KEEP OUT |
現場からビルを二つ隔てると、嵐の夜の波を思わせる寄せて来る音も光も喧騒もどこか遠く、なのに耳に残る潮騒に似て。瞳を閉ざせば不意に間近に余韻を感じ、瞬けばたゆたう感覚は急速に遠ざかる。 残るは肌から染みて来る冷え冷えとした深夜特有の空気と、都会らしい夜空の不透明感。 じっとしていると手足の先から痺れるような感覚が浸食して来る。きっとこの場は逃走経路に組み込まれているであろうと待ち伏せに出たはいいが、平次は意気込みとは裏腹に冬場の深夜故の寒さにがちがちに身体を強張らせていた。身近なリアルは物語と違って、いつもどこかままならない。 それでも仰いだ天には気持ちぼやけて見える星と、遮られるものもない虚空にぽっかりと浮かぶ白っぽく冴々とした丸い月。 視線が不意にぶれた。 自覚するより早く月を捉えていた瞳が、闇から現れた影を追う。 『来た』という認識は後から追い付く。平次は無意識に息を飲んだ。 ビルの縁から助走もせずに軽やかに踏み切り、隣の……こちらの、ビルの貯水塔の上へと危なげなく降り立つ白いシルエット。ふわりと背を覆うマントが空気を孕み舞い上がり、静かにその背へと戻り従う。 追い掛けて来る者の足音もない。 ……独りだ。 以前の事件の資料のビデオで見た、観衆の中に降り立った凛と伸びた背を平次は思い出した。 怪盗KIDが姿を現した途端、歓声がオクターブ跳ね上がり、群衆の発する圧倒されそうな熱気がたった独りに押し寄せ、集中し、注がれる。 渦の真中。 一拍置いて、彼は臆しもせずむしろ堂々と一礼し、ひらりと右手だけを閃かせた。たったそれだけの動作に視線は絡め捕られ釘づけになる。恐らく彼は存在自体が生粋のエンターテイナーなのだろう。 放たれるのは捕われたら最後、抗いようのない強烈な引力。 月のない夜の出会いとは異なり、野次馬と警察を相手取って派手な立ち回りを見せているのにも関わらず、KIDのみを視界に捉えた時、何故か平次は静の印象を抱いた。 ……今、音もなく自身の重ささえないかの如く軽やかに貯水塔の上に降り立った彼にも、同様の印象を色濃く感じる。 平次は息を潜め、その挙動を視線だけで追った。 身を潜める探偵の存在に気付いていないのか、気付いていても取るに足らないと思ってでもいるのか。KIDは周囲を見回す事すらない。 貯水塔の上、足を止めたままおもむろに懐から何かを取り出す。僅かな月光を受けて優しい煌めきを放つ白い手袋の中にあるそれに、平次は無言で今夜の警察の敗北を悟った。 彼の指が、一呼吸置いてからペンダントの雫型を頭上に掲げ、それを追い下から見上げる瞳……そこでKIDは静止した。その姿はどこか厳粛な儀式を彷彿とさせる。みだりに近づく事も、声と言う雑音をたてる事も躊躇する雰囲気だ。 ところが。 ものの五秒でKIDは、ふいっと子供が玩具に飽きるみたいに唐突に、腕を下ろした。しゃらん、とペンダントがてのひらの上で一度跳ね上がり静寂を乱す。 遠目に見える彼は、何かを呟いたようだった。口元が瞬間白く淡く彩られ、KIDを普通の人間らしく見せている。 とは言え、KIDは貯水塔の上、平次はエレベーターの脇に身を寄せている。二人の位置関係上その口元は読み難く、もとより表情すら定かではない。ましてや微かな呟きなど聞こえようがない筈の距離だ。 出て行くか、否か。 だが、そんな平次の一瞬の躊躇いを見透かしたように、不意にKIDが視線を転じた。 「そこの」 声を投げて寄越す。 僅かに声の端に楽しいとも呆れたとも興味を抱いたとも違う、何か別の複雑な響きを伴って。 「いつまでそんな所でこそこそ隠れているつもりだ、探偵」 「……こそこそなんぞしとらん。ジブンがトロトロしとったから、待ちくたびれて寝てしまいそーやっただけや」 反射的に言い返して、平次はゆっくりと怪盗との間を詰めて行く。