off-day *1




沢山の人が私を見て
沢山の人が私を呼ぶ。
幾夜も、
幾夜も、
幾夜も。

その中に貴方はいて
沢山の人が私を見るように私を見て
沢山の人が私を呼ぶように私を呼ぶ。

でもオマエが見るのはオレじゃないから
オマエが呼ぶのはオレじゃないから

どれたけ沢山の夜
貴方に逢っても
貴方に呼ばれても

オレは寂しいまま
オレは欠けたまま
オマエが足りなくて
また貴方を呼ぶ。

本当に逢いたい名を
呼びたい名を
呼べないままに……。

 

1《flurried morning》

「起き、黒羽」
 耳元に降って来るのは目覚めを促す愛しい恋人の甘い声。
 ……などでは勿論ない。断じてない。
「コラ。早よ起きって」
 覚醒への反抗を試みもぞもぞと上掛けの中へ潜り込もうとした快斗の安眠は、荒っぽく体を布越しに揺すられて、あっけなく遠のいてゆく。
 眠い。
 眠いったら眠い。
 後三時間寝かせてくれるならサーティー○ンのモカアイスを二週間絶ってもいい。そんな事を口にすれば探偵達は軒並みあきれた視線を投げて寄越すだろうけれど、そのくらいの意気込みで現時点での快斗は睡眠を欲していた。
 室内は、無慈悲な友人に音をたてて巻き取られてしまったカーテンのせいで、きっちり瞑った瞼をも透過して光が溢れ帰り、乱反射攻撃をしかけて来る。
 ユサ。
 いやだ眠い眩しいと、快斗は呻く。
 ユサユサ。
 探偵の耳には『イヤダ』以外は解読不能だったのか、他二点も含めて聞き流すつもりなのか。ただその力は繰り返し加えられる。
 ユサユサユサ。
 揺れは段々と大きくなる。
 快斗は更に丸くなってその追従を逃れ眠りのしっぽにしがみつこうと悪あがいた。
 意識の端ではこのまま放置してもらえる可能性なんてコンマいくらもないであろうと理解していたが、それと別の大部分が惰眠を貪れと指令を出しているのだ。
「くーろーば。ええ加減にせんと……」
 不意に不穏な気配を漂わせた探偵は、2ランク低音に切り変えた声を響かせる。
「身ぐるみはいでまうでっ!」
「……んぃちがよ…った……ぃ〜」
 叫びと共に実力行使に及ぼうとした探偵は、快斗の声を聞きつけると寸での所で動きを止めたようだった。布団から引きずり出すべく構えられた両手は中途半端に下ろされ、気配が寄って来る。
 東西比較において基本的に西の探偵たる服部平次の分類は、大きくお人好しの側にある。
 これが東の探偵であったなら半分の時間経過で快斗は布団から蹴り出されていたに違いない。もしくは、問答無用ととうの昔に蹴り出されている事は請け合いだ。
 そうならないのは、ひとえに新一が快斗と同程度には朝に得意でないからと、性格上居候が朝寝坊したところでわざわざ起こす必要性を認めていないからだ。
「黒羽、ようやっと目ぇ覚めたんか?」
「……麗しくない……」
「へ?」
 ぼそ、っと呟いた声を聞き取るべく、平次は布団の中の丸い固まりの頭と思しき辺りに顔を寄せる。小さな声は更に続いた。
「起こしてくれるなら、へーじより新一のうるわしー笑顔で朝を迎えたかっ……」
 声が途切れる前に、先程大人であるべく自制を発揮した温厚と謳われる西の高校生探偵は、容赦なく不届きな発言の主を布団から蹴り出した。その上、丁寧にしっかりと全体重をかけて数度踏みつける。……へぎゃ、と奇妙な声が不気味に部屋に漏れた。

 

 

