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★エピローグ★
私は、ひとり、そこに立っていた。
そこにいたはずの2人の姿は、もう、どこにも無かった。
もう、旅立った後なのだと悟った。
おそらく、いや、ほぼまちがいなく、終わりのない旅。
ふと、足元に紙袋が残されていることに気付く。
丁寧にも、風で飛ばされないように石で重しがしてあった。
「…行かれるのでしたら、せめてゴミの始末ぐらいしてからにしてください」
そうつぶやきながら、紙袋を拾い上げる。
重みがある。
どうやら、中身が残っているようだ。
「それともこれは置きみやげなのでしょうか。でしたら遠慮させていただきます。
少なくともこれは、女の子にプレゼントするようなものではありません」
風に髪がなびく。
「…これで、また私は置き去りにされてしまったのですね。いくら覚悟していた
とはいえ…」
瞳から溢れるものを感じる。止めようとしたが止められない。
だから私は観念した。
頬を伝い、顎から地面に滴り落ちる。
「やはり…辛いです…」
手で目を覆う。
「折原さんも真琴もひどすぎます。どうして私の大切な人は…みんな…みんな…
いなくなっちゃうんですか…」
手に持った紙袋の中からひとつ取り出し、口にした。
「…本当ですね。冷めても美味しい…。でもちょっと、塩味がきついですね…」
温かい日差し。
鼻をくすぐる草の匂い。
そして、柔らかな風。
「…あ…ぅ?」
目を開けると、目の前は真っ青な空だった。
ところどころに白い雲も見える。
お日さまの光でいっぱいだった。
「いいお天気…」
あたしのそばから声が聞こえる。
そっちを見ると、女の子が座ってコップを持ったまま空を見上げていた。
「最高の行楽日和ね」
「み…しお?」
あたしが呼びかけると、その女の子はこっちを向いた。
そしてどこからかコップを取り出すと、水筒の中のものを注いで、あたしの方に
差し出した。
「いかが?」
あたしは一瞬どうしようかと思ったけど、この人は悪いことをするような人じゃ
ないって知ってるから、体を起こして受け取った。
そしてコップの中のものを飲んでみた。
お茶だった。お茶はあたしの好みじゃないけど、でも、おいしいって思った。
女の子はお茶を一口飲んだ後、また空を見上げた。
「季節はもう春…」
そして、あたしの方を見た。
「あなたの大好きな季節よ、真琴」
気がついたら、あたしは美汐に抱きついていた。
美汐「それで、どのあたりまで覚えているの?」
真琴「うん…。浩平と結婚式して、そのあと、鈴であそんで、いつの間にか浩平
と勝負になってて…でもそのうち眠たくなってきて…」
美汐「そう…」
真琴「うん。この鈴で…あれ?」
あたしが見た手首には、何も巻かれていなかった。
真琴「鈴がない」
美汐「私が来たときには無かったわよ」
真琴「無くしちゃったのかな…浩平がくれたものなのに…」
あたしは悲しくなった。浩平との絆なのに…。
美汐「いえ、多分だけど、折原さんが持って行かれたんだと思うわ」
真琴「浩平が?」
美汐「ええ」
真琴「あれ?そういえば浩平は?」
あたしは辺りを見回した。でも、浩平らしい姿は見つからなかった。
美汐「まだ…戻られていない」
真琴「え?どういうこと?」
美汐は、空を見ながらつぶやくように言った。
美汐「あの人は…長い長い旅の途中…」
真琴「え?もしかして真琴を捨てて逃げたの?」
美汐「そんなことはないわ。それは真琴が一番良く知っているはずよ」
真琴「あうぅ…うん」
美汐「今ごろ、何とか帰ろうと頑張っていらっしゃるはずよ」
真琴「道に迷ってるとか?」
美汐「うふっ、そうかもね」
真琴「浩平って、時々抜けてるからね」
美汐「お嫁さんにここまで言われるお婿さんというのも、なかなか居ないわね」
真琴「だって本当のことなんだもの」
そこであたしは気がついたことがあった。
真琴「ねぇ美汐、浩平ってどこへ旅に行ってるの?」
美汐「それは、遠い遠いところへ…」