寒空の中同じ態勢で長くいた為か、動き出した身体はしなやかさや俊敏な動きとは程遠く、ぎこちなさが目立つ。 貯水塔の下、ハシゴの三歩手前で足を止めた。 またしても見上げる構図に平次は軽く眉をしかめる。電柱のてっぺんと道路程の距離感はなくとも、顔の造作を見て取るにはやや無理がある。判別出来た所でその顔が変装でないという保証もないが。 資料の文字や映像ではなく、数日ぶりに見るリアルの怪盗KIDは、逃げる素振りも見せない。近寄って来る平次に目をくれ「おや」と声を上げる。 「待ち合わせをした覚えはないが」 「してどないすんねん、そんなモン。待ち伏せや待ち伏せ。ここを通るんは分かっとったから張らしてもろたで。……現行犯やな」 ちらりと投げられた視線が手の中の石へと止まった事に気付いたKIDが、つまらなそうにペンダントを揺らした。パライバトルマリンが月光を受けて柔らかな輝きを散らす。 「現行犯、ね。そう、それで?」 KIDの声はひそやかでどこか微妙な響きから、はっきりと分かり易い小馬鹿にしたような軽いものへと変わっている。……より平次の認識しているKIDらしく。 「それでもくそもあらへん。現行犯逮捕や。大人しゅう観念しィ」 「捕まえる? ……どうやって」 KIDはさも面白そうに白々しく反駁する。 返事の代わりに平次は赤い錆びかけのハシゴに手をかけた。頭上の怪盗をきつく睨み上げ、そのまま目を逸らさず身軽にするするとハシゴを昇る。 何を思ったか、KIDも貯水塔の端……ハシゴの傍らまで歩を進め、真下から迫る探偵を見下ろす。 嫌な予感が胸を過ぎり平次が手足のスピードを落とすと、KIDは口の端を引き上げた。悪童がいたずらを思いついた時のような、聞こえよがしな笑い声が降って来る。 「見物だな」 「……なん、や」 「無防備で良い格好じゃないか。手も足も出ないとは、こういう姿を呼ぶのだろう?」 「…………?」 しゃらん、と。 KIDは宝石を手にした腕をひどく無造作に真っ直ぐ前へと突き出した。何、と思う間もなく、するりとペンダントが彼のてのひらから滑り落ちる。 「おわッ!」 咄嗟に平次は右手を振り上げ、顔の僅か手前で降って来た金色を考えるより早く掴み取った。素手を躊躇う余地もない。 その冷や汗ものの一瞬の後に、市場価格がどうのとかと吠えたてる怪盗KID専任警部の声とか呆れたような相棒の顔なんかが、瞬時に走馬灯の如く平次の脳裏を駆け巡った。 それでもどうにか取り落とさずにすんだのは長く続けている剣道で鍛えた反射神経の賜物だろうか。ハシゴを手放した片腕分、余計にかかった左腕への負荷と反動にぐらりと身体は揺れたものの、間一髪で持ちこたえた。 錆びかけのハシゴがミシッと嫌な音をたてる。 どうにかこうにかハシゴから落ちず、また値もつけられぬ希少な宝石を取り落として傷物にするという失態も免れて、平次はホッと安堵の息を漏らす。 しかしその安堵もほんの一時の事だった。文句の一つもつけるべく睨み上げた視界に認識出来たのは、一面に広がった、白。 (な、んやと……ッ!) 目前にまで迫った白い影だった。 ぶつかる、と思った刹那、平次は自ら身体を支えていた左手を離した。足で強くハシゴを蹴り、受け身を取り頭を抱え込んで身体を捻る。 エレベーターの中のような気持ちの悪い浮遊感を感じた次の瞬間には、背から全身に広がる、衝撃。……息が詰まる。 そのまま勢いを殺しつつ軽く一転し、あちこちに力の入ったままの状態で平次の身体は止まった。 上手く息をつけず、ごほっとむせる。 「だから無防備だと言ったのに」 耳に届いた声は、怪盗KIDの呆れたようなからかうような微妙な響き。 したたかに打ちつけた背のせいで瞬間的な呼吸困難に陥った平次だったが、その声に無理矢理意思の力でうっすらと瞳を開けた。 