off-day *2



4《そして彼はいなくなった》

どこをどうやって道を辿ったのか、快斗にはよく思い出せない。
ともあれ何かを言って白馬の部屋を出たのではあろうし、白馬邸を離れて工藤邸へとちゃんと足は向かっていたようではあった。
 ただどう告げてあの場を離れ、どの路を辿りどこで電車を乗り換えて米花へと着いたのか、記憶は断片的であやふやなものでしかない。
気がついたら工藤邸の門に手をかけていて、たった今玄関から吐き出されて来た友人達の姿をあっけにとられて見つめていた。
「もぉ知らん! こないなとこ、一秒だっておれるかい!」
「おー帰れ帰れ! 誰もいてくれなんて頼んじゃいねーよっ!」
もつれるように飛び出して来た大阪人が叫べば、家主は家主で間髪入れずに怒鳴り返す。
「頼まれたってお断りや。精々好きなようにしたらええ、どうせまた壊すんがオチやねんから」
「っ! 出て行けよ! 二度と面出すな!」
吐き捨てるように言い放った平次に、鋭く切りつけるような語調で新一が応酬する。頭に血が昇った勢いのまま玄関扉を閉めようとした新一が、先に快斗に気づいた。
 次いでやっと平次も門に手をかけたまま固まっている快斗に気づく。二人の睨みつけたまま向けられた視線は快斗を捕らえると、僅かに怒気を削ぎどこか気まずい色合いは混じったものの依然として厳しい表情は保たれたままだった。
平次はいつものように綿のシャツにジーンズ、お気に入りのキャップを被っている。
 違うのは工藤邸に転がり込んで来た時に見たきりだった、ドラムバッグが肩から引っかけられているという事だけで。
「へーじ……出てくの……? ねぇ新一……?」
交互に問うと平次は一言「そぉや」と返し、新一は「見りゃ分かるだろ」とそっけなく呟く。
 ひどく突き放した二人の態度は、よくある東西名探偵のじゃれあいのような喧嘩とは一線を画していて、快斗は内心強い焦燥に駆られた。
 今、こんな処で二人に離れられては、困る。不安要素を残して行く訳にはいかない。
 門を握っているてのひらがいやに汗ばんで感じる。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。何があったのか知らないけどさ、二人共少し落ち着いて」
「出てくっつってんだから、黙って出て行かせりゃいーんだよ」
「新一っ!」
新一は言った傍から扉を叩きつけるように邸内へ入り、平次は振り返りもせず快斗を押しのけるよう門を出て行く。
「へーじ!」
「世話なったな、黒羽」
「ちょっ、……待てってば」
慌てて快斗は平次のシャツを掴んで、
「バイク、置いてどこ行く気?」
 と、囁く。
はっと足を止めた平次に素早く掠め取ったキーホルダーをかざす。取り返そうと伸ばされた腕からは距離を取り、彼の目の前でキーを消して見せると平次は苦虫を噛みつぶしたような顔で低く呻いた。
「黒羽……、それ返せや」
「ダメだよ、そんな頭に血が昇った状況で乗るもんじゃない」
自覚があるのか、平次は快斗の指摘に視線を逸らす。
「頭、冷やしな。駅前のキング、知ってるよね?」
「……説得される気ィはないで」
「それでもいいよ、とにかく話しよう。後で行くから行ってて」
渋々といった態で平次は頷き踵を返した。駅に向かう後ろ姿を確認して、工藤邸に向きなおる。
 賑やかに過ごした夏の思い出は全てこの家と、この家に居た友人達と共有している。それを予定より早くこんな形で見納めになってしまうのは残念だったが、仕方がないのも分かっていた。
 今、出来る事をするしかない。
快斗は一つ気持ちを落ち着けるよう大きく深呼吸をして、工藤邸へと乗り込んだのだった。

 

 

 邸内は静まり返っている。
 一番可能性の高い自室を避けて邸内を一巡りした快斗は、ある結論に落ち着いた。
 曰く、先程扉を破壊する恐れのある勢いで叩きつけた東の名探偵の姿は、自室にある、と。 そうして恐らくは鍵をかけ立てこもりの態勢に入っているのであろう、とも。
時計を確認し、きっちり五分後に快斗は新一の部屋をノックした。
「新一? 開けて、オレ」
 そっと問いかけるがそんなもので目前の扉が容易く開く筈もない。彼の頑固加減を熟知している快斗としても、この程度で天の岩戸が開くとは思っていない。
「へーじ行っちゃったよ。大阪帰るって言ってたけど。いいの? アイツ行かせて」
「いーんだよ、服部なんか居なくたって!」
ドア越しに新一がさも不満そうにそう主張する。
「何があったか知らないけど……このままへーじ行かせたら、もう残り少ない夏休みにはきっと会えないと思うよ?」
扉に囁くように言う。
 返るのは、沈黙。
 沈黙という事は快斗の言葉を聞いて少しは気持ちが揺らいでいる証拠でもある。そうでなければ新一は即座に反論して来るに違いない。
「どっちにしたって二学期になったら大阪と東京だよ。会いたくなっても直ぐに会えなくなるんだからね。ましてや喧嘩別れして遠距離だ。仲直りのタイミングだって簡単じゃないよ」
がさごそ、と室内で物音がする。十中八九、新一がふて寝の態勢から、上掛けごとずるずると扉まで移動している音。
「新一。ねえ、本当に分かってる? 次の瞬間には誰に何が起こるか分からないんだよ。いつも新一達が目にしているような事件が、オレや新一やへーじには降りかからないなんて保証、どこにもないんだよ?」
 沈黙。
「そんなの、新一が一番分かってる筈でしょ」
……沈黙。
 快斗は小さく溜め息を落とす。……言わずもがな、わざとらしくない程度に聞こえるか聞こえないかで。
「寂しくなっても知らないよ」
「寂しくなんかねぇよっ」
強がった応えが即行で突っ返されて、快斗は喉の方だけで少し笑う。
「そう? ならいいけど。オレも出て行く事になったから、じゃあ新一、元気で」
「えっ?」
言葉半ばで、慌てたように新一が扉を開いた。ぶつかりかけて扉の前から一歩退いた快斗の顔を見て、一瞬で血を昇らせる。
「あ! おまえはめやがったな!」
扉を開けさせる為の方便だったのかと食ってかかる新一に、快斗は苦笑で否定する。
「違うよ、本当」
「え」
「荷物は玄関にある、業者には連絡しておいたから来たら引き渡して」
「ど……うしてだよ、そんな事一言だって……!」
可哀相な位、新一はうろたえ、動揺していた。
「まさか……服部が出てったから……? あいつと行くのか」
「そうじゃないよ。へーじとは無関係に個人的な事情なんだ。夏休み楽しかったよ、ここに置いてくれてありがとう」
「なっ何だよ、二度と会えないみたいな変な言い方すんなっ」
「言ったよね、可能性は公平だって。オレが出てくの、寂しい?」
新一がはっしと快斗の腕を捕まえた。彼の表情に怯えと動揺が同時に浮かぶ。起因するものの正体を快斗は知っていた。
 ……不安だ。
「快斗……?」
「ね。教えてよ。……寂しい?」
問いを重ねる。
間を置いて、強ばった顔のまま新一が頷く。指はしっかりと快斗を掴んだままで。
「……寂しい。おまえ、なんとなくずっと居るような気がしてたから……」
「オレもだよ。楽しかったから余計にそう感じるんだろうね。ついでに、素直に答えて。へーじが出てくのは、寂しい?」
新一は唇を噛んで俯いてしまう。
「喧嘩の原因も聞かないし、どっちに非があるのかなんてオレは知らないけど、それってそんなに大事?」
プライドとか、謝るとか謝らせるとか。行き違った意見と引っ込みのつかなくなった言い合いが、いかに無為で後悔しか生み出さないか、快斗はもう知ってしまっている。
 新一は俯いたまま顔を上げない。きゅっと下唇を噛んでいるのだけが、辛うじて視認出来るだけだ。
 そんな彼の姿はまるで苛めているようで心苦しいが、それでも快斗は問いかけを止めなかった。
「もう二度と会えなくなるかもしれなくても、それでもこだわるの……?」
「快斗? それ、どういう……。おまえ、家に帰るんだよな……?」
不意にそれまでの工藤新一の目が、探偵の鋭い目となり快斗を見返した。
 こんな時の彼は大抵快斗の隠したがっているものばかりを見透かして、一足飛びに核心を突いて来るひどくやっかいな探偵、いや、名探偵と呼ばれる生き物になる。
 やっかいで扱い辛くて理知的で時に大胆で……往々にして快斗を惹きつける魅力を持つ。快斗はそんな生き物にばかり惹かれる自覚があった。
「快斗」
新一が、曖昧な笑みで答えない快斗に焦れたように詰め寄る。快斗の言葉に隠された意味合いについて、問い質そうとしているのは分かった。
 だから「ごめんね」と謝って、至近距離から隠し持っていた睡眠スプレーを噴きつける。
「かいっ…!」
瞬間もがき、がくっとくずおれる身体を快斗はそつなく両腕に受け止めた。
 スプレーは即効性のあるタイプでそれに抗うのは並大抵の事ではない。
 にも関わらず新一は快斗の腕を震える指で必死に掴んで、しきりと瞬きを繰り返す。
 それを為したのが快斗と承知の上で尚、それでも……その手を放す事によって起こる何事かを懸命に防ごうとでもするかのように。
「よく考えて。新一は、取り返しがつかなくなっちゃう前に……」
彼の意識が保てなくなる寸前に、快斗は耳元に囁く。自分に出来るアドバイスは、きっとこれが最後。
 せめてと囁きに込められた願いは自戒と同種のものなのだと、知るものはなかった。