真琴「それじゃ分かんないわよぅ」
美汐はあたしの顔をじっと見て、何か考えているようだったけど、一度目を伏せ
て、そして話し始めた。
美汐「…分かったわ。説明するわね」
美汐の説明は、最初は良く分からなかった。
だから、何度も何度も聞き返して、それでやっと分かった。
でも、分かったけど、信じられなかった。信じたくなかった。
真琴「うそよ、そんなの…。浩平が、この世界から消えたなんて…」
美汐「嘘じゃないの。あの人がこの世界にいたという証拠は、もう、ほとんど残っ
てはいない」
真琴「そんなはずない!だってほら…」
あたしはポケットから財布を出した。
浩平と一緒に写したシールが貼ってあるはず。
真琴「ほら、ここに浩平が…」
だけど、そこには浩平の姿はなかった。
美汐や香里と一緒に写したシールには、あたしの後ろには誰もいなかった。
そして、あたしが浩平と抱き合って写したはずのシールには…。
真琴「…」
空気を抱きしめているあたしが写っていた。
真琴「あ…あぅ…ど、どうして…。どうして…」
あたしは必死で鞄の中を探した。
そして、シールのシートを見つけた。
でも、どのシールにも、浩平は写っていなかった。
真琴「あぅ…う…うくっ…うぅぅ………ああぁぁぁああ!」
あたしは大声で泣き出してしまった。
美汐は、そんなあたしの頭を胸に抱いて、髪を撫でてくれた。
気のせいかもしれないけど、美汐の体も震えているようだった。
ちょっと時間はかかったけど、あたしはようやく泣きやむことが出来た。
それで安心したのか、美汐はあたしの右肩に手を置いた。
その途端、ひどい痛みが走る。
真琴「いたいっ」
あたしの声に驚いて、美汐は手を引っ込めた。
美汐「ま、真琴、どうしたの?」
真琴「う、うん、ちょっと…」
襟から手を入れて、恐る恐るその部分に手を伸ばす。
そしてそこに触れたとたん、体がびくっとなった。
真琴「けが、してる…」
美汐「怪我?見せて」
真琴「うん…」
あたしは美汐に肩が見えるように服をずらした。
美汐「これは…歯形…のようね」
真琴「歯…形?」
これは…そう…これは…。
美汐「…真琴?そんなに痛かったの?また涙が…」
真琴「ううん…。痛いのは痛いんだけど…でも違うの。この傷は…浩平が真琴に
遺してくれた…贈り物…」
美汐「贈り物…?」
真琴「うん。真琴に残してくれた、たったひとつの贈り物。多分、真琴が生きて
いる限り消えない。だから、浩平がいたっていう…ううん、どこかにいるっ
ていう証拠も消えないのよ」
美汐「…」
真琴「つまり、真琴が浩平の生き証人、ってこと」
あたしはいっぱいの笑顔を美汐に向けた。
美汐「…真琴」
真琴「ん?」
美汐「その言葉の使い方は間違ってるわよ」
真琴「あ、あぅぅ…」
美汐「でも、真琴が言いたいことは分かる。そのような形であの人は証拠を残し
ていったのね」
真琴「うん」
美汐「…女の子を傷物にするなんて許せないわね」
真琴「え?ええ?」
美汐「今度お会いしたらきつく抗議しないと」
真琴「や、やめてよぅ!」
美汐「冗談よ」
真琴「あうぅ…」
美汐「あとは…どうやって戻られるか、ね」
真琴「それは大丈夫。浩平は言ってた。ずっと一緒だ、って。真琴を残してどこ
にも行かない、って」
美汐「それなら、どのような無茶をしてでも戻られるはずね」
真琴「うん、きっとそうよね。ううん、絶対そう。そうに決まってる」
そしてあたしは空を見た。
あの空の向こう。きっと浩平は今ごろ、大慌てでこちらに向かってるに違いない。
声「にゃ」
背後から声が聞こえた。
真琴「ん?」
あたしはその声の方に振り向いた。
見覚えのある猫だった。
真琴「ぴろ、ぴろじゃない!」
ぴろ「うにゃあ」
ぴろは一声上げるとあたしに駆け寄り、あたしの体を踏み台にして頭に飛び乗っ
た。
真琴「あうぅ…。ちょっと重たくなってない?」
美汐「元々子猫だったから、大きくなったのよ」
真琴「あう…」
そんなあたしたちの言葉も気にせず、ぴろはあたしの頭の上で喉を鳴らしていた。
