off-day *3


7《off-day》

 闇夜に白くマントがたなびき、二つの影は五メートルの距離を空けて夜の街で相対した。
 まるで同じような白のスーツにブルーのシャツ、シルクハット、肩から足首まで届く、真っ白なマント。怪盗キッドと聞けば、誰しもが思い浮かべる風体だ。
 生ゴミの悪臭漂う路地裏と、そこを見下ろせるものの足場のほとんどない細い金網の上。
 共に白き衣を朱に染めている所までが、まるで示し合わせたかのように同一だったが、彼らはまるで別の……相容れないものだった。
「邪魔しやがって」
 耳に障る、しゃわがれた不快な声。キッドをかたった男は低い声で忌々し気に呟いた。押さえもしない二の腕からじわりじわりと広がる朱色を気に止める様子もない。
「邪魔……? いくらだってして差し上げますよ。その格好で人を殺されると迷惑なものでね」
 街に渦巻く喧騒が、その場所には少しだけ遠い。鳴り響くパトカーのサイレンも、酔っ払い怒鳴り合う人の声も。
 フーハッハッハ、と奇妙に甲高く男が笑った。キッドは僅かに眉を寄せる。
「それがどうした。どうせてめぇもすぐ死ぬんだよ。今日から俺が怪盗キッドだ! おら死んじまえ!」
 無造作に胸元から取り出した銃は、高い音を立てて弾かれる。頭上の男へ銃口を向けるまでの瞬間に、男はそれを取り落とした。
 足元へ突き立つ、トランプカード。見た目といい、玩具のようなそれが鋭く手首に軌跡を引いて、落ちた銃を更に遠方へと弾く。男の手の届かない、薄暗い路地の片隅へと。
「ンのやろうッ!」
 かっと激昂した男が金網へ駆け寄ろうとしたその足元へ、更にトランプカードが突き立ち、それにに阻まれる形で男は横転する。ろくに明かりもない路地裏に、適当に積み上げられていたビール瓶ケースに突っ込んで、砕け散る音が盛大に響いた。
「誰が、何だって……?」
 そんな中、キッドの冷めた声だけがアンバランスに男の耳を打つ。逆光でキッドの顔も表情も見えない。
 一瞬月を背負って、男の目前へと着地する。ふわり、とマントが最後にその背を飾り。すっと立ち上がるシルエットはそれだけで男を威圧した。
「姿形を模倣した程度で、この名を名乗れると思ったのなら、なめられたものだ」
 いつの間に手にしていたのか、先程弾かれた筈の銃が、その銃口が、男に向けられている。近づき、ゆっくりと当てられた冷たい銃口を額に感じて、男は微かに仰け反った。
 形勢が逆転した事を悟らざるを得なかった。
「この位の代償は覚悟していただろう? 私の……『怪盗キッド』の名を穢そうとしたのだから。相応の代償は払ってもらう」
 かち、と安全弁が外される音。男の全身からどっと汗が吹き出る。腕ががくがくと震え、歯がかち合わず不協和音を奏でた。
「てめぇっ! 殺さねぇんじゃなかったのかよ!」
 悲鳴じみたかすれた声を上げる事だけが、男に出来た精一杯だった。
 男を見据えていた瞳が、楽しげに細められ、指にゆっくりと力が加えられる。ひどく自然に構えた銃口が、額から眉間へと滑り。
「それを最初に思い出していれば、いくらかは長生き出来たものを」
 口元に浮かんだ嘲笑と共に、付近に銃声が、響いた。

 

「キッド!」

 

