朝日が昇るその前に





「…あ」
「どうしました?」

 ふいにあがった小さな声に訊ねてみるが、少年からの返事はない。
 小さな身体を抱きしめている腕に力をこめながら、キッドは背後から少年の顔を覗きこんだ。
 …蒼の双眸が閉じられている。

「名探偵?」
「お前も耳を澄ませてみろよ」

 そう言われて耳を澄ませてみると、どこからともなく音が聞こえてくる。
 雲一つない夜空に響く音。
 その正体に気づいたキッドの瞳が、小さく見開いた。

「時計台の…鐘の音ですか」
「ああ。…いつ聞いても綺麗な音だな」

 名探偵と呼ばれた少年――江戸川コナンが、口元を綻ばせた。
 つられてキッドも笑みを浮かべて、鳴り響く鐘の音を堪能する。

「…年が明けたな」
「そうですね」

 感慨深げに呟くコナンに、短い返事を返す。
 長いようで短かった1年。
 今年こそはと意気込みつつ、冷たくなってしまったコナンの頬に自分のそれを擦り寄せた。
 コナンがくすぐったそうに身を捩る。
 少しだけ温もりが戻った頬に唇を寄せていると、小さな呟きが耳に届いた。

「来年も…」
「はい?」
「…来年もここで、鐘の音を聞こうぜ」

 その言葉に、キッドは目を瞠った。
 まさか彼の口からこんな言葉を聞けるとは……
 相好を崩しながら、そうですね答える。

 願わくは来年は―――元の姿で、素顔で年を過ごせますように。



 *****



「…今年も無理、か」

 開いた扉の先に求める姿はなく、工藤新一は落胆の色を隠せなかった。
 それはなにも、今年だけではなくて。
 ―――来年もここで、鐘の音を聞こう。
 そう約束してから…7年の月日が流れた。

 約束を交わしたあの日、寒さを気にせず互いの体温を感じていた2人は、初日の出が昇るのを見届けてから別れた。
 『江戸川コナン』と『怪盗KID』としての、最後の逢瀬。
 すべての決着をつけるために、2人は同じ日に日本を発った。

 その後新一は元の身体を取り戻し、2年がかりで組織を壊滅させた。
 …とはいえ、身体は満身創痍で。
 危うく三途の川を渡りそうになったがなんとか命を取り留め、半年のリハビリを経て日本に戻ってきたのが、4年前。
 それからずっと、大晦日にはこの場所へ足を向けていたのだが……

「いつになったら終わるんだろうな、お前の守護者の戦いは…」

 魔術師を守護する月に向かって、ぽつりと呟く。
 淡い月の光が、慰めるように新一を包みこむ。
 それに小さな笑みを浮かべながら、新一は冷たいコンクリートの上に腰を降ろした。
 そして柵に凭れ、ぼんやりと夜景を見下ろす。

「…今年で最後にしようかな」

 ずっと、怪盗の戦いは終わっていないと思っていたけれど…
 本当はすでに終わっていて、ただ単に約束を忘れているだけかもしれない。
 律儀に約束を守っている自分に、新一は嘲笑を浮かべた。

「俺も諦めが悪いな…。でもまあ、しょうがねぇか」

 あの時は本気で、怪盗とあの鐘の音を聞きたいと思った。
 だから戦いに赴く彼に必ず帰ってきてもらいたくて、あんな約束を取りつけた。
 …ただの自己満足にしか過ぎない約束。
 だから、彼が覚えていなくても仕方がない。
 勝手に自己完結をしていると、時計台の鐘が鳴りはじめた。
 ―――年が明けたのだ。
 1年ぶりに聞くそれに耳を傾けながら、新一はそっと瞳を閉じた。
 澄んだ音色が心に響く。

(鐘がやんだら帰るとするか……)

 毎年初日の出が昇るまでここで過ごしていたのだが、数日前から日本は寒波に見舞われていた。
 新一としては、朝までここに残りたいと思っている。
 しかし彼の主治医が、それを許さなかった。

『貴方の場合、風邪を引けば1ヶ月は長引くのよ。いい加減自覚してちょうだい』

 呆れたような、怒ったような表情でそう言った彼女。
 けれどそれが心配の裏返しだと分かっているから、その時は彼女の言葉に大人しく頷いたのだけれど。
 鐘の音がやんでも新一は、その場に座りこんだままだった。
 立ち上がるそぶりさえ見せない。
 ぼんやりとしたまま、新年を迎えて賑わっているだろう街を見下ろしている。

(…ごめん、な、灰原。これで最後にするから…だから…)

 脳裏に浮かんだ怒り顔に謝りつつ、小さな溜息を零す。
 防寒対策はしっかりしているつもりだ。
 黒のタートルネックの下には半袖のTシャツを着ているし、厚手のシャツも着ている。
 いつもならダッフルコートを羽織るけれど、今日はファー付きのダウンジャケットにした。
 首にはマフラーを巻いて、両手には幼馴染みからもらった手袋をしている。
 ポケットの中にはホッカイロも入れているので、帰るまでは保つだろう。

「これで風邪引いたら…絶対に外出禁止になるよな」

 それだけは勘弁してほしいと思いつつ、視線を上げて空を見つめる。
 …夜が明けるまで数時間。
 なにをするでもなく新一は、眼下の景色を眺めていた。





 キィ…という音が耳に届いた。

(初日の出を見に来たのか…?)

