それは、たおやかな遊女の香の如く
それは、深淵にて背を押す腕の如く
心を惑わせ、焦燥を焚き、嘆きを纏う
地の底、地の果てより漂い出でし炎
火匂
多くの家々が灯りを落とし、里中がほぼ寝静まった真夜。里を見下ろす高台の場所に、人知れず煌々と光を湛えた部屋があった。人の気配が殆どない其の場所では、時折紙を繰る音や巻物を解く音がする他はしんと静まり返り、穏やかな緊張に保たれている。
ふと老いの見える手を止め、三代目火影は軽く細めた目を壁掛け時計に向けた。秒針のないそれは、歯車の軋む音もさせぬまま時の流れを示している。
時刻は丑の刻も過ぎた頃。時計を一瞥し、それだけを確認するだけで作業に戻った火影は、一息吐いて執務机の端に寄せておいた水晶玉に手を伸ばそうとし――
カッ。
その指先に、美しく磨かれて黒光りするくないが突き刺さり、二つの声が降ってきた。
「覗きは悪趣味だって言ったよな、爺さん」
「その内どっかの変態と同レベルになるぜ、じっちゃん」
声がしたほうを見ると、そこには黒面を被った暗部が二人、丁度窓から入ってくるところだった。
暗い場所では解らなかったが、黒面は黒面でも片方には左目目尻の辺りから真っ直ぐ下に赤い線が一本は言っていることが解る。
漆黒の面を付けた暗部は懐からきつく紐で縛ってある巻物を一本取り出して火影に手渡し、二人揃って片膝を付き、立てた方の拳を床につけ、反対の手は床についた膝の上に添えるという最高の敬意を表す礼を取った。
「じっちゃん、これ報告書」
「抜け忍の始末は皓紗の地にて」
「全て滞りなく」
「完了しました」
「――うむ、解った」
代わる代わる話しているのに関わらず、決して淀むことのない彼等の口調に、火影は神妙な面持ちで一つ頷き、差し出された報告書を受け取り、正面にいる二人の暗部を眺めた。
火影の前に降り立った彼等の背格好は20代前半と言ったところ。漆黒のフードを落として顕になるのは長くて少し癖のある紺と、短く大雑把に刈った灰色の髪。そして、黒面を取って明かりの下にさらされるのは、碧の瞳を持ち甘味を帯びた白皙の美貌と、紫紺の瞳を持ち精悍で秀麗な容貌である。
それぞれ日の下にいれば目立つこと限りない容姿であるが、彼らのことを知っている者は限りなく少ない。暗部ならば当然と言えば当然なのだが、其の暗部内でも噂すら立たないという逸材である。
――彼等に関して言えば、その才を無駄なところで浪費している観もあったが。例えば・・・
「しかしお主ら・・・窓から入るなと何度言えばわかるんじゃ!」
火影特製の結界をこっそり破り、他のどこからでもなくそここそ自分たちの出入り口だと窓をあっさり活用している辺りなどがいい例である。
「今更な話だろ、じいさん」
「俺らが正面から入ったら受付の奴等失神するだろ」
淡々と灰色の髪に紫紺の瞳の持ち主が言ったが、これは実話である。
偶々早めに終わった任務の帰りで、多少寄り道する精神的余裕があって、更にはなんとなくの気分で受付から入ろうとした二人だったが、彼らは入った瞬間黄金色の悲鳴を浴びせかけられ、担当の中忍が卒倒する、という騒ぎがあったのだ。
よって、受付の人員にとっては彼等が姿を見せた方が嬉しかったりするのだが、その辺りの細々とした諸事情を火影が思い当たるわけも無かった。
「お主らにはワシの心臓を気遣おうとか言う気持ちはないのか!?」
「だってこれくらいでポックリ逝くようなら火影になんかなれないでしょ」