 快斗が転がった床から起きあがり、ようやく人間らしく体裁を整えダイニングへ飛び込んだ時には、二人の探偵の朝食は既に終わりに近かった。
 探偵と怪盗の共通の美点は、寝起きの際にどういう攻防が繰り広げられようとも、その勝敗に悔恨を残さない所だ。
 いくらかぼんやりした眼差しで、新聞を見ながら家主が「はよ」と呟き食後のコーヒーをすすっている。
「おっはよー、新一今日も朝からキレイ〜♪」
「バーロ。褒めるならちゃんと顔見てから言いやがれ」
「つむじも美人」
「……コラ」
 背後から抱きつき『オハヨーのチュウ』をつむじに落とすと、笑いながら新一が蠅を払うように手を振る。
 すっかり日常化したじゃれ合いに平次ももう慣れたと見えて、その表情に動揺は欠片もない。多少過剰気味なスキンシップと割り切ったのだろう。
「おはよーさん。ジブン、今日はいつもにもまして寝起き悪かったで」
 快斗が席に着くと同時にあつあつのハムエッグとチーズトースト、そして砂糖のたっぷり入ったカフェ・オーレが出てくる。
「はよ……寝たの明け方でさぁ。ってーかへーじ、このヒトと付き合うようになって足癖悪くなったんじゃない?」
「いや、工藤はあの数十倍はキレがええんよ」
「服部、おまえそれ褒めてるつもりか?」
「単に事実やん」
 新一の睨みを平次は軽く笑って流した。彼の食事はもう終わっているらしく、皿に手を掛け新一へ視線を投げる。
「下げてええ?」
「ん。ごちそーさま」
「はい、お粗末さん」
 平次が新一の皿を重ね、キッチンへと下げる。
 平次のエプロン姿はもうかなり馴染んでいる。後ろでバッテン、更に蝶々結びも手慣れたもので、そのエプロンの出所を追求すると西の探偵はさも幸せそうに相好を崩し、東の探偵は視線で人を射殺せそうな凶悪な目つきで威嚇してくる。
 反応はあからさまで、すこぶる楽しい。多分こういうのを語るに落ちるというのではないかと快斗は思っている。
 そのまま皿洗いに突入した背中に、欠伸をかみ殺しながら快斗は気だるく会話を投げかけた。
「あのさぁ、へーじ」
「なんやー?」
 水音に遮られて声は少しだけ遠い。
 この夏休みに入ってからというもの工藤邸には常に三人の人間が暮らしている。家主の探偵と、西の探偵、そして快斗だ。
 三人居れば当然家事もそれなりに分担が出来る筈だが、工藤邸においてキッチンの縄張りのその三分の二が平次のモノである。
 残る三分の一が快斗の担当で、それは食生活を担う腕の有無というよりは、新一と快斗のどちらがよりまめか、という問題にかなりの重点が置かれた。
 が、それ以外にも問題は存在した。
 特に朝の場合、新一はコーヒーしか用意せず問題外のレッテルを貼られ、快斗は手早く某かを作れはしたが彼の起床時間までに平次が空腹に耐えかねた。
 故に、却下。
 剣道の朝稽古もあったという平次が一番寝起きは良かったものの、張り切り過ぎて旅館の朝食の如くテーブル一面に料理を並べてそこでまた一悶着が起きた。
 量の多さだけでなく……納豆の有無について起こった東西論争と、鮭の塩焼きに多大なるクレームがついた為、である。
 そうしてもう一回り朝食当番を経て、結局は『朝はコーヒーとトーストに卵料理を一品。場合によってプラスアルファー』で意見が揃い、当番がもう一巡りした頃には常時平次がその担当となるであろう空気が既に三人の間を漂っていたのだった。
 辛うじて当番はもう一巡りしたものの、結局暗黙の了解として朝のキッチンの権利は本人の希望かどうかはともかく平次のものとなり果てた。
 そんな風にキッチンを縄張りとした平次だったが、目の前のハムエッグの焼き加減は絶妙で、チーズトーストのとろけ具合もバッチリ、カフェ・オーレはこれ以上ないくらい快斗の好みのものを差し出して来る。こういう朝食が出てくると腕の有無でいうと有りだよなぁと快斗はしみじみと納得するしかない。
「へーじさぁ、まだ帰んないよね?」
 東西名探偵はきょとんと顔を見合わせた。
 器用にも「おまえ、何か言ったか?」とでもいうように、互いが心当たりのない事を視線だけで確認しあっている。
「帰るって……大阪へか?」
 新一が平次を指差す。
 快斗がハムエッグにかぶりつきながら、うん、と頷くと平次はぱたぱたと左右に手を振って、違う違うと示す。
「そんなんぎりぎりやって。せやけどなんでや」
「じゃあ今日出かけるんだ?」
 益々分からない、と平次は首を傾げた。新一がばさばさと新聞をたたみながら同じように少しの疑問を瞳にたたえて会話の成り行きを伺っている。
「別に今日はなんも決めてへんよ、俺も工藤も。……どないしたん」
「どうって、だっていつもあんなに無理矢理起こさねーじゃん。だから何か用事があったからかなって思ったんだけど……」
 常々、快斗がどうしても起きれないような時は、平次は起こすのを諦めて朝食にラップをし冷蔵庫に入れて置いてくれる。
 ただ人手が必要で快斗がその頭数に問答無用で含まれている場合や出かける約束をしているとなると、今朝のように容赦なく叩き起こされるのだ。それはそれで有り難い話ではあるが。
「あのなぁ……」
 平次は呆れ顔で快斗の額をこつっと小突く。
「覚えてへんのかい。起こせ言うたん、ジブンやで」
「ふへ?」
「今日は絶対起こせって、言うとったやんか」
「えっマジ! なんでっ」
「なんでて……そこまで聞いてへんけど。休み入ってすぐから言うとったよ。工藤は知っとる?」
「いや、聞いてない。おまえ、誰かと約束でもしてたんじゃないか」
「え。え、ええ? ………今日、って………」
 慌ててカレンダーを睨んだ快斗は、小さく「あっ」と声を上げた。
 約束はしていない。けれど確かに決めていたのだ、その日と。
 言葉もなく猛然と目前の朝食をかきこみ始めた居候に、東西名探偵は顔を見合わせ肩を竦め合った。

 

2《コウイとコイとコウイ》

「白馬っっ!」
 慌てふためいた彼からの電話があったのは、長い休みも半ばを過ぎ終わりに着々と近づきつつある、そんな頃だった。
 快斗は休みに入った途端自宅に居着かなくなかったし、白馬も休みのほとんどを英国で過ごし怪盗KIDの予告が入ればまさしく飛んで帰る生活だったので、電話越しとはいえ声を聞くのも久々のことである。
「おや、久しぶりですね、黒羽くん。その様子じゃ夏バテも……」
「社交辞令はいいからッ」
 言葉途中で勢い良く割り込まれ、何だかそんな会話すら懐かしいものだと妙に感じ入ってしまう。
 快斗に限定しての場合、噛みつくようにかけられる言葉も不快感を生み出さない。
 おおかた言うと怒るだろうから言ってはいないが、そんな話し方は毛を逆立てて怒る可愛い猫のようなもので、じゃれて爪を立てられても腹をたてたりは出来ない気分とかなり近いように白馬には思える。
 勿論、快斗は白馬に餌もねだらないし一緒に丸くなって寝たりもしない。どちらかというと余所の飼い猫か懐かない野良だろうか。
「いいですよ。では中略。ご用件をどうぞ」
「オマエ今から暇だな? 暇だよな。動くなよッ。居ろよ!」
「……君ね、僕を」
 何だと思っているんですか。と、続く筈の言葉は不発に終わった。
 何故なれば、言いたいだけ言った快斗は白馬の言葉途中で会話を投げ出したからに他ならない。
 白馬は白馬でそんな快斗に腹を立てるべき所だというのにあまりに彼らしい気がして苦笑を漏らすだけで、やっぱり腹を立てられなかった。
「まったく、今度は何を思いついたものやら」
 カレンダーに目をやって何日ぶりの再会かを指折り数えようとして、再認識する。
 長い休みは限りなく終わりに近く、二人はそのほとんどを遠く海を隔てて過ごしたという事実を。そして学生達が長い休みの終わりが近づくと途端に慌て出す主なる要因を。
 白馬は受話器をゆっくりと戻した。

 

§    §    §

 

