KEEP OUT




4)

 その場所は唯一安息の地と呼べる場所だった。
 常に警戒し気を張り詰め続けなければならない、犯行現場。
 かつては……事実が目前に広がるまでは……確実に安息の場であった筈の自宅も、今は大切であるが故に遠のいている。
 そして黒羽快斗である事を意識すればする程に『怪盗KID』を忘れる事もならない、学校という異空間はいつしか安穏と心休まる場所でもなくなった。
 隠れ家と呼べる物なら確かに持っている。いくつか。
 点々と主要地域を主に幾人かの名義で確保してあるマンションやアパート。
 だがそれも、いつでも切り捨てられる個性のない必要最小限の物のみを配した部屋でしかなく、決して家と呼べるものではなかった。
 よそよそしく、暖かさもなく、時がたっても身に馴染まない……孤独な場所。だが僅かばかりの安心感と引き替えに快斗は大抵の時をそういった場所で過ごしている。
 そんな快斗が心から気を抜け寛げるのは、どうした事か東の名探偵と呼ばれている高校生の傍らだった。
 皮肉にも怪盗の名を冠する快斗が、である。
 いつからそうだったのかと言えば『気付けば』としか言えないし、何故だと自問しても答えなどでない。どうやらここにいると気が楽だ、とある日唐突に気付く。それだけの事だった。
 勿論、快斗は自分が何をしているのかは弁えているつもりだ。自ら継いだ二つ名を含め。
 快斗なりに気も遣い、彼のユニークな両親や仲の良い幼なじみ、探偵仲間が来訪している際には彼の居る街にさえ近づくのを差し控えた。
 ……けじめとして。
 ただ、本音はそれだけでなく、彼にとって自分が友人の範疇に入るのか知り合いの枠内に存在しているのかが分からず、彼と親しい彼らに『どういった』間柄かと詮索された時に彼が何と答えるのかが怖かった。はっきりと突きつけられる事が。
 だがそんな快斗の複雑な胸中をよそに、彼の運命共同体である少女とその保護者との対面は問答無用でセッティングされてしまった。薄々は感づいていたが工藤新一は自身が必要と判断した場合、快斗に拒否権を与えるつもりはまるでなかった。いわゆる問答無用である。
 それが決して嫌だった訳ではなくて。
 実際、会ってみれば遠目で認識しているより遥かに、阿笠は新一が快斗を『友達』と言えばそのまま受け取るような言葉通り『人の良い』人物であったし、哀は新一がどう紹介しようとそんなものに意味などないと端から聞き流しにかかるようなちょっと複雑な意味を持つ言葉としての『良い性格』の人物であった。
 新一は、快斗を二人に『ダチ』とたった一言で紹介した。
 あの時の照れくささと胸にせり上がった感動を、きっと快斗は忘れない。
 忘れられないと思う。
 それからずっと、工藤邸とその隣家だけが特別だった。
 例えそれがかりそめの宿り木に過ぎないにしても……特別で。
 もはや安易には手放せそうもない。
 工藤新一はああ見えて見掛けよりかなりおおざっぱで無頓着な所がある。良く言えば懐が深いとでも言おうか。
 以前は快斗の怪我をした鳩の面倒を見てくれたし……手当てをし、餌をやったのが彼の幼なじみだったとしても、手元に置いて保護してくれたのはコナンだった新一で間違いではない……そして今度は風邪をひいて現れた鳩の飼い主を見ても呆れ顔になったものの追い返そうとはしなかった。
「何やってんだよおまえ、ふらふらじゃねーか!」
 そう言って、即座にゲストルームのベッドに突っ込まれてしまったのだ。
 粗雑な物言いとは裏腹に、彼が昨夜何度も様子を見に来てくれていた事を快斗は知っている。
 うつらうつらと夢と現をさ迷いながらも、慣れた気配ですら察知すると同時に自然と目覚めてしまう。そうであるよう心がけ、それに救われた経験が多々あっても、こんな場合には熟睡すら出来ない体質はある意味とてもやっかいなものだと僅か一夜で実感してしまった。
 それでもぼんやりと霞がかる視界の中で、寄せられた眼差しは優しく、不慣れそうに恐る恐る額に当ててくれた彼のてのひらはひんやりとして快斗を再びやんわりと眠りへと誘った。