 がしゃんっ、と。
 らしくなく無造作に両手をついた金網が、盛大に揺れ音を立てた。
 生暖かい風が、明かりの乏しい路地をやんわりと吹き抜ける。
 その向こうにロンドン帰りの高校生探偵が一人。大きく息を切らしている所からもたった今辿り着いたのだと容易に知れる。
 警察でも、他の探偵でもなく、やってきたのは白馬探だった。
 辿り着いたのはただ運が良かったのかもしれない。偶然だったのかもしれない。いずれにしても、今ここに居るのは、彼。それは確かだった。
 闇の中、キッドの穢れない白だけがぼんやりと浮かび上がる。
「生憎と、空砲です。一番乗りした貴方にはこれを差し上げますよ。昼間の事件の、証拠です、どうぞ」
 手にしていた銃を金網越しにどうでも良さ気に放り投げられ、白馬は慌てて真っ白のハンカチを取り出して丁寧に包み込んだ。
「怪我は……、」
 そして、顔を上げた白馬がまず口にしたのはそれだった。
「……お優しい事で。二の腕に裂傷と手首、他にかすり傷が少々ですよ。今思えば、腕の二、三本でも折ってやれば良かったですね」
 皮肉を込めて応えれば「貴方のですよ!」と探偵は鋭く切り返す。怒ったような言い方にキッドは気を削がれた。
 喉の方で少し笑う。
「これはこれは、ご心配痛み入ります。幸い、かすり傷のみですのでご安心を」
 金網の間際まで寄って、大袈裟に両の手を広げて見せる。いかにも心配気に視線を突き立てられて更に、かしゃん、と金網に両手をつく。
 網越しに、視線が絡み合い……束の間、沈黙が落ちる。二人の間には実質数十センチしかない、極めて近い距離、それでいて確実に隔てる物が間を横たわっている、距離。
 と、白馬が金網越しに手を合わせ、そのまま網ごと強く指を絡ませて、にっこりと笑った。
「捕まえました」
「…………これでは手錠を嵌めれませんが?」
 第一、抜け出そうというならこの程度の拘束、いくらだって抜け出せる。腐っても鯛、多少傷を負っても怪盗キッド、である。
 だが、白馬は余裕の笑みを崩さぬまま、何をするかと思えば捕獲したキッドの指に唇を寄せ……。
「……っ!」
 噛みついた。
 流石に慌ててキッドが探偵の手から指を引き抜く。白い手袋の指先に、小さく朱が浮き上がる。キッドは軽く金網越しに探偵を睨んだ。
「傷害罪ですよ、白馬探偵」
「訴えるなら、どうぞ。いつでも受けて立ちます」
 いけしゃあしゃあと白馬は開き直った。
 笑い出したくなる衝動をキッドがポーカーフェイスで乗り越えた頃、ようやっと喧騒が近づいて来る。刑事や巡査、そして探偵達の声と足音。……明瞭な気配。
「ゆっくり遊んでいられそうにもありませんね。後はお任せしますよ、白馬探偵」
 ちらり、と倒れ伏したまま身動きもしない男に一瞬だけ視線を投げて。キッドは白馬に背を向ける。
 さらっとマントが弧を描き、月光を跳ね返すように翻す。
 引き止める声は上がらなかった。
 ワイヤーで身体を引き上げて軽く踏み切ると、身体が空を切り、ボタン一つでその身をビルの屋上まで引き上げてくれる。一息で四階分上がった視点から、見下ろす街は闇に沈み切らず、赤に黄にとチカチカと瞬いて。
 グライダーで飛び立つ白い影を、探偵はただ無言で見ていた。

 

§    §    §

 

 じーわ、じーわ、ジジジジジ、とここぞとばかり蝉が自己主張している。
 工藤邸での生活で唯一足りなかった、畳の香りを身近に感じながら大の字に転がって、快斗は天井を見上げている。
 母は当分帰らない為、自宅にいるのは快斗一人だった。扇風機の風を生み出す音だけが室内に響く。
「なぁんだかなー……」
 終わって見れば、全てあっけない程だった。
 てっきり怪盗キッドを陥れる為に組織の連中が画策したものと、最悪の覚悟までして走り出したと言うのに、いざ面と向かえば見当違いもいい所で。
 調べは簡単について。二度目の犯行を防げたのは僥倖だったが、残ったのは胸中のもやもやだけ、という収まりの悪い結果となってしまった。
 新一や平次に連絡をしそびれているのも気にならない訳ではなかったが、どうにも気力が涌かない。
 それでもキッドとして動いていた時にはそれなりに物事はクリアに、思考は一本化して割り切って考えられた気がしたのに、身一つとなったら急に何もかもが中途半端で拡散してしまった。バラバラになって、ぼやけて。
 緊張の後の弛緩にけだるく身を浸しているだけでしかない。
「まだいいかなぁ」
 左手を上げ、てのひらを広げる。
 網もろとも、握り込まれた。てのひらが、確かに快斗のてのひらと合わさり、縫い止められる。瞳と指から全身が呪縛され捕らわれる。

 

『捕まえました』

 

 白馬が、笑った。
 中指と薬指の先にちょこんと貼られたバンソウコウ。

 

「バカだ、あいつ」
 端正な顔が近づいて、あっと思った時には痛みより熱を感じた。
 もうとっくの昔に、捕まっている。こんなに身動きが出来ないほど雁字搦めになって。
「オレも、バカだ」
 バンソウコウに、唇を寄せた。

 

