(saturation)
新一の元には、神出鬼没を体現している平成のアルセーヌ・ルパンが時折訪れる。
気障で派手好きで嫌味なドロボーと言い切って憚らない探偵でもある新一のどこを気に入っているのかあまりにもちょくちょく姿を現すので、最後通牒のつもりでKIDの出入りを禁止したら、翌日には学ラン姿の高校生が工藤邸のチャイムを押した。
黒羽快斗こと、怪盗KIDである。
人好きのする笑顔に明るい声、人の予定を頭っから引っ掻き回す傍迷惑な性格の癖に、甘え上手の甘やかし上手。KIDとは与える印象は天と地程も違う癖に、時折感じる気配はやはり同一で妙に新一を納得させた。
気付けばすっかりそのペースに巻き込まれ、その存在に慣らされてしまっている。
なのに、最近徐々に訪問に間が空き出したかと思うと、梅雨入りした頃からぱったりと姿を見せなくなった。
そうなるとこちらから表立って尋ねて行く程の理由も見つけられなくて、気を揉みつつもリビングのソファーで頬杖をついて本を睨み付けるしかなかった。
文字を追っていても、風の立てる物音一つで気が散ってなかなか読み進められない。
ふと、風を感じた気がして顔を上げると、今度は気のせいなどではなく、さらりとした初夏の風が新一の頬を撫でる。その先で、まさに今考えていた白づくめの怪盗が窓から滑り込んで来た所だった。
「こんばんは、名探偵。良い月ですね。ご一緒に月見でも如何ですか?」
ひらりとマントを翻して馬鹿丁寧に礼を取ったのは、怪盗KID。しばらくぶりに見た姿は、記憶の通り、嫌味な位に優雅でシャープな立ち居振る舞いだ。
「閉めろよ、とりあえず」
聞いてみたい事は色々あった気もしていたが、聞かれたくないと思っているのかどうかがまだ読めない。KIDの顔をまじまじと見つめた後、結局新一はそんな言葉を選んだ。
KIDはくすりと笑う。
「おや、月見はお気に召しませんか」
パタンと窓が閉められて、室内の動きは止まった。
KIDは窓の側に立ちつくしたまま、室内に入って来ようとはしなかった。その場で新一の動きを待っているかのように、視線は揺るがず固定されている。新一も、KIDを見返した。
そのまま何故か二人して黙り込んでしまって、新一は確信した。
(やっぱり変だ、こいつ。)
いつもならKIDの姿でも、言葉に詰まったように黙り込んだりはしなかった。動きを封じられたように途方にくれた子供のように、立ちつくしたりはしなかった。
「今日は仕事じゃねぇんだろ?」
疑問というよりは確認だった。TVをつけていないから確実とは言い難いが、夕刊ではKIDの予告状など取り上げられていなかった筈だ。
「いいえ。貴方に会いに来たのですよ」
台詞は、KIDにありがちな気障な言いぐさ。なのに、いつものどこから出て来るのだと問いかけたくなる自信たっぷりな語調でなく、弱い響きの呟きでしかない。
「なら、なんでそんな所で止まってんだよ。こっち来れば?」
KIDは困ったように少し口元だけで笑う。
「……いいのですか。私は、立ち入り禁止なのでしょう?」
新一は、自分が言った言葉を、彼がそれ程気にしていると思ってはいなかった。勿論、守るべく言葉は守るし、新一の言葉に真面目に耳を傾けてはいたが、自分で良いと判断した場合はあえて無視もしたから。
「じゃあ、その格好止せよ」
快斗の出入りまで制限した覚えはないと、言外に含ませる。
「残念ですが、今夜は私服を仕込んではいません」
視線を落とすKIDに、新一は歩み寄る。
目の前に立った新一を、不思議そうにKIDは見返した。
その瞳を隠す、モノクルを外す。シルクハットを投げ、ネクタイを抜き取る。スーツのボタンを外して、新一も視線を合わせた。
「これで文句ないだろ?」
ぺち、っと頬に手をやって。
「快斗」
名を呼ぶと、快斗はがばっと新一に抱きついた。
「〜〜新一ってばもお〜っ」
「快斗?」
やっぱり適わない、と呟いたようだったが、それはよく聞こえなかった。はいはい、と首元をくすぐるくせ毛を叩いて、それから腕を軽く叩く。
「オレ……ここ来てもいいのかな……?」
僅かに離れて、けれどまだ新一の腕に指を絡めたまま、何を言うのかと思ったら快斗はそんな事を聞いて来る。
「何を今更。いつだっておまえ、勝手に来んじゃねーか」
「そう、なんだけどね」
答える声は今一つ歯切れが悪い。きゅっと、もう一度抱きついて。こんな風に甘えてくるのは珍しい事でもないけれど、やはり違和感は残った。
疲れているように感じる。けれどそれを快斗は隠そうとしている…………?
