどうなるんだ?」 「意地悪ーくハシゴで両手放せないの知ってて貯水塔の上から顔めがけて宝石落としてやりました。ってなる」 ふっふっふ、と自慢げにVサインつきでの報告には、即座に呆れ顔が返された。 服部平次が片手でペンダントをキャッチして、尚且つ自身も踏み止まれたというのは、快斗の持つ西の探偵の動向のイメージの予想を軽く上回った。 耳にしていた幾つかの情報によって、もしかしたら彼の探偵のレベルを低く見積もり過ぎていたのかもしれない。 怪盗KIDを追っていて単車で事故った、とか推理中に船から真冬の海に落っこちた、だとか。情報的には間違ってはいないが、そこに至った経緯は本人のドジだけではなかったという事だろう。 そう考えを改めざるを得ない程度には、決断力、反射神経、度胸、そして招運が優れている。 一晩過ぎて、今の快斗には冷静にそう判断が出来た。 「なんて根性悪い……」 「わざとだもーん。だってほら、オレ的にはさ? そうそういい人になる訳にもいかないじゃない」 快斗としてでも難しいというのに、怪盗KIDとしてならもっとだ。互いにそれぞれ思う所のある立場としては。 「それにしたって、だ」 はあ、と大きく溜め息をつく。 謎を謎のままにしておく事を厭う深い蒼の眼がジロリと快斗を見た。 心に疚しい覚えのある人間なら軒並み諸手を上げて降参したくなる剣呑な目付きも、快斗にかかれば『うわい、新一カッコイイ〜♪』だったりするから始末に負えない。 「おまえそんなに嫌われたいのか?」 「そう見えたならそうなんじゃない?」 疑問に疑問で返すのは、答えたくない時についしてしまう快斗の悪癖だった。 はぐらかし、煙に巻くのは二つ名を抱え込んだ時から芽生えた第二の性分だったが、反対の立場から考えれば一目瞭然、それは心配してくれている彼に対しての誠実さの欠如の顕れでしかない。 微妙に睫毛を震わせて視線を避けた友人の横顔に、後悔の自覚は遅れてやって来る。いつもそうだ。 「ああ……ゴメン、またやった」 テーブルの上、腕をいっぱいまで伸ばし、指の先にだけ感じるカップの熱は布一枚挟んで知った体温のように、どこか頼りない。 「よく分かんなくって。ついこの間までは分かってたつもりだったんだけど、ダメだね自分の事ってさ」 自嘲の響きが混じらないようになるべく軽い口調を装うが、名探偵には通用しなかった。 「バーロォ。おまえが自分の事まで器用に立ち回ってやがったら、今頃ダチなんてやってねぇよ。ムカツク」 「……新一」 ぽっと胸を暖め全身へとやんわり広がる波動は、こんな風に不意に彼から与えられる、柔らかい口調と、想いから成る。 それは快斗の強張ったままの心を丸ごと素直にする、彼だけが持つ力だ。 「嫌われようとしたんじゃないよ」 迷いも不慣れさもひっくるめて、なるべく己の胸中に率直であるよう、快斗は口を突いた言葉を吐き出す。 「そうじゃなくて……、」 ただ、怖かったのだ。 新一が好きで、新一だけを好きでいれた世界がいつの間にか壊れていて。 快斗の世界を知らず壊した男は、悠然と新一の傍らを確保した。新一に笑いかけ、冗談を飛ばし、背を貸して、信頼を……相棒の称号を得た。 新一と共に居るにしても立ち位置が違うのだから無視していればいいと知っていても、無視しきれない存在感で堂々と視界に割り込む。 同じように二つ名を持つ光の化身のような彼を自分だけが見つけたと思っていた分、それが自分だけでなかったという悔しさは強い。 己よりも表立って彼の力になれる探偵としての立場にしゃくに障る想い。 