「誰が馬鹿なんですか」
「!」
 掛けられた声に、快斗は跳ね起きる。庭を望める窓の網戸越しに白馬がにっこりと微笑む。
「こんにちは。テキストの出前に来ましたよ。君、まだ全部写し終わっていなかったでしょう」
「な…んで、オマエそんなとこから!」
「インターフォンを鳴らしたのですが応答がないので」
 そういう理由だけで庭に廻り込んで来るのは探偵の習性なのか。以前そうやって死体を見つけてしまった、等と平然と東西探偵も語っていたのを覚えている。
「って、ソレ、不法侵入だっつーの!」
 喚く快斗に、悪びれず白馬は軽く肩を竦めて見せる。……煩わしさからインターフォンの電源を落とすという暴挙に出ていた快斗にも、罪はあるのかもしれなかったが。
「失礼。ところで、上げては頂けませんか。パナデリアのショコララズベリームースが悪くなるのは君の本意ではないでしょう?」
 紙袋を軽く持ち上げて、確信犯が笑う。うーっと快斗は低く唸り。
「言っとくけど、ウチはオマエんとこと違って、暑いぞ」
「外よりましですよ」
「紅茶はティーパックしかないぞ」
「お気遣いなく、持参しましたから」
 即座に返る笑顔のままの返事に、快斗ははぁ、と大きく溜め息を落とす。
「鍵開けるから、玄関廻って来い!」
 指差して、怒鳴るしかなかった。

 

 