だったら、気付かないふりをしてやる方がいいのだろう。いつも通りに。
「少なくとも暇潰しにはなるよな」
軽く答えたら、やっぱり快斗は泣きそうな顔で笑った。
「鋭意努力しマス。あのさ、新一お願いがあるんだけど……?」
らしくなく低姿勢で聞いて来る。なに、と短く問うと、やっぱり少し躊躇って。
「今日、泊まって行ってもいい?」
「……いいけど」
多少気が抜ける。
断りもなく散々遊びに来たまま泊まり込んで行っている人物の台詞とも思えない。
けれど、快斗は明らかにほっとしたように肩から僅かに力が抜けた。
「じゃあさ。しばらく、泊まってもいい?」
これには少し考えた。確か江古田も同じ公立高校だから、期末テストが迫っている筈。
「学校はどうするんだ?」
「ここから行くよ。そんなに遠くないし」
家にいたくない理由があるのかと思わないでもなかったが、あえて聞かなくても良い気がした。
聞いてしまったらここでないどこかで、今度こそたった一人になっていそうな気がして、そんな姿は望んで等いないから。
「おばさんにはちゃんと言っておけよ」
そんな風に許可を出したら、その日始めて快斗は混じりっけなしの笑みをこぼした。笑って、それから頷いて。
「ありがと、新一」
こうして、その日から工藤邸の人口密度は膨れ上がって行くのだった。
§ § § § §
週末毎に、西の高校生探偵は東の高校生探偵の元へとやって来る。
更に、今の夏休みのような長期休みは必ず。
それこそ各種事情の許す限り、という勢いで東都に滞在している彼と、ふらりとやって来ては数日泊まり込みこの家から学校へも通ってしまったりする快斗は、この家で交友を深めた。
そして現在、二人して工藤邸の居候としての権利をもぎ取っている。
権利、を簡単に言うと、各自、一部屋ずつ客間を確保し『自分の』食器が、テーブルに着く時には『自分の』席がある、という事だ。
KIDでもある自分と、コナンだった新一と、二人は互いの秘密を黙殺し合った。
そうして押し掛けた末に手に入れた、居心地の良い場所。快斗はここで許容される心地良さを知ってしまった。
(全てが終わった時、ここは残るだろうか……?)
ふっと浮かんだ言葉を頭の一振りで飛ばして。
深呼吸一つで気持ちを切り替えて、快斗は門へと手を掛けた。
「ただいま」
「おー、お帰り」
誰もいないと思いつつも呟いた快斗を、意外な声が迎え入れた。
そういえば、鍵、開いてた……。
ぼんやりと思いつつ慌ててスニーカーを脱ぎリビングに向かった快斗は、声の主であるところのもう一人の居候・西の探偵の笑顔に迎えられた。
「へーじ。もう帰ってたんだ?」
夏休み突入と同時に東都へとバイクを走らせて来た、西の名探偵は事件が起こると新一と共に飛び出して行く。
同時に、夏休み中はすっかり工藤邸に居着くつもりの快斗のケータイには、東西名探偵からのメールが交互に寄せられている。
その大抵は工藤邸の食生活の責任を担っている、服部平次からのもので、東の探偵からは必要最小限のメールしか送られる事はなかったが、それらは快斗にとって有り難いものだった。
事件と知っていればこちらから不意の連絡を取って迷惑を掛ける事もないし、連絡が取れず工藤邸で無音に迎えられる事もない。
この日も、登校日で渋々高校へ出掛けた快斗の元へ、東西名探偵からのメールが飛び込んで来た。相も変わらず目暮警部からの要請で出掛けるというメールだったので、てっきり無人だと思っていただけに驚きを隠せない。
「先刻な。丁度今、一息入れとったとこや」
「事件だったんでしょ? 新一は?」
問うと、苦笑が返された。
「一応調書まで付きおうて来る言うとったわ。じき帰って来るやろ」
何の含みもなく、彼はあっさりと答える。
以前の平次なら、帰れと言われて大人しく帰ったりはしなかった。粘り勝ちは以外に西の名探偵の得意技で、殊、事件に関わる際に平次は新一を一人で向かわせるのは気が進まないようだった。
互いを強く思って、大事にしたいと願って、共にある未来を望んで、けれどそれを言葉に出すのを躊躇う。そんな二人の姿は、第三者である筈の快斗にはよく見えて、クリアーに見え過ぎる程で。
やきもきしたのも1度や2度ではなかったが、くちばしを挟まずに、じっと見ていた。
そんな二人が目に見えて変わったのは昨年のクリスマスを経てから。
特に変わったのが、平次だった。
一言でいうなら、落ち着いた。……周りを見渡す余裕を身につけた。
快斗の立っているスタンスもよく見えるようになったのか、快斗が新一相手にわざとちょっかいを出しても懐いて見せても、慌てふためいたりむきになったりしなくなった。
正直、おちょくり甲斐がなくなって、そういう意味では少しばかり面白くない。
その代わりのように、快斗に対する対応も『対・その他大勢』ではなく『対・恋敵予備軍』でもなく、『対・工藤邸の居候仲間』になったようで、困った事に更にこの場所の居心地を良くしてしまっている。