 黒羽快斗は白馬探の自宅を訪れる際、白馬の部屋のベランダを部屋への独自の侵入口と決め込んでしまった節がある。
 快斗が怪盗キッドだと確信している白馬にしてみれば彼にそれが容易い事なのは承知していても、普通に考えてそれはかなり異例な登場シーンだ。
 いつだって彼の訪れはベランダからで、正面玄関は無視される。
 以前、普通に玄関から来てほしいと訴えてみたが「オマエん家の木って登りがいあンだよ」とあっさり拒否されて『この部屋のこの窓』が彼の入り口と決定してしまった。
 ひょいひょいと木を登り枝を伝いベランダへと辿り着いているらしい。
 こんな不審行動を一度ならず行っているというのにどうしてだか目撃者の一人も現れず、白馬にしてもベランダに彼が現れるまで気づけた試しがない。
 この日は予め電話があったのだから見ていれば分かる筈、とベランダに向かおうと動きかけたところで、そのベランダからおもむろに快斗が顔を覗かせた。
「お、居た居た」
 彼の第一声は、それ。
 電話口でそこにいろと言ってから五分とたっていない。これでどこに行けるというのか。
 しかも先刻の慌てた電話は何だったのだろうと思える程、のんびりと笑みさえ浮かべての登場に白馬は断固たる態度で挑む事を決意した。
「……オマエ、何やってんの」
 いらっしゃいとも言わず、憮然として電話台の前から動かない白馬に気付いて、不思議そうに尋ねて来る。
「動かないでいます」
「あー……」
 快斗も流石にばつの悪そうな顔で……先程の電話で自らが動くなと叫んだ事を流石に思い出したと思われる……視線を逸らした。ベランダでスニーカーを脱ぎ捨て、スタスタと歩み寄って来る。
 途中のソファーに肩から引っかけていたデイバッグを無造作に片手で投げ出して。
 間近までやって来ると改まった表情で足を止めて、唐突に彼は手を伸ばす。白馬は内心ぎょっとしながらも、辛うじて踏みとどまった。
 快斗の行動はまるっきり予測がつかなかったりするので、なんとも心臓に宜しくない。
「よしよし、よく出来ました」
 てのひらが固まっている白馬の前髪をかき回す。指が髪をすいて、てのひらはゆっくりと動く。
 『なでなで』と。
「……その……これが、どういうリアクションか、聞いても……?」
「ん? 『はい、おりこうさん』ってリアクション。ちゃんと『待て』が出来たわんこは褒めてやんなきゃ」
「誰が犬ですか。大体、君に飼われている覚えはありませんよ」
「じゃあ通いわんこ?」
「通ってもいません」
「でもついて来るじゃん」
 ニヤ、と彼は笑う。
 歯を見せて笑う悪戯っ子もかくや、という笑顔は強烈に無邪気で、結局また白馬は息を飲んだ。
 何とも不条理で納得のいかない話だが、なんだかんだ言った所で太刀打ち出来ないのが彼のこの笑顔なのだと白馬はこの数ヶ月でしぶしぶ学んだのだ。……勿論、断固たる態度なんて維持出来っこない。
「尾を振っている訳でないのは覚えていて下さいね」
「覚えてるよ。でも、愛想のない大型犬も慣れてみりゃ案外可愛いもんでさ」
「……黒羽くん。今僕は、やみくもにショックな気分です」
 てのひらで心臓の辺りを押さえ言う。快斗はからからと笑うばかりだ。
「……君に『可愛い』呼ばわりされる日が来るとは思いもしませんでした」
 思いがけない所からくらったクリーンヒットに白馬は弱々しく訴えるが、快斗には「同感だな」と軽く受け流されただけだった。
「オレも最近まで、でかくて愛想が悪くってバカ真面目で可愛気のないわんこだと思ってたもん」
 そうつけ加えられて更に、複雑な気分に拍車が掛かった。
 黒羽快斗が怪盗キッドと確信している自分と、言い逃れ続けている彼とのやり取りももう半ば挨拶のようなものとなっている。
 きっと彼だって、この期に及んで彼の言うところのヘボ探偵の抱いている嫌疑を完全に晴らそうとは思ってやしないのだろう。
 かと言って面と向かって認めもしない、現状維持が今の二人のスタイルだ。
 なでなで、と白馬の髪と遊んでいた指がひょいと目の前に降りて来て口元辺りで止まる。
 てのひらを下に「ほ〜ら」と突き出されて、白馬は無言で目で問い返した。
 快斗は悪戯っぽく目を輝かせて白馬の口元で指先を閃かせて、笑う。
 珍しく、紙吹雪を散らすでもなく花を出したりもしないでただ揺らめくだけの指先を、自然と目で追った。深い意味でもあるのかと勘ぐっての行動というよりは、動いている綺麗なものから目が離せなくなっているだけの、本質的なものだ。
「な?」
「……何に同意を求めているんですか」
「躾の行き届いた毛並みのいいコは、むやみやたらと噛みつきゃしねえってハナシ。なぁ、後で散歩に連れてってやるから、とりあえずお茶煎れて」
 どうやら今日の彼はどうしても白馬を犬扱いしたいとみえる。
 もしかしてこっそり内心彼を猫扱いしているのを感じ取っての仕返しだろうか、とそっと白馬は顔を伺ってみるがその表情からはそこまでの他意は読めない。下手に藪をつついてヘビを出すよりはと、いそいそとティーセットへと向かう白馬だった。
 彼はお茶を所望して紅茶を出されるのには順応したが、アイスティーにシロップをたっぷりと注ぎ込むのは譲らなかった。
 快斗曰く『甘くねぇ紅茶なんて旨くないじゃん』と言って。
 その癖一杯目は一息で飲み干すのだから味についての講釈をどこまで信用出来るのかが不明だ。
「おかわり! ……サンキュ♪」
 黙って差し出した白馬の手つかずのアイスティーにもたっぷりとトドメを刺して……今更返されても最早それは口に出来ないだろう代物に変化している……彼は至極満足そうにストローで吸い上げた。
「それで、宿題はどれだけ残っているんですか」
「いいねぇ、話が早くて」
「想像がつきますよ、その程度なら。それで?」
 促すと「写せるの、全部」とまるきり悪びれるでもなくケロリと返される。やれやれと肩を落とした。
「やって出来ないものでもないでしょうに」
 黒羽快斗は授業中寝ていたり遅刻したり、ふいっと一限姿を消したりする為、生活態度は良好とは言い難いが成績は悪くないという話だ。
 むしろ昔は良い方だったと幼なじみの中森青子の証言も得ている。
 頭の回転だって早いし記憶力も良い。集中力と持続力だってある筈だ。
 これは主に黒羽快斗像から来るデータでなく彼が怪盗キッドであるから、という注釈が付く訳だが。
 ともあれ一夜漬けしかしないとの本人の言を信じるならば、彼はその気になれば『かなり出来る』と推測出来る。……問題があるとすれば。
「やる気になんねぇんだもん」
「そこで開きなおらないように」
「ヤならいいけど」
 やけにあっさり引き下がる様子が逆に白馬の疑惑を煽る。
「……青子くんにお願いするのですか?」
「いんや。帰って昼寝でもすっかな〜」
「先生方の苦労が忍ばれますね」
 どれだけうるさく言っても彼はきっとこんな風に右から左、言う方が疲れるであろうと想像に難くない。
 白馬は諦めて、机の上に纏めてあったテキスト類を快斗の前へと押しやった。
 白馬は七月中に出来るものは全て済ませている。終われば残る休みを心置きなく楽しめるであろうに、いつまでもだらだらするなど気がしれない。
 ただ、白馬自身は休みであってもサマー・バケーションを実感する事はなかったが、それは個人的事情だ。
「丸写しは困りますよ」
「おう、まかせろ♪」
「……出来れば、もうちょっと別な所で胸を張って頂きたいものですね」
 笑って「考えとく」と呟いて、彼はディバッグから自らのテキストを引っ張り出すと、余白を埋める作業へと埋没していった。
 彼の勉強スタイルはべったりと床に寝そべってするものらしい。ソファーでなく、ましてや寝室のデスクを提供しようとの提案も軽く押しやりぺたっと寝そべりテキストを並べペンを走らせている。
 時折猫がしっぽを揺らすように、膝下をゆらゆらと揺らす仕種はまるで機嫌の良い子猫のようで、微笑ましさに白馬はこっそりと口元を綻ばせた。