極めつけにKIDの存在をも無視し続けた探偵に、快斗のプライドは馬鹿馬鹿しいと思いながらも、至極傷つけられた。 募るのはマイナスばかりの気持ちだったのに、それでも新一の向ける信頼の色と春を待たずして上京を果たした存在に、理性は負け、僅かばかりの好奇心が足を動かす。腹立ち紛れに挑発に赴けば、KIDを無視し続けていた瞳が真っ直ぐに快斗を射抜いた。 しまった、と悟った時には既に遅く。 扉の向こうに広がった世界は広過ぎて明る過ぎて刺激があり過ぎて、ただそこにあるだけで快斗を引き寄せる。 それは恐ろしい事だった。 だから。 「嫌われたいから突っかかったんじゃないよ。好きになりたくないから突っかかったんだ」 抑制が利かなくなる、怖かったのは自身。手に入る筈もない絵の中の風景に焦がれ身動きが取れなくなる前に、見えない振りして扉を閉めて背を向けた。 耳を塞いで蹲る。 そんな風に。 近づけないよう、近づかないよう。 「あいつを……? どうして」 分からない、と新一は小首を傾げる。 「新一が好きだから」 そこに繋がると思っていなかったからか、彼は蒼い瞳を軽く見開いた。 快斗の好きな、工藤新一を構成する代表的なパーツの一つで、強さと鋭さを秘めた綺麗な綺麗な、眼だ。……そして恐らくは服部平次が魅せられた、ただ一つの至高の宝石でもあるのだろう。 KIDと新一の瞳の差異を熱く語った響きが、快斗の推察を後押ししている。 「簡単でしょ? オレは新一が好き。あの人も新一を好きだよ。どんなにイイ奴で、色々と良くしてもらっててもさ」 そう自分に言い聞かせて頑なな態度を取り続けて来た筈なのに。 なのに平次はKIDの中の快斗が必死で閉じようとしていた扉を無自覚に開け放った。 それと知らず。 彼がそれに気付くまでが残された最後のチャンスだと思える。もう新一だけを好きでいれた自分には戻れない以上、快斗が本来の快斗らしい快斗として平次と向かい合う、……多分、最後の。 快斗はじっと新一を見る。 新一はやや茫然とした面持ちで快斗を見ている。 彼に向かう、名前をつけないままだった気持ちは快斗の中心で変わらず優しさと愛しさで形作られていた。我ながら馬鹿馬鹿しい事に、こうして気持ちを見据えて認識してやっと分かる事もある。 さざ波のような未だ小さな変化であっても。 自覚して認識してからまだほんの少しであっても、彼には黙っていたくない。いつだって何をしてくれる訳でなくとも新一は存在そのもので快斗の背を……気持ちを、前へ前へと押し出してくれるから。 そんな存在だからこそ、自分の変化も彼にだけは知っていてほしいと願うのだ。他の誰でなく。 「でもさ、バカだよね。オレ、ホントに知らなかったんだ、恋なんて計画して出来るもんじゃないって。……気付いたら、してるもんだって」 「おまえ……、」 「まだはっきりとは分かってないんだ。なんて言うか、気持ちに自信が持てなくて……自分でも結構意外だったからさ、オレ……」 快斗らしくない、たどたどしく筋道だった話し方には程遠い口調だった。 KIDでいる時は切って捨てる程、むやみやたらと自信に溢れている自覚がある。例え上っ面だけだとしても堂々と自信過剰気味なのが怪盗KIDで、そうでなければKIDは務まらない。 しかし白き衣装を伴わない今はただの『快斗』だから、内心の漠然と揺らいでいる様や不安が、態度に、視線に、そして顔色に滲み出てしまうのを止めれない。細心の注意を払おうとも、ふとした拍子に出てしまう。 言葉に詰まって黙り込んだ快斗が口を突くまま語った不揃いな言葉だけで、はたして彼にどこまで会話の続きを悟れたものか。 