どこかぼやけ、すぐには焦点の定まらない視界の中、捉えたKIDとの距離の近さに僅か驚く。 彼は自分が落ちた箇所より更に高位より身を躍らせている。 なのにまるで音もなく、それこそ衝撃の一つも感じてはいないかのように、降り立ったハシゴのすぐ傍らに悠然と立っているのである。忌ま忌ましい事だが、息の一つも乱しもせずに。 意識して数度細く息を吸い、吐き出した。取り込んだ酸素の分、幾らか冷静さを取り戻せた気がする。 「言うたのに、とちゃうやろ。なんちゅう……無茶、しよって、」 平次はぼやく。 ぼやいたが。掠れ途切れがちな声は、先ほど至近距離まで急接近を果たした筈の泥棒に、届いた様子はなかった。だが何か呟いたのは分かったのか、KIDは目を眇め平次の口元辺りを視線が射貫く。……言いたい事があるのならもう一度言えとでも言わんばかりの。 かと言って大人しく従うような平次でもない。くり返す事なく先ほどの台詞は平次の独り言にと落ち着いた。 KIDが立つ位置は、貯水塔のハシゴの傍ら。咄嗟の判断がなければ、そのまま垂直に落下した平次が転がっていた筈の場所だ。 あちこち軋む身を宥めつつどうにか上半身を起こし「わざとやな」と平次は低く唸った。コンディション万全とはとても言えないが、動けなくもない、と自身の状態を分析する。それなりに高さがあったのと予定外のアクションシーンだった割にこれなら、上々だろう。 真上からペンダントを落とした……投げつけたでないだけマシかもしれなかったが……のも、直後に貯水塔の上から平次にぶつかりかねない位置へ飛び降りたのも、間違いなくわざとだ。これが偶然でなどある訳がない。 故意に平次の上から降りた、いや、平次の上へと、落ちて来たのだ。それもこれも考えられるのはただ一つ、平次の突発的な事態に対応する判断力、行動力を計る為に試したに違いない。……平次の能力を計ろうとする意図は明らかだった。 だがKIDは自らにかけられた嫌疑には取り合わず、未だ立ち上がらないでいる平次へとつかつかと歩み寄る。その上すぐ前まで来ると片膝をつき真っ直ぐに腕を伸ばした。 意図が読めず身を固くした平次を無視して二本の指が首筋に当てられた。 「ふぅん、少しは驚いたようだな。脈が早い」 平次は声もない。驚いたかといえば確かに驚いていた。 それは今し方KIDと抵触しかけ、あまつさえかわさなければ彼に踏みつけられる処だったから、ではない。 KIDが、後は一目散に逃げ出すものとばかり思っていたのを、留まり、しかも探偵である自分に近づいて来たから、でもない。 首筋に指を寄せられたのには確かに意表を突かれたが、驚きの全てが彼の起こした予想不可能な行動に起因するものでもなく……寧ろそれ以外の要因が強かった。 無言の平次の傍らまで来て不意に屈み込んだその顔の造作が、本物か造り物か、相棒の東の名探偵を彷彿とさせるものだったから。 月光に映える白磁の細面。 少年っぽさを頬に残したすっきりとした顎のラインに、高い鼻筋のバランスが良い。 強い意思を思わせる固く引き結ばれた唇と、その僅かに引き上げられた口角が自信を垣間見せた。 見れば見るほどに工藤新一と相似点を挙げられる。だが、瞳だけは違った。時に明るく蒼く輝く工藤新一特有の彩りだけは、モノクルに隠されていない片方の瞳には見つけられない。 今宵この場に現れる筈の友人に変装しても、友人が来ない事を知っている平次は騙されない。 KIDにした処で本気で平次を騙す気があるのなら、怪盗KIDの白装束ではなく東の探偵らしくスーツの一つも着込んでいただろう。 真意は平次や他の誰かを騙す為の変装でなく、知っていたのだ。例え本人でないと理解していても、平次にとってこの顔が一番揺さぶりをかけられるのだという事を。 図らずも狙い通りに驚き、少なからず動揺してしまった事実が悔しい。唇を引き結び睨みつける瞳に力をこめた。 