 リラックスしているように見えるその姿を見るのは存外気分が良い。
 目の端に快斗を捕らえながら、白馬はソファーへと腰を下ろす。
 別段、この部屋でしなければならない事柄はないが仮にも客人を放って出かける訳にも行かない、と自分に言い聞かせ……少しばかり建前的だが通用しない程陳腐な言い訳でもあるまいと白馬は願う。
 彼の様子をそっと横目で伺いながら本の背に指を滑らせて無作為に一冊をチョイス。ふと思いつき「黒羽くん」と声を掛けた。
「僕がここにいるのは邪魔になりませんか」
「別に? んーと、オマエ、退屈してる?」
 目線を僅かに上げて、彼も問い返す。「いえ」と首を振ると「なら」と快斗は提案を上げた。
「ここでさ、何でもいーから喋っててくんない? この部屋って適温過ぎンだよなぁ。その上静かだとオレ寝ちまいそう」
「何でも、と言われても……」
 漠然とし過ぎてて、困る。困った末、白馬は軽く眉間にしわを寄せて記憶を辿った。
「3.141592653527182818282……」
「3.141592653527182818284だろ……ってーか、円周率唱えて何か楽しいかよ」
「円周率はとにかく、楽しんではいますよ。……君はこの夏、忙しそうでしたね」
 楽しんでいるだと? と、疑惑の視線で見上げられて白馬は慌てて話題を変えた。
 この夏は宝石の展示会も目白押しだけに、一際怪盗キッドの活躍も華々しかった。連日連夜とはいかないまでもかなりの頻度で新聞各社を賑わせて警察関係者を振り回している。
「まぁな。花火も行ったし泳ぎにも行ったし」
 その上、深夜に警察の方々と遊ぶのも忙しかったのでしょう、と突っ込むのは心の中だけにしておく。
「オマエこそ、行ったり来たり忙しかったんじゃねぇの。こっち、ほとんどいなかったんだろ?」
 快斗の指摘に、白馬は軽く苦笑を漏らす。
「確かにほとんど向こうでしたが、キッドの事件には帰って来てましたよ」
「知ってる」
 間髪おかず、すかさず返される、声。
「新一とへーじに聞いた」
「ええ。彼らともあまりゆっくり話も出来なかったのが残念でしたけど」
「ふぅん」
 気のない相槌で、会話が途切れる。
 俯いて寝そべっているその体勢は、見上げてこちらを見てくれない限り快斗の表情は掴み難く、淡々とした声だけでは彼の杞憂は益々断じ難い。
 かと言って、ゆらゆらと時折揺れていたその足の揺れが見られない事だけをもって彼の機嫌を測ったと知れたら、間違いなく機嫌を損ねられるだろう。
 それ以上言う言葉を見つけられず黙り込んだ白馬と、黙ったままペンを走らせるだけの快斗と。そのまま流れて行ってしまうかと思われた会話は「オマエが」とぽつりと呟いた快斗の言葉で辛うじて、繋がれた。
「オマエが……キッド追っかける為だけに帰国するのもさ、好きでやってる事だから、別に好きにすりゃいいと思うけど」
 突き放すような台詞を、どこか苛立った口調で彼は紡いだ。そして小さく笑って「ばったもんに引っかかってたのがドンくせーよな」と付け加える。
「ばったもん?」
 聞き慣れない単語に思わず復唱すると、快斗はくるりと親指と人差し指で器用にペンを回し、ようやっと白馬を降り仰いだ。楽し気に表情を和ませる。
「あ、そっか。何か時々、へーじに移されちまう」
 独白に、思わず白馬は返答に詰まった。
「ばったもんって大阪弁でニセモノとか紛い物って意味なんだって。他にもパチモンとかともいうみたい」
 快斗が『へーじ』と呼ぶのは、白馬とは父親同士も知己である西の高校生探偵・服部平次の事だと知っている。平次はこの夏休みを工藤新一邸で暮らしていて、その工藤邸に快斗が転がり込んでいる事も。
 平次自身の口と、そして彼を通して紹介された東の高校生探偵・工藤新一の口からも聞いたから、だ。
 怪盗キッドの正体が黒羽快斗であると確信している白馬にすれば、それは耳を疑う出来事だった。
 よりにもよって怪盗が探偵の家に住み着いて、更にもう一人増えた居候も探偵だなんて、馬鹿にしてるにもほどがある。
 心境は複雑だった。
 白馬の疑念を、快斗は軽く否定する。それ以上ではなくそれ以下でもなく、ただそれだけ。
 もし工藤新一が、そして服部平次が、黒羽快斗と怪盗キッドの関連性を疑った場合、彼はそれらをも軽く否定して受け流すだけなのか?
 でなければそんな疑念すら浮かばせない程、完璧に隠し仰せる自信があるからこその行動なのか。
 それとも、決して白馬には認めなかった怪盗キッドの正体を、彼らには隠す気がないからそこまで大胆に振る舞えるのだろうか?
 怪盗キッドにとって白馬探という探偵がそれほどに軽んじられている存在なのかと思うと、白馬のプライドはボロボロだ。
 また怪盗キッドに対する探偵としてだけでなく黒羽快斗にとっての白馬探も、その他大勢でしかないのだと言われているも同然で。友人としても、自分が思うほど相手にされていなかったのだと思うと、ショックも大きい。
 白馬にとって服部平次と工藤新一は、探偵としての尊敬と仲間意識が持てる、数少ない少しばかり特別な友人である。
 それだけに怪盗キッドが絡むと白馬の心境は混然と複雑な色に染まってしまう。
「おい、白馬……?」
 不意に抑えた声が間近で聞こえて、白馬は慌てて瞳を瞬いた。
 快斗の声はいつだって、楽しげに響く張りのある声だ。白馬の名を呼ぶ時の多くは苛立ったようであったり呆れた風に紡がれる。大抵は、いつも。その彼がこんな風に自分を呼ぶのを初めて聞いた気がする。
 少しばかり心配そうに、微かに不安そうに呼ぶ声。
 先程まで床に寝そべりペンを走らせていた筈の快斗の瞳がひどく近くで自分を伺っている事に、白馬は二度驚いた。
 彼は白馬の腰掛けているソファーに片足を乗り上げて、極めて至近距離から顔を覗き込んで来ている。触れてこそいなくとも、心境的にはのし掛かられている、に近い。
 その瞳にはなんだか妙に神妙な、らしくない表情が浮かんでいる。
「悪かったよ」
「は?」
 思いもかけない彼の謝罪に、白馬は更に困惑を深める。何故だか快斗はぽつりと謝ると、くるりと身体を反転させて白馬の隣に腰掛けた。勢いからすると『投げ出した』と言ってもいい。
「オマエがそこまで落ち込んでるなんて、知らなかったんだよ、オレ。そりゃちょっとは悔しがってるだろうなぁとは思ってたけどさ」
「…………はい?」
 何やら快斗は快斗で困っているような口振りだが、白馬も白馬で意図が読めず口からこぼれるのは疑問符ばかり。
「そんな気にすんなって」
「あの、」
「その内オマエにだって本物か偽物か分かるようになるって、な!」
「いえそうではなくて」
 まるで励ますかのように肩をぽんぽんと叩かれるに至っては、白馬も手にしていた本を放置し快斗へと向き直らずにはいられなかった。
「ちょっと待っ」
「いーや、みなまで言うな!」
 遮る白馬の台詞を更に遮られる形になって、ほとほと弱り果てた白馬は「黒羽くん!」と強く名を呼ぶ事で、やや強引にだが彼の意識を引っ張り寄せる事に成功した。
「先刻から、君、何の話をしてるんです?」
「何って人間何事もしゅぎょー………ん?」
 快斗もやっと白馬の困惑しきった様子に気付いたようで、握り拳もそのままに瞳をぱちくりと見開いた。
「オマエ、落ち込んでるんだろ?」
「いいえ?」
 即座に返した返事に、快斗はぽかんとした顔で、あれ、と首を傾げる。共にどこかで行き違いがあった事だけは分かって来た。
「何故、僕が落ち込んでいるだなんて」
「だって、オマエ偽物騒ぎにひっかかってたし、その事話してたら急に黙り込んだじゃんか。だからオレ……てっきり……」 
「偽物騒ぎって………ああ………」
 なんの話ですか、と続けようとして、遅ればせながらやっと白馬にも理解出来た。彼のいう偽物騒ぎというのがこの夏の怪盗キッドの騒ぎの中で一際異彩を放った一事件だったからである。