 

§    §    §

 

 駅前のキングは駅前と言いつつ米花駅前の通りからは一筋離れている為、実は案外知られていない。
 客はいつだって少なく快斗が行った時に一人二人いれば繁盛しているといった具合だ。
 かと言って店内の居心地が悪いとか、メニューの品数が少ないとかまずくて食べれないといった訳ではない。むしろ快斗好みの甘味類は豊富で、知られてしまいさえすれば店内は若い女性客で埋まるに違いないと常々踏んでいる。
 ましてや店長の趣味が悪いとか、値段が法外だ、なんてこともなくあえて言うなら店舗が今風のこじゃれたカフェでないのが原因かもしれず、そうして閑散としているが故に快斗の普段使いのお気に入りの喫茶店でもあった。
 快斗がキングに入ると、ドアベルの音でようやく登場を知ったらしい平次が、むっとした顔で視線だけ向けて来る。
 そんな視線には取り合わず、快斗は大股で店内を横切って平次の前で立ち止まった。ジーンズの後ろのポケットに親指を引っ掛けて、見据える。
「頭、冷えた?」
 変に冷静な声が出てしまうのはポーカーフェイスの修行が未だ足りていないせいに違いない。
 不本意ながら、現状と相俟ってまったく自分自身に余裕が足りていない。
 平次のアイスコーヒーは半ばで放置されて、氷はすっかり溶けてしまっている。快斗が平次の後を追うまでに流れた時間の経過がそこでも見て取れた。
 だが、平次が工藤邸を飛び出した時ほどかっかしていない事は一目瞭然でも、完全に冷静さを取り戻したかどうかまでは一目では判然としない。
「キー、寄越し」
 平次のたった一言の返事は、実に分かり易く快斗に否やを伝えた。
 ああ、そう、と快斗は心の中で呟いて平次の斜向かいに腰を降ろす。素早くやって来たウェイトレスにアイスカフェ・オレをオーダーすると、快斗もまた黙り込む。
 テーブルには異様な雰囲気がたち込めた。
 『異様な』を言葉を端的に表すなら『ヘビとマングースの睨み合いめいた双方の気迫が込められた沈黙』とでも言おうか。
 この夏休み、工藤邸で築かれた共同生活に端を発する気さくさも、間に家主を挟んで温められた居候同士の結束も、今はひっそりとなりを潜めている。
 どちらが先に口火を切るか、そんなタイミングを計るような沈黙である。
 ややして。
 カフェ・オレと共に置かれた伝票を、平次がすっと手許に引き寄せた。平次から提示された休戦の印に、快斗も隠していた彼のキーホルダーを大人しく伝票の上に置く。
 一応の休戦協定成立である。
「本気でこのまま帰るつもり?」
「そのつもりや」
 アイスコーヒーのグラスを弄んでいた平次は、窓の外を睨むように見ている。
「説得される気ィはない、言うたやろ」
「してないじゃない。話してるだけ。……で、この騒動のそもそもの原因は何なのさ」
「……工藤から、聞いて来たんと違うんか?」
 窓の外を見やっていた平次が怪訝そうに、ちらりと視線を寄越す。彼なりに快斗の登場の遅くなった理由を推測していたのだろう。
「聞いてない。聞いた処で素直に言うと思う? あの新一が」
「……せやな」
「今朝までは支障無くやってたように、オレには見えたんだけど」
 二人仲良く、と言いかけて少し考えて『支障無く』と言いなおす。
 少なくとも快斗が工藤邸を飛び出した時点ではいつも通り……東と西の友人達の間に深刻な揉め事があるようには見えなかった。自分の事で手一杯だった快斗だが、それは断言出来る。
 平次はくいっと水っぽくなったアイスコーヒーを煽って、もう一度窓の外へと目を走らせて諦めたように視線を落とした。
「確か、事の始まりは、洗濯機やったと思う」
 渋々話し出した平次の重い語調と裏腹に、出たのは暮らしに必須の家電機器の名前だった。
「今使っとる奴、もうやばいやろ。それで次に買うのはどんなんにするかでもめてん」
「………」
「俺は二層式でええ言うのに、工藤は一層式のしかも乾燥機つきにする言い出しよって。乾燥機なんぞいらん、一層式は水のムダや言うてんのに、全自動の楽な方でいいの一点張りで聞く耳持ちよらんのや」
「…………はぁ」
「どうせ使うんは俺や言うたら、買うんはオレやて工藤も引かんと終いには大喧嘩になっとった」
「………そんな事でオマエ、大阪帰るまで言ったの?」
 流石に快斗の声にも呆れが滲む。あれ程険悪な別離の原因が一家電に過ぎないとは快斗の予想を遥かに越えていた。
「いや、なんやこう……そこから発展して色々……」
 ばつが悪いのか平次の声がごにょごにょと消えて行く。
 だからナニ? と強く視線で先を促すと大きな身体を精一杯小さくして、平次は再度口を開いた。
「言うとる内に段々、腹立って来てもぉて。休み、もう何日も残っとらんのに、なんでこんなしょうもない事で喧嘩せなあかんのやろ、とか、なんで工藤はそう思わへんのか、とか。思ったら、もう……止まらへんかった」
そしてあの『出て行け』『出てったる』の大ゲンカに発展した、と。あまりのバカバカしさにしばし快斗はべったりとテーブルに懐いた。
「……言わせてもらっていい……?」
「言わんとって。あんまり聞きたない気分や」
ようやっと頬杖まで身を起こして尋ねると、平次の返事も力なく返って来る。
 話している内に彼としても冷静にならざるを得ない部分があったのだろう。
 鎮火した、と快斗は見定めた。
「そう。じゃあその件についてはもう言わない。……新一ン所、帰る?」
 むぅ、と平次はそれでも眉間に深く皺を寄せ考え込んだ。彼の頭の中では今日の一連の出来事と、今日までの生活が天秤にかかって、左右にぐらぐらしているに違いない。
 下に投げた視線が天井へと上って、そしてふらふらとさ迷う。時折窓の向こうへと消える視線の意味に、快斗は気づいた。
「ここで見てても新一は来ないよ」
 キングは通り一本外れているから米花駅へ向かう人を見れないのは事実だ。しかしながら快斗の言はそういった意味ではなく、新一はここに現れる事はない、という現実を指していた。
「そら、どう……」
 正確には、彼は、来れない。平次は知り得ないが新一は快斗の手によって今現在、強制的に夢の中に居るのだ。
「まだ小一時間は寝てんじゃないかな」
軽く言うと、平次は不意にその意味を汲み取ったか、じろりと訝し気な視線を向けて来る。
「工藤、どないかしたんか」
出てきたのはそれでもまだ快斗が何かした、とは考えてもいない台詞。快斗はニヤ、とネコ的に口元だけで微笑んだ。
「自分で確かめるんだね」
背筋を伸ばして快斗を見返す平次の瞳の中には様子を窺うような、不審がる色が次第に強くなってゆく。
「……黒羽……?」
カシャン、と快斗のグラスで氷が音を立てた。
「オレ、帰るからさ」
「へ? 帰るて、一緒に帰るんか?」
平次は唐突にはみ出た会話に、戸惑いながらも切り返して来る。
違う、違うと、快斗は苦笑した。
 帰ると言った時に、もう平次は寝屋川の実家ではなく工藤邸を無意識に念頭に置いて語っている。はなはだ服部平次らしく微笑ましく思えた。
「ちゃうの? 帰るて、ジブン……工藤ンとこ、出てくゆうとるんか」
「ご名答。お邪魔虫は退散って訳。残り少ないお休みなんだからさ、仲良くしなよ」
「俺も工藤も、黒羽を邪魔やなんて思てへん。大体えらい急な話やんか。今朝までジブン、何も言うてへんかったやん」
「それを言うならへーじだって、今朝まで新一とケンカなんかしてなかったじゃない」
ちくりと突っ込むと面白い位に、平次がぐっと詰まった。
「そらそやけど……でも、ちゃうやろ。ジブンはちゃうやん。俺らと何ぞあったから出て行く言うてるんやない。……今日、何があったんや?」
「なーいーしょっ♪」
しーっと人差し指を唇の前で立てる仕草に、平次の顔は相当嫌なものでも見てしまった時ように歪み、次いで『いやここで怒鳴ってはいけない』と自らに言い聞かせるようしかめっ面になり、最後には呆れの表情に落ち着いた。
 今日何があったか平次は知らない。
 知っていれば話はもっと早かったかもしれない。だが同程度の確率でもっとこんがらがる可能性もある。探偵達は揃いも揃って危険に首を突っ込むのがとんでもなく得意業だから。
 テレビをつければ瞬時に明らかになる事態を、出来れば平次には知られないまま新一の元に引き返してもらいたい、というのが現状の快斗の望みだ。
 事件が間を置かずに発覚するとしても。
 なんせ白馬の元に情報がもたらされてから小一時間がたつ。警察が報道規制を引いていなければ、臨時ニュースのみならず既に特番の一本や二本はもう組まれているかもしれない頃合で。
「いわゆる家庭の事情みたいなもんだよ。気にしない」
「するな言うたかて、気になるやん」
平次はいたく渋い顔である。
 快斗はストローを引っ張り出して、直接グラスに口をつける。一気にカフェ・オレを飲み下し、仕上げに氷を一つ口に含む。
 心地よく急激に喉から胃までが冷えるが、喉の渇いた感じはしつこく残ってる。
 恐らく、ただの黒羽快斗として立つまで決して癒されはしないであろう、渇きが。
 それが焦りを産む訳ではない。
 ただ、こうして話していても快斗の頭の中では次々にこれからするべき事柄がメモされていっている。快斗が把握できていない事も、また、多い。それが懸念となっているのも確かで。
 ガリッ、と快斗は氷を噛み砕いた。
 瞬間、胸ポケットで携帯電話が震える。
「あ」
 バイブレーションで予め設定してあったメッセージアラームが、時を知らせた。
 平次との会話は転がる方向性によっては、楽し過ぎて時間を忘れる危険性がある。その対策として設定して置いたのだが、正解だったと快斗は思う。
「時間切れだ。オレもう行かなきゃ」
「ちょお、待てや」
宣言と共に立ち上がった快斗を、平次が慌てて引き止める。
「工藤が寝とる、いう理由、まだ聞いてへんで」
「なんだ、覚えてたんだ」
けろっと言う快斗に「当たり前や!」と平次は眉間にきゅとシワを刻んだまま、座れと指先と瞳の力で快斗を促す。
 快斗は従わず、突っ立ったまま、へらりと笑みを浮かべて強烈な視線の力をやり過ごす。
「やーだなぁ、そんなコワイ顔しちゃって」
「やかましい。ちっとも怖いなんぞ思っとらん癖してからに。……とっとと吐けや」
 茶化しには乗って来ず、平次はすっぱりと切って先を促す。
「んー……単に、へーじが帰るまでに入れ違いになったら困るなと思って、寝てて貰ってるだけだよ。新一の意地っ張りも筋金入りだから、そこまでしなくても良かった気もするけどね」
「なんでや……? 俺が出て行こうが行くまいが、ジブンが騒ぐこっちゃないやろ」
「ところが大問題なんだな。何と言っても新一はオレと似てさびしんぼさんだから、一ヵ月も三人で暮らしたのに急に独りぼっちになったら、きっと寂しくなって泣いちゃうよ」
 強打点は『オレと似て』にある。快斗と新一は似ているから、彼を独りにしてはいけない。快斗はキッドで、新一は快斗に似ている。
 だから危険だと。
 そう告げる事は出来ないから、柄にもなく地道な話合いなんかをこうやってちんたらしている。
「新一が泣いちゃったら快斗くんも悲しくなっちゃうからね。ほら、大問題」
 平次に一服盛って、工藤邸へと強制送還するのは容易い。
 けれどもあくまでソレは一時的な措置に過ぎず、正気を取り戻した二人が同じ道を辿ればやはり新一は独りになるし、それ以前に寝こけた西の探偵など番犬ほどのあてにもならない。
 それでは困る。
 しっかりと目も耳も研ぎ澄ました状態で彼の傍らに居てもらわなければ、無意味なのだ。……いつも通り。
 「ンなアホな、」と平次は呆れたように嘆息した。
「その理屈やったら俺説得するよりジブン居ったらええ話やん」
「出来ないからこうして話してる」
「………ほんまに、どないしたんや」
平次もつられたように立ち上がった。ガタ、と椅子を引く音がやけに店内に響く。
 やっと、合わない視線の違和を感じとったらしい西の探偵に、快斗は薄く口元だけで笑いかける。酷薄な笑み。
「失いたくないと思うなら、ちゃんと傍に居なきゃダメだ」
 平次は真顔で快斗を見返す。……快斗の言葉の裏を考えている、瞳。
 快斗は曖昧に笑った。
「……ごちそうさま」
 伝票は彼の手元。恐らくそのままポケットへ戻る筈の愛車のキーの下にある。
 そして踵を返した。
「黒羽」
 追いかけて来る平次の声に、振り返らずに『じゃあね』とてのひらを振る。
 彼がどうしたのかと問うているのは分かったが、振り返ると未練が残りそうだった。
 この夏。
 めげた時もへこんだ時も、絶望的に落ち込んだ時も、彼等がいてくれたから何でもない顔をしてもう一度、と奮起出来た。
 これからはまた独り。探偵達と出会う前と同じように快斗が背負うのは、快斗自身ともう一つの名前の重みだけ。それだけで良い。
 受け継いだのは自分。他の誰であってもならないし、他の誰に譲るつもりもなければ関わらせるつもりもない。
 父の遺産。怪盗キッド。
 その名に何が起こっているのか。 それを知る為には、快斗は暖かい、居心地の良い場所でまどろんでいられないのも確かで。留まってはいられず、流れに逆らってでも、進まなくてはならないのだと知ってしまった。
 新一の顔も平次の顔も、記憶の一番新しいものが笑顔でなかったのが、少し切ない。
 そして、もう一人の探偵の顔も。
「一人くらい、笑顔で分かれりゃ良かった」
 そうすれば思い返す時に、快斗も笑顔になれたかもしれない。切ない気分にならずにすんだかもしれないのに。
 けれど仮定法過去は所詮、仮定法過去でしかなく、思い返すのはきっと心配そうな顔、訝しげな顔、動揺した瞳なのだ。
 誰もいない裏道で、快斗は僅かに……ほんの少しだけ笑った。