けれど、肝心な所まで進まないで途切れた台詞には、続きをせっつくでもなく若干の緊張感を保ったまま付き合ってくれている。探偵業を差し引くと元来短気な性分だと言うのに。 こんな時に限って何を望んでいるのかを表すのにしっくりと来る言葉が見つからない。 カップの繊細なふちに指先を滑らせて、僅かに残っていたカップの中身が随分と熱を失っているのに気付く。 口を開こうとして、快斗の身体は感じた気配に視認より早く過剰なまでに反応した。 「っ!」 息を飲む。 互い以外の気配が大きく空気を乱し、束の間の静寂も崩れた。 端から見ればまるで危機を察知した野生生物のように、俊敏な一動で快斗は感知した気配へと首を巡らせて咄嗟に腰を浮かしかけた。相手を視認して目を見開くと、そのまま椅子へと留まる。服部平次だった。 尋常ならぬ快斗の反応に驚いたように、忙しなく瞬いて新一もつられたように背後を振り仰いだ。 その差は約二秒。新一は相棒の姿を認めると、座っていた椅子の背に慌てて手をついて立ち上がる。 快斗にしろ新一にしろ、野外に独りでいてこれ程気配に鈍感になった事はなかった。 新一には自宅である邸内で、また服部平次という今更気配を探らねばならない相手ではないとはいえ、探偵には探偵の怪盗は怪盗の事情で気配を読む事には長けていたつもりだったから、抜け落ちるようにたった今までその存在を感知出来ずにいたのが思いがけず衝撃で、二人して咄嗟の言葉も出ない。 そんな風に家主とその友人の思いがけず激しいリアクションをぶつけられれば、場を乱した男にした所で驚きの顔を隠せない。 ダイニングキッチンの入口で、パジャマ代わりのTシャツの上からからジャージを引っかけた平次が、茫然と立ちつくしている。 髪は寝癖で少し乱れているが風邪っぴきにしては思ったより元気そうに見える、と、切迫した状況を余所に快斗は頭のどこかで冷静に観察した。 一応ノックでもするつもりだったのか、右手が中途半端な位置で揺れている。 明るい笑顔か優しい苦笑を多々見せたその口元に今は笑みはなく、瞳は驚きに見開かれ、彼も彼で言葉を失っていた。 「はっと、り……」 新一の声も尻すぼみに霧散する。何に対してフォローすべきなのか新一でなくとも迷った事だろう。家主の瞳はうろたえたまま友人達の間を行き交う。 快斗はおもむろに立ち上がった。らしくなく音をたてて引かれた椅子の音が、室内に大きく響く。だが快斗はそんな事にすら頓着出来なかった。 ばさり。 椅子の背に引っ掛けてあったコートが頼りな気に足元へと崩れる。 またもやそれも意識の外でしかない。 視界にはうっすらと朱がかかりこめかみで血の流れをリアルに感じ取れるのに、どこか現実から遠ざかった感覚のズレがある。背筋からぞくぞくと走り抜けたのは、緊張と不安と。 自らの顔色が赤くなっているのか青くなっているのかも、自身ではまるで分からない。 「快斗、」 いつもなら決して透過しない大切な友人の呼ぶ声も今はただ耳を抜け、通り過ぎる。 気付けば快斗は平次と相対する位置に立っていた。完璧以上にどこか痛々しくすらある無表情に気圧されたか怯んだか、目を見開いたまま無言で平次がごくんと唾を飲む。 彼からは気まずさと困惑を色濃く滲ませた気配があからさまに発せられていたが、それを汲み取り冗談に上手く受け流せるだけの余裕は快斗にもなかった。 視線を上げる。 Tシャツの襟首とシャツ越しにおうとつを窺わせる鎖骨、シャープな顎、そして一足飛びに目尻の切れ上がった特徴的な眼へと。 