真琴「どこに行ってたのよぅ。心配したんだよ」
やっぱりぴろは喉を鳴らしていた。やっぱりあたしの頭の上がいちばんお気に入
りみたい。
美汐「あの日から1ヶ月ほど経ったある日、私の前に現れたのよ」
真琴「えっ」
美汐「それから私がこの子の世話をしてたの」
真琴「そうなんだ…」
美汐「それにね」
あたしの頭の上のぴろに美汐は手を伸ばした。
ぴろはその手に頭を擦り付けているようだった。
美汐「今日ここであなたを見つけたのも、ぴろが最初なの」
真琴「ほんと?」
美汐「ええ。これまでにも何度か一緒ににここに来ているのだけど、今日はいつ
もより熱心に私を誘うので、どうしたのかと思ってついてきたら…、とい
うわけ」
真琴「…」
美汐「何故かは分からないけど、あなたが帰ってきたのを知っていたようね」
真琴「ふーん…。ホントに不思議な猫だね、キミは」
あたしが撫でてあげると、ぴろは
ぴろ「にゃあ」
と嬉しそうに声を上げた。
美汐「それで、これからどうするの?」
真琴「何のこと?」
美汐「おうちのことよ」
真琴「あうぅ…。美汐の話通りだと、浩平の家にはもう戻れないのよね…」
美汐「それだったら、私の家はどう?」
真琴「え?」
美汐「実は折原さんに頼まれていたのよ。自分が居なくなったら真琴のことを頼
む、って」
真琴「浩平が?」
美汐「ええ」
真琴「でも…いいの?」
美汐「私は構わないわ。ただし、家事の手伝いくらいはお願いするけど」
真琴「それなら任せて。真琴、料理は浩平に教えてもらったから」
美汐「うふふ、それは楽しみね」
そう言って美汐は立ち上がり、スカートをはたいて歩き出した。
美汐「それでは行きましょ、真琴」
真琴「うん」
あたしも立ち上がって、美汐の後を追いかけた。
春。
あたしの大好きな季節。
浩平と一緒に待った季節。あたしが帰ってきた季節。
でも、肝心の浩平が居ないんじゃ、つまらない。
夏。
暑い季節。暑いのはキライ。
だけど、美汐と一緒に行った海は楽しかった。
あたしの水着姿を見られなかったって知ったら、浩平、悔しがるかも。
秋。
焼き芋のおいしい季節。
肉まんの次においしいかもしれない。
こんなおいしいもの教えてくれない浩平って、やっぱり意地悪だと思う。
そして、冬。
浩平と再会した季節。
寒いのはイヤだけど、でも、肉まんが一番おいしい季節。
また浩平と一緒に食べたい。
だからあたしは、今も待ってる。
浩平が帰ってくるのを待っている。
真琴「寒いね…」
美汐「そうね」
真琴「あう…手がかじかんじゃうよ…」
あたしは指に息を吹きかけた。
美汐「気をつけて。霜焼けになるとあとが大変よ」
真琴「あうぅ…」
美汐「…」
真琴「…一年…かぁ…」
美汐「何が?」
真琴「浩平が…居なくなってから」
美汐「そうね…もうそんなになるのね…」
真琴「一年は…長すぎるよ…」
そしてあたしは右肩に触れる。
もう触ってもほとんど痛みは感じない。
それでも微かだけど傷跡は残っている。
だけど…。
真琴「もう…戻ってこないのかな…」
あたしは空を見上げた。
美汐「…そんなことは無いと思うわ」
真琴「そうかな…」
美汐「どちらかと言えば…そうね…」
美汐は何かを考えるようなそぶりをした。
美汐「例えばあの電柱の影などに」
そう言って美汐は一本の電柱を指差した。
美汐「私たちの前に出るに出られなくなって仕方なく身を隠している、という方
がよほどあり得る話ね」
声「ぐ、何で分かったんだ」
あれ、どこかで聞いた声…。
美汐「隠れられるのでしたら、もう少しきちんと隠れるべきだと思います。子供
でももっと上手く隠れますよ」
声「う…」
電柱の影に、誰かいるの?
美汐「それにその毛布は何なのでしょうか。真琴との再会シーンの再現でしたら、
このような住宅地ではなく、商店街を選ぶべきではないでしょうか」
声「ううううるさいっ!オレだって戻って間もないんだ!そんなに色々と準備す
る余裕なんか有るかっ!」
え?戻って間もない、って?