 

§    §    §

 

「寺井ちゃん? ちょっと頼まれてほしいんだけど……、」
 署内に仕掛けた幾多の盗聴器で左耳から必要な情報を拾いながら、空いた耳に携帯電話を当て、相手の心配気に響くいつもの声には不敵に微笑んで。
 人ごみの中をすり抜けるように歩む足取りも、時折ショップを覗いて足を止める姿も、どこにでもいる高校生と何ら変わりはしない。よく見れば秀麗な顔立ちもその立ち居振舞いも決して目立つ訳でも、なく。
 唯一、只ならぬその瞳を除いて。
「ああ、うん、知ってるよ。だーいじょうぶ、ヤバそうだったらちゃんと考えるからンな心配しなくっても、平気だからさ」
 宥める声は柔らかく、少しの迷いを表すように視線は付近へと漂わせる。
 だが、間を置かずまとわりつく熱気を振り払うように、軽快に地下街へと足を向けた。
 地下へ潜る人並みと、地下から涌き出る人並みが階段付近で入り乱れている。
 急ぎ足で過ぎる者。のんびり闊歩する者。はたまた、歳若い者もいればそうでない者もいる。
 けれど少年に注意を払う人はいない。
「なるべく、早めの便で。……サンキュ。……寺井ちゃんも気をつけて」
 最後だけは軽い調子を改めて、強く締めくくる。
 肩がぶつかりそうになったサラリーマンが、軽く顔をしかめて足早に通り過ぎた。……たった今通りすがった人物が何者かだなんて、欠片も知る事もなく。
 華奢な少年の背中は瞬き一つの間に地下街の人込みに紛れ、消えた。

 

 ……それきり、誰も黒羽快斗を見ない。

 

 

暖かい場所を捨て
孤高に 立つ
身に纏う 幸福のシンボル

願いは ただ、
幸せであれ と

それだけだったのに

愛 健康 富 名声

四つの葉に託された 願い


四葉の持つ もう一つの真実を
未だ知らず

 