「第一俺らの気配にすら気づけないようじゃぁ里のトップとしてどうかと思いますよ?」
窓から出入りする理由になっていないが正論である。
「・・・・ぐっ・・・・・・・・・・・・」
飄々とのたまう二人に言い返せずにぐっと詰まる三代目。何気に彼は怒りの形相で顔を真っ赤にして血圧の上昇を見せ、怒気を飛ばしていたのだが、言葉を詰めてしまった時点で軍配は明らかだった。寧ろ分が悪くなりそうな風向きに、さすが年の功と言おうか、吐息一つで軽く流して姿勢を正し、瞬き一つで平静な態度を取り戻した。
「もう、よいわ・・・」
どうせ改める気など欠片も無いのだろう。
「蒼溟、黒浪。次の任務じゃ」
「「はっ」」
ピンと張られた空気の中で、蒼溟・黒浪と呼ばれた暗部は畏まって膝を着き、頭を垂れて彼等の主に応える。先程までの砕けた雰囲気を一掃し、敢えて露にしていた気配の一切を消し去り居住まいを正す姿は、正にこの里の深い暗部を担う者に相応しい。
「実は、今年の中忍試験の話しが上がっておってな」
「近くに、ですか」
「そうじゃ」
「開催地は」
「木の葉で行うことになった」
「「・・・・・・・・・」」
淡々と齎される情報に、二人は黙り込み、上座に座る里長に視線を送る。
「我らの、役回りは」
揺ぎ無き声色で黒浪が重く訊ねた。ふと明かりが消え、数瞬室内に闇が訪れる。窓の向こうの風は鳴って、ガラスを震わせ、冷たい青が再度室内に光を落とした。
あまたに交える沈黙。
監視か、警護か、記録か
判定か、出題か・・・参入か
黒浪が問うのは行動ではなく、二人のとるべき立場である。彼らは火影が与えるその行動範囲の中で、思いのままに動き、確たる結果を――それも、要求されている以上のものを――残すのだ。
因みに、彼等の行動の選択肢に“沈黙”と言う名の傍観は与えられていない。・・・否、寧ろ、彼ら自身が望んでいないのだろうが。
「里の警護、受験者の判定・・・及び、試験への参入じゃ」
「・・・中忍になれ、と」
「そうじゃ」
「砂も雨も・・・他国全て揃うと言うのに、塀の狭間で動けとおっしゃる?」
「ああ。――やってくれるな?」
皮肉の色を帯びてきた質問の数々に、火影は内心冷や汗を掻きながら、正面上は平静且つ厳格な態度で応と頷く。
一度こうして命を出してしまえば決して譲らぬことを知っている二人は、小さく嘆息して再び頭を垂れた。
「「御意のままに」」
短く確意を唱える。彼らが唯一と決めた主の為と。
カタン、窓が風に揺れる。蒼溟は月のない夜空を見上げ、徐に黒面を付けた。型は、禁忌とされる狐面である。
黒浪は風によって細く開いた窓へ腕を伸ばし、何かを掴む仕草をしてから黒面を付ける。型は、赤い線が一本入った狼面だ。
「・・・嫌な匂いがするぜ、三代目」
「生臭い、嫌な匂いですよ、火影様」
そして、それは自分達の身に染み付いた匂いだ。何も考えず、敵をひたすら屠ることにのみ専念し、強要される場所特有の――荒んだ、吐き気がするほど馴染んだ匂い。
この夜始めて目の前の老人を敬称で呼んだ彼らは、音も無く立ち上がり、無表情の面の奥から独特の色彩を持つ瞳を向ける。既にフードまで被った二人は、闇そのものを顕しているようだ。
「・・・どういう、事じゃ」
ゆらり、風と共に、明かりの中でできた闇が動く。空気が震える。
闇より放たれるのは、火影すらも抑える威圧だ。二人に委細を問おうと、思わず立ち上がった三代目は、圧に押されて再び椅子に座り込み、我知らず額から汗を流した。
覚えは、あるでしょう――?
