赤膚焼あかはだやき) 

赤膚山元窯 8代 古瀬堯三 治兵衛 中の窯
(あかはだやまもとがま ふるせ ぎょうぞう じへい なかのかま)
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天正年間、尾張常滑の陶工 与九郎が大和郡山城主 豊臣秀長に招かれ開窯したのが始まりです。また、小堀遠州や、野々村仁清が赤膚の地を訪れ指導にあたったと言われています。

赤膚山元窯 古瀬 堯三 中の窯 治兵衛の始まり
天明の頃、京都から赤膚山麓に五条山に入山した、治兵衛(ジヘイ)と伊之助(イノスケ)が大和郡山城主柳澤保光侯の意向をうけ、侯より勾玉形の「赤ハタ」窯印を拝領し、赤膚焼を郡山藩の御用窯として再興しました。
また、赤膚山は、藩政時代には、郡山藩の御林山として保護されました。

その後、赤膚三窯と呼ばれる中の窯の治兵衛を挟み、東の窯 岩蔵、西の窯 惣兵衛の2窯が分立し
ましたが、東西が途絶えました。
現在、中の窯 治兵衛の窯は赤膚町五条山ある
古瀬堯三(あかはだやまもとがま ふるせぎょうぞう) に継承されています。


AKAHADA YAMA MOTOGAMA POTTERY  FURUSE GYOZO JEHEI、NAKANO KAMA  English

五条村(赤膚町)、西ノ京、菅原 

 

古墳時代、薬師寺西方に南北に拡がる丘陵一帯は、土師氏の根拠地で埴輪、陶棺の製作地であり、平城京時代の瓦の製作地の遺跡、遺物がしられています。また、古代の奈良盆地を縦断する 「山の辺の道」が最古のものとされていますが、その他に 「上つ道、中つ道、下つ道」の三道が知られています。中でも、「下つ道」は、飛鳥から盆地を北上して歌姫超え、京都の木津川へ通じる街道で、古代添県(そうのあがた)以来北辺の文化圏と極めて深いつながりを持っていました。添県は、天武朝の頃「下つ道」を挟んで添上、添下に分けられていました。その添下郡の東北部に位置するのが菅原、西の京、五条村です。

土師の里,菅原は、山背との国境奈良山丘陵のふもとにあり垂仁天皇の喪葬に際し土師氏が埴輪をつくり殉死に代えたとも言う伝説があります。奈良山丘陵にある佐紀楯列古墳群造営には、これらの土師氏の下にあって土木、土器生産の技術集団の里でもありました。

東山時代、茶湯が起こると土風炉またの名を奈良風炉の製作が始まり、世人の好評を得ました。

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