5《捜査開始》

「ぅどう! 工藤!」
ぼんやりする頭を叱咤する声と刺激。
「しっかりせぇ、工藤」
ぺちぺち、と、刺激は頬を軽く叩くてのひらで、声はよく知った男の物だと徐々に認識していく。覚醒を促す声に、新一は知らず呻いた。
「工藤……? 大丈夫なんか」
声に気づかわし気な色が濃くなり、頬に添えられた覚えのあるてのひらに促される形で、無理やりに新一は瞼を持ち上げた。
 手を、声を、その持ち主を、知っている。
「……、っとり……?」
あやふやな男のシルエット越しにぼんやりと天井が見える。
 先に焦点の合ったそれを自室のものだと判断して、慌てて覗き込んで来ている顔へと視線をずらした。
 幾度か瞬きをくり返して、どうにか鮮明に捕らえた顔は、ひどくほっとした風の服部平次だった。
「良かっ……」
 声が小さく消えて、まるでなかったものとするように、もう一度平次は口を開いた。
「……どこも、どぉもないな?」
 念を押され、新一は慌てて頷く。
「眠ぃだけだ。おまえ、どうして……? オレ……、あ、快斗は?」
 矢継ぎ早に質問を発っし、身を起こしかけた新一は思いがけずそのままバランスを崩して、ベッドの上でふらっとよろめいた。
「くど、」
 平次の手が伸びる前に咄嗟に腕をついて、堪える。
 大丈夫だ、と、目で彼を制して、だるさを訴える身体をゆっくりと立て直すとベッドに腰をかけて、床に足をつける。鈍重にしか動かせない動作に小さく舌を打つものの、だからといって彼の手を借りるつもりもなかった。
 平次が、傍らから気づかわし気な視線を寄越して来ているのは痛いほど感じていたが、いつものようにまっすぐ見返し見上げるのには抱えている葛藤が邪魔をして、難しい。
 間近な存在が、唐突過ぎて。
 その身を当たり前に感じるには、まだ少し時間が足りず、視線を彼の顎辺りに引き下げて置く事で妥協した。
「……どうして、ここにいるんだ……?」
 躊躇いつつも、もう一度問いかける。
 出て行け、出て行く、と怒鳴り合ったのはつい先程。怒鳴りつけた声も、胸の中で荒れ狂っていたいら立ちや気持ちの通じない事によるもどかしさの痕跡も、新一の中に未だ色濃く残っているというのに。
 なのに、平次はいつものように幾分困惑気味に眉を八の字に下げた微笑みを浮かべ、ベッドの傍らに立っている。
「頭冷やして来たんや。このウチ帰って来て、工藤呼んでも返事せぇへんし、黒羽は寝とるだけや言うとったけど、全然起きへんもんやから、」
 一旦、言葉を切って、平次は視線を落とす。手が、落ち着かないのか、行く場に困ったのか、少しさ迷ってからジーンズのポケットに引っ掛けられる。
「ちょお、背筋寒なったわ」
 そんな場合でもないのに、肘の角度とそのラインから新一はしばし目を離せなかった。
 彼は剣道を長く続けている。そのせいか普段から鍛え方が違うのか、むきむきの筋肉質な性質ではないが、すっきりしているようでも筋肉のつき方が、綺麗で。
 彼に辿られる前に、新一は視線を外した。
「快斗、あいつ、いるのか」
「いや、サ店で別れたんや。帰る、いうとったで」
 平次の言葉半ばで、新一は動き出す。平次を押しのけるように部屋を出て、多少ふらつく頭を振りながら階段を降りて行く。
「工藤……、」
 止めようとしたのか、手を伸ばそうとしたのか。結局平次は頑固に唇を引き結んだ厳しい表情の新一の様子を見てとって「気ィつけや」と言い添えただけで何歩か後ろからついてくる。
 平次との事は、気持ちの上では全然片づいてなどいない。だが、今はそれよりも耳にこびりついている友人の声が新一を急かせた。

 

『喧嘩の原因も聞かないし、どっちに非があるのかなんてオレは知らないけど、それってそんなに大事?』

 

 落ち着いた口調で新一を諭す。大事なものが何かと問う彼の目を新一はまっすぐに見返せなかった。

 

『もう二度と会えなくなるかもしれなくても、それでもこだわるの……?』

 

 問う声は柔らかく寂し気で、その中に隠れていた自嘲の響きを感じとって、沸きあがって来たのは、不安。
 平次と新一との事を言っている筈なのに、快斗自身の悔恨が透かし見えて。
 快斗が冗談のように、まるで何かのついでのように『出て行く』と言った重みを、その時、新一は実感した。
 快斗はこの家での生活を楽しんでいた。『居て良いか』ではなく『夏休み中居る』のだと宣言してまでいたのを、急に撤回したのが彼の本意だとは思えなかった。
 きっと、何かがあったに違いない。
 問いつめようとした矢先に眠らされ、覚醒した今、ここに快斗はいない。けれど、早まった決断をせぬよう訴える声はずっと耳に残ってる。
 切ない、苦しげな、悲しげな声が。

 

『よく考えて。新一は、取り返しがつかなくなっちゃう前に……』

 

 玄関先には大きめのみかん箱程度のダンボールが一つ、ぽつんと置かれていた。
 やって来た時はボストン一つと至って身軽な快斗だったが、暮らしてゆく内に自宅から持ち込んだり購入したりして、徐々に身の周りのものが増えていたのだろう。確かに快斗がここにいたという証が、この箱に詰まっている筈だ。
「あいつ、やっぱり……!」
 記入済みの送り状を覗き込んで、新一は低く唸った。
「自宅、戻んねぇつもりだ」
 荷の送り先にある住所は彼の自宅ではない。名前から見て恐らく月決めで個人に倉庫やスペースを貸し出しているような会社だ。
 新一の後ろから同様に覗き込んで、平次も片眉を引き上げる。
「どういうつもりなんや」
「分からない。分かんねぇけど、快斗、変だった。絶対何かあった筈なんだ」
「あった、か、これからなんぞしようとしとるんかもしれん。……そういえば工藤、黒羽に一服盛られたんやったな?」
 自室で寝ていたのを指しての言葉に、新一は苦笑で応える。
「盛られたに近いな。飲み物に睡眠誘導剤じゃなくってスプレーだったけどよ」
 効きめ的には時計型麻酔銃と似たりよったりといった処だろう。眠りに落ちたのはあっという間の出来事で。
 自分でベッドまで移動した覚えがない以上、平次が運んだのでなければ、ベッドまで運んだのは快斗でしか有り得ない。その辺りからも、新一に悪意を持って一服盛ったのでないのは明白だ。
「なら、これからや」
 平次の妙に確信めいた口調に「何でだよ」と思わず新一はくい下がった。
「細かい事は分からへんけど、なんかあって全部終わっとるんやったらそんな急がへん気がするんや。俺と逢うとった時も時間切れやとかぬかしよったし。これから何ぞあるから慌てとったんちゃうか」
「…………」
 真っ先に浮かんだのは、快斗のもう一つの顔、もう一つの名前だった。
 何か、が、快斗ではなくキッドの身に起こった『何か』だった可能性は、低くはあるまい。
 怪盗キッドとして何事かを成す為に工藤邸を出て行かざるを得なくなったという確率は、黒羽快斗としてとは段違いに高く思える。
「だとしても。オレだけが眠らされた理由が分かんねぇよ」
「それ、分かる気ィするわ」
 あっさりと言い放った平次に、新一は慌てて視線を合わせる。
 返って来るのはやはり微妙な微苦笑で。
「黒羽、工藤には弱いから」
「ああ? 何だソレ」
「やから……俺には引き止められへん自信があっても、工藤に止められたら振り切る自信があらへんから、強硬手段に出たんちゃう?」
 眠らせてしまう、という強硬手段に。
 尤もな喩えに聞こえたが、それだけだと理由としては弱く聞こえた。
 新一に引き止められるのが心苦しいと快斗が考えたとしても、置手紙や電話で話しても良いし、メールという手もある。
 唇に指をあてて、ダンボールを睨んで新一は考え込んだ。
「そぉやなかったら……俺、サ店で眠らせたら運ぶの面倒や、思たとか」
「そんなの、放っとけばいい。どうせその内勝手に目は覚ますんだから」
「……それはそれで微妙な扱いや……」
 言い切られた平次が複雑そうにぼやく。よく聴き取れず「何だって?」と聞き返す新一に、平次は首を振って二言を避けた。
 その間にも新一は踵を返し、電話機へと向かう。
 しばらく続く呼び出し音にも根気良く待ち続けるが、ややしてそれは留守番電話サービスに転送されただけだった。二度、三度と繰り返すと共に、新一の眉間にはくっきりとシワが刻まれる。
「工藤……、」
 五回目のリダイヤルボタンに手を伸ばした時、いつの間にか姿を消していた平次がリビングから身を乗り出して新一を呼ばった。
 「何だよ」と問うても「ちょお、」と何とも言い難い表情で手招くばかりで埒があかない。
 どちらかというとはっきり物を言う平次にしては珍しい態度である。
 流石に二人の間に横たわったままの問題を、彼も彼なりに気にしているのだろうか。
 電話攻勢を一時中断してリビングに向かった新一は、そこでテレビの前で腕組みし仁王立っている平次を見つけた。
「はっとり?」
 どうした、と続く筈の問いには目顔だけでテレビへと促される。
「なに……、」
 言葉を失う。
 画面では事件現場らしきテープの前で神妙な顔つきのアナウンサーが何やらコメントを述べている。