動揺していても、平次の瞳は快斗から逸らされずにいた。 身長は平次が気持ち長身だが視線を上げるのが屈辱なほどは変わらない為、空中で視線がすれ違う事はない。 眼を向ければ向けられた眼とズレなくかち合う。日常にあるべきのそんな些細な出来事が、今の快斗には戸惑いを感じさせる。 それまで平次との間には新一という緩和材を入れての非常事態の付き合いと、華々しいまでの非現実での対面しか間には差し挟んでいなかった。さして珍しくもない事柄も彼との間にはとても不慣れで。 それでも逸らされないのを良い事に快斗はまじまじとその瞳を見返す。 すると、彼に起こったのは劇的な変化だった。 やっと快斗の発言と目前の『カイト』が一致したのか、次の瞬間、茫然としていた平次の顔が音が出そうな勢いで火を噴いた。 地黒が一見変化を隠したもののよくよく見れば耳まで一息で赤面している。 あまりにも見慣れない有様に彼の相棒が唖然と見守る中、 「スマン!」 平次は叫んだ。 赤面を自覚したのか、てのひらが顔を覆うようにして広げられる。 腰は引け、眉は八の字だし視線はあっちこっちに飛んで快斗を正視出来ないでいる。うろたえ、困惑し、後ろめたく思っているのが一目で分かる姿だ。 「ほんまに立ち聞きする気ィやなかってん! ええコーヒーの薫りがしたからふらふらーっと降りて来てもーて……」 「…………」 「つい声かけそびれて……。二人してあんまり深刻な顔しとったから、せやから、なんちゅーかジブンの間ァの悪さに固まってしもたんや。堪忍。こんなトコ邪魔してもーて謝ってすむ事ちゃうけど、立ち聞きとか盗み聞きしたろとかそんなつもり、まるっきりあらへんかってんで!」 怒涛の謝罪の声はきちんと耳に届いている。 意味だって理解してる。 けれど聞きたいのは、重要なのはそんな事ではなかったから、言葉は耳から入っても胸に落ちつかずあやふやに拡散するばかり。 凍りついた表情のまま、快斗はやおら腕を伸ばした。 滑稽な程に必死に言い募る平次の胸倉を、がしっと両手で掴み上げると、緊張をはらんだ二人の距離は一段と縮んだ。 力任せに腕を引くと、引力に逆らう気がなかったらしい平次の身体は簡単に快斗の間際まで引っ張り寄せられる。 殴り付けるとでも思ったか名探偵の鋭い制止の声が割り込んだ。快斗はその声を黙殺する。 平次はぎゅっと目を閉じると、そのまま一挙動でがばりと頭を下げた。快斗の鼻先寸前を勢い良く平次の前髪が過ぎる。 「えらい話に水差して、スマン」 俯いたまま。 真摯な謝罪は生真面目に紡がれ、茶化しもましてや常識と呼ばれる偏見に固まった視線も向けられない。が、快斗はそれだけを捉えて単純に喜んでもいられないでいた。 平次が、いつからその場にいたのか。快斗の裏稼業についての件をどこまで耳にしたのか。 頭の中、ぐるぐると渦を巻く疑問。 「どこから、」 声は堅く響いた。 ぴくり、と一瞬の間を置いて躊躇いながら平次は顔を上げる。 「どこから聞いてたんだ……?」 胸倉を掴み上げていた筈の両の手は、平次が頭を下げた段階ではほとんど緩く布地に指がかかっているだけになっている。 快斗には答えを待つ数秒が三分にも五分にも感じられた。 新一も、固唾を呑んで見守っている。 平次は更に躊躇したが、ややしてぼそぼそと口を開いた。 「工藤がどうしてや、言うて、ジブンが工藤が好きや言うたとこからや、……ちょっ、ちょおどないしたッ」 「おいっ! 快斗っ?」 不意に、がくがくっと膝から下の力が抜けて、快斗はそのまま床へとへなへなへたり込んだ。 