 

 

 事件は至極単純だった。
 夏の半ばに警察と新聞社、美術館宛に届いた怪盗キッドを名乗る予告状。その話を聞いて、白馬はまず帰国の手筈を整えた。
 そして手配が済むまでに手に入れた予告状の写しを見て、それがキッドの手によるものではないと確信したが白馬は迷わず帰国したのだ。
「僕はあの予告状が本物の怪盗キッドと思って帰国した訳ではありませんよ」
 快斗は白馬が何を言っているのか理解しようとするように、まじまじとその顔を見たまま動きを止めてしまっている。
「………マジ?」
「本当、です。ひっかかる訳ないでしょう、この僕が」
 これでもそれなりに怪盗キッドに関しては一格言を持つ自負のある白馬である。偽キッドを本家キッドと思って帰国した等と今まで思われていたと思うだけでも業腹で、その声までも不機嫌に響く。
 快斗は、しばし無言を貫いた。と、盛大に溜め息をつく。
「………黒羽くん?」
「あー……っと、『待て』」
 それこそまるで犬に『待て』を教える時のように横から綺麗に伸びる五本の指と、てのひらがにゅっと突き出される。
 白馬は身じろぎもし難くて思わず息を潜めた。
 だが、五分も過ぎると快斗に聞いてみたいと思う事項がどんどん生まれて来て、落ち着かない事この上ない。
「えっと、さ」
 七分が過ぎて、漸く手を引いた快斗が口を開く。少しほっとして、
「はい」
 と、白馬は答える。
「ばったもんの時、さ。本物のキッドじゃねぇと思ってたんなら、なんでオマエ帰って来てたんだ?」
「名をかたられて、キッドが黙っていると思えなかったので帰って来たんです」
 怪盗キッドはその名にかなりプライドを持っている。その高さからして、我関せずと無視するとは思えなかった。
「怪盗キッドが現れるのなら、僕の管轄ですから」
 ごく当たり前の事を当たり前と述べただけなのに、快斗には心底嫌そうに顔をしかめられてしまう。白馬の答えは、どうやらお気に召さなかったようだ。

 

 白馬の予想違わず本家本元の怪盗キッドは姿を現わし、偽キッドはぐるぐる巻きにされてよりにもよって東京タワーのてっぺんで、追いかけて来た二人の探偵に発見された。展望台は別料金なのに、と庶民派の西の探偵はその処遇に大いに不満を唱え相棒を呆れさせたらしい。最終的には警察の経費で落としたというのだから、彼らはどっちにしてもちゃっかりしている。
 盗まれた宝石はというと、やはりこれまた警視庁まで即日バイク便で送り届けられた。
 中森警部の血圧を上げる為のような、本家キッドのコメントが添えられていたと聞く。……白馬は結局、見てはいない。
 二手に分かれ美術館と逃走経路と、どちらに張るかと言う話になった際、東西名探偵と相談の結果、白馬は美術館を選んだ。
 白馬自身も中森警部に歓迎されているとは言い難かったが、新一達は一課に出入りが激しい分余計に煙たがられていたし、平次にはバイクという足もある。彼らの方が逃走経路のでの待ち伏せには望ましく思えたのだ。
 だから、白馬は偽キッド登場の場とそこへ本家怪盗キッドが現れた所までは居合わせたが、その後、東京タワーに駆けつけた頃には本家キッドの影も形もなかったのである。
 わざわざ海を越え帰国したにも関わらず貧乏くじを引いた形になった白馬だったが、中森警部も偽キッドを怒鳴り散らし翌朝には本家怪盗キッドを褒め称える新聞を目にしてはまた怒り胃薬を噛み砕いたという話だを聞いて、貧乏くじを引いたのは自分だけではなかったのだと自らを慰めたのだった。