 

『目撃者の話では、その場から立ち去る怪盗キッドらしき人影が目撃されておりますが、捜査当局の発表は未だ……、』

 

 画面の下の方には生中継の文字と、まるで週刊誌の見出しのように並んだ『怪盗KIDよもや殺人?』の大文字。
「まさか……」
 二重の意味で、新一は呆然と呟く。
 衝撃は、キッドが……快斗が、そんな事をする筈がないという確信に満ちた思いと、同程度の強さでこのニュースを見咎め新一を呼んだ、平次の伺い知れない真意にあった。
 黙り込んでテレビを睨みつけてる風の平次は、難しい顔のままで。
「……服部……、おまえ……?」
 聞きあぐねて言葉を探す新一に、視線を返さないまま平次は口元だけでそっと笑う。
「もう半月以上顔つき合わしとんねんで。黒羽をただのキッドファンやとは思ってへんわ」
「……それ、快斗に、」
「聞いてへんよ」
 さくっと切られて、またもや新一は次の言葉を見失う。
 新一は快斗が何をしているかおおよそ知っている。だがそれを平次に告げる事はなかったし、快斗自身が告げる気になれば自ら語るであろうとあえて口を挟まないでいた。
 平次は自分に対しても快斗に対しても屈託なく接していたから、快斗のもう一つの顔に気づいているものとは微塵も思わなかったのだ。迂闊といえば迂闊な話だった。
 そういえば江戸川コナンが工藤新一だという常識的には有り得ないとされる答えにも、平次は自力で辿り着き臆せず結論を出したのだった、と思い出す。
 若き西の探偵として名を馳せる理由が、彼にはちゃんとある。
「聞く気も今ンとこあらへんから、工藤がそんな悲壮な顔せんでええ」
 小さく喉の方で笑うような声で告げられて、新一は慌てる。きっ、と平次を睨みつけるが、それは彼の口元を更に微笑ませただけのようだった。
「ひ、悲壮な顔なんてしてねぇ!」
「ほーお、さよか。ほなまぁ心配そぉな顔、で負けといたるわ」
 ニヤニヤと人の悪い笑顔で平次は斜めに視線を寄越す。だがうまい反論も思いつかず、悔し紛れに新一は平次の足をえいやっと蹴飛ばしておいた。黄金のと呼ばれた方の足でなかったのは慈悲だ。
 してから、そんな自分の行為が却って親しげな振る舞いのような気がして、更に動揺し、話を切り替える。
「でもおまえ、それでいいのか」
 『いったいなぁ!』と大げさに騒ぎ立てるある意味いつも通りな平次に調子を狂わされながらも、新一は問いながら視線をやや下ろした。
 どうにも直視し難い。けれどそんな風に気持ちを持て余しているのは自分だけのようで、そこがまた釈然としない。
「……せやなぁ、ええんか悪いんか、よぉ分からんけど、」
 平次の答え方も微妙で。
「刑事かて、身内の事件は外される。探偵も事件は選ぶ権利があるやろうし。……そういうもんとちゃうか、工藤」
「それ、どういう意味にでも解釈できるぜ?」
「そやな。工藤のしたい解釈しとってくれたらええわ」
 好きにすればいい、と聞こえる。
 快斗は新一にとってはもうただの友人ではなくて、ただの好敵手だけでもなくて。勿論、平次に対するものとは全然別な感情を持っているけれど、好意という括りには一緒に入るから、キッドは追いかけるけど快斗の動きを探るような真似はしないでいる。
 平次の言葉はそんな態度を責めるものではなく、後押ししてくれているように、聞こえるのだ。
「いい、のか」
「ええんちゃう?」
 ばかばかしい程に、軽く言い返される。会話と不似合いな明るさを伴った声は、それでも暖かく響く。
「工藤は工藤の思うようにしたらええんや。俺も俺がええようにしか結局はせえへんもん。それが一緒な事もあれば、ちゃう事もある。今はおんなしやった、いう話やろ」
 探偵という立場とか、窃盗犯という括りとか、一度全部取っ払ってしまって残るのは、同じに、案じているのは快斗という友人だという事。
 笑みを消した瞳でじろりと見据えられたというのに、何故か微笑まれた時よりも自然に真摯なその目の力を受け止めれた。
 その上、すっと肩から……全身の力が抜けてゆくのを感じる。
 随分と自分がこの男の反応を気にしていたのだという事と、その言葉に安堵したのだというのを新一はこの時思い知った。
「傍にいろ、言うとった」
 ぽつりと平次が呟く。
「正確には『失いたくないと思うなら、ちゃんと傍に居なきゃダメだ』言いよった」
 彼の横顔越しに、コメンテーターが分かった風に見当違いの『怪盗キッド』像と勝手に予測した事件との関連性を唾を飛ばしつつ語っている。
 平次はそれを眼下に見て、おもむろにテレビを切った。
 降って沸いた沈黙に、新一も思い出す。笑っているのに泣きそうな、快斗の声を。
「オレにも、言ってた。アイツ、他人にばっかりそういう事言うけど、本当は快斗の方が余程……寂しがりなんだぜ」
「……せやな」
 何が可笑しかったのか、平次は少し遠くへ視線を投げて微笑みながら相槌を打つ。
「黒羽には、ちゃんと分からせたらなあかん」
「ああ、きちんと分からせなきゃな」
 本当は誰よりも独りの寂しさを知っていて、他人の事にばかり必死になる彼に、伝えなければならない。
 マスメディアの打ち立てた真実と想像の混ざった幾多の情報より、確かなものを手に入れる術が二人にはある。

 

「オレ達は、そんなに簡単に切り捨てられてなんかやらねぇって事を」

 

 東西探偵は挑戦的な視線を、密やかに交わした。

 

§    §    §

 