 それが扉を開く音だということに気づき、内心で呟きながら時計を確認した新一はあれ?と小首を傾げた。
 いつの間にか6時前になっている。
 数時間ほど記憶がないのだが、まさかずっとぼんやりしていたのだろうか?
 マジかよと思いつつゆっくりと立ち上がり、腕を伸ばした。
 そのまま身体を左右に動かすと、バキバキと音がする。
 寒空の下、同じ姿勢のままでいたからだろう。
 身体をほぐしながらそんなことを考えていると、背後から小さな笑い声が聞こえてきて、新一はハッと我に返った。
 そういえば…と思い出す。

(さっき人が来たんだっけ? すっかり忘れてた)

 新一の頬が羞恥で赤く染まる。
 存在をすっかり忘れていたから、無防備な所を見せてしまった。

(そういえば、ここに俺以外の人が来たのは初めてだな)

 自分がここに来るようになってから、他人が来たのは初めてだった。
 ゆっくりと白んでくる空を見つめながら、新一は溜息を零した。
 夜明けが近づいているが、他人と一緒にいるつもりはまったくない。
 しょうがねぇか…とひとりごちて、踵を返す。
 コンクリートの地面に視線を落としつつ出入り口に向かっていると、おもむろに腕を掴まれ抱きしめられた。
 激しく抵抗しながらなにしやがる!と叫ぼうとして、しかし覚えのある気配と温もりに新一の抵抗が弱まっていく。

「もう帰っちまうのか?」

 耳元に囁かれた声に、蒼の双眸が大きく見開く。
 いつもの口調ではないが、それは紛れもなく彼のもので。

「…っ…ど?」
「ああ」

 信じられなくて名前を呼べば、力強い声が返ってくる。
 おそるおそる顔を上げた新一は、自分を抱きしめている男の顔を見つめた。
 いつも纏っている白い衣装が、黒に変わっている。
 手を伸ばして頬に触れると、男の手が重なった。

「…ほんもの?」
「本物に決まってるだろ。…信じられねぇ?」

 苦笑混じりの声に、ゆるゆるとかぶりを振る。
 新一の瞳に涙が浮かんだ。

「終わったのか…?」
「ようやく終わった。すべてのカタがつくまで、5年も掛かっちまった」
「…そっか。お疲れ様」

 口元に笑みを刻みながら囁き、背中に腕を回す。
 存在を確かめるようにぎゅうっと抱きついて、新一は安堵の息を零した。
 胸元に頬を擦り寄せると、腰に回されていた腕に力がこもる。

「やっと貴方の傍に帰ることができた」
「キッド…」
「明けましておめでとうございます、名探偵」
「おめでとう。……おかえり、キッド」

 顔を上げてふわりと微笑む新一に、キッドの瞳が微かに見開く。
 …数秒後、彼は泣き笑いのような笑みを浮かべてただいまと告げ、華奢な身体をきつく抱きしめた。
 苦笑を浮かべながら広い背中を宥めるように撫でていると、視界の端に眩しい光が映った。
 慌てて視線を巡らせた新一は、その光景に小さな声を上げる。

「あ…」
「…どうした?」

 嬉しさが滲む声音に、キッドが顔を上げて訊ねてくる。
 それに対して新一は、視線だけで東の空を見るよう促した。
 藍色がかった瞳が、新一の視線を追いかける。
 視界に映った景色にキッドは、感嘆の声を上げた。

「初日の出か…。7年前と変わってねぇな」
「…ずっと変わってねぇよ」

 ぽつりと呟くと驚いたような顔で見つめられて、小首を傾げる。
 なにか変なことを言っただろうか?と考えていると、ごめんと謝られた。

「は?」

 怪盗が謝る理由が分からず、新一は思わず間の抜けた声を上げてしまう。
 彼はすまなそうな顔で、ここに来る前に工藤邸を訊ねたのだと言った。
 そういうことか…と新一は思った。

(…ったく、灰原のヤツ。余計なこと言ってンじゃねぇよ)

 内心でぼやく新一の口元には、微苦笑が刻まれている。
 帰ったら礼を言わなくちゃなとひとりごちながら、新一は怪盗に向かってなんのことだ?と訊ねた。

「なんのことって…お前、毎年ここに―――」
「お前が気にすることじゃねぇよ。それよりも、ちゃんと見ようぜ」

 彼の言葉を遮って太陽に視線を戻す。
 ゆっくりと姿を見せるそれは、幻想的でとても綺麗だ。

(またコイツと見ることができてよかった……)

 そんなことを考えていると、名探偵と呼ばれて首を巡らせた。
 真剣な眼差しで見つめられ、思わず胸が高鳴る。
 どうした?と訊ねると、怪盗は深呼吸をひとつして、ゆっくりと口を開いた。

「好きだ」

 告げると同時に、顔を近づけてくる。
 いきなりのことに呆然としている新一の唇に、怪盗のそれが重なった。
 ちゅっと音を立てながら、啄むようなキスが繰り返される。

「…俺もお前のこと、好き…」

 キスの合間に囁くと、怪盗の瞳が嬉しそうに細められた。
 …再び唇が重なる。

(今年はいい年になりそうだな……)

 内心で呟きながら新一は、そっと瞳を閉じた。
 離さないとばかりに互いの身体を抱きしめて、キスを交わしあう。

 そんなできたてほやほやの恋人たちを、空に昇った太陽が優しく見守っていた。
管理人コメント
夏岐志乃香様の「Blue of Heaven」より、2006年お年始小説をいただきましたー!
素晴らしく包み込むラブラブなお二人!何となしに切なく、でも幸せになれた二人にこっちまで幸せになれそうですv
初日の出と共に叶った再会なんて、今年どころかこれからずっと良い年になりそうですよ☆
屋上に来た人のことも忘れて物思いに耽る新ちゃんが凄く可愛いですv
素敵な作品をありがとうございましたー!


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