未だ首筋に留まっていたKIDの指を弾き、払う。 「今夜はその顔か、ジブン。知っとったけど、趣味悪過ぎやで」 「貴方の好みに合わせただけですよ。趣味の良さは貴方が握っている女神が証明してくれるでしょう」 「ンな取り繕った喋り方せんでええ、今更や」 「……あ、そう。それはどうも」 さも嫌そうに言った平次に、KIDはKIDであっさりと慇懃に語る口調を捨てた……正確には慇懃ではなく慇懃無礼だった。詰まるところただの無礼に過ぎない。それもまた今更だった。 「口調改めるついでにその顔も止めとき。……気ィ悪いわ」 「何故。好みの顔なのだろう」 そう言ってにやりと意地悪く微笑む顔は確かに新一と似ている。 パーツだけで見ると更に似ているのだから、変装の技術は工藤有紀子にも匹敵するだろう。 その技術に手放しの賞賛に値する。しかし認める訳にも、感嘆を表に出す訳にもいかなかった。……彼が、己の持つその特殊技術をこういった犯罪に利用している以上は。 「好き嫌いの問題とちゃうわアホ」 些か、語尾がきつくなる。 彼が放った言葉にどの程度の意味合いを込めたのかは判然としない。 ただ自分の行動に難癖をつけられた、というよりは友人との関係にケチをつけられた、誤解されたかもしれないという方が気になって平次の語調は強まった。 コナン時代というかなり特殊な事情があったにせよ以前の平次が『工藤』『工藤』と連呼して、事ある毎に上京していたのは周知の事実だからだ。 工藤という東京の女にひっかかったのだと幼馴染みはじめクラスメイトまでもが信じ込んだ程、一時の平次は『工藤新一』に傾倒していた。 不利な立場に甘んじながらも闘い続ける不屈の精神に驚嘆し保護欲を掻き立てられ、同じく探偵を名乗る者としての連帯感と探偵の観察眼にぞくぞくし……そしてその推理の鋭さには憧憬すら覚えた。出来る事があると知れば東奔西走し、そんな現状に疑問を差し挟みもしなかった。彼に関わっている時は常に三度は熱っぽいような非現実特有の高揚感を感じていたのだ。 小さかった友人がかつての高校生の身体を取り戻した時、平次の中で何かが変わった。 今の平次には、新一は探偵仲間であると共に尊敬すべき点も多い良きライバルではあるが、まかり間違っても憧れなんて入る余地もない。悪巧みはするし見掛けよりずっと己には無頓着で物ぐさで、格好つけたがるけれど根っからの優等生なんかじゃない……大事な、悪友。保護の不必要な対等で、等身大の相手だ。 だがそんな平次の心情の変化をこの怪盗の名を冠する男が知る筈もない。 『名探偵』の後ろを追い掛け回していた西の『探偵』が東の地に居着こうとしているのが目障りで、出た言葉なのか。それとも少しばかりの揶揄が目的の他愛のないからかいか。 どちらにしても過去の己の言動に端を発している可能性の高いKIDの『新一顔が好み』発言に妙に引っ掛かってしまったのだ。平次が自らの心情を言葉を尽くし理解を求めるべき相手でないのは間違いなかったが、このまま誤解されているのもしゃくに障る。 かと言って、探偵から怪盗へ向けた当たり障りのない誤解の解き方なんて聞いた事もない。どう思われようと知った事かと投げやりにもなりきれず、焦りともどかしさを伴った理解されないままでいたくない、という不可思議な思いが平次の中に燻っている。まるで抜き損ね喉に引っ掛かった小骨のように。 「この顔が理由でないなら、その動揺の理由は何だ?」 白手袋の指先がすいっと上がって平次の首筋を指し示した。 狙っての事なのか、二度目に向けられた指先は平次にはギリギリ触れない距離で留まる。 見返したKIDの顔は、口元にしか表情がない。わざとそうしているような気がする。完璧な無表情ではなく自然な喜怒哀楽でもなく。 黙殺を謀ろうとしても、追従の手を緩めないKIDの瞳が、返答を要求し続け僅かに眇められた。