 意見の相違を見た後、二人の行動は至って迅速に行なわれた。
 互いに連絡を取り合いながら、平次は最新の情報を手に入れるべくその足を即刻、警視庁へ向けたのだ。幸い、警視庁には目暮を始め高木や佐藤など平次もすっかり馴染みとなった顔が揃いぶみである。
 怪盗キッドがらみは本来扱う課が違う処だったが、良くも悪くも今回の事件は殺人事件とあって、情報源には事欠かないというのが二人の読みだ。
 そして警視庁は、大阪府警とかなり近い程度で平次はそこにいる事に違和感のない、馴染み深い場所となりつつある。だが、招かれ訪れるのでなく、一人で乗り込んで来たのは珍しかったのか、目ざとくその姿を見てとった刑事は目を丸くした。
「やあ、服部君じゃないか。珍しいね、君、一人?」
 捜査一課の馴染みの刑事が、警視庁の廊下をきょろきょろにこにこしながら駆け寄って来る。
「はぁ、工藤はちょっと」
 曖昧な笑顔で、平次は応じる。
 高木ワタル。新一がコナンの時代から何かと縁のある……というよりは、コナン時代、親身に少年の推理に耳を傾けてもらった事からも新一の中で覚えめでたく今ではかなり心易く付き合っている相手である。
 新一のネコ被りは持続している。とは言っても、高木をあごで使う遠慮のなさはそれだけ親しみを現している証拠でもあるのだ。
 幸いな事に、彼はそれと気づいていない様子で捜査協力に応じる年若い少年の推理に素直に感嘆し、協力を惜しまないでいてくれる非常に在り難い存在だ。
 そして今現在、新一と共に、平次もこの休み中東都に居ついていている。
 つまり事件のお呼びとあらば、電話一本で東西高校生探偵が揃って駆けつけるようになった為だろう、単一で姿を現わすと却って訝られる始末だ。
「ちょお、話聞かせてもらえへんか思て寄らせてもろうたんですけど、今、ええですか」
 おもむろに切り出した平次に、高木は「ああ、うん」と頷いてから首を傾げる。
「でも今、君達が興味持ちそうな事件、ウチで抱えてたっけかなぁ」
「渋谷の、」
「あ、それか」
 一言で、なるほど、と高木は手を打った。おいで、とそのまま一課へと足を向けるのに平次も従う。
「工藤君はあまり興味ないかと思ってたんだけど、服部君は興味あったのかい? 怪盗キッドは」
 興味津々と尋ねられ、思わず平次の口元には苦笑いが浮かぶ。
「色々と因縁ちゅーか、まぁあるんで。そんで、その渋谷は、ほんまにキッドやて、もう……?」
「いや、どちらかと言うと捜査方針的には懐疑的だね。目撃者の意見で『怪盗キッドのような』と言うフレーズが出たからこの騒ぎになったんだけど、むしろああいう格好をすれば誰でもそっちに目が行く訳だからね」
「……したら、」
「うん、捜査中だよ。正式な警察発表もまだしてないってのに、中継まで入っちゃってもう、勘弁してほしいよ」
 やれやれ、と己の不備で騒ぎになった訳でもなかろうに、高木はがっくりと項垂れる。
「大体、本当に怪盗キッドなら変装の名人らしいからむしろそんな格好で犯行には及ばないだろうと思うんだ。キッドとして行う事に意味がある場合は別だけど」
 平次は後ろでこっそりと顔をしかめた。
 彼が言っているのは可能性であって、それを無視できない事も承知している。それでもすんなりと確率として並べるのに抵抗があった。
 黒羽快斗を知っている。
 怪盗キッドはよくは知らない。
 けれど、言葉にしなくてもどこかぼんやりと違和がある。……違う、彼じゃない、と。新一が信頼しているから、だけでなく、平次自身が快斗と暮らし、肌で感じた結論として、そう思う。
 けれど、その思いだけで違うと言う訳にはいかないから、平次は調べる。きちんと捜査して『違う』のだと真実を明らかにする為に。
「被害者はどないですか」
「一言で言うと『悪徳』がつく宝石のブローカーだったようだね。そういう意味ではキッドと何かがあったとも思えなくもないけど、そういう男だからこそ他にも心当たりがある奴も多いんじゃないかな」
「ははあ。怨恨の線が強い、と」
「うん。でも通り魔的な線も捨て切れないんだよ、この季節だしね。類似が出ないといいんだけど。……ところで、服部君」
 一課の入り口で、ピタリと高木は足を止める。つられて平次もたたらを踏んだ。
 恐る恐る振り返ったと思うと、高木は「まさか」と切り出す。
「工藤君と喧嘩したんじゃ……ないよね?」
「しとりましたよ」
 平然とうそぶく平次に、高木が「ええ!」と叫んで声を失う。
 あまりにも想像通りの反応に平次は小さく吹き出した。自分よりいくつも年上の社会人であるにも関わらず、ついからかいたくなるような真っ正直な反応は、幾分頼りなく見えがちな気の良い青年に何故かプラスの魅力となっている。
 心配されているのは痛いほど伝わって来たので、平次はどうにかこうにか笑いの衝動を堪えた。流石にここで笑うと『人が悪い』と、この場に相棒がいれば睨まれている所だろう。
「盛大にやらかして、先刻休戦してきましたわ。せやから心配せんで下さい。今日一緒やないんは単に能率の問題ですさかい」
「そ……、そう? いやー、それならいいんだけど。ははは、良かった。ちょっと心配しちゃったよ。いや実はね、」
 言葉が途切れた瞬間。畳みかけるように、事態は走り出した。
 高木が言葉を探しながら、ノブを回して。
 その扉は弾かれたように音を立てて、乱暴に開かれた。慌てて平次と高木が脇に飛び退いたところに飛び出して来た、見覚えのあるシルエット。
「警部ハン!」
「おお、服部くん。悪いが今急いどるんだ」
 一瞬、平次の周りに視線を走らせた目暮が、「おや、一人かね」と不思議そうに付け加え、平次は苦笑で応える。
「工藤、今日はちょお別で動いとるんですわ」
 先だっての高木といい、目暮といい、まずはそこかい、と平次は内心突っ込みをかました。
 余程最近、単独行動を取っていなかったろうかと思わず首を捻ってしまう。
「で、殺しでっか」
「いや、未遂だが、……そうだな、君も来るかね」
 白鳥を初め馴染みの一課の面々がちらりと視線を向けて足早に警部を追い抜く。
 何かを言いそびれたままの高木が口をぱくぱくさせ、佐藤に急きたてられて鑑識班の一団に合流を果たす。遠ざかりつつ手を合わせ、口が『ごめんよー!』と動いたのを横目で見て、平次は目暮に軽く頭を下げた。
「すんまへん、今日は渋谷の件でちょお、」
 申し訳ない、と切り出そうとした平次を、目暮が遮る。
「それなら尚更、来てはどうだね」
「……もしかして、」
「まだはっきりとはしとらんが、恐らく無関係ではないだろう。場所は、」
 目暮は愛用の帽子のつばを少し下げて、重々しく一つ頷いた。

 

「渋谷だ」

 

 昼間の生中継の現場もまた、渋谷と呼ばれる街であった。

 

 急転直下。
 平次は足を踏み入れたばかりの警視庁から、予定外ながらも早々に踵を返す事となった。

 

6《探偵たち》

 この季節、夕方の六時を過ぎてもまだ日暮れにはいくらか間がある。平次と別れて新一はとある住宅街をメモを片手に歩いていた。
 あらかたの場所は聞いていたものの、この辺りを訪れるのは初めてだったので、時々足を止めては番地を確認しながら、進む。

 

(二丁目、五の……、)

 

「あ、……った」
 あっさりと『黒羽』の表札を見つけ、新一は少しばかり肩すかしをくらった。
 快斗自身が「フツーの家だよ。新一ンとこやへーじのとこが特殊なんだってば」と笑って語った通り、普通の住宅地に普通にある二階建ての、家。
 快斗に二つ名があるからと言って隠れ家のような家を想像していた訳ではないが、あまりにも普通過ぎたのが却って新一の意表をついた。
 門前で立ち止まり二階の窓を……快斗の部屋は自宅でも二階だと言っていた……ぼんやり見上げるが、人影も気配もなく。
「いねぇか、やっぱ」
 言葉通り戻っているとは思わなかったが、予想通りというのも何だか気が抜ける。
 快斗は母親と二人暮らしだと聞いている。
 ところが、インターフォンを押して見ても虚しく家内に響いているのが微かに聞こえるだけで、これといって反応は帰って来ない。
 無人か、と視線を下げた時、「あ……、」と小さな声が耳を打ち、顔を上げるとあどけない表情の少女……といっても恐らく年齢はそう変わらない、高校生かもう少し幼いかといったイメージだ……が、ひどく驚いた表情を隠しもせず、足を止めた所だった。
 大きく見開かれた瞳、肩につくくらいのふわっとした髪と、胸元にレースのある薄い水色のワンピースに、白いサンダル。新一の幼馴染みやクラスメイトの園子よりはやや小柄だろうか。
 ちょうど一軒分ほどの距離で見返すが、新一には見覚えがない。
 とは言っても、一時期下手にマスメディアに出まくった為、知らない相手にキャアキャア騒がれるのも変に注視されるのも決して珍しい事ではなかった。なので、そっと、失礼に当たらない程度にさり気ない仕草で視線を外そうとした、その時。
「工藤くんだ!」
 まともに指まで指されて叫ばれ、新一は浮かべかけた無表情を崩された。
 無遠慮というよりは、あまりにも無邪気な笑顔で駆け寄って来られて、今一つ反応を決めかねてしまう。
「え……と、」
「高校生探偵の、工藤新一くんでしょ? びっくりしたよ、快斗の家の前に工藤くんがいるんだもん、一瞬快斗かと思っちゃった」
 手を叩かんばかりにニコニコと嬉しそうに話しかけられて、やっとそれが誰かという事を悟る。
 快斗の家の近くに住んでいて、毛利蘭と少し似ている、という少女。

 

『オレにもいるよ、幼馴染み。つっても蘭ちゃんみたくグラマーでも美人でもないけどさ』
『けど蘭ほどおっかなくはねぇだろ?』
『どうかなー、モップ振り回して追っかけて来るから、大人しくもねえけど。蘭ちゃんよりもっとガキでぽやあっとしてんな、アレは。ウン、でも、ちょこっとだけ似てるかも』
『ほおー、で、黒羽の幼馴染みはなんて言う子なん?』

 