美汐「それでしたらそのようなつまらないことはなさらず、ごく普通に、ごく自
然に振る舞われればよろしいかと」
声「うぅ分かったよ、こんな小細工せずに、直球で行けばいいんだろ!ほら!」
そして声の主は、電柱の影から姿を現わした。
男「ほら真琴、ただいま、だ」
その声の主の姿を見ると、あたしは思わず駆け出し…。
男「ぐぅぉっ!」
鳩尾にひじ鉄を食らわしてやった。
真琴「遅い!遅すぎるわよ!今まで何やってたのよ、もう!」
浩平「い、いや、色々とありまして。その…」
真琴「言い訳無用!」
あたしは更に浩平に近寄り、そして…。
浩平「う…」
思い切り抱きしめてやった。
真琴「待ってたのよ、ずーっと、ずーっと待ってたのよ…」
浩平「…真琴…」
そのあとあたしは、浩平の上着を水浸しにしてやった。
これくらい当然だと思う。
可愛い花嫁をずっと待たせたんだから。
商店街への道を歩きながら、オレは天野に尋ねた。
浩平「それじゃオレが居ない間、天野が真琴の面倒を見てくれていたのか」
真琴「面倒ってなによ」
浩平「じゃ、世話してた」
真琴「まるでペットみたいじゃない」
浩平「ははは、みたいじゃなくてその通りだろ」
真琴「あうー、なんでそんなひどいこと言うのよぅ」
オレ達のやり取りに天野が笑いながら割り込んできた。
天野「いえ、真琴と一緒にいたおかげで楽しい毎日でした」
浩平「そうか?確かに、こいつと一緒にいれば退屈だけはしなくて済むけどな」
真琴「もしかして、けなしてない?」
浩平「全然。褒めてるんだよ」
真琴「でも何だかあまり嬉しくない…」
浩平「ははは、そんなに否定的に受け取るなって」
そう言ってオレは真琴の頭に手を乗せた。
浩平「ともかく、ありがとな天野。オレが不甲斐ないばかりに、すっかり迷惑を
かけてしまって…」
天野「いえ、本当に迷惑とは思っていません。真琴のおかげで、毎日が楽しいで
すから」
浩平「そうか…」
天野が楽しいと言っているのだから、これ以上追求する必要はない。
浩平「ところで…」
オレは改めて2人を見る。
浩平「今は学校帰りなのか?」
2人とも制服姿だった。
天野「はい」
浩平「それじゃ、真琴は今も図書室に籠もってるのか?」
真琴「ううん。授業受けてるわよ」
浩平「え?もしかして…」
天野「はい。私と同じ学年に編入しました」
浩平「でも、色々と手続きが有ったんじゃないのか?学費の問題もあるし…」
天野「いえ、手続きの方はそれほど問題になりませんでした。それに学費の方は
真琴が自力で解決しましたし」
浩平「自力…ってどういうこと?」
天野「編入試験で全教科満点取ったのです」
浩平「…は?」
天野「普通、編入試験は入学試験より難しいものです。それで満点を取ったもの
ですから、前代未聞ということで特待生待遇を受けているのですよ」
編入試験はオレも受けたから、かなり難しかったのを覚えている。
それを全教科満点とは…。
浩平「やったな、真琴!」
オレは大喜びで真琴の髪をくしゃくしゃとかき回してやった。
真琴「わわっ、やめてよぅ!」
浩平「あ、ごめん…」
真琴「もう…」
真琴はむすっとした顔で髪を整える。
それでもすぐに笑顔になった。
真琴「へへーん、凄いでしょ」
浩平「ああ、凄いヤツだよお前は。さすがオレが見込んだだけのことはある」
今度は優しく真琴の頭を撫でてやった。
真琴「でもこれは、浩平があの頃真琴を図書室に預けてくれたからだし、美汐が
テストの解き方とかを教えてくれたからだと思う」
浩平「いや、オレは真琴の素質のおかげだと思うぞ。お前の集中力は並大抵のも
のじゃないからな。そうだよな?」
オレは天野に同意を求めた。
天野「はい。それに編入以来、ずっと学年主席に留まっていますから」
天野は微笑みながら言った。
浩平「ほら、天野もこう言ってるし。やっぱりお前の実力の賜物だよ」
真琴「う…ん」
真琴は恥ずかしそうに顔を赤くして頷いた。
浩平「これで学費の方は分かった。でも、手続きの方はどうしたんだ?学校への
編入手続きはともかく、戸籍とか住民票とか、色々ややこしいものが有っ
たと思うけど…」