 浅い眠りを幾度か繰り返している内にいつしか夜が明けて、カーテンの向こうから鈍く光が伝わり出した頃。
 今度は新一は隣人を伴って現れた。彼の運命共同体であり隣人であり、主治医でもある。彼女の名を『灰原哀』と言う。
 彼女の来訪の理由は聞くまでもなく明白だった。
 どうにか上半身を起こした快斗に幾分呆れたような視線を投げて、彼女は手早く快斗を『診る』と一つの溜め息と共に結論を述べた。
「風邪ね。食べるもの食べて薬飲んでゆっくり寝てればすぐ治るわ。薬よ、食後に飲んで」
 彼女の診断は快斗の予想を違わず、発熱、節々の痛み、頭痛、くしゃみ、鼻詰まり等の各種症状からしても間違いはないようだった。
 見た目を裏切り淡々と落ち着いた少女の声に快斗は小さく微笑んで「いらない」と首を振る。
 ありがとう、と言い添えると数瞬の沈黙を挟んで、哀は真顔で「成分的に口に出来ないものがあるなら、考慮の余地はあるけど?」と妥協案を上げた。
 それに対しても首を振ると「あら、そう」と哀はあっさり出した手を引っ込める。気を悪くした様子もなければそれ以上ごり押しする事もなく少女はものの二秒でくるりと踵を返し部屋を後にした。
 一瞬展開についていき損ねた新一が、彼女の名を呼びつつ慌ててその後を追って階下へと駆け降りて行くのを見送って、ぐるぐるする視界から快斗はまた瞳を閉ざした。
 快斗の今朝の記憶はそこまでだ。
 ぷっつりと途切れてしまった所をみると、それが気力と体力の限度だったのだろう。工藤邸に転がり込んで一晩、たかが風邪と高を括っていたのが笑えるくらいにはえらく無気力になってしまった自分がいて、風邪を引き込んだ記憶のろくにない快斗にはそれもまた新鮮な驚きだった。
 そうする内に、次の目覚めは訪れた。自発的にではなく、外的刺激によって。
「おわッ!」
 間近で上がった叫びに快斗が目を見開いたのと共に、何かがのしかかって来る気配。
 上掛けに包まれるように眠っていた快斗は肩と言わず背中と言わずにかけられた重みと痛みに、呻く事しか出来なかった。
「何すんねん!」
 それはこっちの台詞だ、とコンディションさえ抜群ならば即座に猛反論に出る筈の快斗も、上掛けと毛布に埋もれた状況では、何があったのか把握も出来ない。パニック寸前の上に風邪っぴきの現状に、我が身にかかった負荷をとても押し退けるだけの余力はなく……残っていた体力をかき集めて、どうにかもがく。
「ちゅーか、やば!」
 と、焦ったような声と共にようやっと悪夢の如き重みが脇へずれ、それによって『もの』ではなく『ヒト』がのしかかっていたのだと判明する。
「平気か、ジブン!」
 自力と他力の双方の努力で布団から掘り出された快斗は、次の瞬間一気に光に曝された。
 その中でシルエットの人影が顔の前でパンッと両のてのひらを打ち合わせる。
「いやーほんま、スマンかった! 工藤がしょーもないちょっかいかけて来よって、避けられへんかってん。重かったやろー」
「人のせいにするなよ。どうせ起こすつもりだったんだからいいじゃねーか」
 悪びれないで開き直っているのは、家主である友人の声だ。
 同じく室内にいるのは分かるが毛布の海から発掘されたばかりの身では彼の立ち位置をはっきり視認する事はかなわなかった。恐らく扉の近くであろうと見当をつける。
「アホ。そーゆーて押し潰してどないすんねん。起きれるモンも起きれへんくなるやんけ」
「誰かサンの腕の鍛え方に問題があったんじゃねーか」
「思っきし体重かけといてよぉ言うわ」
 ポンポンとテンポ良く交わされる会話に、あっという間に快斗の存在は置いて行かれる。常ならばとっくの昔にマシンガントークで参戦している筈の快斗は、やはりそんな気にすらなれず。この段階でやっと頭上で揉めている片割れが誰であるのかを正確に認識する事が出来た所だった。
「カンサイジン……?」
 快斗の声は探偵達のかけあい漫才の一幕の間に飛び込んだ。