 記憶の中、平次の問いに、快斗は笑って。
「青子、さん、だよね?」
 中森青子と言うのだと、言っていた。
「え? え? どうして工藤くんが青子の名前知っているの?」
「話、聞いているよ。警視庁、捜査二課、中森警部の娘さんだよね」
「お父さんまで知ってるんだ? あ、そっか、工藤くん探偵さんだもんね!」
 ぽん、と手を打って納得する青子に新一はどこか微笑ましさを感じた。と、同時に理解する。快斗は、彼女には何も語ってはいない。……自分が大切な幼馴染みには何も語れなかったように、きっと。
「でもどうしたの、工藤くん。こんな所で……もしかして、快斗、見に来たの?」
 さらりと問われて、新一は訝し気にやや下方に位置する青子の瞳を見返す。
「あ、えっと。前にね、恵子と街で工藤くん見かけた事があるんだよ。快斗に似ててびっくりした。しかも高校生探偵って言うし」
「ああ、うん」
「その話快斗にしたら、あいつってばすっごい気になるのに無理して全然気になりません、みたいな顔してたから。もしかして工藤くんも快斗の噂聞いて、顔でも見に来たのかなって思って」
「……ああ、」
 なるほどね、と無難で曖昧な笑顔で新一は微笑んで見せる。
 黒羽快斗の顔を知ってる、どころの話ではなくて。
 実は、今朝までうちに住んで風呂掃除とかやってました、とは何だかとてもじゃないが言い出せない雰囲気である。……『何故』『どうして』と問われると、尚のこと。どうしたものか、と顔に出さぬよう考える新一の、背後からそれは現れた。

 

「僕と待ち合わせていたんですよ」

 

 割り込んで来た、落ち着いた、声。二人が同時に振り返るとベンツの後部座席から見知った顔がニッコリ笑顔で降りて来る所だった。
 新一も僅かに驚きの表情を漏らすが、青子は大きく目を見開いて「うわぁ!」と歓声を上げた。
「白馬くん!」
 にっこりと笑顔で返す相手に、青子がパタパタと数歩駆け寄る。
「びっくりした! いつ帰って来たの? 言ってくれたら空港までまた紅子ちゃんとお迎えに行ったのに」
「一昨日戻ったんですが、着いたのが遅かったので……あの時はお見送りをありがとうございました。挨拶が遅くなってすみません」
「いいよ、いいよ、そんなの。白馬くん、元気そうで良かった」
「青子くんもお元気そうで。ここでお会いできるとは思っていなかったもので、お土産を置いて来てしまいました。新学期にお渡ししますね」
「わぁ、ありがとう!」
 白馬が笑みを浮かべ、青子もまた手を叩いてはしゃいでいる。その後ろでベンツはそっと扉を閉めて、路肩に寄せるとエンジンを切った。ご苦労な事にお坊ちゃまを待つらしい。
「工藤くんと服部くんにも美味しい紅茶がありますから」
「え、あ、サンキュ」
 いきなり振られ、戸惑いながら礼を言う新一を、やはり驚いた表情で青子が見返り、見上げる。
「白馬くん、工藤くんと友達なんだ」
「ええ、同じ高校生探偵同士ですし、怪盗キッドの件では何度も共同戦線を張ったりもしているのですよ。彼の相棒の服部くんとは、幼い時からの知己でもありますしね」
 「ですよね?」と、そつのない笑顔で否応もなく促され、新一も肩に猫を二、三匹貼りつかせて同意の笑みを浮かべる。
「せっかくなので黒羽くんにも紹介しようと待ち合わせたのですが。……青子くんも彼に会いに?」
 さりげなく新一の登場のフォローもしながら探りを入れる白馬の台詞に、青子の後ろで新一は笑いをかみ殺した。
 適当に口裏を合わせてくれた彼の、そつなく切り抜ける様は、おっとりしているようでもやはり探偵だと変な所に感心したりもする。
「快斗、いるの?」
 白馬の問いには、問いで返される。きょとんとした白馬に、「誰もいないみたいだけど」と横から新一は口を挟んだ。
 困ったように家をもう一度見上げて再度インターフォンを押して見るが、先程と同様、反応は返らない。肩を竦めて見せると、青子の表情は申し訳なさ気な笑顔へと変わった。
「やっぱりいないんだ。……快斗ね、夏休みはほとんど帰って来てないよ。友達の所でお泊まりしてるらしくって青子もほとんど会ってないもん」
 そっと白馬と新一が目配せ、互いの間に探るような視線が行き交う。
 白馬は、快斗が新一の所に居る事を知っていた。ゆっくりとはいかずとも幾度か現場で言葉を交わす機会があって、その際に話題の一つとして出たのだ。
「おばさんも旅行行っちゃったから、快斗が帰ってないなら、誰もいないんだ」
「……旅行?」
「そうなの。外国のお友達の調子が良くないとかで慌てて飛んでっちゃって。だから青子、庭のお花に水あげに来たんだ」
「それはご苦労さまですね」
「ううん。いつも青子とお父さんがいない時は快斗のおばさんがうちの庭の面倒見てくれてるだもん。青子もお返ししなくっちゃ」
「そうだったんですか」
 白馬は得心がいったとばかりに一つ頷く。そしてやんわりと、それでいて断固たる口調で進言した。
「ですが夕方より朝にした方がいいですよ。まだ明るい時間とはいえ、若い女性の独り歩きは物騒です」
 青子の頬がぽわっと赤くなる。
「ややややだなぁ、白馬くんってば大げさだよ!」
「いや、ちっとも大げさじゃないよ。夏場は危ない奴だって多いし」
「そうですよ。今日はお送りしますから。水撒きもお手伝いしましょうか?」
 生真面目な表情の白馬と、営業スマイル全開の新一とに左右から口を揃えられ、青子は照れ笑いでパタパタと手を振る。
「うわー、白馬くんも工藤くんも紳士ー。バ快斗と大違い」
「青子くん」
「うん。ありがとう。でも水撒きは一人でもすぐだから、終わったら送ってもらうね」
「……では、ここで待っています」
 『良いですね?』と念を押されて、青子は少し躊躇った後『ありがとう』と、もう一度礼を承諾の返事と代えた。
 手を振り黒羽家の庭へと消える背中を探偵は二人して見送り……見えなくなると、ぴたり、と手を止める。
「……以外と、たぬきだったのな」
「余計な事でしたらすみませんでした」
 半眼で見上げても、しれっと白馬には受け流されてしまう。新一は苦笑を漏らした。
「いや、こんな所で彼女と会うとは思ってなかったから、正直いいタイミングだった。……少なくとも嘘はつかずに済んだしな」
「それは何よりです。ところで、工藤くんは本当は何故ここに?」
 聞かれるだろう、と彼を認識した時から思っていたが、やはりの問い掛けに、新一は「快斗、いるかと思って」と普通に返す。
「今朝までうちに居たんだけどさ、帰るって出てったんだ、あいつ」
 どう思ったのかは分かり辛い表情で、白馬が少しだけ目を細めて、首肯した。腕を組んで、二人して自然に家を見上げる形になる。
「おまえはどうしてここへ?」
 反対に問い返すと、戸惑ったように彼は視線を揺るがした。それだけで、堂々と強かで、やや高飛車とも取れるイメージが消えて、ナイーヴで控えめな、育ちの良い『白馬探』が顔を覗かせる。
 どちらも間違いなく彼だったが、新一にはこちらの白馬はまだ付き合いが浅い。
 周囲に視線を一線させて、白馬は声を潜めた。肩が触れる程の距離で。
「僕が黒羽くんを怪盗キッドと疑っているのは、君も知っていますね」
「ああ。快斗が笑い飛ばしているのも知ってるよ」
 この台詞には瞬間、微苦笑が口元を過りすぐに消える。白馬の表情は気を抜けばしかめっ面になるような微妙なもので。
「そうですね、笑われて終わりです、いつも。……君の意見はどうですか」
 そっちに突っ込んで来たか、と新一は内心で呟いた。
 彼とは幾度かキッド関連でも一緒に行動していたが、キッドに関して意見を求められる事はあっても快斗の疑惑については新一は意見を求められた事がない。
 単純に付き合いが浅いからかと思っていたら、平次も『ない』と言う。
 それを問いたくなったのには、理由がある筈で。
「さぁ。オレ、快斗って人間には興味あるからいなくなったら気になるし、暗号を捻り出してくれる怪盗キッドにも興味あるけど、正直言ってキッドの正体なんざどうでもいいんだよ。……おまえには悪いけど」
「あ、いえ。……僕も昔ほど固執している訳ではありません。ただ今回は……渋谷の事件は、もう?」
「ニュース程度なら。今、服部が警視庁行ってっからそう待たずに詳しい事も分かると思う」
 白馬は微かに吐息を漏らした。
「そうですか、服部くんが……、」
 表情から見て安堵の吐息であるのは間違いない。俯いて、しばし考えるような沈黙の後、白馬はおもむろに顔を上げた。触れてはいけない痛みを湛えたような光が、彼の瞳にはある。
「あの事件は……彼じゃありません。事件が起こったとされる時間、黒羽くんは僕と居ました」
 重々しく、新一を見据えるようにして言う。
「……彼の犯行はあり得ない」
「それは……、」
 青子はまだ戻らない。姿も見えない。
 門越しに庭を窺うと彼女の姿は見えないものの、沈みかけのオレンジの夕日を切り裂いて空を走る、眩しい水しぶきが視界を横切る。
 瞬間だけ七色に架かる、虹。
 新一は周囲を見渡してもう一歩、白馬との距離を詰める。肩も触れる程に。誰の目もはばからず立ち話でするにはデリケートな話題だった。
「あくまでも快斗がキッドだという前提があってのアリバイであって、怪盗キッドのアリバイじゃないだろう」
「承知しています」
 白馬も声を低めて囁き返す。
「ですから他の誰にも言えません。ただ、黒羽くんが怪盗キッドで、今回の事件がキッドを嵌めるものとして起こったものなら、黒羽くんや彼の周りの人間にも保護が必要ではないかと思って来てみたんです」
「……ああ、どうりで」
 新一が快斗の自宅を訪れた理由も、快斗自身の不在確認だけでなく、それとなく家族に安全を図るつもりの訪問だった。
 ただ、新一は快斗がキッドと知っていてそうすべきだとここを訪れ、白馬は快斗がキッドだろうという想定の元に足を運んだ。単純に、それだけの違いで、根本の思いは同じなのだと新一は納得した。
「おばさんが旅行と聞いてほっとした顔したり、青子さんを必死に送ろうとしてみたりした訳だ」
「……そんなに、顔に出ていましたか……?」
「見る奴が見れば、くらいな」
 困惑顔で、少し俯く。
 薄茶色の前髪が瞳を隠す友人を、平次が『ええ奴やで』というのも分かる。
 快斗もどうやらそう思っているらしい。というのも平次が白馬を誉めれば誉めるほど、反論として彼の欠点を並べる立てるがそれが実に細かいのだ。
 曰く、真面目すぎる。時間にうるさい。服の趣味が悪い……これはキッドの現場にホームズスタイルで現れた事に起因すると見た。お茶をくれと言っても紅茶しかいれてくれない。等など。
 ただ嫌いなだけならそんな所まで見ていないだろうし、それなりに評価してもいるらしい節もある。認めたがらないだけで。それは快斗の性格と立場上仕方ないというものだろう。
 だから、新一にしても白馬は友人として好意を持っては、いた。
 だが、こうして快斗をキッドと想定し、それでいて快斗の家族の安全を図ろうとする態度はそう簡単に出来る事ではない。新一の中、白馬の株は一気に上昇の構えだ。
 ぽんぽん、と白馬の腕を軽く叩いて新一は笑う。
「いや、なんか、うん。おまえって、結構いい奴」
「………」
 困惑顔の白馬が口を開きかけて、閉じた。
 足音と気配に新一が気づいたと同時に白馬も気づいたと見えて、また後で、と声を出さずに囁いて、そっと不自然にならない程度に距離を空ける。
「お待たせ!」
 ぱっと門前へ駆け戻って来た青子は並び立つ二人の探偵を目に入れると、ふとその笑顔を消した。
 彼女の現れたタイミングはひそひそ話を聞き取れる距離ではない。だがしかし、と、二人はそっと顔を見交わせる。
「どうかした、青子さん?」
「あ、ううん」
 新一に問われ、慌てて青子は二、三度瞬き首を振る。
「ごめんなさい、なんでも。ただ……工藤くんと白馬くんって、本当に仲が良いんだね」
 改まって言われると返事に困ってしまう。『いいのか?』と新一が白馬を見れば『いいんでしょうか?』と白馬も首を傾げる始末だ。
 ホームズフリークや、会話の共通項も確かに多かったが、まだまだ新一にしてみれば白馬は快斗の語る『白馬探』の色が強かったし、白馬にすれば平次を通して見る『工藤新一』像が強い。
 新一的には白馬の株は上がった所だが、それはあくまでも一方的な事情でしかない。プライベートで会う機会がないからだ。
 そんな二人が並んでいて仲が良く見えるというなら、四人揃うと一体どう見えるのだろうと新一は興味をかき立てられる。しかし、現状その図を見るのは中々に困難な話だった。
 すっかり困惑顔の探偵達を楽しげに見やって、青子は無邪気に笑って首を傾げる。
「変な事言っちゃった……?」
「あ、いえ、そんな、」
「まぁ、仲も、悪くはねぇし」
 二人して慌てて入れたフォローも、今一つ歯切れが悪い。
「ごめんね。工藤くんってやっぱり快斗にちょっと似てるから、だから白馬くんと仲良く話してるのみたら……快斗と白馬くんが仲良かったらこんな風なのかなって、思って」
 白馬は、虚を突かれたか、一瞬返す言葉を失って青子を見返す。何気ない会話だった筈だった。
 けれどそれは白馬の痛い所をつついたらしく、彼は完璧な笑顔で「さぁ、送りましょう」と青子を促し「工藤くんも、送ります」と続くかもしれなかった会話を強引に感じさせない程度に締めくくった。
 どう声を掛けて良いか分からず、頷いて。三人は黒羽家を後にした。