天野「はい。先ほども申しましたとおり、ついでがありましたのでそれほど問題
ではありませんでした」
浩平「その、ついで、って何だ?」
天野「えっと、そ、それは…」
何故か天野は赤くなって俯いた。天野にしては珍しい反応だと思う。
…と分析しても仕方がない。
浩平「どうしたんだ?」
オレは真琴に尋ねた。
真琴「あのね。美汐にも帰ってきたのよ」
浩平「へ?」
真琴「もう、鈍いわね。美汐の思い人が帰ってきたのよ」
天野「ま、真琴!」
真っ赤になりながらも天野は真琴をたしなめた。
しかし真琴は平然と受け流す。
真琴「ここまで言わないと分からないのよ、うちの宿六は」
浩平「や、宿六ぅ?」
真琴の言いぐさに少々ショックを受けたが、そこでようやくオレは真琴が言わん
としていることに思い当たった。
浩平「そうか、天野にも帰ってきたのか…良かったじゃないか」
ますます天野は顔を赤くした。
真琴「だからさっきからそう言ってるじゃない。真琴が帰ってきてから1ヶ月ほ
ど後だったのよね、あの子が帰ってきたのは」
天野「ええ。真琴が帰ってきてからも、毎週のように真琴やぴろと一緒にあの丘
に行っていたのですが、ある日、草むらの中に座っている男の子を見つけ
たのです」
真琴「感動の一瞬だったわよ。『お姉ちゃん!』って言いながら美汐駆け寄るあ
の子。それを両手を広げて迎える美汐。…思い出すだけでもじーんと来る
わね」
天野「もう、真琴ったら!」
真琴「気にしない気にしない。それに比べて、真琴たちの再会シーンと来たら…」
真琴は恨めしそうな目でオレを見る。
浩平「オレか?オレのせいなのか?」
真琴「他の誰が居るってのよぅ」
浩平「う…」
天野「真琴、そんなに折原さんを責めなくても…」
真琴「あは、冗談だって。だけど、この再会にもちょっと問題が有ったのよね」
天野「ええ」
真琴の指摘に天野は頷いた。
浩平「問題って、どんな?」
天野「それほど大したことじゃありません。私が昔お別れしたときも、あの子は
私より年下だったのですが、ものみの丘で見つけたとき、あの子の年はそ
のままだったので…」
浩平「年齢差が更に開いてしまった、と」
天野「はい」
浩平「それが大したことじゃないって、もしかして天野は年下好み…」
天野「何かおっしゃいましたか折原さん」
天野の目がぎらりとオレを睨む。
浩平「いえいえ、何も言ってませんとも、ええ」
天野「そうですか。きっと私の気のせいですね」
浩平「はは…」
オレは頬を掻いた。
本当は真琴の戸籍や住民票について色々聞きたかったのだが、完全に話がずれて
しまっているし、何より天野が素直に答えてくれそうに無いようだったから、今
回は気にしないことにした。
天野「そういえば…。折原さん、不躾なことをお伺いしますが…」
浩平「何だ?」
天野「お住まいの方はどうなさっているのでしょうか」
浩平「ああ。それなら問題ないよ。前と同じ家に住んでる。もっとも、戻ったと
き自分の部屋が物置になっていたのには閉口したけどな」
天野「それは大変でしたね」
浩平「いや、すぐに片づけられたからそれほどでも無かった。むしろそれより、
今の生活の方が大変かも」
天野「と言いますと?」
浩平「結局、オレのおばさんは長期出張からそのまま転勤になって、引っ越して
しまったんだよ。だから、今はオレの完全な一人暮らし」
天野「そうですか…。それでしたら、真琴」
真琴「ん?」
天野「今日からは折原さんと一緒のおうちね」
真琴「え?」
天野「折原さんが戻ってこられたのよ。夫婦水入らずで生活するのが当たり前で
しょ」
浩平「ふ、夫婦…」
オレが天野の言葉に絶句していると、いつの間にか商店街の入り口にさしかかっ
ていた。
天野「それでは、私は寄るところがありますのでここで失礼します」
真琴「あれ?今日は一緒にお買い物じゃなかったっけ?」
天野「その予定だったけど、折角折原さんが戻られたのだから、二人でゆっくり
してきた方がいいわ。それじゃね」
礼をした後、天野は振り返って歩を進めた。
と思ったら、またこちらを向いた。
天野「そうそう。お二方、何事もほどほどに、ですよ」