聴覚ではなく直接脳に届く声が執務室に響き、一瞬風が唸って室内の明かりが落ちる――瞬きの後、光が戻った室内には、既に二人の暗部の姿はない。
じっと彼らを凝視していた三代目は、火影である自分の目すら追いつけぬ程の速さで消えた闇の存在に哀しげに溜息をつき、開け放たれた窓にガクリと肩を落とした。
「窓から出入りするなと言っておろうが・・・」
疲れを滲ませて呟いた老人の声を聞く者は誰もいない。
未だ朝日の昇る気配すら見えない深夜。濃厚な二つの闇が、明かりを落とした家々の屋根の上を駆け、鬱蒼とした禁忌の森へ真っ直ぐに向かっている。
「溟、お前今日は?」
上忍の目にすら映らぬ速度で駆けながら、息一つ乱さず黒浪は蒼溟に軽く声をかけた。
「アカデミー前に9時、だってよ」
「・・・中忍試験の申し渡しが今日だろ?――3時間は来ねぇぞ」
「・・・知ってる。浪の方は」
呆れの響きすら伺える黒浪の声に、肩を落としながら蒼溟は諦念を滲ませて頷き、億劫そうに訊ね返した。
「甘味処に12時」
「いいよなぁ・・・ズリィ。熊と変態交換しようぜ」
「どっちも抹殺するのが最善策なんだけどな」
俺たちにとって。
「・・・まぁな」
物騒な事を本気の声音で話す黒浪に、蒼溟は神妙に頷いた。ずらした面から見える面持ちは翳っており、日々の諸々を思い出して苛立っている風に見えた。
彼等二人の昼に関わる上忍二人組みは、単なる変態とか熊とか・・・いわば人外のモノとして認識されており、どちらも本名を彼等の間で語られなくなって久しい。なんにせよ、只でさえ面倒な昼の任務に更なるストレスを上塗りする元凶に、彼等の図太い神経は鋸で削られているのだ。
「まぁ、火影命令だしな」
里長からの命令一つ。そんな強固に見えて脆い綱の上に渡っているとも知らぬ上忍二人組みが、心底嫌そうに毒づく男の手から正しく紙一重の状態で生かされている事を知ることは無いだろう。
軽く頭を振って邪念を払った黒浪は徐に蒼溟の腕を引き寄せ、片手で印を切りながら森の入口を抜けた。ほんの少しの抵抗力を突破すると、後はやはり何の変哲もない暗い森が続き、その中を二人は何食わぬ顔で走り続けた。
「でも、熊はまだマシだろ?」
「甘味奢ってもらってるしな」
変態の方の苦労が身に染みている蒼溟が軽く熊を庇う色を見せると、黒浪は明るく皮肉って笑う。片割れは明らかに面白くなさそうな彼の声に、逆に不思議そうに視線を向けた。
「・・・妙に突っかかるな」
「お前が熊を擁護するのが気に入らないだけだ」
気楽に会話しながら森の奥深くまで来た二人は、ある一点で音も無く立ち止まった。
「うわ〜〜・・・浪、シット?」
「まぁな」
悪くないだろ?
飄々と返した黒浪は蒼溟の腰を引き寄せてニヤリと端正な顔に笑みを乗せる。それを間近で見た蒼溟は俯いて素早く面を被りなおそうとし、黒浪は楽しそうにそれを奪ってまた笑う。
「こンのっ・・・・・・タラシ男っ」
任務時ならば眉一つ動かさずに敵を切り刻む冷徹な美貌だが、素を曝し頬を赤く染めて拗ねたように見上げてくる様は可愛らしいものでしかない。
「お前の方がよっぽどだろ」
腰に回したままの腕で蒼溟を抱き締め、黒浪は僅かに目を細めてその小さな唇に己のそれで触れ、フードを落として額に一つ、瞼に一つキスしてまた微笑んだ。
「おかえり、ナル」
「・・・ただいま」
僅かにあった怒気を呆気無く解されたのに小さく笑った彼は、伸びをして黒浪の頬に一つキスを返す。
「おかえり、シカ」
「ただいま」
帰宅の挨拶を交わすと同時に、ボフンッと二重の軽い音が上がり、金と黒の色彩を持つ二人の少年が現れた。紅い石を玄関に翳し、扉を開けた黒髪の少年は、奈良シカマル。開いた扉の中に先に消えた金髪の少年は、うずまきナルトという。
――彼らは、木の葉の里の最重要機密であり、禁忌の森の唯一の住人であり――その主であった。
時は既に夜明け前。
星の瞬きが薄れ、東の空が白く光を帯びる頃。
森の奥深く、人知れぬ秘密の館では、表裏を分けた子供たちが、夜を越えて一時の休息についた。
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