 

§    §    §

 

 黒羽家と中森家は青子の言葉通り、車で行くとあっという間の距離である。礼と「また新学期にね!」とつけ加えて手を振った青子を見送って、ベンツの後部座席には黙り込んだ探偵が二人残された。
 車窓を流れる景色も、いつの間にか藍に沈んでしまっている。
「白馬」
 長く口をつぐんでいた新一の呼びかけに、白馬は諦めに似た気持ちで「はい」と応える。
「おまえ、快斗、嫌いか?」
「工藤くん……、」
 単刀直入に切り込まれ、やはり、と思う。先程、青子の何気ない質問に動揺してしまった時、彼の瞳は白馬にじっと注がれていたから。
 予感していた、とも言える。
「嫌い、か?」
「……いいえ。嫌えないので、困っているんです」
 白馬が疑惑を口に出さなくなったのは、いつからだったのか。快斗が部屋を訪れるようになったのはいつだったか。……もう思い出せない。
 はっきりしているのは、彼が姿を見せなくなったのは白馬が渡英してからという事実。キッドの事件で帰国しても快斗が白馬邸を訪れる事はなく……それでいうなら白馬も連絡を取らなかった訳なので言えた義理ではないが……今日、久々に会うまで、白馬が会っていたのは『怪盗キッド』だけだった。
 英国で事業を切り盛りしている母親を手伝うのや、ヤードに捜査協力するのも、不本意ではなかった。
 帰国してからというもの母親が寂しがっているのも分かっていたし、どこで起こっても事件は事件だ。忙しくとも充実していたと思う。
 問題は、今になって……自身の気持ちを自覚してしまったからだろう……白馬が過ぎた日々を惜しんでいるという事。
 嫌う、どころか。
「……黒羽くんといるのは楽しいので。でも青子くんや、他のクラスメイトにはまだあんな風に思われているんでしょうね」
 笑い合う姿が衝撃を引き起こす程度には、二人は仲が悪いと。そう思われているのがある意味ショックだった。
「気配りと周りに振り回されるのは、全然別のものだって、分かってるよな?」
 静かな声が、いとも簡単に告げる。
「言っても気になるだろうけど、他人が何言ってたって、なるべく気にするなよ。人間なんてすぐに順応してその内『仲悪かったっけ?』とか言うようになるんだから」
「そう、かもしれませんね」
「受け売りだけどな」
 新一は小さく笑って、視線を白馬とは反対の車窓へと向ける。まるで、自分の瞳の威力を熟知しているが故に、白馬へと向けないようにしているみたいだった。
「考えておいてくれ、白馬。おまえがこだわっている事は、それ程大切なのか。……他の何とも代えられない程に」
 白馬は答えをまだ持たない。
「考えておきます」
 躊躇いつつも、そう答える事しか出来ない。それでも気づけばショックな気分は随分と緩和されていた。
 その雰囲気が再び緊張感を帯びるのは、ベンツが工藤邸に着く直前、新一の携帯に入った一つのメールによってである。
 メールを読んだ、新一の目つきが変わる。はっと顔を強張らせて。
「白馬、悪ぃ、行き先、変更してくれないか」
「ええ、構いませんが。……どちらへ?」
 ひた、と探偵の目で、新一が白馬を見抜く。
「渋谷だ……例、の」   
 事件と同じく。

 

 最後まで新一の台詞を聞かずに、白馬は口早に運転手に行き先の変更を伝えた。

◆つづく 


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