 室内に三秒程の軽い沈黙が落ち……新一はぷっと噴き出し、目の前の男は目に見えて悄然とうなだれた。
「……ここに関西人おるの、そんな目ぇむく程、変な事なんやろか」
 酷く情けな気な口調であさってを見てぼやいているのは件の関西人である。
 芝居がかった仕草に冷めた視線を送っていると、それを察知したか彼は急に快斗へと向き直り覆い被さるように距離を縮める。
「ちなみにな。関西人言われるより大阪人言われる方が好きやし、大阪人呼ばれるより服部平次呼ばれる方が好きやねん。工藤のダチや。よろしゅうしたってな」
 至近距離から食らった立て板に水の勢いの自己紹介だったが、快斗は馬耳東風と聞き流す。
 勿論そう悟られる訳にはいかないが、今更自己紹介など貰わずとも快斗は『服部平次』なる関西人を知っているし個人的見解及び表立てない事情を持ってして『よろしく』するつもりなど端からない。
 返事も返さないで目を閉じてしまった快斗に近づく気配がある。
「おい、快斗……? せっかく起きたんだから寝る前にちょっと食わねぇ?」
 目を開ける。平次の横から新一が乗り出して見下ろして来ていた。
「……新一が作ってくれるの……?」
 うっ、と新一が怯む。
「いや……服部が! こいつ小器用だしよ」
「『小』は余計や。素直に器用と褒めんかい」
 新一が平次を指差して真顔で言えば、平次は新一の言い方にしかめっ面で注文をつける。またしても始まった言い合いだか漫才だか分からない代物の仲裁をする気力もなく、毛布の影に隠れるようにして快斗は小さく溜め息を落とした。
 緩やかな頭痛は依然として存在を主張している。
 前髪をかきあげようとし、指に触れる違和に気付いた。
「あ……」
 冷却シートが額に張り付いている。随分と熱を吸ったか、とうの昔に干からびたようで指先が掠めただけでソレは剥がれ落ちた。
 目聡く見ていたらしい平次が新しいシートを手に快斗の額に手を伸ばす。咄嗟に避けかけたものの、快斗は思い直して目を閉じた。
 瞼の裏に極彩色が広がり、目眩にも似た感覚を残して額から手は離れる。
 だが、出し抜けに襟元にその手を突っ込まれ、流石に快斗も目を剥いて悲鳴を上げた。
「なッ、なにす……ッ」
「スマン。ちょお堪忍な」
 侘びではなく宥めるような口調である。
 冷たい訳でもないのに、彼のてのひらが首筋から後ろに回ると背筋から全身にぞくぞくと走るものがある。かっと身体の熱が上昇するのが自分でも分かった。
 相手にも分かってしまっただろうか。
 自身のままならぬ現状を受け入れ、唇を噛み締めて息を耐える事、数秒。
 何の他意もないのを示すかのように項をまさぐったてのひらはすぐに引き抜かれ、安堵の息を吐く。と、気が緩んだのか、次の瞬間には咳きの発作に襲われ快斗は布団に潜るようにして盛大に咳込んだ。
「……快斗、」
 心配そうな友人の声と、その友人に何事かを告げて足早に出て行く気配が一つ。
 ごほごほと咳込むと反動で吸い込む息すらぜいぜいと咽を焼き、振動が背中や節々に響き身体が悲鳴を上げる。一波が過ぎどうにか目を開くと、滲んだ視界の中心に一心に覗き込んで来ている蒼みがかった瞳を見つけた。
 いつも現場で幾多の犯人や関係者の悲しみや痛みといった感情に晒されても決して流されないでしっかりと立っている凛とした探偵の姿を見慣れているから、彼の方が辛そうなのが、不思議で。
「バカだ、おまえ。無理せず薬飲めばもっとずっと楽になれるのに……!」
 まるで、自分の痛みのように吐き出した言葉に、快斗はしばらくぶりにどうにか微笑みを造り出す。
「薬はいらないんだよ。体力はあるんだからそのうち、治るよ」
「この意地っ張り!」
 忌々しそうに新一が毒づく。
「お互い様でしょ。……ねえ、新一」
 囁き程度の声量に耳を寄せるように彼は更に距離を詰め快斗のベッドへと腰かける。
 何だよ、と呟きながら新一は平次から手渡されていた冷却シートを快斗の額に貼り付けた。ひやりとジェル部分が心地良く頭痛がいくらかましになった気さえする。
「なんでいるの、……アイツ」