にっこりしながらそう言った後、また振り返って歩いていった。
浩平「…」
真琴「…」
オレ達は呆然と天野の背中を見送っていた。
ふと真琴の顔を見る。
真琴もオレの顔を見た。
その途端、真琴の顔が真っ赤になった。
多分オレの顔も同じだっただろう。
そして互いに視線を逸らす。
浩平「ほ、ほどほどにしような…」
真琴「う、うん…」
そして、久々の商店街を歩く。
だけど、何から話せばいいのか分からない。
話したいことは山ほどあるのに。
それは真琴も同じようだった。
ふたり、沈黙のまま、歩いていた。
緊張感。気恥ずかしさ。そのようなものが、二人を支配していた。
しかしそれは不意に破られた。
声「あら、折原君じゃない」
後ろから声がした。
振り返ると、美坂がいた。
美坂「お久しぶりね。元気だったかしら」
浩平「ま、まあな」
美坂「真琴、旦那様が帰ってきて良かったわね」
真琴「あう♪」
浩平「だ、旦那様?」
美坂「そうじゃないの?そう真琴から聞いてるけど」
浩平「う…」
ふと、美坂の隣に見覚えのある女の子がいるのに気付く。
その女の子は真琴と手を振り合っていた。
オレはこの女の子に見覚えがある。
雪のように白い肌の女の子。だけど、今日見た雪には温かい血が通っているよう
に思えた。
浩平「この子は…」
美坂「そう。あたしの妹、栞よ」
栞と呼ばれた女の子はオレに礼をする。
浩平「えっと…栞ちゃん、でいいのかな」
栞「はい」
浩平「オレは折原浩平。お姉さんからどんなことを吹き込まれてるか知らないけ
ど、とりあえずよろしく」
栞「はい。折原さんのことは色々伺っています」
浩平「例えばどんなこと?」
栞「それは秘密です」
美坂「そう、秘密よ」
浩平「はあ…。まぁいいけど」
やはりこいつら姉妹だ。似なくていいようなところまで似ている。
浩平「オレが最後にキミを見かけたのは1年前だけど、あの頃から比べるとすっ
かり元気になったみたいだな」
栞「はい、おかげさまで」
栞は屈託無く笑う。笑顔が印象的だなと思った。
浩平「そうか…。良かったな、美坂」
美坂「そうね」
そして美坂は妹の肩に手を乗せて言った。
美坂「本当は相沢君といつでも一緒に居たいらしいんだけど、今日は無理言って
付き合ってもらってるのよ」
すると美坂の妹は姉の顔を見、頬を膨らませて言った。
栞「もう、そんなこと言うお姉ちゃん、嫌い」
美坂「でも、本当のことでしょ」
栞「うー」
オレはそんな二人を微笑ましく見ていた。
もし、みさおが生きていたら、オレもこのように仲良く肩を並べて歩けたんだろ
うな…。
美坂「そういえば相沢君、忘れてたことがあったわ」
浩平「何だ?」
美坂「その前に…栞、真琴、折原君を押さえて」
浩平「え?」
気がつくと既に真琴と栞に背後から腕を掴まれて動きを封じられていた。
浩平「ちょ、ちょっと待て!オレが一体何をしたと言うんだ!」
美坂「自分の胸に聞いてみなさい」
そして美坂はポケットから何かを取りだして右手の拳にはめた。
美坂「覚悟はいいかしら」
浩平「だから何が何だか分からないって!」
オレの問いかけを無視し、美坂は言い放つ。
美坂「目を閉じてた方がいいわよ。危ないから」
オレにはさっぱり分からないが、美坂がそう言うなら何かオレに落ち度があった
のだろう。
だからオレは観念して目を閉じた。
浩平「こ、こうか?」
美坂「そうね。そのままじっとしていて」
浩平「お、おう」
美坂「それじゃ、真琴、旦那様ちょっと借りるわね」
真琴「うん♪」
浩平「おい真琴っ、愛する夫をこんな目に遭わせて平気だというのかっ!」
真琴「真琴だってつらいのよ…。でも、愛するからこそ、乗り越えなければいけ
ない障害があるの…」
浩平(楽しんでやがる…)
そしてオレは美坂の気配が近づいたことに気付く。
目を閉じているから良く分からないが、美坂はオレの右頬に手を添えたようだ。
多分オレの顔を固定して、当たりやすくするためなんだろうと思った。
真琴「あ、あ、あ…」
栞「あ…」
真琴と栞が何か言ってる気がするが…。
ん?女の子の匂い…。
…え?
ちゅ。
唇に何か当たった感触があった。
柔らかい。
浩平(何っ!)