慌てた平次が胸倉を掴んでいた両手が落ち切るまでに捕らえ、しかし引き上げるのは叶わないと悟ったかそのまま向かいにしゃがみ込む。新一も椅子が倒れるのも構わず素早く快斗のもとへ駆け寄った。 「ど、どないしたんや、ジブン?」 「快斗っ!」 二人に顔を覗き込まれるが、それに反応を返すより何より、押し寄せた安堵が一層強かった。 (聞かれてなかった……!) 緊張に迂闊にも息を詰めていたのか、くらくらする。 平次の登場がもう僅か早ければ、己の不用意な発言を、幾度後悔しても足りなくなる所だった。 「……は、」 「快斗?」 隣に膝をついた新一から顔を隠すように俯き、快斗は前へと身を傾がせた。ゆっくりと上体は平次へと倒れかかる。 「え、ちょお、なっ」 平次は目を白黒させている。 快斗の手を捕らえていなかった左手を肩へと添えるが快斗の緩やかな傾斜は止まらない。あわあわと目顔で新一に助けを求める間も。 俯いた快斗の額は、ゴンッと平次の胸板に追突して、止まった。 肝心な箇所は聞かれていなかった。そうして己の発言と西の探偵のあからさまな反応に、彼の中での結論は簡単に予想はついた。 平次が捉えたのは『快斗が新一を好きだ』と言う発言。 確かに言った。 言ったが、意味合いとしては全然違う。 怪盗KIDの事もあるにせよ『新一が好きだから』平次を好きになりたくなかった、なのに今はそう思えなくなりつつある、が話の本筋であった筈だが……彼は誤解している。 真っ直ぐ直球で『快斗が新一に好きだと告げた』といった具合に。 「はははは、は〜……。気ィ抜けた……」 「……はい?」 本気で気の抜けまくった笑い声に、眉をひそめた探偵二人の疑問詞は綺麗に重なる。 変な所で足並みを揃えてしまった二人の探偵は、新一は僅かに微妙な面持ちで、平次は少し嬉しそうに、快斗の頭上でちらりと視線を見交わした。 結局無言のまま二人の視線は快斗のつむじへと戻る。 頭上の不穏な動きを感じた訳ではないものの、事態を把握したらしたで快斗は少し途方に暮れていた。 誤解を解いた方が良いのか、否か。考える間もなく心の中で快斗は『否』に飛び付いた。選んだのは強行手段だ。 がばっと身を起こす。 唐突な動きに瞬間身を反らせた二人の探偵より、快斗の手の方が素早かった。 右手で目前の探偵の胸倉を、左手で隣の探偵の胸倉を引っつかむ。 左右に目を丸くした探偵どもを捕獲して、快斗は厳かに告げた。……「忘れろ!」と。 交互に東西探偵を睨み上げる目が、完全に座っている。 「オレも忘れるからオマエらも忘れて。ぜーんぶ綺麗さっぱり記憶から削除して何でもいーから上書きして今すぐ、わ」 ぽんっと頭の上にてのひらが落ちた感覚に、快斗の口は固まる。 「アホ言いな」 つっけんどんに、はたまた呆れ声でそれを紡ぐなら分からなくもない。 けれど単語だけで聞くより、平次の声は穏やかで柔らかく響いた。まるで単語そのものの意味合いすら変えてしまいそうな響きで。 同時に乗せられたてのひらは宥めるように二度三度快斗の髪を乱して、呆気なく離れる。 風邪っぴきで寝込んでいた時のような『近寄るな、構うなオーラ』を出していないせいか、仏頂面の快斗にも彼が単に慣れてしまっただけか、平次のスキンシップは極自然でしかも適度で心地良い。だが、その心地良さの中に僅かばかりの痛みが隠れていて、慣れていない快斗にはそれが少しばかり辛くもあった。 痛みは触れられる事で起こる事象ではない。 触れた手が離れる時に痛みを伴う。それは触れる事の容易い平次には、決して理解出来ないであろう感覚だった。 「ちょお、落ち着き」 平次が言う。 