 

 

 何がそんなに気に障ったのか、快斗は「……管轄、ね。……バッカみてぇ」と呟いたきり、どうでもいいように会話を投げ捨てる。
 馬鹿みたいだと言った彼の言葉は、白馬へと向かってのものというよりは、自らを笑ったように聞こえた。自分に対して不機嫌になる、というのも奇妙な話だが、雰囲気はそれに近い。
 ソファーの上に両足を引っぱり上げて、膝を抱え込む。膝の上で身体を抱くように腕を回し、白馬とのいる側とは反対に視線を向けてしまう。
 体育座りはソファーという広くない場所ではどうにも危なっかしい。白馬は危惧する声をかけようとして、出来なかった。
 拗ねた子供が小さくなっているみたいで、彼はキッド……勿論本人は否定してはいるが……ではあっても本来の意味で保護が必要な幼子ではないというのに、錯覚しそうになる。
 ましてや彼が拗ねようが背中の曲線が寂しそうであろうが、それが白馬が慌てる理由になろう筈がない。……本来なら。
 なのに沸き上がったのは、衝動。
 そういった現実をすっ飛ばして、彼を引き寄せて腕の中に囲い入れ髪を撫で、しょげている子供に寂しがりな子猫に、優しくしたいという思い。持ちうる全ての温もりを与えたいという、思い。
 白馬は困惑していた。彼が訪れてからというよりはこの夏で最もといってもいい。それ程追い込まれているともいえた。
 手を差し伸ばすのは簡単だ。
 快斗がキッドと思っているから尚、容易なのだ。
 白馬が怪盗キッドを追い求める気持ちは、表向きの理由だけでなくどこか現実離れした惹かれる気持ちや強過ぎる憧れが強い。そして黒羽快斗を前にすると、同様の引力と異質で近い力……ひどくリアルな好意に、捕らわれる。
 だから今、白馬が彼に手を伸べるのは容易で、けれど気付いてしまったら躊躇いも生じた。
 こんな風に唐突に、気付いてしまうものだとは思っても見なかったから、尚のこと戸惑っているのかもしれない。……自分の中の好意が恋に変質してしまっていたという厳然たる事実に。
 浮かれて騒ぎたいような、呻きたいような、それでいて少し怖いような。気付いてしまった事に対する諦めのような気持ちと、幾らかはっきりした事によりどこかすっきりしたような気持ちが、混沌としていた自身の中でじわじわと領土争いを始めていた。
 だからこそ、即断は出来ない。
 好意が恋になった以上。恋に行為が伴ったら、もう後戻りは出来ない。例え、行為が『手を触れる』といった他愛のないものであっても、他愛のない行為に他意がない訳でないのなら、起こった変化は戻せないのだ。
 そう分かってしまったから。
 迷って迷って迷って。
 惑った末に、白馬は衝動に身を委ねる道を選んだのである。

 