「オレが呼んだから」
 簡潔な答えを返しながら、新一は快斗のパジャマのボタンに手をかける。
「オレがアイツをどう思ってるか知ってて呼ぶなんて……趣味悪いよ」
「趣味なんか悪くっていい。おまえが喜ばないのは分かってたけど、服部はオレより役に立つ。だから呼んだんだ」
 指はするすると胸元をはだけていく。それを他人事のように快斗は見遣る。
 先刻、平次に手を突っ込まれた時は流石に度肝を抜かれ暴れかけもしたが、同じ事をされても新一に対しては抗う気にもならなければ慌てなければならない理由もない。何をするのか、とその動きを快斗は黙って見守るだけだった。
 新一も口も閉ざし、もくもくと動く。両脇から少し下辺にするようにまたボタンをかけていく。
 終わると顎までぐいっと毛布を引き上げた。
「悪いな、期待を裏切って」
 どういう意味かと問う前に彼は言を継ぐ。
「オレ役に立たねぇから。風邪には『薬飲んで暖かくしてよく寝る』しか知らないから。本当にどうしてやればいいのかも、分からない」
「それチガウよ」
 するりと言葉は滑り出た。自覚していないだけで、彼はちゃんと知っている。
 快斗が欲しかったものは、同じ家の中に誰かいて自分の事をほんの少し気にかけていてくれる……小さな安心感だけだった。
 勝手に体調不良のまま押しかけたというのに、彼は気遣って真夜中にも関わらず幾度となく足を運んでくれた。
 哀に診断も依頼してくれて。今、こうして傍らにいてくれる。求めた以上の物を彼はとっくに与えてくれているというのに。
「ちゃんとしてくれたよ」
 目で微笑んで、小さく布団から指先を出して額を指し示すと、新一の口許が微苦笑へと変わる。
「ああ。それも服部。『風邪引いた』ってヘルプ出したら山ほど何か抱えて飛んで来た」
「そうじゃないよ。アイツじゃなくて、新一もちゃんと見ててくれたよ。知ってる」
 言葉を重ねると、照れたように彼はやや下方へと視線を流した。あれ、と快斗は言を継ぐ。
「……そーいやどうしてアイツがそんな色々……もしかして騙した?」
「人聞きの悪い。ちょっと主語抜いて話しただけだぜ。誰がって所をさ」
 十中八九、世間一般的にはそういう態度を騙すとか担ぐとか言う筈だ。
 しかし服部平次の態度は相棒に騙されて知り合いでもない人間の看病を押し付けられたにしては、迷惑そうなそぶりは見えなかった。むしろ、構いたいオーラが滲み出ている『対・新一仕様』のお節介で世話好きな服部平次バージョンに近い。
 しかしながら、それだけではないのを快斗は気付いていた。
 そこそこ愛想は良かったものの、瞳の奥には快斗がどういう人間で新一とはどういった付き合いがあるのかを会話の端々から推し量ろうとする、観察する視線、のようなものが垣間見え……。あたかも、笑顔の下で、採点されている気がして。
 新一が服部平次を呼び出すなんて分かっていたらつまらない人恋しさに負けたりせず、米花に……この街には近寄らなかった。だが、自らの浅慮を悔いた所で時既に遅しである。
 後の祭りだ。
「今からでも帰ろーかなぁ」
 かなり本気の呟きには『バーカ』とゲンコツが降る。状況を考慮したらしく、軽くぽすっと頭の上に落ちて、くしゃくしゃと前髪をかき乱して離れる。
「ちゃんと風邪が治るまでここにいるなら、その後でどこに行こうが何をしようが煩く言ったりしねぇよ。だから、それまでは勝手に消えるな。別に服部と仲良くしろなんて言わねぇから」
 いいな、と念を押されても頷けはしない。なんだか予想外に仕切られてしまって、気分はすっかり無気力モードとやさぐれモードの合わせ技一本である。
 だけれども。
「こんな時くらい、ちゃんと心配させろよ」
 小さく付け加えられてしまうともうダメだった。
 普段から照れと見栄っ張りの陰に隠れてなかなか出て来ない、素直とはかけ離れている友人のストレートで誠実な言葉と、こんな風に真っ向からその表情を捕らえてしまったら……彼の言葉に嘘がない事なんて一目瞭然だから。快斗は小さく首肯して、消えたりしないと約束するしかなかった。