「頭ワーッってなっとる時に決めた事なんぞ、いっつも後でやってもーた、思う羽目になるんや。良ぅ考え。忘れるんは俺だけでええ思わへん?」 「…………」 言葉に詰まる。 語りかけられている声は存外静かで。赤面しうろたえまくっていた先程の男と同一人物とは思えぬ落ち着きを見せている。 反面、快斗の頭の中は見た目よりずっと渦巻き混乱を招いていて、思惑のままに動いてはくれない男に腹を立てているのか面白がっているのだかも分からないでいる。 「そもそもジブン、そう簡単に忘れたり出来るんやったら、あンなはっきり好きやなんて言わへんかったんとちゃう? せっかくの真っ直ぐな気持ち、なかった事にすんの勿体ないやん」 「…………」 「……工藤も、」 不意に話題をふられた新一が慌てた風に平次に向き直った。 「ちゃんと聞いたらなあかんで。俺が水差しとって言えた義理ちゃうけど」 「……ああ、分かってる」 応える新一の表情がそれでもどこか微妙なのは、快斗が本当は何を言おうとしていたのかおおよそなりに察しがついているからだろうか。 その表情を盗み見ていると、苦笑めいた気配が伝わって来た。 快斗の無言の動揺を宥めるように、励ますように。ぽん、と背を一回叩いた手は名高い名探偵のものではなく、工藤新一という友人の手だった。 「で。いつまで掴んでいる気だ?」 胸倉を掴んでいる快斗の手を新一が笑みながら軽くつつく。からかいを含んだ指摘に、ああごめん、と平坦に呟いて快斗はぎこちなく左手を放した。 すると。 今度はトントンと右手もつつかれる。 「こっちも頼むわ」 当然そこでニヤッと笑うのは快斗が胸倉を掴み引っ張り寄せたままだった、平次である。快斗は緩慢な動作でてのひらを広げた。 「おおきに」 にこやかに微笑みかけられるが、握りしめていた右手の跡が、しっかりと掴んでいた彼のTシャツに残っている。寄ったしわがやけに目立って撫で付けるもののそんなものでは何が変わる筈もない。 途端にしゅんとへこんで『ごめん』と小さく謝罪した快斗に、かまへんどうせパジャマ代わりや、と柔らかい関西弁が紡がれた。 気づく、指先にほのかな温かさの名残。 同時に感じる間近にあった東西探偵の離れる気配。つられるようにして新一を目で追う。 「服部。おまえ熱は?」 立ち上がる相棒に同じく立ち上がった新一が尋ねる。 「もうほとんどあらへんよ。良ぅ効くねん、あの薬。飲んで寝たら一発や」 「だったらコーヒー、おまえの分も淹れてやっから。そっちで待ってろ」 「……せやけど、」 リビングのソファーを示されて、平次が幾分躊躇いがちに快斗にちらっと視線を流す。 「快斗とは後で話す」 承諾を待つ問い掛けではなく結論としての新一の台詞を快斗は瞬き一つで受け入れた。気をもんでいるのが分かる眼差しを向ける西の探偵には、口元だけに軽い微笑みを添えて一つ頷き返す。 「……ジブンええなら、ならええねんけど」 快斗が納得しているなら、と。 未だ納得したとは言い難い渋い顔つきでともあれその場への居残りを平次は了承した。 話は決まった、とばかりに踵を返す友人の後ろ姿がダイニングキッチンに消えるまで、快斗はぼんやりと視線で追い掛ける。 癖にも等しい快斗のその仕種を、平次は真顔で眺めている。だが声をかける訳でもなく。 新一の後ろ姿が見えなくなるまで、……気配と音だけになるまで快斗は目を眇め見送った。 |
◆KEEP OUT:平×快◆つづき◆ |
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