3《もっと》

 本当にバカみたいだと思った。
 偽キッドに騙されて帰国したのだろうと勝手に早とちりして、筋違いに気を悪くして。
 その上、見抜けなかったと落ち込んでいるだなんて思いこみで誤解して、らしくない慰めや励ましの言葉まで口にした揚げ句に、見当違いと本人の口から告げられるだなんて『バカみたい』以外の何物でもない。いや、みたいどころかバカそのものだ。
 みっともないやら恥ずかしいやらで、顔からは火を噴かんばかりに血が昇り火照って仕方がない。
 快斗を襲ったのは目一杯の自己嫌悪だった。ソファーの上にも関わらず思わず足を引き上げて抱え込み、彼の覗き込んで来る視線にも逃げを打つ。
 こんな顔、とてもじゃないが見れたものじゃない。父の教えが頭を掠めたからといってどう出来るものでもなかった。
 両腕に顔を埋めるように頬を寄せ、偶然目に入った罪のないチェストを睨み付けていると、次の瞬間にはチェストは横様に倒れ込んだ。前髪が目に入りそうになって瞬間目を瞑る。
「んあ?」
 咄嗟に上げた声は意味を成さない疑問系だった。
 そして横様に倒れたのは勿論チェストを含む視界などではなく自分自身だと分かったのは、快斗の肩口を強引に引いた彼のてのひらによってであり、頬の当たっているスラックス越しの体温によってでもあった。何より上半身を捻り見上げた先……天井より間近に、どこか自信なさ気な光を湛えた紅茶色の瞳に出会ってしまったのだから、もう間違えようもなかった。
「僕がキッドを追うのが気にくわないのですか」
 問い詰めるのではなく、気弱に響く質問に、一瞬現状も忘れ「そりゃあ」と快斗は答える。
「オレ、怪盗キッドの筋金入りのファンだもん。まさか、オマエがキッドにケチつけるの聞いてて楽しんでるとでも思ってんの?」
「あ……、いえ。ただ、なんだか君は違う事で怒っているような、気がしたもので……」
 白馬は困ったように言って、もごもごと語尾を濁す。
 彼の読みは間違いではない。
 あえてそのままの態勢で、快斗は半眼で彼を睨み上げた。態勢が態勢なせいか眼力は些か迫力不足の感がある。
「ほお。……それで?」
 言いたい事があるのなら言ってみろ、とばかりに促すと、白馬は「はぁ」と困ったように答える。……会話として成立していないのは確かだ。
「なンだよコレは?」
 明確な返答が期待できないと分かると、待っても埒があかない、とばかりに更に答えを促す。返ったのは割合真っ当に聞こえる単語だった。
「ひざまくら、です」
 割合、つまりどちらかといえば、というレベルの形容詞がのっかる単語とは如何なものか。そもそも快斗が聞きたかったのは、この態勢を示す単語などではない。……断じて。
「だーかーらっ! オマエは怒ってる人間がいると相手構わずこーゆー事すんのかよっ。そこんとこ聞きたい訳、オレは。分かる? つーか分かれ」
 あくまでも白馬の膝から彼を見上げたままで、快斗は嫌味な口調もあらわに早口でまくしたてた。
 白馬は眉を八の時に下げ「やはりダメでしたか」と諦めた風に呟く。
「すみません、実は僕もあまり相応しいと思えなかったのですが、他に穏当な手段を思い至らなかったものですから」
「……穏当……? ひざまくらが穏当な手段かどうかは一端置いとくけどさ、そもそもそれって……何に対して発生した手段なんだ?」
 脈絡のない行動で相手の度胆を抜くなら自分の方が遥かに得手だったように記憶している。だのに白馬の行動の意味も読めず、軽く振り回されている。
 彼に他意があっての事なのかは分からなくとも、快斗には新鮮な当惑だった。
「僕が君のいうように、大きい犬だったら良かったのですけど……」
 また唐突な話題転換だった。
 彼は至極残念そうにため息なんかをついている。会話の脈絡はやはりつかなくて、仕方なく快斗は「どうして」と問うてみた。
「だって僕には振って見せれる尻尾もありませんし、誰だって顔中なめまわそうものなら悲鳴を上げて逃げ出すか、反対に殴りつけますよ。……そうでしょう?」
 普通はそうだろう。ただそれが自分の望む相手なら、仔犬のようにじゃれあうのもむしろ……。怪しい処まで走りだした想像を慌てて打ち消しながら、快斗は曖昧に頷いた。
「…………まぁ、普通はそうだろーよ。で、オマエがそこまで犬になりたがる理由も分かんないけど、どーして犬じゃないからってひざまくらになんの」
「いらいらしている相手を宥める手段としてのキスや抱き上げて膝に乗せるような行為は……女性や子供ならともあれ、君には相応しくはないと判断しました」
「………それで、ひざまくら………」
 呆然と呟いた。
 怒っている相手を前に、謝るのも宥めるのも個人の勝手だが、白馬の宥め方にはかなりの難有りだ。
 いや、本人の言葉通り女性や子供相手にはそれなりに有効な方法ではあるかもしれない。相手の女性に勘違いされる危険性を勘定に入れていないのは、いかにも紳士の国製な育ちが現れているが。
 だがしかし。
 もうちょっとスキンシップを伴う好意の示し方には一般的なものがあるのではないだろうか。キスやひざまくらまで各段階をすっ飛ばしていかないでも。
 ……好意……?
 何気なく考えて快斗は固まる。
 わんこが尻尾を振るのは友好の証だろうけど、ひざまくらも好意から来る話だったか……?
 いや、好意でなく宥めだったか?
 固まったせいで顔に火がついた状況は脱っせたものの、快斗はしばしカッキンと硬直してしまった。
「ええ。……すみません。これも相応しくはなかったようです」
釈然としない、と顰めっ面のままの快斗をどう解釈したのか白馬は項垂れて再度謝意を表す。
 どうぞお好きに。そういうように白馬は両のひじから先を上げて動きを止めた。もう手は触れません……の意か、お手上げ……の意味か。
 とりあえず快斗を引き倒した手は今、快斗を拘束してはいない。
「……どうしました、黒羽くん。もう押さえ込んだりしませんよ」
「ああ……いやちょっと勘ぐり過ぎてた、オレ」
「……?」
 というよりは深読みし過ぎた、という事か。思うにどこかずれた所のある彼だから……悪い意味でなく純粋培養的な感がある……こういう結論に至ったというだけで、快斗相手にその手のゲームを仕掛けて来る程に気持ちが向かって来ているようにも見えない。
 白馬は不思議そうに動かない快斗を見ている。何を思っているのかその瞳の色から伺い知れはしないだろうかと、快斗はそのままで白馬を見上げて視線をまっすぐ受け止める。
 紅茶色の彼の穏やかな光をたたえた瞳には、強く困惑の色も滲んでいた。それでも快斗の瞳を覗き込みそうする事で快斗の意志を探ろうとでもしているかのように、視線は反らされないまま……思わぬタイミングで二人の間の時が、動きを止めた。
 不自然な態勢。
 不自然な沈黙。
 そんなものに、してはいけない期待を倍増しさせてしまう自分がいる。
 するだけ無駄だと一夏かけて思い知った筈なのに、こんな風に彼に邪険に扱われなかったというだけで、間近に接して貰っただけで、とうに捨てたつもりだった切なさや望みがじくじくと胸を疼かせた。
 あんなに逢いたいと願った相手がここにいる。すぐ傍らで体温まで感じれる。
 笑いたいのか泣きたいのか分からず、ややして快斗は目を閉じた。
 視線を逸らす白馬を、見たくはなかった。
 けれど、瞳を閉ざし張り詰めていた糸を断ち切ったって、優しいだけの闇で自分勝手で贅沢な夢を織り上げられもしない。
 ……そんな真似は出来ない。

 

 快斗はこの夏にかけていた。

 

 出会った頃の白馬と、今の彼は違う。相変わらずキッド関連には過敏な反応があったが、快斗自身には以前ほど怪盗キッドとの繋がりを追求しなくなった。
 キッドイコール快斗だと、彼が今でも疑惑を抱いているのは分かる。ただ快斗が答えをはぐらかし続けたからか、言葉で問いかけはしなくなった。
 たまに、目で問うだけで。
 そして快斗にも、頑なで尊大な態度だけではなく笑顔さえ向けて来るようになった。まるで友人宅を訪ねるように気安く快斗が窓から押し入っても、呆れ半分苦笑半分で受け入れて得意のお茶をふるまってさえくれる。
 ……それで、満足出来れば良かった。
 友人のように受け入れてもらえた級友、好敵手の探偵に追われる怪盗、そんな関係に満足出来ていれば。
 なのに快斗は『もっと』と求める気持ちが殺せなかった。
 もっとキッドだけを見て、追いかけて、いっそ逃れようもないようしっかりと捕らえてくれればいいのに。そうでないなら、快斗の想いと等しく黒羽快斗を見てほしい……怪盗キッドの正体として一番疑わしい人物だからではなく、騒がしい級友の一人としてでなく。
 『もっと』逢いたい。
 『もっと』見ていたい。
 『もっと』『もっと』話して、笑って、触れて……尚いっそう募る、想いを。

 

 快斗として、白馬に「日本に戻った時には顔の一つでも出せよな」とさりげなく言うのは容易だった筈なのだ。
 なのに、夏は英国で過ごすと聞いてから一学期の終業式までにとうとうそれらしい事は言えず終いで。ましてや「行くな」だとか「早く戻って来い」だのとはまかり間違っても言えないままずるずると一学期は流れていった。
 空港まで見送りに行くという青子と紅子に誘われても頷けなかった。
 冗談っぽく悪態を吐いて尻尾を巻いて逃げ出すのはプライドも傷んだが、素直に空港に見送りになんか行ったところで気持ち良く送り出すのも困難な話だった。きっとプライド等とは比べものにならぬ程、胸が痛んだであろうから。
 白馬と快斗との間には幾重もの壁と矛盾がある。それを知っていたから、快斗がアプローチとして出来たのはせっせと怪盗キッドの予告状を出し続ける事だけ。