 ……服部平次に対する個人的感情はさておいて。
 その服部平次はと言うと「入るでー」と大きなトレイと脇に服らしき物を抱えて部屋へ戻って来た所で、何やらビシッと表情を凍りつかせた。
「ななな、ナニやっとるん、ジブンら……」
 どうやら動揺しているらしい。らしくなく上擦った調子で問い掛けられて、室内にいた二人は顔を見合わせる。
「何って……別に? 喋ってんだけど」
 きょとんとした表情で至って普通に答えた新一に、二、三度忙しなく目を瞬かせて平次は言を継ぐ。
「いやあのなァ、俺は別に全然かまへんねんけど、……その態勢でか……? えらい至近距離やと……」
 ゴニョゴニョと語尾が消えて行く。
 二人はまた顔を見合わせて平次の言う『態勢』について鑑みてみた。
 快斗は変わりなく布団に押し込められ寝転んでいる訳だが、新一は快斗のベッドに腰を下ろして覆い被さるようにして額と額を寄せ合っていたのだ。見ようによってはキスシーンだか襲っているだかに見えなくもない。
 成程ね、と一人得心がいった快斗だったが、友人にはそういった発想は出て来なかったようで「コイツ咽にもキテてさ、ろくに声出ないんだぜ」とさらりと受け流してしまう。
「……さ、さよか。そら難儀なこっちゃ」
 実際あまり声が出せないのも事実だったが『風邪が移るから』と近寄らないよう諌めた快斗をこの友人はあっさりと丸無視してくれたのだ。
 結果ラブシーンもどきを目撃された訳だが、誤解を受けた事すら分かっていないらしい新一は天然さで受け流し、分かってしまった快斗もわざわざ訂正を入れなければならない必要性を感じず、黙殺を選ぶ。
 新一が気にしてもいないなら服部平次がどう思おうが知ったことではないからだ。快斗自身にとっての工藤新一と服部平次の対応の違いは明確である。
 複雑な表情だが、平次も余計な突っ込みを入れたらやぶ蛇どころか藪から竜でも出しかねないと踏んだのか、それ以上の追求もその件についての後を引く問答もなかった。
 気を取り直したか、悠々と彼は近寄って来る。トレイの上には様々なものが乗っていた。
「ほい、工藤」
「あ? なんだよ」
 覗き込みに来た新一に平次が手渡したのは皮を剥き六分割され、種も抜いてあるりんごの乗った皿と、ガラスの器。
「んで、これな。指まですったらあかんで」
 仕上げに下ろし金を差し出される。
「馬鹿にすんな。りんごすり下ろすくらい楽勝だ」
「せやろせやろ、そう思っとったんや。頼むわ。で、ジブン起きれるか?」
 前半は新一に、後半は快斗へ向かって発せられる。平次に簡単に使われてしまった新一は、真剣な顔でりんごと下ろし金と格闘を始めた。
 快斗はそれを横目で捉えつつ、ふらふらする頭を押さえながら、どうにか身を起こした。差し出された手に、頼る気にはなれない。
 いつか見栄で命を落とすとクラスメイトの魔女にも忠告を受けたが、見栄もつまらない意地も遺伝子レベルで組み込まれてしまっているのだから仕方がない。正しく二つ名を持つ父親譲りである。
 そんな意地をどう思ったか、平次は軽く眉をしかめたものの黙って快斗の背に半纏を羽織らせた。トレイと共に部屋に持ち込まれたものである。
 新一の持ち物なのか家人の物か、どちらにしても工藤一家とはあまりイメージは重ならない。けれど快斗は自宅でも着ていた半纏のその綿の重みともふもふする手触りがかなり好きだった。
 触れられる手触り一つで少なからずホッとする自分がいる。
「ほな、これからいこか。ムカムカするようやったら無理はせんでええけどなるたけ食いや」
 と、快斗に差し出されたのはお椀と箸だった。
「……味噌、汁……」
「よりは薄い思うで。ダシ取ってへん長ねぎ湯やねん。長ねぎのニオイの硫化アリルが消化吸収を助けるんやて。ビタミンB1の効果を上げて血行をよぅするしビタミンAやらCも取れるさかい、解熱にええゆー話や。ああかまへん、気にせんで飲み、あっつい内に飲まんとあかんけど舌は気ィつけや」