オレは目を開いた。
目を閉じた美坂の顔が間近にあった。
その唇は、オレの唇に。
そして美坂の顔が離れた。
浩平「……………!」
オレは驚きのあまり言葉を発することが出来ず、ただ口をぱくぱくさせるだけだっ
た。
真琴も同じようだった。
そして先に声を出したのは真琴。
真琴「な、何てことするのよぅ!」
美坂「ごめんね真琴、これが最初で最後だから」
真琴「あうーっ…」
浩平「お、お、お、お前、お前!」
オレはようやく言葉を喋れるようになった。
浩平「お前っ!いきなり何するんだ!」
しかし美坂はさも当然という風に答えた。
美坂「お礼よ」
浩平「お礼?」
美坂「いつか言ってたわよね。何もかも上手くいったら礼をしてくれ、って」
オレは記憶を掘り返してみる。確かにそんなことを言ったような気が…。
浩平「ってちょっと待て!礼にしたってこれはやりすぎだろ!」
美坂「栞を救ってくれたのよ。これくらい当然だわ」
浩平「救った、って言われても…」
オレは改めて栞を見た。以前のような、存在感が消えかけている雰囲気は微塵も
見て取れなかった。
するとオレに見つめられて気恥ずかしくなったのか、栞は下を向いてしまった。
慌ててオレも視線を美坂に戻す。
浩平「だいたい、肝心の時にオレは居なかったはずだ。栞ちゃんを救ったのはお
前と相沢の力だよ。オレは何もしていない」
美坂「そうだとしても、栞から逃げていたあたしの目を栞に向けてくれたのは折
原君よ。自分の悲しい過去と、辛い運命をあたしに話して。あなたは何で
もないように言ってるけど、普通は出来ないわよ、こんなこと」
美坂の目が艶めかしく光る。
美坂「だから、ほんと感謝してるのよ。キスひとつだけじゃ足りないくらい」
浩平「…」
ちなみにオレは蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
美坂「だけど、あなたは真琴のもの。だからこれくらいで遠慮しておくわ」
そして美坂は真琴の前に立ち、真琴の頭に手を添えて言った。
美坂「真琴、こんないい人、二度と手放しちゃ駄目よ」
真琴「う、うん」
真琴は恥ずかしそうに頷く。
美坂はそのあと栞の隣に行き、振り向いて言った。
美坂「それじゃ、あたし達はこれで失礼するわ。じゃあね」
そして妹と一緒に立ち去った。
浩平「…なぁ真琴」
真琴「ん?」
浩平「美坂の…こと、知ってたか?」
真琴「んー、ホントのこと言えば、そうじゃないかな、って思ってた」
浩平「えっ?」
真琴「浩平が居ない間、香里はどことなく寂しそうだったのよ。なかなか表には
出さなかったけどね」
浩平「そうか…」
ふと、真琴がオレの顔を睨んでいるのに気付く。
真琴「まさか…乗り換えるつもりじゃないでしょうね…」
オレは全力で否定した。
浩平「ないない!そんなつもりは一切無い!断じて無い!絶対無い!」
真琴「…ま、信じてるけどね」
浩平「そう言っていただけると有り難いです」
浩平「そう言えば…」
真琴「ん?」
浩平「これ、返すよ」
オレは袖をまくり、あるものを真琴に見せた。
真琴「あ…鈴!」
浩平「ずっと借りたままだったからな、」
そして自分の手首から外し、真琴の手首にはめてやる。
浩平「ありがとう。これのおかげで、オレも寂しい思いをせずにすんだ」
真琴「…」
浩平「それなのに、オレが居ない間、お前に何も残してやることが出来なくて…」
真琴「ううん。浩平は残してくれてたよ」
浩平「何を?」
真琴「これ」
真琴は肩を触る。
オレは即座にその意味を理解した。
浩平「まさか…そんなにひどい傷だったのか!」
真琴「ううん。今じゃほとんど残ってないよ」
浩平「そうか…」
真琴「でも、浩平がいない間、この傷のおかげで真琴はあまり寂しくなかった。
今はいないけど、いつかきっと帰ってくるって、信じられた」
浩平「…」
真琴「ねぇ、浩平の肩はどう?」
浩平「オレの?ああ、残ってるよ」
真琴「なんだ、それじゃ鈴は要らなかったんじゃないの」
浩平「そうは言っても、置いていったのはお前だぞ」
真琴「あぅ…そうだった…ね」
浩平「……」
真琴の顔を見る。ものみの丘でのあの瞬間を思い出しているようだ。瞳が悲しみ
に曇る。
そんな真琴を見るのは辛いので、オレはわざとひねくれた風に言った。