新一と平次を見ていると感じるのは、想いの通じ合った者同士の、強さ。羨望と、焦燥と。
一緒にいて、疎まれる事も軽んじられる事も決してないというのに、こんなに居心地の良い場所は他に知らないというのに、時折途方に暮れるような気分に陥る。
二人が急に3歩も5歩も先を歩き出してるようなイメージを抱いてしまって、今の自分は、ひどくらしくない気持ちになっている。
「先帰ってエアコンつけとけ言うねんで。どないや、アレ」
まったく、と言いながら、それでも彼の眼は優しい。
「女王様だね、相変わらず」
笑って応える。
この眼を見ると思う。アイツはきっとこんな眼はしない……こんな眼で自分を見ないと知っている。
だからだろうか。
自分のあやふやな想いを『 』と自覚しても、その向かう先は見失ったも同然、この自分が手も足も出ないでいる。
ただ顔に出さないように努めるだけ。
彼等は歩いて行くだろう。
置いて行かないで、と自分はそれを望めない。口に出す資格なんてとうの昔に放棄した。見送る日がいつか来ると、分かってここにいるのに。
「ホンマ、太刀打ち出来へんやろ」
平次はストローを放して軽く苦笑を浮かべた。
苦笑……呆れているのではなくて、仕方がないと受け入れて、それどころかまんざらではないとその表情は語っている。
明るい栗色の髪、琥珀の瞳、淡い色調を覆す、強い視線。
不意に過ぎった顔を……閉じた瞼に浮かんだ顔を、快斗は強く念じて消し去る。
そうして口に乗せるのは、結局いつものからかい口調。いつもの笑顔でいつものように、ソファーの背から平次の顔を覗き込んだ。
何や、と見返す顔はまだ『対・新一仕様』のままのようで、その眼が放つ光はどこか柔らかい。
「へーじ、のろけ顔〜♪」
「あほ」
何言うとんねん、と軽く流されて、快斗も声を立てて笑った。
「あ、いいの飲んでる。オレにもちょーだい」
平次の手元にはアイス・コーヒーのグラス。外から帰ったばかりの快斗の乾いた喉に、それはひどく魅惑的に映る。
しかし、伸ばした手はあっさりと空を切った。ひょい、と平次がグラスを遠ざけたからに他ならない。
「自分、腕落ちたんちゃう?」
「このっ」
ひょい、ひょい。更に三度攻防が繰り広げられても、快斗の手には空気しか掴み切れなかった。
あまりにもいつもと勝手が違い、快斗は驚いて我が手と平次を見比べてしまう。
腕が落ちた?
………本当に?
マジックの練習は日々欠かしてはいない。
覚えがあるとすれば、夏休み前に転がり込んでから二十日程度、KIDとしての活動がなかった事くらいだ。
それだとて、これというビッグジュエルの展示会がなかったからだし、2週間や1ヶ月、間があく事自体は珍しくもない。
名探偵の手前、こっそりとはいえ下見や情報収集などの活動だって欠かしてはいないのに。
調子が思わしくないのは感じていたが、家主や彼にそれを悟られてはいないつもりだった。それがこんな形で現れていたのだろうか……?
唖然としていた快斗は、ぺち、と軽く額を叩かれて、はっと目を見開いた。
ソファーから見上げている平次の掌はそのまま快斗のくせ毛の上でポンポンと2、3度跳ねて、リビングから廊下へと続く磨りガラスの扉をゆっくりと指差した。
「あっついなぁ、今日も。ほら、ちゃんと冷たいのいれといたるから、先、着替えてき?」
やんわりと促されて、ぼんやりと快斗は再確認した。
こいつ、こうやって新一を甘やかせてるんだ。そんな風に思う。
そんな笑顔は、優しさは、自分の為の、自分へと向けられるべきものじゃないのに。
キッチンに向かって歩き出す後ろ姿を見送っていると、取り留めもなく覚えのある気持ちが波のように押し寄せて、他の全てを浚って行く。
………オイテイカナイデ。
チガウ、ソウジャナイ。
………ドウシテアイツジャナインダロウ……?
「黒羽?」
声に、快斗は頷きで応えた。
笑って「シロップとフレッシュは2つだよ」と念を押す。
平次はもう今更念を押すまでもなく快斗の好みを把握していたが、他に言葉が見つからなかったのだから仕方がない。
そして、快斗は2階の自らが借りている部屋へと駆け上がって行く。
その曖昧な笑みを目ざとく見咎めた西の探偵の不安気に追いかけて来た視線に、快斗は気付かないままだった。
新一が平次を先に帰らせた本当の理由が、快斗の不安定さを案じて、なるべく一人にさせない為の措置である事も、知らず。
ましてや、快斗の時々笑っていてもどこかうつろなその瞳や、いつの間にかするようになった無意識にこめかみを押さえる癖。
それらに二人が抱いている危惧も、知らないままに。
………飽和状態は静かに目前まで来ていた。
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