 たとえ一度でも彼を引き止められたなら、何もかもを投げ出してさえ後悔はしないだろうと分かっていた。
 ……追って来る彼が全力で逃げるキッドを捕まえられたなら。
 騒ぎが収拾した時にその足で空港に向かわずに、彼が黒羽快斗に逢いに来てくれたなら。
 
 賭けは祈りに似ていた。
 何度も予告状を出す度に、現場で彼の姿を見かける度に、事件が終結した翌日に、祈りと絶望を繰り返す日々。

 

 ……とうとう祈りは届かなかった。

 

 快斗の中で期限はとうに決められていて、夏も終わりに近づいた今日が、その日。
 タイムリミットだ。
 願いが叶わないとあらば、ずっと抱えて来た気持ちごと願いなんて葬り去ろう。
 切ない痛みを伴いながらも何時しか快斗の中で育ち、ある意味快斗を支えていてくれたその想い。
 彼へと向かう快斗の想い。
 それは手の届かぬ場所へ……たまに思い返すしか出来ない、過去へと封じ込めるしかない。
 そんな日はいっそ来なければいいのにと心の中ではいつも思っていた。だからいつだって今日を頭から締め出していたのだ。
 けれど、決めていた今日という日。
 服部平次の指摘がなくとも、延ばし延ばしに自分を誤魔化しも出来ないと分かっている。自らが最も分かっている。
 だから、唐突な来訪が白馬を不審がらせるかもしれないのは承知の上で、彼の元を訪ねた。この日を境に、ただの好敵手にただの級友に徹する為に、最後に今想いを抱えたままの快斗として逢いたかった。
 それだけだったのに。
 行き先のない気持ちを諦める為に来ているのに、この期に及んでの眩暈がしそうな展開に気持ちはどうしようもなく、揺れる。
 間近な熱に。
 彼の視線に。
 『もういいじゃないか』『ここでケリをつけないでどうする』確かにそう思っているのに、同時に、まだ諦めるには早いのではないか……出来る事がないのか、望みは持てないのかと、心のどこかがまだ揺らめいている。
 ……心の準備、だなんて。

 

「黒羽くん」

 

 そっと躊躇いがちに、聞き取るのがやっと程の小さい声が、名を呼んだ。
 快斗は目を開けれない。……全身に震えが走りそうだ。
 堅く瞳を閉ざして五つ数え、それからやっと取り繕った平静な表情のまま唇の動きだけで『ナニ』と問い返す。
 彼がじっと自らの顔を見ているのは視線で……気配で、分かっていたから声なんか出さなくても伝わる事は分かっていた。
「駄目ですよ、こんなに……、僕に無防備な顔を見せては」
 思いがけない台詞に、快斗はどこかへ漂いかけていた意識を慌てて引っ張り寄せて、ぱっちり目を見開いた。
 声は諭すようにそっと告げられた。
 だが。
 下から見上げると見える筈の彼の澄んだ紅茶色の瞳を覗き込む事は、叶わなかった。……本人の意志によって堅く瞑ったまぶたと淡い薄茶の前髪に阻まれて。
 快斗は白馬の肩に手をかけてゆっくりと身を起こした。最後に彼の体温を覚えた指先をそっと離し、立ち上がる。
 身体が覚えている白馬の膝の体温と、連動してほてった体内の熱の名残は、そのまま夏の終わりを示しているような気がする。
 白馬は自分に対して無防備に過ぎると言う。もっと警戒すべきだと。……正論である。
 むしろ彼の口から出るのが相応しくない程に、尤もな話だ。
 それでも、快斗はそうしたくなかった。
 「何言ってんだか、分かんねぇよ」と言い逃れるのも疲れた。困ったような微笑みももう見たくはなかったし、優しく突き放されるのも、キッドに向ける熱っぽい眼差しと快斗に向けられる視線との隔たりを測るのも、総じて限界だった。
「オレがどんな顔をしてたって、オマエには関係ないんだろっ……ホントは……!」
『オレの事なんて、なんとも思っていない癖に!』
 もう一歩そのタイミングが遅ければ、お門違いと分かっていても快斗はそう怒鳴っていた。その言葉をぶつけずにすんだのは、一重に小さなノックのお蔭で。
 勢い良く顔を上げた白馬の紅茶色の瞳は、快斗の視線にぶつかる前に揺らぎ、逸らされる。問答を避け、彼は口元を頑なに引き結んだまま対応に向かった。
 彼の開けた扉の向こうで誰かが白馬に何かを告げる。
 居心地が悪くなった快斗はその間に持ち込んだテキストをかき集め、大雑把にデイバッグに放り込んだ。
 もとい、居心地がどうのというのは言い訳でしかない。
 本当は決定的な何かが突きつけられるより早く逃げ出してしまいたくなっているだけで、その癖同じだけの強さで与えられている以上のものを求めて破裂しそうな自分がいる。
 つい間際の会話にもそれが出ていて、それを自覚した理性はとっとと自身の心にキリをつけてこの場を去れと叫んでいるのだ。
 いつでも退却できるようデイバッグを片手に窓際へと移動する。
 ベランダへは出ない。
 じっとガラス越しに眺めていると、外は昼日中の一番強い日差しが照りつけている。室内の適温との落差のギャップを想像しぼんやり視線を投げていると、白馬の声が耳に飛び込んで来た。
「それは、本当ですか」
 耳を澄ませる気はなかったものの聞こえてしまった、妙に堅い、緊張した声。
 はっと振り返った快斗と、振り向いた白馬の視線がかち合う。
 白馬は一瞬だけ視線を足元に落として、「殺人事件です」と呟く。
 声は堅くとも落ち着いて聞こえた。
 だが、それを裏切って、彼の表情はらしくなくひどく動揺が現れていて、もう一度口を開くまでのほんの数秒を快斗も緊張して迎えねばならなかった。
 落ちた沈黙が、彼の動揺が、次の言葉の予想を容易くする。いつだって、白馬を揺すぶる存在は限られているからだ。
 白馬は閉じた扉から離れずにいる。蝶が蜘蛛の巣に縫い止められたように。
 快斗もベランダへ続くガラス窓に添い立っていた。彼にはもう近づけず、かと言ってそれ以上遠ざかる事も出来ずただそこにいた。
 部屋の端と端で二人は立ち竦んだように動けない。
「容疑者は……、」
 口火を切った白馬の声に快斗は声を重ねる。お粗末な映画のラストシーンのようにぴたりと。

 

「怪盗キッド」

◆つづく 


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