……これではどちらが探偵だか分からない。 小さく溜め息を一つ。 「……、ジブンの盗品に対する扱いやとかやな、いきなり人が降って来るなんて思わへんから、それに驚いたんや」 納得したか否か読めない表情で、KIDは薄く微笑む。あくまでも意識しての事なのか、そんな小さな微笑みまでもが一見すると新一と見紛うほどだ。 「……って言うたかて、どうせ信じへんねやろーから、かまへん、ジブンのその趣味悪い変装に驚いたっちゅー事にしといたる」 「負け惜しみか、探偵」 「いんや? どうせ二度目はあらへん。いっぺんくらい花持たしたる、言うてんのや」 KIDは口元にうっすらとたたえていた笑みを消し、更に瞳を眇めた。 「……二度はないと何故言い切れる」 今度は平次が口元に笑みを浮かべる番だった。 「似て非なるモンやてもう分かっとるからや。そしたらもう驚かへん。造作や表情はよぅ似せとるみたいやけど、あいつの瞳の色はもっと……蒼みがかかっとって……、」 彼に相応しい言葉を上手に探し出せず、少し迷う。どんな逆境にも決して負けまいとする彼の意思が詰め込まれた瞳はとても……。 「力を持っとる」 間近で覗き見たKIDのモノクル越しでない裸眼の瞳も薄い硝子越しの瞳も、存在や醸し出す気配同様に、鮮烈な強い力のようなものを感じる。思いがけず手の中に飛び込んで来た名高い宝石にもけっして引けをとらない輝きだ。 けれど色目と明暗が明らかに異なっている。 未だ逸らされる様子のない瞳は新一のように蒼みがかかってはおらず、月光のささやかな光源の中、色素の薄い感じの紫暗に近い。……淡い光の中でならきっとまた違う輝きを放つのだろう。 KIDは表情を変える事なく、先ほど振り払われた手を軽く握り込んだ。あからさまに顔をしかめるような真似はしなくとも、内心の不快さがほの見える所作だ。 「変装の名人かなんか知らんけど、似せるんもその程度やねんな? それとも、それだけはホンモンか」 だとしたらその瞳は、変装の名人と謳われる怪盗の平次の知り得る唯一の手掛かりとなる。 強打点の打たれた最後の一言に、紫暗の瞳にははっきりと苛立ちの色が入り込んだ。深みを増した紫暗色が、強い反発、もしくは敵意よりは微弱な某かの意思のようなものを前面に押しやりつつゆっくりと瞬く。 平次は自分の発言によって変化していくその色をじっと見つめた。 「判断などつくものか」 KIDはそう呟いて突如身を引いた。少し掠れた声がごまかしようもなく『是』と応えたも同様だった。 手をつきもせず優雅な立ち居で立ち上がり、探偵との間に充分なだけの距離を取る。追って立ち上がろうとした平次は、慌てて空いた手を床へとついた。節々の痛みを舌打ち一つで噛み殺す。 「ちょお待っ、」 「待てと言われて待つ馬鹿がどこにいる」 KIDの苛立ちを含んだ声はまるで拗ねたような響きでもあり、反論を受けつけないとでも言うように即座に距離を取る態度は、物事に飽いた子供そのものである。 そうして改めて見ると、優雅に見える物腰は効果を狙った緻密な計算の結果のようだが、口から飛び出す言葉は計算しているようでいて意外とでたらめだったり。突拍子もない動きは計算ずくのようでもあるが、思い返してみれば行き当たりばったりのようにも思え、判断に迷う。 「コレ、……どういうつもりや」 右の手に握りしめていた『水の女神』と呼ばれるペンダント。金の鎖におおぶりの宝石、時価いくらだか知った事ではないが、イミテーションでないのなら簡単に手放した理由が平次には分からない。 問われた相手は平次へとちらりと視線は流したものの、興味を失ったからか、互いの視線を交わらせる事なく一呼吸で逸らしてしまう。 「KIDッ!」 「……いらないから、捨てた。好きにすればいい」 「いらん、て。なんでや。偽物やっちゅーんか」 「いいや?」 