 けして無口な方ではない快斗だったが、あまりにもよく回る舌とウンチクに棚の上に上がって『恐るべきカンサイジン』と気持ち遠目に見てしまう。その程度には、すごいテンションだ。
 促されるまま長ねぎ湯を口に含む。
 見た目そのまんま味噌汁である。
 味はというと、薄目の多少ヌケがちなねぎ味噌汁といった有様で、食欲減退中のわりにはムカつきもなくすきっ腹に優しい味になっている。
 味に関してのコメントは避け黙って飲み干すと、平次はヨシヨシと満足そうな笑顔を見せた。
「なんや、ちゃんと食えるやん。せやったら粥かうどんでも炊いてきたったら良かったなー。腹減っとるんちゃう?」
「……でもない。りんごは、食べる」
 こうあからさまに話し掛けられては流石に無視は露骨過ぎると、しぶしぶ答えた快斗の台詞だったが、新一は俄然張り切ってスピードを上げる。どこか危なっかしい手つきをハラハラと二人が見守る中、新一は指先まですり下ろす事なくどうにか大役を果たした。
 カツッと下ろし金を器と打ち鳴らしくっついていたりんごを落とす。
「ほい、お疲れさん」
 器は新一の手から平次に移り、仕上げにスライスレモンを指で搾ると快斗のもとへとやって来る。
 友人の期待に満ちた瞳で見守られながら一口、二口と口へと運ぶ……りんごのさわやかな甘味とレモンの酸味が絶妙で快斗は保っていた筈の無表情を束の間忘れ、へちゃっと幸せな気持ちのままに微笑んだ。
「……美味しい〜」
「そーだろー。あ、オレも一口」
 寄越せ、と迫る新一から快斗は慌ててスプーンを遠ざける。
「何言ってんの、風邪移るってば!」
「今更だろ。移る時はどうしてたって移るもんなんだよ。いーから一口食わせろ」
「うわ〜無茶苦茶言うなぁ、もう……」
 諦めて快斗はすりりんごをひとすくい新一の口に放り込んだ。納得したのか、彼はすぐに満足気に微笑む。快斗はそれに苦笑で返したが結局はつられて笑ってしまった。
 すると。
 右脳辺りにぴりぴりと視線が突き刺さって来て、快斗は慌てて振り向く。先には平次がいた。二人を……否、快斗を、見ている。
 だが、視線を向けた途端に刹那の強烈な視線の圧力は消え失せて、瞳にはどんな色もなく綺麗に払拭されてしまっていた。見間違えたかと思う程に、ものの見事に。
「……ナニ」
 顔を強張らせた快斗だったが、平次は更に数秒沈黙を重ねてから「いや? 何もあらへん」と軽く流す。
 何気ない素振りで立ち上がって。
「三時くらいにまたなんぞ作って来たるから、それまで寝とり」
 快斗の枕元に某有名メーカーのイオンサプライ飲料のペットボトルを二本並べる。
 そしてステンレスボトルと。
「番茶や。ほんまは梅干し入っとる方がええねんけどあらへんかってん。今はこれで勘弁したって。……ほな、降りよか、工藤」
「いや、オレはもう少し、」
「一人の方がよぅ眠れるんちゃう?」
 新一が快斗を見る。
 冷静に真偽を問う視線に一つ頷き返すと「そっか。じゃあ」と彼も続いて腰を上げた。
「ちゃんと大人しく寝てろ、よ?」
 勝手に出ては行かないと約束したにも関わらず、よほどの信用がないのかそれともそれとこれとは別物だという事か、新一は尚も念押しする。
 『ハイハイ』と快斗は承諾し、連れ立って出て行く二人の背中を見送ったのだった。
 僅か前、同じように彼らの背中を見送った。皮肉にも風邪を引いたのは明らかにその時であると思われ、場に居合わせた二人の探偵はというと腹立たしいがまるっきりご健勝ときたもんだ。
 多少状況に差があったにしても、自分独りがこの体たらくとはまったくもってやってられない。
 つくづくついてなかった、と快斗はもぞもぞと半纏を脱いで再び横になったのだった。

◆KEEP OUT:平×快◆つづき


HOME

コナンTOP
通販案内

  1. ここは、いちコナンファンが勝手に作っているページで、講談社・原作者等とは一切関係ありません。
  2. 2号が霜月弥生の許可の元勝手に作ってるので誤りがあったら申し訳ありません。詳細はメールで必ずお問い合わせ下さい。