 ケーキ用の皿とフォークを用意している横で、白馬が紅茶を煎れる。
 余所の台所にも関わらず、白馬は手際良くティーポットに茶葉を入れ……なんと本当に彼は茶葉も持参していた。
 流石にティーポットやカップまでは持参しなかったが、どこにあるか知らないと言い放った快斗に苦笑して水屋の中からワンセットを発掘までして、お茶の準備に勤しんでいる。
 夏休みに入ると、キッドとして逢った翌日には、彼は英国に飛んで帰っていたから……新学期が近いから英国にはもう行かないとしても、こんな風に訪ねて来られるとは思いもしなかった。
 存在が俄かに信じられなく、こっそりと横目で白馬を窺う。と、見透かしたように、視線が返った。
「黒羽くん」
「あ……?」
「カップにお湯を」
「………命令すんな」
 悪態を吐きながら、言われるままティーカップにお湯を張る。
「黒羽くん」
「今度は何だよっ」
「ムースはフォークよりスプーンの方が食べ易いと思いますよ」
「………………」
 次、つまんねぇ事言ったらぶちのめす、と快斗は内心拳を握った。幸いにも次の会話が起こるまでに白馬の懐中時計が正確に三分を告げた為、午後のお茶の時間の惨事は避けられた。
 自宅のダイニングテーブルにケーキと紅茶と白馬が並んだ。見慣れない風景に快斗はどうにも落ち着かないでいる。
「工藤くんから伝言があります」
 ケーキを四口で攻略し、次のケーキを物色していると、おもむろに白馬が口を開いた。ブルーベリーとクランベリー、ストロベリーの乗ったベリータルトを皿に移しながら、快斗は視線だけ向ける。
「邪魔だから、とっととダンボール持って上がれ。オレはぜってぇ持って上がってやったりしねぇからな、だそうです」
「え。新一、渡さなかったの?」
 業者に電話しておいたのに。そう呟くと「知りません」と白馬はそっけない。
「僕はただのメッセンジャーですから、意味は直接聞いて下さい」
「あー……分かった。電話しとく」
「服部くんからの伝言もあります」
 優雅にカップを傾けながら、白馬が言う。
「とっとと帰って来んかい、明日の風呂当番さぼるつもりとちゃうやろな、だそうです」
 白馬の口から関西弁という違和感に、瞬間快斗はフリーズし、次いでその内容を理解して頭を抱える。
「へ〜じ………もうちょっと、こう……、」
「それから」
「まだあンのか! オマエ留守番電話かよ」
「だったら携帯電話の電源くらい入れて置いて頂きたいものですね」
「………あー、忘れてた」
 どこにやったっけ、と思わず空に視線を飛ばす。やれやれ、と呆れ顔で白馬がチーズケーキを口に運ぶが反論の余地もない。
「それから」
 と、彼はもう一度繰り返す。
「青子くんにちゃんとお礼を言っておく事ですね。昨日わざわざ庭に水を撒きに来て下さってましたよ」
「……青子が?」
「ええ。君のお母さんとお約束されたようですね」
「そっか……うん、言っとく」
 かぷ、とタルトを二口で平らげ。たっぷりと砂糖も入った紅茶を飲む快斗を、白馬はただ見ている。
 睨むでもなく観察するでなく、柔らかい表情は昨夜の顔とは明らかに、違う。
 二人の間に漂う空気すら、和やかで。何故だろうと思うのに、それ以上はもうどうでも良くなってしまう。
 あまりに疲れていて、ケーキは美味しくて、白馬が厳しい瞳を向けないから。
 カップを置いて、快斗が食べ終わったのを確認して白馬は腰を上げた。
「では、僕はこれで。テキスト、新学期には忘れずに持って来て下さいね。それまでにうちに届けてくれても結構ですけど」
「あ、おい!」
 慌てて快斗も立ち上がる。
「オマエ、何しに来たんだ? 本当にお茶しに来ただけかよ!」
 白馬は足を止め、ゆっくりと快斗を振り返る。迷うような一瞬の間をおいて、不意に指を取られる。
 ……左手のバンソウコウから目を離さず。
「これはどうしました」
 どく、と指先から血が巡る。手袋越しでなく、彼のてのひらの体温は快斗の指へと伝わり、巡る。
「犬に、噛まれた」
 けっして詰問された訳でもないのに、それ以上の言葉も出て来ず……たどたどしい声で。左手はまだ白馬の手の中で、逃れられないでいる。
「でかくて愛想が悪くってバカ真面目で、可愛気のないわんこに、ですか」
 聞き覚えのあるフレーズを白馬は何故か柔らかく、告げる。とうとう来た、という思いが強かった。もう逃げられないのは手だけじゃない。けれど、終わった、という気持ちは却って快斗の中に安堵の気持ちをも生んでもいた。
 昨日つけるつもりだったケリを、こんな形で迎える事になったのは想定外ではあったが。
「ちゃんと散歩に連れて行かないからですよ」
 白馬が左手を持ち上げて、口元へ導くのを快斗は不思議な気持ちでただ見つめる。
 振り払う事も、彼を留める事も思いつかず、腕には力が入らない。ただぼんやりと見ている先で、バンソウコウに柔らかい唇が押し付けられる。
 白馬の視線は、快斗を射抜いたまま「散歩に、連れて行ってくれると言ったでしょう?」と繰り返す。押し当てられた唇が、話す時にも放される事なく、快斗の指先が本人の意思を裏切り細かく震えた。
「もう、いいですよ」
 左手は白馬の右手の中、彼の左手が快斗を引き寄せる。
「僕はもうやめました。理由を探すのは」
「……理由……?」
「ええ。君の動きを目で追ってしまう理由。君の名前を呼ぶ前に、大きく深呼吸してからでしか、出来ない理由」
「電話の、理由とか……?」
 声が聞きたい。逢いに行きたい。そうは言えなかったからいつだって理由を探して、迷って、結局出来なくて。
 そんな風に理由を探していたのは自分だけだと思っていた。……言えないでいるのは、自分が背負っている二つ名のせいなのだと。
「そうです。君ももう探さなくていい。もう、いいでしょう?」
 指先に、もう一度キスが降る。どこか不思議な気持ちで快斗はそれを眺める。いつの間に、こいつはこんなにも変わったのだろう、と。
 そんな熱っぽい瞳は、キッドにしか向けないと思っていたのに。気持ちを向けていたのは自分の方ばかりだと、ずっと思っていたのに。
 今、白馬は快斗を見ている。
 自らのつけた指の傷にキスを落として、真実を封印して。
「君に逢いたいというだけで、逢いに来ても、構いませんか……?」
 自信満々そうに見えた白馬も、その時には瞳の力が揺らいだ。
 ああ、ちゃんと白馬だ。
 不意にそう思う。その揺らぐ瞳は知っている。快斗の好きになった、綺麗な紅茶色の、瞳だ。
 キスはベリーの味がした。

 

 

 サマーバケーションは二人には存在しなかった。探偵はいつだって忙しく、怪盗も忙しく暮らしていたから。
 ホリデーすら共におれず。理由を、探して。
 やっと今、それを許せる。彼と逢う為だけの、オフ・ディを。

 

 

 

 

「おい、服部」
「なんやー?」
「明日、付き合え」
「ええけど。どこ行くん?」
「秋葉原」
「………工藤、」
「おまえの使い勝手のいいので、いいから」
「もう出て行く、いわへんよ?」
「たりめーだ。その代わり、進路変えたらぶっ殺す!」
「探偵の癖に、物騒なやっちゃなー」
「そういうの、好きなんだろう?」
「……………」

 

東西も至って平和。




◆『off-day』より・白×快◆


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