横顔を微かに伏せるように、視線は眼下の色とりどりの光がちらつく町並みを見下ろす。その唇から薄く漏れた吐息は小さく白く、彼を彩った。 その小さな白にか、開いた距離にか、不意に平次は自身を取り巻いている深夜の空気と底冷えする寒さを自覚した。 先程までの近過ぎる距離も快適からは程遠かったが、離れれば瞬く間に捉え所のなさが強調されてしまう。 答えを待つ平次の背を、ぞくり、と寒さが駆け上がった。 「『水の女神』はオマエの大好きな本物だよ。探偵。ただ誰にとっても必要とされるのが『本物』とは限らないだけで」 淡々と、ほのかな厭味を交えてKIDは答えた。立ち上がった探偵を再び視界に収める事なく、やたら滑らかな、そして確実な足取りでフェンスまで歩を進める。 開いた距離の分、途端にKIDの表情は頼りない月光にと沈んだ。 ……もう彼の表情は掴めない。僅かな明暗程度しか。 平次は続く言葉を探しあぐねた。言葉には迷いが露骨に反映しそうな気がして……捕らえたいのか、ただ引き止めたいだけなのか。 顔を合わせている決して長くない時間の中で、幾度となく腹をたて不愉快になっているというのに、同時に予想を裏切られる愉しさや、誇り高く懐かない猫を相手にしているような離れ難さがある。 だからかもしれない。即断即決、慎重さに欠けるとの見方もある平次の性格を持ってして、言動を決めかねる羽目になったのは。……かける言葉を失ったまま、ただ動きを目で追いかける。 フェンスを背にくるりと怪盗が向き直った。翻る白いマントが、ま白の残像を引いてしっかりと網膜に焼け付く。仰いだ天には微弱な明かりを灯している小さな月。それさえも従えて、彼は厳かに宣言した。 「ゲーム・オーバー」 ばさり、と大きくマントが波打ってKIDは恭しく一礼する。たった一人の観客を前にしての、幕引きの挨拶。 場の退出を意味する怪盗の合図に過度の華々しさはない。 『怪盗』の名に相応しい静けさに満ちた毅然とした立ち姿は、例え月すらない闇夜にも眩しく映えた事だろう。ましてやほの明るい月光の下では尚更だ。 そのつもりがなくても引き込まれ見惚れてしまう、まるで雰囲気のある映画のワン・シーンの如く。 「っな、……?」 ふっ、っと。 頼りない月光の下、まるで指先一つスイッチを切ったように怪盗KIDの姿は掻き消えた。 瞬き一つしていない平次の目前で、ものの見事に忽然と。 隠れられる場所もなければ、抜け道になり得るような場所もない。あるのは貯水塔と背丈程のフェンスに囲まれた屋上がただ広がっているだけだ。 大掛かりな仕掛けなど施されていないのは相棒と共に来た下調べの時と、KIDを待ち伏せていた時間で既に確認済みである。 目を凝らし、慌ててフェンスへと駆け寄るが、そこにもフェンスの向こうの夜景にもKIDの後ろ姿はもとより足跡も残り香も、かの怪盗を示すものは何一つ……気配すら……付近には残されてはいなかった。 煙に巻くという言葉があるが、お得意の煙幕すら使用せずに姿を消し去ったのだ。 何のトリックも労さずに、人ひとりが消えていなくなる筈がない。レトロな扮装で怪盗を名乗ってはいても、相手は魔法使いではないのだから。 だが僅かな月光を頼りに丹念にその場を捜索した探偵が発見出来たものといえば、フェンスの外側のコンクリートの張り出しに仕掛けられていた、後日百貨店で幾つも発見される事となる超小型の投影機と同種のもの、小さなデジタル機器だけだった。 手にしたものは、盗まれた宝石を取り戻したという民間人の栄誉と、犯人を取り逃がしたという探偵の不名誉、何故か収まりの悪くなってしまった穏やかならぬ胸中。 そして、ささやかな一つの手掛かりを。 |
>◆KEEP OUT:平×快◆つづき◆ |
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