浩平「ま、おかげで無くさずに済んだわけだ。オレに感謝しろよ」
真琴「それってどういう意味よ」
すぐに反応してくれた。よかった。
浩平「ん?そんなに深い意味はないぞ」
真琴「あぅぅ…」
浩平「ま、それはそれとして」
真琴「ごまかさないでよ」
浩平「あはは、いいじゃないか、それより」
文句を言い続ける真琴を置いておいて、ポケットをまさぐり、目当てのものを取
り出した。
浩平「ほれ」
真琴「ん?これ、何?」
浩平「真琴への…というかオレ達へのプレゼントだ。開けてみな」
真琴「うん」
その小さなケースの蓋を開けると、真琴の顔は明るく輝いた。
真琴「…わぁ…」
浩平「えーっと、生活費のこともあるからあまり高いのは買えなくて、おもちゃ
みたい、というかほとんどおもちゃなんだけど…」
真琴から視線を逸らし、頬を掻きながら呟いた。
そんなオレの呟きを聞いているのかいないのか、真琴は自分の指に早速填めて眺
めていた。
真琴「うん、ぴったり」
浩平「そうか。記憶を頼りに買ったから、合ってるかどうか不安だったんだよ」
そしてオレもケースから取り出して自分の指に填める。
真琴「これで名実共に…」
浩平「いや、まだだ」
真琴「あう…」
浩平「ちゃんと法律に則った手続きしなきゃいけないし。何より、みんなの前で
きちんとした式挙げないとな。予算の都合があるからあまり派手には出来
ないけど、でも、とびっきり賑やかなヤツをな」
真琴「うん♪」
ちりん…。
鈴の音が聞こえた。
真琴の手首の鈴じゃない。懐かしい音。
真琴「あれ?」
浩平「ん?どうした?」
真琴「今、鈴の音がしなかった?」
浩平「お前の鈴じゃないのか」
真琴「ううん。全然違う方向から聞こえてきたの。それも、とても遠くから。何
だか、とても懐かしい音だった」
浩平「懐かしい、か。そりゃそうだ、あの音はお前が好きだった音だからな」
真琴「浩平にも聞こえたの?」
浩平「ああ」
真琴「そう…。もしかしたらあの音が、浩平と真琴とを結び付けてくれたのかも
知れないわね」
浩平「オレはそうに違いないと思ってるぞ」
真琴「そうなんだ。それなら間違いないわね」
浩平「ああ」
真琴「あ、浩平。いつものお店」
浩平「おし、それじゃ買うぞ!今日は奮発して30個だ」
真琴「さ、30個?」
浩平「おう!この1年間おあずけだったんだ。食って食って食いまくってやる!」
真琴「それでも30個は多すぎるわよぅ。絶対途中で冷めちゃうよ」
浩平「冷めても電子レンジで温めて食べる。冷めたままでも食べる。食べきれな
かったら明日食べる」
真琴「あぅぅ…何だか浩平、真琴より中毒症状ひどくなってるよ…」
浩平「禁断症状ってヤツだ。気にするな」
真琴「何だか言ってること無茶苦茶よ」
浩平「はは」
そしてふたり、肉まんを食べながら商店街を歩く。
なんでもない一瞬。
他愛のないひととき。
だけど、この積み重ねこそ、オレと真琴が求めたもの。
もう二度と手に入らないと思っていたものだ。
浩平「ああ、やっぱりこの味!変わってない、変わってないぞう!」
真琴「そんなに大げさに言うことかなぁ」
浩平「それは毎日食べてるからだって。オレは久しぶりなんだから。この肉まん
食べるのも、真琴と一緒に食べるのも」
真琴「あ…うん。そう…よね」
二たび別れ、二たび再会したオレ達にも、いつかは最期の別れが訪れるだろう。
だけどそれでもいい。
限られた時間だからこそ、ほんのわずかな幸せが、無限に感じられる。
浩平「うう…もっと食べたいのにもう食べられない…」
真琴「いくつ食べたの?」
浩平「7個、いや8個だったっけ。覚えてない」
真琴「覚えられなくなるまで食べないでよぅ」
浩平「面目ない…」
もう、永遠なんて要らない。求める必要なんて無い。
空を見上げても、もう遠くに何かを感じることもない。
ただ、冬空が広がるだけだ。
浩平「しかし…寒いよな」
真琴「そうね…」
浩平「まだまだ春は遠いよな…」
真琴「うん…」
浩平「でも、お前と一緒ならすっと春だ。そうだよな?」
真琴「うん。浩平とならいつだって春。ずっと、ずーっと…」
そう、オレ達はもう手に入れていた。
これから春が始まる。
終わらない、オレ達の春が。
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